87 / 111
3月19日日曜 その10
しおりを挟む
「カチャリ」ロックを外す音がしてドアが開いた。
「おかえりなさーい。」見事に声色が揃っている。なんて家だ。僕はビビった。
「津山君、いらっしゃい。」
ゆっこのお母さんだ。初めてお目にかかる彼女の母親は、僕の母よりもずっと顔色が良く、恰幅も良かった。かと言って太っているわけでもなく、健康そうなお母さんだった。
「はじめまして。…侑子さんの同級生、津山孝典です。お邪魔いたします。」
僕は靴を脱いで、さっと揃えた。この辺りは、新聞販売店のおやっさんにも仕込まれた事だった。冬に、販売店の奥のストーブのある部屋に入る時には、靴を揃えるよう厳しく注意された。
「おお。君が津山くんか。」ゆっこのお父さんだ。うちの父よりがっしりしている。
「孝太、津山くんの事、覚えているか?」お父さんは孝太、と言う男の子に問い掛けた。弟さんだろう。小学1年ぐらいか。
「あんまり。でも、迷子になった僕を助けてくれた人だよね。ありがとう。」孝太くんは無邪気に僕の手を握った。
僕は孝太くんの手を握り返し、古河から聞いた話を思い出していた。…そうか、この人達は、僕がゆっこを好きになる前から、ずっと僕の事を知っていたのだな。お母さんが話を続けた。
「本当にその節はありがとうございました。私達も、引っ越してきたばかりで、孝太がいなくなったと、本当に心配して。心配して。あなたの事を新聞販売店のおじさんから聞いて、いつかお礼をしなくちゃと思っていたんだけど、なかなか機会がなくって。…そのまま、とうとう、こんなお別れの直前になってしまって。本当に何と御礼を申し上げて良いやら。」
僕は、何と返したものかわからず、ただうなずくしかなかった。ただ、あの日、新聞販売店から家に帰ったら、母が救急車に乗せられていた。だから、孝太くんの事は、いくら思い出そうとしても思い出せなかった。僕の脳裏に残るのは、事態が理解できず、母の病院に付き添うこともできず、となりの部屋のおばさんの作ってくれた夕食をいただいて、弟とともに寂しさと不安の中、母の無事を祈るしかなかった。…切ない春の夜だった。
「お母さん、津山くんが戸惑っているから、もうそのお話はそのへんでいいだろう。侑子からも聞いただろう。津山くんのお母さんが、その日、大変な状況だったって。」
…僕はお父さんの声で我に帰った。あの切ない春の夜を思い出している間に、お母さんは、結構その時のこと、孝太くんが道に迷い、県道の横道のけもの道の奥深くに入っていってしまった事を長々と語っていたようだった。たまたまその時に、僕が通りかかったようだ。でも、僕はそのけもの道での事すら覚えていない。それほど母の事で頭がいっぱいだったからだ。
「おかえりなさーい。」見事に声色が揃っている。なんて家だ。僕はビビった。
「津山君、いらっしゃい。」
ゆっこのお母さんだ。初めてお目にかかる彼女の母親は、僕の母よりもずっと顔色が良く、恰幅も良かった。かと言って太っているわけでもなく、健康そうなお母さんだった。
「はじめまして。…侑子さんの同級生、津山孝典です。お邪魔いたします。」
僕は靴を脱いで、さっと揃えた。この辺りは、新聞販売店のおやっさんにも仕込まれた事だった。冬に、販売店の奥のストーブのある部屋に入る時には、靴を揃えるよう厳しく注意された。
「おお。君が津山くんか。」ゆっこのお父さんだ。うちの父よりがっしりしている。
「孝太、津山くんの事、覚えているか?」お父さんは孝太、と言う男の子に問い掛けた。弟さんだろう。小学1年ぐらいか。
「あんまり。でも、迷子になった僕を助けてくれた人だよね。ありがとう。」孝太くんは無邪気に僕の手を握った。
僕は孝太くんの手を握り返し、古河から聞いた話を思い出していた。…そうか、この人達は、僕がゆっこを好きになる前から、ずっと僕の事を知っていたのだな。お母さんが話を続けた。
「本当にその節はありがとうございました。私達も、引っ越してきたばかりで、孝太がいなくなったと、本当に心配して。心配して。あなたの事を新聞販売店のおじさんから聞いて、いつかお礼をしなくちゃと思っていたんだけど、なかなか機会がなくって。…そのまま、とうとう、こんなお別れの直前になってしまって。本当に何と御礼を申し上げて良いやら。」
僕は、何と返したものかわからず、ただうなずくしかなかった。ただ、あの日、新聞販売店から家に帰ったら、母が救急車に乗せられていた。だから、孝太くんの事は、いくら思い出そうとしても思い出せなかった。僕の脳裏に残るのは、事態が理解できず、母の病院に付き添うこともできず、となりの部屋のおばさんの作ってくれた夕食をいただいて、弟とともに寂しさと不安の中、母の無事を祈るしかなかった。…切ない春の夜だった。
「お母さん、津山くんが戸惑っているから、もうそのお話はそのへんでいいだろう。侑子からも聞いただろう。津山くんのお母さんが、その日、大変な状況だったって。」
…僕はお父さんの声で我に帰った。あの切ない春の夜を思い出している間に、お母さんは、結構その時のこと、孝太くんが道に迷い、県道の横道のけもの道の奥深くに入っていってしまった事を長々と語っていたようだった。たまたまその時に、僕が通りかかったようだ。でも、僕はそのけもの道での事すら覚えていない。それほど母の事で頭がいっぱいだったからだ。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
【完結】maybe 恋の予感~イジワル上司の甘いご褒美~
蓮美ちま
恋愛
会社のなんでも屋さん。それが私の仕事。
なのに突然、企画部エースの補佐につくことになって……?!
アイドル顔負けのルックス
庶務課 蜂谷あすか(24)
×
社内人気NO.1のイケメンエリート
企画部エース 天野翔(31)
「会社のなんでも屋さんから、天野さん専属のなんでも屋さんってこと…?」
女子社員から妬まれるのは面倒。
イケメンには関わりたくないのに。
「お前は俺専属のなんでも屋だろ?」
イジワルで横柄な天野さんだけど、仕事は抜群に出来て人望もあって
人を思いやれる優しい人。
そんな彼に認められたいと思う反面、なかなか素直になれなくて…。
「私、…役に立ちました?」
それなら…もっと……。
「褒めて下さい」
もっともっと、彼に認められたい。
「もっと、褒めて下さ…っん!」
首の後ろを掬いあげられるように掴まれて
重ねた唇は煙草の匂いがした。
「なぁ。褒めて欲しい?」
それは甘いキスの誘惑…。
ハズレ嫁は最強の天才公爵様と再婚しました。
光子
恋愛
ーーー両親の愛情は、全て、可愛い妹の物だった。
昔から、私のモノは、妹が欲しがれば、全て妹のモノになった。お菓子も、玩具も、友人も、恋人も、何もかも。
逆らえば、頬を叩かれ、食事を取り上げられ、何日も部屋に閉じ込められる。
でも、私は不幸じゃなかった。
私には、幼馴染である、カインがいたから。同じ伯爵爵位を持つ、私の大好きな幼馴染、《カイン=マルクス》。彼だけは、いつも私の傍にいてくれた。
彼からのプロポーズを受けた時は、本当に嬉しかった。私を、あの家から救い出してくれたと思った。
私は貴方と結婚出来て、本当に幸せだったーーー
例え、私に子供が出来ず、義母からハズレ嫁と罵られようとも、義父から、マルクス伯爵家の事業全般を丸投げされようとも、私は、貴方さえいてくれれば、それで幸せだったのにーーー。
「《ルエル》お姉様、ごめんなさぁい。私、カイン様との子供を授かったんです」
「すまない、ルエル。君の事は愛しているんだ……でも、僕はマルクス伯爵家の跡取りとして、どうしても世継ぎが必要なんだ!だから、君と離婚し、僕の子供を宿してくれた《エレノア》と、再婚する!」
夫と妹から告げられたのは、地獄に叩き落とされるような、残酷な言葉だった。
カインも結局、私を裏切るのね。
エレノアは、結局、私から全てを奪うのね。
それなら、もういいわ。全部、要らない。
絶対に許さないわ。
私が味わった苦しみを、悲しみを、怒りを、全部返さないと気がすまないーー!
覚悟していてね?
私は、絶対に貴方達を許さないから。
「私、貴方と離婚出来て、幸せよ。
私、あんな男の子供を産まなくて、幸せよ。
ざまぁみろ」
不定期更新。
この世界は私の考えた世界の話です。設定ゆるゆるです。よろしくお願いします。
恋とキスは背伸びして
葉月 まい
恋愛
結城 美怜(24歳)…身長160㎝、平社員
成瀬 隼斗(33歳)…身長182㎝、本部長
年齢差 9歳
身長差 22㎝
役職 雲泥の差
この違い、恋愛には大きな壁?
そして同期の卓の存在
異性の親友は成立する?
数々の壁を乗り越え、結ばれるまでの
二人の恋の物語
私の療養中に、婚約者と幼馴染が駆け落ちしました──。
Nao*
恋愛
素適な婚約者と近く結婚する私を病魔が襲った。
彼の為にも早く元気になろうと療養する私だったが、一通の手紙を残し彼と私の幼馴染が揃って姿を消してしまう。
どうやら私、彼と幼馴染に裏切られて居たようです──。
(1万字以上と少し長いので、短編集とは別にしてあります。最終回の一部、改正してあります。)
【完結】私を虐げる姉が今の婚約者はいらないと押し付けてきましたが、とても優しい殿方で幸せです 〜それはそれとして、家族に復讐はします〜
ゆうき@初書籍化作品発売中
恋愛
侯爵家の令嬢であるシエルは、愛人との間に生まれたせいで、父や義母、異母姉妹から酷い仕打ちをされる生活を送っていた。
そんなシエルには婚約者がいた。まるで本物の兄のように仲良くしていたが、ある日突然彼は亡くなってしまった。
悲しみに暮れるシエル。そこに姉のアイシャがやってきて、とんでもない発言をした。
「ワタクシ、とある殿方と真実の愛に目覚めましたの。だから、今ワタクシが婚約している殿方との結婚を、あなたに代わりに受けさせてあげますわ」
こうしてシエルは、必死の抗議も虚しく、身勝手な理由で、新しい婚約者の元に向かうこととなった……横暴で散々虐げてきた家族に、復讐を誓いながら。
新しい婚約者は、社交界でとても恐れられている相手。うまくやっていけるのかと不安に思っていたが、なぜかとても溺愛されはじめて……!?
⭐︎全三十九話、すでに完結まで予約投稿済みです。11/12 HOTランキング一位ありがとうございます!⭐︎
王妃となったアンゼリカ
わらびもち
恋愛
婚約者を責め立て鬱状態へと追い込んだ王太子。
そんな彼の新たな婚約者へと選ばれたグリフォン公爵家の息女アンゼリカ。
彼女は国王と王太子を相手にこう告げる。
「ひとつ条件を呑んで頂けるのでしたら、婚約をお受けしましょう」
※以前の作品『フランチェスカ王女の婿取り』『貴方といると、お茶が不味い』が先の恋愛小説大賞で奨励賞に選ばれました。
これもご投票頂いた皆様のおかげです! 本当にありがとうございました!
出世のために結婚した夫から「好きな人ができたから別れてほしい」と言われたのですが~その好きな人って変装したわたしでは?
澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
古代魔法を専門とする魔法研究者のアンヌッカは、家族と研究所を守るために軍人のライオネルと結婚をする。
ライオネルもまた昇進のために結婚をしなければならず、国王からの命令ということもあり結婚を渋々と引き受ける。
しかし、愛のない結婚をした二人は結婚式当日すら顔を合わせることなく、そのまま離れて暮らすこととなった。
ある日、アンヌッカの父が所長を務める魔法研究所に軍から古代文字で書かれた魔導書の解読依頼が届く。
それは禁帯本で持ち出し不可のため、軍施設に研究者を派遣してほしいという依頼だ。
この依頼に対応できるのは研究所のなかでもアンヌッカしかいない。
しかし軍人の妻が軍に派遣されて働くというのは体裁が悪いし何よりも会ったことのない夫が反対するかもしれない。
そう思ったアンヌッカたちは、アンヌッカを親戚の娘のカタリーナとして軍に送り込んだ――。
素性を隠したまま働く妻に、知らぬ間に惹かれていく(恋愛にはぽんこつ)夫とのラブコメディ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる