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第四章 終結
五
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「事件のことだよね」
そう応じた勇斗の表情が少し硬くなる。恵美里は頷いた。
「そこに座ろうか」
勇斗はすぐ先の土手を指した。そこは緩やかな傾斜で青々とした雑草に覆われていた。今日のように陽射しが暖かい日は、座って話したり、くつろいでいる人があちこちに見える。
二人も斜面に腰を下した。恵美里は手をついた先にシロツメクサを見つけた。
「勇斗はこういう場所、大丈夫なの?」
「えっ?」
「あの日、崖から落ちたでしょ。その、トラウマになってない?」
「ああ、忘れてた。あの後、もっと散々な目に遭ったし」
勇斗は空を見上げて苦笑する。言われて、恵美里も思い出した。
彼は刺されたりはしてないまでも、晶にかなり痛めつけられていた。その原因の一端は自分にあるのをあらためて突きつけられた気がして、恵美里は落ち込む。
「嫌なら……話さなくてもいいよ。おれはあの日のことは、もう終わったものだと思ってるから」
恵美里の沈んだ表情を勇斗は勘違いしたのか、気遣うようにそう言った。恵美里はあわてて首を振る。
「違うの、思い出話をするつもりはなくて。勇斗は覚えていないかもしれないけど、その……歩きだした真優のことで、わかったことがあったから」
「ああ……」
勇斗は思い出したのか、顔をしかめる。
「あの時、階段を上っていく真優が晶に何か言ってたでしょう? それを後から思い出したら、変だなって……」
「変って?」
勇斗は不思議そうに問い返した。その表情から、どうやら覚えてはいないようだ。
「真優は晶に対して『ショウゴさん』って呼びかけてた。ショウゴさんって誰? 晶のお父さんは和之って名前だし。それで私、気になって相羽さんに訊いたの」
「相羽さん?」
「私の聴取をした刑事さん。真優が動いた……ことを信じてくれた人」
「何をその人に訊いたわけ?」
「日記を覚えてる? 晶のお母さんの日記ーー晶が私に手渡した。あの時はざっと捲ることしか出来なくて、内容までは読んでないの。それで相羽さんに日記のことを尋ねたら、私のお母さんの事件の証拠品として持って行かれたって言われた。でもね、相羽さんはその前に中身を読んだみたい」
勇斗は少し首をかしげた。
「ごめん……よくわからないな。その『ショウゴさん』のことが日記に書いてあったわけ?」
恵美里はうなづいた。
「日記の大半は、晶のお父さんのことや……私のお母さんへの恨み言だったらしいんだけど、最初の方の古い記述に小野瀧子さんのことが書いてあった」
「オノタキコって、たしか晶の叔母さん?」
「大叔母ね。その……夫と愛人を殺した人。晶が作り話の参考にした人よ」
恵美里は次の言葉を言う前に、一度唾を飲み込んだ。
「瀧子の夫の名前が……省吾という名だったの」
勇斗の表情は変わらなかった。
「その、だから! あの、真優の遺体を動かしていたのは……瀧子さんだったんじゃないかって。……信じてもらえないかもしれないけど」
「う……ん。あ、いや。信じてないわけじゃないよ」
恵美里は急に恥ずかしくなって、俯いた。やはり勇斗は聞きたくない話だったのかもしれない。ついさっき、”終わったものだと思っている”と言っていたではないか。このことを誰かに伝えたいが、話せる相手が彼しかいないというだけで話したことをさっそく後悔した。
下を向いていた恵美里のスカートの上に、ふいに白く丸いものが飛んできた。
シロツメクサの花だった。
顔を上げると、それを投げた勇斗がまっすぐ恵美里を見ていた。恵美里は急にその視線に耐えられなくなって、目をそらした。シロツメクサの花を弄びながら口を開く。
「ご、ごめんね。そんなこと話しても……だから何?って感じだよ――」
「恵美里……それが仮にタキコの霊か何かだったとしても、もう考えない方がいい」
恵美里はふたたび勇斗を見た。いつになく真剣な表情だった。こんな眼差しを向けられたのは、あの晩、恵美里のことを「独りにしない」と言ってくれた時以来かもしれない。
「うまく言えないけど、考えない方がいいと思うんだ。考えてると……寄ってこられる気がする」
〈寄ってくる〉とは何のことかを聞こうとして、恵美里は口をつぐんだ。一つしかないではないか。
恵美里はうなづいてみせた。
「ありがとう、勇斗」
恵美里の口から自然とその言葉がもれた。ふいをつかれたからか、勇斗の顔が赤くなる。
「ずっと言いたかったの。今、私が生きているのは……勇斗が命がけで助けてくれたからだよ」
勇斗の左目から涙が一粒零れ落ち、恵美里は驚いた。
しかし本人が一番驚いているらしく、手で顔を隠すと横を向いた。
「うわ、ちょっと驚いて……でも嬉しい」
恵美里の口元が自然とほころんだ。
「でも結局おれ、恵美里に助けられてただろ? だからずっと情けないなって思ってて――」
「そんなことない!」
そんな風に思っていたんだと驚きながら、恵美里は身を乗り出して否定していた。勇斗がこちらを振り向いたので、思ったより顔が近くなる。
「……恵美里は大丈夫なの?」
「えっ? 何が?」
間近で見つめられて、恵美里は何を聞かれているのかわからなくなるくらい動揺した。
「恋愛とか……嫌になったんじゃない?」
勇斗に唐突に尋ねられ、一瞬どういう意味かわからなかった。少し、考えて気付いた。晶のことを言っているのだ。
恵美里は首を横に振った。
「……たしかに晶が復讐目的で私に近づき、あんなことまでしたのは……一生忘れることはないと思う」
「復讐だけじゃなかったと思うよ。晶は……本当に恵美里を」
「でも私、負けたくない。晶の言う通りになりたくない。私のことを本当に想ってくれる人に応えられるようになりたいの」
勇斗の言葉を遮るように、恵美里は言葉を被せた。
勇斗は恵美里の強い口調に少し驚いていたが、すぐに笑顔になった。優しい笑顔。大きくはない目が線のように細くなる。いつもその笑顔を向けられていたのに、今頃意識した自分を現金だなと恵美里は思った。
「……よかった。やっぱ、恵美里は強いな」
ぎゅっと胸がしめつけられた。
ここで別れたくない。
恵美里は思わず言っていた。
「あの……これからも、会ってくれる?」
勇斗の目が見開かれ、口もあんぐりと開いた。
「恵美里……それって……」
「勝手なこと言ってるのはわかってるの。前に私から断ったのに今さらーー」
「えっと……それって、おれのこと……」
恵美里は全身が赤くなるかと思うほど恥ずかしかったが、うなづいた。
勇斗が何も言わないので不安になった恵美里が顔を上げると、勇斗は嬉しそうに彼女を見つめていた。
「……良かった、諦めないで。というか、諦めきれなかっただけなんだけど」
見つめ合う勇斗と恵美里の中に、オノタキコの存在はもう欠片もなかった。二人の間を春先にしては暖かい風が優しく吹き抜けていった。
そう応じた勇斗の表情が少し硬くなる。恵美里は頷いた。
「そこに座ろうか」
勇斗はすぐ先の土手を指した。そこは緩やかな傾斜で青々とした雑草に覆われていた。今日のように陽射しが暖かい日は、座って話したり、くつろいでいる人があちこちに見える。
二人も斜面に腰を下した。恵美里は手をついた先にシロツメクサを見つけた。
「勇斗はこういう場所、大丈夫なの?」
「えっ?」
「あの日、崖から落ちたでしょ。その、トラウマになってない?」
「ああ、忘れてた。あの後、もっと散々な目に遭ったし」
勇斗は空を見上げて苦笑する。言われて、恵美里も思い出した。
彼は刺されたりはしてないまでも、晶にかなり痛めつけられていた。その原因の一端は自分にあるのをあらためて突きつけられた気がして、恵美里は落ち込む。
「嫌なら……話さなくてもいいよ。おれはあの日のことは、もう終わったものだと思ってるから」
恵美里の沈んだ表情を勇斗は勘違いしたのか、気遣うようにそう言った。恵美里はあわてて首を振る。
「違うの、思い出話をするつもりはなくて。勇斗は覚えていないかもしれないけど、その……歩きだした真優のことで、わかったことがあったから」
「ああ……」
勇斗は思い出したのか、顔をしかめる。
「あの時、階段を上っていく真優が晶に何か言ってたでしょう? それを後から思い出したら、変だなって……」
「変って?」
勇斗は不思議そうに問い返した。その表情から、どうやら覚えてはいないようだ。
「真優は晶に対して『ショウゴさん』って呼びかけてた。ショウゴさんって誰? 晶のお父さんは和之って名前だし。それで私、気になって相羽さんに訊いたの」
「相羽さん?」
「私の聴取をした刑事さん。真優が動いた……ことを信じてくれた人」
「何をその人に訊いたわけ?」
「日記を覚えてる? 晶のお母さんの日記ーー晶が私に手渡した。あの時はざっと捲ることしか出来なくて、内容までは読んでないの。それで相羽さんに日記のことを尋ねたら、私のお母さんの事件の証拠品として持って行かれたって言われた。でもね、相羽さんはその前に中身を読んだみたい」
勇斗は少し首をかしげた。
「ごめん……よくわからないな。その『ショウゴさん』のことが日記に書いてあったわけ?」
恵美里はうなづいた。
「日記の大半は、晶のお父さんのことや……私のお母さんへの恨み言だったらしいんだけど、最初の方の古い記述に小野瀧子さんのことが書いてあった」
「オノタキコって、たしか晶の叔母さん?」
「大叔母ね。その……夫と愛人を殺した人。晶が作り話の参考にした人よ」
恵美里は次の言葉を言う前に、一度唾を飲み込んだ。
「瀧子の夫の名前が……省吾という名だったの」
勇斗の表情は変わらなかった。
「その、だから! あの、真優の遺体を動かしていたのは……瀧子さんだったんじゃないかって。……信じてもらえないかもしれないけど」
「う……ん。あ、いや。信じてないわけじゃないよ」
恵美里は急に恥ずかしくなって、俯いた。やはり勇斗は聞きたくない話だったのかもしれない。ついさっき、”終わったものだと思っている”と言っていたではないか。このことを誰かに伝えたいが、話せる相手が彼しかいないというだけで話したことをさっそく後悔した。
下を向いていた恵美里のスカートの上に、ふいに白く丸いものが飛んできた。
シロツメクサの花だった。
顔を上げると、それを投げた勇斗がまっすぐ恵美里を見ていた。恵美里は急にその視線に耐えられなくなって、目をそらした。シロツメクサの花を弄びながら口を開く。
「ご、ごめんね。そんなこと話しても……だから何?って感じだよ――」
「恵美里……それが仮にタキコの霊か何かだったとしても、もう考えない方がいい」
恵美里はふたたび勇斗を見た。いつになく真剣な表情だった。こんな眼差しを向けられたのは、あの晩、恵美里のことを「独りにしない」と言ってくれた時以来かもしれない。
「うまく言えないけど、考えない方がいいと思うんだ。考えてると……寄ってこられる気がする」
〈寄ってくる〉とは何のことかを聞こうとして、恵美里は口をつぐんだ。一つしかないではないか。
恵美里はうなづいてみせた。
「ありがとう、勇斗」
恵美里の口から自然とその言葉がもれた。ふいをつかれたからか、勇斗の顔が赤くなる。
「ずっと言いたかったの。今、私が生きているのは……勇斗が命がけで助けてくれたからだよ」
勇斗の左目から涙が一粒零れ落ち、恵美里は驚いた。
しかし本人が一番驚いているらしく、手で顔を隠すと横を向いた。
「うわ、ちょっと驚いて……でも嬉しい」
恵美里の口元が自然とほころんだ。
「でも結局おれ、恵美里に助けられてただろ? だからずっと情けないなって思ってて――」
「そんなことない!」
そんな風に思っていたんだと驚きながら、恵美里は身を乗り出して否定していた。勇斗がこちらを振り向いたので、思ったより顔が近くなる。
「……恵美里は大丈夫なの?」
「えっ? 何が?」
間近で見つめられて、恵美里は何を聞かれているのかわからなくなるくらい動揺した。
「恋愛とか……嫌になったんじゃない?」
勇斗に唐突に尋ねられ、一瞬どういう意味かわからなかった。少し、考えて気付いた。晶のことを言っているのだ。
恵美里は首を横に振った。
「……たしかに晶が復讐目的で私に近づき、あんなことまでしたのは……一生忘れることはないと思う」
「復讐だけじゃなかったと思うよ。晶は……本当に恵美里を」
「でも私、負けたくない。晶の言う通りになりたくない。私のことを本当に想ってくれる人に応えられるようになりたいの」
勇斗の言葉を遮るように、恵美里は言葉を被せた。
勇斗は恵美里の強い口調に少し驚いていたが、すぐに笑顔になった。優しい笑顔。大きくはない目が線のように細くなる。いつもその笑顔を向けられていたのに、今頃意識した自分を現金だなと恵美里は思った。
「……よかった。やっぱ、恵美里は強いな」
ぎゅっと胸がしめつけられた。
ここで別れたくない。
恵美里は思わず言っていた。
「あの……これからも、会ってくれる?」
勇斗の目が見開かれ、口もあんぐりと開いた。
「恵美里……それって……」
「勝手なこと言ってるのはわかってるの。前に私から断ったのに今さらーー」
「えっと……それって、おれのこと……」
恵美里は全身が赤くなるかと思うほど恥ずかしかったが、うなづいた。
勇斗が何も言わないので不安になった恵美里が顔を上げると、勇斗は嬉しそうに彼女を見つめていた。
「……良かった、諦めないで。というか、諦めきれなかっただけなんだけど」
見つめ合う勇斗と恵美里の中に、オノタキコの存在はもう欠片もなかった。二人の間を春先にしては暖かい風が優しく吹き抜けていった。
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