スカイブルーの瞳

NoMa

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SCENE 2

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(また……夢?)
 だが自身を包み込む熱い粘膜の感触にはやけに現実味があった。彼の上に跨った女が、快感に背をそらす度に彼のそこを締めつける。
 ケニーは彼女を下から眺めた。
 トースト色の肌。細かくウエーブのかかった肩までの黒髪。揺れる大きな乳房は汗で光っていた。顔は汗で貼りついた髪のせいで、赤く濡れた艶かしい唇しか見えない。
  女の掠れた喘ぎ声と姿態が否応なくケニーを煽り、自らも快感に息が弾んでいく。女の動きに合わせて、自然と腰を突き上げた。
 女の声が達したと同時に強く締めつけられ、ケニーも彼女の中に放った。
 全身の力が抜けた女がケニーの上に崩れ落ちてきた。黒髪がケニーの顔をくすぐり、肌から汗と共に麝香のような匂いが放たれる。
 しばらく荒かった女の呼吸が、やがて穏やかな寝息へ変わっていった。
 ケニーは女を押し退けるように自分から剥がすと、ベッドから出た。下着だけ身につけた状態で、部屋の出口へと向かう。塗装が汚く剥げたドアを開ける前に伺うように振り返ると、彼女は枕に顔を埋めるようにして眠っていた。
 部屋の外には小さなキッチンにダイニングテーブルがあった。リビングも兼ねているようだ。
 そんなに広くはない。こことさっきの寝室とあとバスルームといったところか。
 ケニーはその小さなリビングをざっと見回した。
 ヤニで黄ばんだ青い小花柄の壁紙。居間の赤いソファーセットはそれらしく客を出迎えていたが、一人掛けの方には雑な縫い目で繕った痕があった。
 ソニー製のテレビの隣に安っぽい組み立て式の棚があり、本が並んでいる。紫かピンク色の背表紙のペーパーバックばかりだ。ケニーは指でその背表紙を辿った。
 『天使の裁き~エレノアシリーズⅢ~』と『旅路の果てに~エレノアシリーズⅡ~』の間に挟まれた映画のDVDケースを取り出す。
 中にはDVDではなく、十ドル札と二十ドル札が数枚入っていた。夢の中の彼は札のシワを丁寧にのばして、それを数える。全部で百四十ドルほどあった。一緒に新聞の切り抜きも入っていたので見ると、それは芝居の公演情報だった。
『セルベス未亡人と八人の従兄弟たち』タイロン劇団第三回公演/タイロン・ラナー演出/カルアック劇場:238.W.44th St.:221-3478
「何してるの?」
 ケニーが振りかえると、寝室の戸口に女が立っていた。
 赤いベビードールしか身につけていない。肩部分に飾りはあるが、ほかはほとんど透けていて、褐色の乳輪も下の毛も丸見えだった。じつに扇情的ではあるが、反面、商売の衣装みたいな安っぽさもあった。
(商売? そのテの商売か)
「あたしから泥棒するなんて、いい度胸してるじゃないの」
 ケニーが黙っていると、彼女は睨んだ。
 あらためて真正面から見るといい女だ。ケニーは思った。
 意思の強そうな大きな目。目立つ頬骨に高い鼻。肉感的な唇。とりわけハチミツ色の瞳が魅力的だ。何もかもセリーナとは正反対だが、美しいと言えた。
「違う、興味本位で見ただけだ」
 お札に触っているのを見た段階でおおよそ信じてもらえないのはケニーにもわかった。
「それにしても……ティタ、おまえに演劇鑑賞の趣味があったとはね」
 ティタは頬を紅潮させると、すばやくケニーに掴みかかり、彼の手から札束をもぎ取った。虎やチーターなどの肉食獣が獲物を捕らえる動きみたいだと思った。
「これからはあんたからも50ドル取るから」
「待ってくれよ。おれたち、友だちだろ?」
 ティタは呆気に取られた顔でケニーを見たが、次の瞬間吹き出した。
「友だちとは寝ないもの。それもあたしの金をちょろまかすような友だちなんて」
 言われてケニーは考えるように両腕を組んだ。
 夢ならではの奇妙な感覚は続いている。自分を外側から眺めているような。
(この商売女とおれは……どういう関係なんだろう)
「わかった、言い方が悪かったよ。……おれはおまえに友だち以上の感情を持ってる」
 ケニーはティタの腰に手を廻すと、抱き寄せた。ティタも抵抗せず、彼の胸に顔をつける。
「レミー小学校にいた頃から、いい女だと思ってたよ」
 ティタはケニーの胸に顔をつけたまま笑ったが、先程の嘲笑とまるで違っていた。機嫌を直したようだ。
 ケニーは彼女の髪に指を通しながら、遠くを見て言った。
「その芝居なら、おれがチケット買ってやる」
「あんたの言うことは期待してないわ、ケニー」
「……一緒には行けないけどな。金は送ってやるから」
 ケニーの言葉にティタは顔を上げた。不穏な表情に変わっている。
「まさか、向かいのヤク中と何かする気なんじゃないでしょうね? 中学の友だちか知らないけど、あいつは完全にイカレてる。ヤクを手に入れるためならナイアガラの滝からバンジージャンプだってするやつよ」


 目が覚めた。
 今度はきちんと横になっていた。ただしベッドの上ではなかったが。
 ケニーは床に大の字で寝そべっていた。上体を起こすと、シンナーのような薬品臭い匂いが鼻をつく。両腕は何かで汚れ、ベタついていた。
 床に直に置かれた真四角の大きなカンバスを見て、制作の途中だったのを思い出す。
 立ちあがると裸足なのに気づいたが、床は綺麗だし、足の裏は冷たく心地がよかった。
 カンバスのすぐそばにキャスターがついたキャビネットが置いてあった。三段のトレーにジャムの空瓶がたくさん並び、中に一色ずつ絵の具が入っていた。
 カンバスには様々な色が不規則な線となって触手のように伸びていた。まるでバケツに入れた色水を誤ってぶちまけたような見た目だが、実際も似たようなものだ。アクリル絵の具を含ませた筆を振って、撥ね付けて描く。感情の赴くままではあったが、それが彼の今の画法スタイルだった。
 ここはソーホーにあるケニーのアトリエ兼住居だ。
 もともとは靴の工場だったレンガ造りの建物を内部だけ改装している。若き芸術家の卵たちがソーホーにやってきた頃、アトリエに使用してもらうことを意識した家主が、バスルームとキッチン以外に壁を作らなかった。したがって敷地に対して店子たなこを4人しか入れられない非常に効率の悪いアパートメントとなり、家賃が高騰すると金がない芸術家もどきは次々ソーホーから去っていった。今ではケニーと階下に住むギリシャ人しかいない。ケニーはそこそこ絵が売れているため、なんとか家賃を払えていた。ソーホーは今では洒落た店も立ち並ぶ観光地と化しており、ケニーは多少居心地の悪さを感じるほどだった。
 奥の壁に接するように、低めのセミダブルベッドが置かれている。
 皺一つない薄いブルーのシーツ。ホテルのようなベッドメイキングに多少違和感を覚えたが、ケニーの目はすぐにその上の壁にかかった絵に釘付けになった。1メートル四方の裸婦像だ。吸い寄せられるようにケニーは絵の前に近づいていった。
(あの女!)
 間違いない、ティタだ。
 さっきの夢に出てきた、野生の獣のような女。
 ケニー自身が描いたのだろうか。思い出せなかった。
 変な話だが、なぜこの絵がここにあるのかわからない。
(あの女は現実にいるのか。やっぱり知り合いなのか?)
 絵の中のティタは水の中にいるようなエメラルドグリーン一色の背景にやや斜めを向いた上半身のみで裸だった。ティタの表情はなぜか悲しそうだ。こちらを見てはいるが、勝気な目の色は消えている。全体的に輪郭がぼんやりしていた。油絵だが、タッチは水彩画に近い。
「ケニー」
 かなり驚いて、ケニーの肩が跳ねた。
 振りかえると玄関扉を開けたセリーナが立っていた。DKNYの白のパンツスーツ。法廷に出向く日の勝負服のひとつだ。
「今日、裁判じゃなかったっけ?」
「ええ。でも、ジェイクが急に具合を悪くして。あの歳でしょ。難しい訴訟だったし、疲労が溜まってたのかもしれない。パートナーのダミアンが代わってくれたわ」
 ため息をつきながら、セリーナは自分にも責任の一端があると言った。
「ランチはまだでしょう? あなたの好きな鶏肉とカシュナッツの炒め物も買ってきたの」
 セリーナがモデルのように優雅な足取りでケニーの方へ近づいてきた。片手に中華デリバリー店のポリエチレン袋を下げている。プラチナブロンドの髪は鼈甲の髪留めで纏めていた。うなじにかかった後れ毛が色っぽい。
 ケニーが水色のピクニックテーブルを引っ張ってきて、二人はベッドの前の床にじかに腰をおろした。
 箸を割って、海老のチリソースに口をつけたセリーナの手が止まる。ケニーが目線を追うと、ティタの絵に注がれていた。
「何?」
「この絵」
 セリーナの表情がみるみるうちに曇り、ケニーはわけもわからず焦った。
「知ってるの?」
「そんなこと聞くの? ……あなたが描いたくせに。私が初めてここに来た日よ。あなたは、これを描いていた。しかも彼女も一緒だった、忘れた?」
 言われてみると、急にあざやかに思い出してきた。
 たしかにティタは裸でこのベッドの上でポーズをとっていた。ケニーは彼女を前にデッサンを複数枚描いた。三年前のことだ。
 そしてまだ大学生だったセリーナがここを訪ねてきた時も、ティタとケニーは一緒にベッドの中にいたのだった。
 当時、ケニーは大学の初級美術講座の臨時講師を週に数日勤めていた。セリーナは三年生の時、彼の講座を受講した。
 セリーナは決して絵が上手いとは言えなかったが、自由選択の授業にしては熱心に課題に取り組んでいた。ケニーとっては授業の後によく質問してくる子くらいの印象だった。
 たしかに女性として見ると若く魅力的ではあったが、当時は今ほど垢抜けてなかった。それに彼は教師と生徒の線引きはちゃんとしたい方だった。同僚の講師には当然のように生徒に手を出す者もいたが、破滅行為以外のなにものでもないように思えた。
 教師然とした態度は個人的に好きではなかったので、生徒たちとはフランクに接してきたつもりだ。自分のアトリエの場所も授業の中で話したのかもしれない。はっきりとは思い出せなかったが。
 とにかく間が悪かったのはたしかだ。まさか本当に生徒かのじょが訪ねてくるとは思いもしなかったので、彼はうろたえた。セリーナは一瞬、戸口で凍り付いていたが、見せようと持ってきたのかデッサン数枚を床に落とすと、背を向けて部屋を出て行った。
 ケニーは何故かここで彼女を追いかけなければならない気がして、急いでジーンズとシャツをひっかけて外へ出た。今思えば自覚はなかったが、彼女に惹かれていたのだ。
 セリーナはアパートの外階段の途中でしゃがみこんでいた。田舎から出てきたばかりの垢抜けない娘は、あきれるほど素直に泣いていた。あまりにもわかりやすい反応。恋愛の駆け引きも知らない女の子だ。たしかにケニーの周りにはいないタイプだった。最初はセリーナの方が彼を好きだったのかもしれない。だがこの瞬間からケニーも彼女が特別になった。
「ひどいわ。わざと彼女の絵を掛けたのね」
 現実に戻ると、セリーナが横を向いていた。声が震えている。
(おれが壁に掛けた? セリーナが傷つくことをわかっていて?)
「ごめん。外しておくから」
 ケニーは彼女の顔を両手で包み込むと、こちらへ向かせた。彼女の涙がケニーの手を伝った。
「……嫉妬深くてごめんなさい。嫌わないで」
 セリーナは微笑んだが、哀しみをたたえた瞳は変わらなかった。
(このをどこかで見たことがあるような気がする)
「嫌うわけないよ」
 セリーナに口づけながら、ケニーは思った。
 ティタ。ただの絵のモデルではないのだろう。
 それとも身体だけの関係だったのか。
(でも夢の中の彼女は昔からの知り合いのようだった……)
 セリーナとの始まりは思い出せたのに、ティタとの始まりが全く思い出せなかった。
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