キラー・イン・レッド〜惨劇の夜〜

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第四章 終結

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 八月も終わろうとしていた。
 聖城会鎌倉総合病院精神科医師荒巻あらまきは、巨体から噴出す汗をハンカチで拭いながら、いそいそと診察室に併設された個室へ入った。そこは古いカルテや資料をしまっている部屋なのだが、実質荒巻の私室と化している。
 看護師や事務員も整理をあきらめたほど混沌とした紙の山の中から、荒巻は難なく目的のフォルダを取り出した。荒巻は縦にも横にも大きな体格から一見して愚鈍な印象を与えるが、その実、抜群の記憶力を持ち、神経質な性格だった。
 荒巻はさらに紙フォルダの中から、一枚の便箋を取り出す。紫色の和紙。上品な色合いの縦書き便箋だが、荒巻にとっては忌々しいただの紙切れである。
 いや正確に言えば、昨日まではただの紙切れだったと言えばいいだろう。
 患者番号2010982 一ヶ屋裕紀。享年三十七歳。
 三年前、息子の目の前で自ら命を絶った患者だ。初めてとは言わないが、担当していた患者が自殺するのは気分のよいものではない。だから覚えていた。

 ここ数日、メディアを席巻しているセンセーショナルな猟奇殺人。その犯人とされる少年は未成年のため実名報道されていないが、この時代、ネットや週刊誌記事を見れば誰であるかはわかってしまう。彼が裕紀の息子の一ヶ屋晶だと荒巻は看護師の西浦智子から教えられた。裕紀は三年前、西浦が看ていた患者の一人だった。
 この便箋も裕紀が死んだ後、入院個室から西浦が発見したものだ。閉鎖病棟は昭和に建てられたため老朽化が進んでおり、壁はそこら中ひび割れている。入院個室も例外ではなく、一ヶ屋裕紀が四年ほど過ごした部屋も壁の隅に縦に裂け目があった。その縦十センチほどの裂け目に便箋は小さく折りたたまれ、詰められていた。ちょうどベッドの陰になっていたので、片付けるまで気づかなかったらしい。
「まるで隠しているかのようでした。誰かに見つかるのを恐れていたような」
 西浦は荒巻に便箋を手渡す際、そう言った。当時、荒巻もそれを読んだが、その上で大して重要なものではないと判断した。ただ捨てるのも気が引けたので、とりあえず裕紀のカルテに挟んでおいたというだけだ。
 当時のカルテをめくると、荒巻の所見が書かれている。
 家族によって連れてこられた裕紀は、強い抑鬱状態に見えた。夫が他の女性と出奔してしまった事実を受け入れられず、わずか十一歳の息子が夫に見えていた。幻覚や幻聴を確認した荒巻は彼女に統合失調症の診断を下し、しばらく入院させることにした。自傷や他傷の心配はないが、彼女自身の身体が危険な状態だった。数週間ろくに食べていなかったらしく、体重が四十キロを切っていた。だが投薬と点滴を続けるうちに徐々に回復していった。
 ただそれは体力面の話で、病状は快方に向かう様子がなかった。落ち着いてきたので投薬の調整を図ろうとすると、必ず揺り戻しがくる。夜中に逃げ出そうとして騒ぐのだ。そんなことの繰り返しで四年が過ぎようとしていた頃、息子の晶が突然訪ねて来た。さらには何も知らない看護師が裕紀に会わせてしまった。荒巻は裕紀が病棟の屋上から飛び降りた後にそれらのことを知った。ほんの数分の出来事だった。

 冷房の効いた室内で汗が冷え、白衣の下のワイシャツが肌に張り付いた。荒巻は汗を拭いながら、あらためて便箋に書かれた裕紀の字を追う。
 一枚の便箋の表と裏が小さな字で埋め尽くされていた。油性ボールペンだろうか、その字は何かに追われるように急ぎ、乱れている。個室に入院する患者は危険なので筆記用具などは与えられないはずだが、昼間は病状も落ち着いて見えることが多く看護師も看過したのかもしれない。
 もし報道の通り裕紀が夫と愛人を殺したのだとしたら、近いうちに荒巻のところに警察が訪ねて来るかもしれなかった。そうなれば裕紀が書いたこの手記のようなものも大きな意味を持つのだろうか。このような病態の患者において、自分を正常だと訴えることは別にめずらしくもない。しかし手記の内容じたいは異様なものだった。これは荒巻のような精神科の医師でなくとも、誰が読んでもそう思うだろう。

「私が私でいる、この短い貴重な時間、あのことを書こうと思う。もし見つかればこの紙は処分されてしまうだろうから、見つからないように壁の穴に隠しておくことにする。
 彼女のことは……いつから私のそばにいたのかわからない。でも、はっきり「声」が聞こえるようになったのは、結婚から五年、お腹に紀和がいた頃からだと思う。和之さんが有里子に手を出したのは、たぶん私が妊娠していたから。そうに違いない。いや、それ以前から私は二人の仲を疑ってはいた。ただ、それを見ないようにしていただけだ。なのに彼女の声は引っ張り出し、突きつけてくる。二人が会って何をしていたのか、時に卑猥なほど詳細に教えてくる。そのたび、私は耳を塞いだ。でも頭の中に直接響いてくる。逃れられない。そして心の中にヘドロのような嫉妬心がどんどん沈殿していく。
 同時に妙な出来事が起こりはじめた。記憶が何度か抜けるのだ。でも私は寝ているわけでも気絶しているわけでもなかった。私の身体はいつも通りご飯を作ったり、育児をして、買い物の途中で近所の人に会えば立ち話すらしているのだけど、それらのことを全く覚えていないのだ。まるで私の中に別の誰かが住んでいて、勝手に私の身体を操っているみたい。「彼女」がやっているのだ。乗っ取られまいと抵抗してみたけれど、むしろ年々頻度が増していった。
 ここに来る一年前には、頻繁に夢まで見るようになった。
 とても恐ろしい悪夢だ。
 山の中の別荘。うちのと同じ大きなお屋敷。そこへ向かう私は……手に斧を握っていた。磨かれた刃が光っている。勢い良くドアを開ける。部屋の奥のベッドには裸の男女。なぜか有里子と和之さんではなかった。知らない顔だ。でも私は男の方に向かって斧を振り下ろす。鮮血がこちらに降りかかってくる。そして慄き逃げようとする女の髪を掴んで……詳細に書いている場合ではないのに。いつまた彼女に身体を取られるかわからない。これを書き終わる前に彼女に見つかれば必ず破り捨ててしまうに違いない。
 この悪夢を見始めて思い出したことがあった。
 私が十歳の時、亡くなった叔母の小野瀧子のことだ。瀧子おばさんは夫と愛人を斧でめった打ちにして殺した。その後、亡くなるまで警察病院の閉鎖病棟に入れられていたらしい。母は叔母さんの事件のことを私に話さなかったし、私も彼女に会ったことがなかった。ただ叔母さんが亡くなった時、母に付きそって病院へ遺体を引き取りに行き、火葬された骨を一緒に拾った。身寄りは母しかいなかった。小野家の人はもちろんのこと、肉親にも見捨てられた、悲しい最期。子供ながらに覚えていた。
 この悪夢を見るようになって瀧子おばさんの事件をあらためて調べて、夢で見たのは瀧子おばさんのことなんだとわかった。でも、なぜ私がそれを夢に見るのか。考えれば考えるほどわからなくて、恐ろしかった。
 そして私もとうとう二人を殺してしまった……瀧子おばさんのように。しかも晶まで巻き込んで。
 こんなこと誰も信じてくれないだろう。でも「私」はやってない。私の中にいる瀧子おばさんがやったのだ。私は叔母さんに押さえつけられ、自由に話すこともできなかった。それに言ったところでどうなると言うのだろう。晶を巻き込んでしまったからには私は黙っているしかないのだ。
 ここに入院した当時はほっとしたのを覚えている。もう叔母さんも私の身体を使って勝手なことはできないと思った。裕美や晶に対して、あいかわらずおかしな言動を続けてはいたけど、もう二度と恐ろしいことは引き起こさないはずだと。
 安心していた――彼女が私の前に姿をあらわすまでは。
 入院して半年ほど経った、ある晩。
 消灯後、私以外誰もいないはずの部屋の隅に細長い影のようなものが見えた。薄闇の中、その影は音もなく滑るように私へ向かって近づいてきた。
 最初は瀧子おばさんだと思った。
 赤いローブ姿の女。頭からフードを被った、大きな赤ずきんみたいだ。ローブの裾は長くて足元まで隠れている。
 その女が私をのぞきこんできて、息が止まった。
 瀧子おばさんではなかった!叔母さんの顔は写真で見たことがある。母にも似ていた。
 ところがその女の顔は、知らない顔だった。
 全く見覚えがない。目や口は糸のように細く、面長の顔の中で鼻だけが不恰好に大きかった。真ん中で分けられた長い黒髪が一筋、頬に貼りついていた。貧相で陰気な顔。細い目をわずかに開き、薄い唇を微かに上げて笑っていた。
 ゾッとして、一気に冷たい汗が噴き出した。
『私だよ。おまえの中にいるのは私だ』
 その声を聞いて気絶した。
 ずっと聞こえていた声の主は、私に囁きかけ、悪夢を見せ、嫉妬で私の心を狂わせたのは……瀧子おばさんではなかったのだ。
 知らない女だった!
 この女は誰? 私と何の関係が?」
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