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第四章 終結
一
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「おかえり、恵美里。よかった。言った通り、ちゃんと綺麗にしてきたね」
主寝室へ入ってきた恵美里を見て、晶は満足げに言った。
部屋の右側、クイーンサイズのベッドの端に腰かけていた。その膝の上にはショットガンが乗っている。
「恵美里のすぐ横にいるよ」
恵美里が目で勇斗を探しているのがわかったのか、晶は目で指し示した。
両開きのドアの左側は最初から開いていたので恵美里はそこから入ったのだが、振り返ると閉まったままの右側ドアのところに勇斗が座りこんでいた。
彼の姿に恵美里は衝撃を受けた。
手錠がドアノブと勇斗の左手にかけなおされている。顔を上げた勇斗を見て恵美里はさらに驚いた。両頬が赤黒く腫れあがり、唇が切れている。にじんだ血はすでに乾きつつあった。
「晶!」
恵美里の非難の視線も、晶は笑って受け流した。
「ちょっと殴り合っただけだよ。勇斗はおれより背が高いし、力もあるから、ハンデはつけさせてもらったけどね。右手は自由にした。ほら、おれだって殴り返されたし」
たしかに晶の左頬も殴られたようで、腫れていた。
恵美里が勇斗に視線を戻すと、彼はうつむいていた。握った右の拳が震えている。
「恵美里……なんで逃げなかったんだ?」
「逃げるわけないって、言っただろ。恵美里はそんなことしたら、一生自分を許せない性格なんだよな? 潔癖というか、頑固というか」
晶は呆れたように言ったが、恵美里に向ける瞳は優しかった。その顔だけを見ていると、恵美里には今のこの状況がとても信じられなかった。
勇斗の苦しそうな呼吸音が聞こえて、恵美里は彼を見た。腰を下ろすと勇斗が自分の腹を押さえている手に上から触れる。勇斗が腹を痛めつけられていたことを思い出し、恵美里は顔を上げると晶を見た。
「晶、勇斗の手錠を外して。彼は逃がしてあげて。私が残るから。私がいればいいんでしょう?」
晶はひきつった笑みを浮かべると、二人に向けてショットガンを構えた。
「恵美里、ばかだな。今さら、そんなことできるわけないのは、わかるでしょ。そんな優しさ見せつけられたら、ますます、憎たらしくなる。……もう撃ち殺しちゃおうかな」
銃口がわずかに勇斗の方へ動く。
「やめて! ……どうすればいいの?」
勇斗を庇うように前に出た恵美里だったが、唇を噛みしめ、そう尋ねた。
「そいつから離れて、こっちに来て」
恵美里はゆっくり立ち上がると、勇斗から離れた。
「そう。そのまま、こっちへ」
「恵美里……やめろ、行くな」
勇斗の搾り出すような声が聞こえたが、恵美里は晶の方へ近づいていった。晶は座ったまま両腕を広げている。恵美里が腕の中まで入ってくると、強く抱きしめた。
晶は力なく立ったままの恵美里のお腹の辺りに顔を埋めて言った。
「恵美里、その愚かなほど頑ななところも好きだよ」
Tシャツ一枚を着ているだけなので、肌に直接晶の温かい息を感じた。恵美里は嫌悪感に身をよじりそうになったが、目を閉じてなんとか堪えた。両腕を垂らして抱き返さないことが彼女の唯一の抵抗だった。
「……だめだ……逃げろ……えみりっ!」
勇斗の声に重なるように、金属の触れ合う音が聞こえた。
恵美里は冷たい感触に気づいて、そこを見た。左手首に手錠がはまっている。
驚く間もなく、晶が恵美里をベッドに押し倒す。そして手錠の残った輪をベッドのヘッドレストの装飾部分にはめた。
恵美里も左手をベッドにつながれてしまった。
晶は恵美里を組み敷いたまま、上から彼女を見下ろしていた。
「この手錠、アメリカ製だけど、よく出来てない? オモチャみたいかなと期待してなかったのに、意外と外れないんだ」
「だから、何?」
恵美里が冷たい目で返すと、晶は興奮が醒めたようにスッと無表情に戻った。
それから恵美里から離れて立ち上がったが、またベッドの上に座った。寝ている恵美里の足下ではあったが、足を伸ばしてもたぶん届かないところだ。
「オノタキコはね、実在するんだ」
晶は恵美里と勇斗、どちらの方も見ずに話しはじめた。
「真優が話した都市伝説はおれが考えた作り話。でも、全くの嘘ってわけじゃない。実際のオノタキコは被害者じゃなくて加害者の方ではあるけどね」
言いながら晶はふいに窓の方を振り返った。恵美里もつられてそちらを見る。
寝室の窓には半円形の小さなバルコニーがついている。その開いた窓の外は濃さを増した霧によって一面、真っ白になっていた。
「小野瀧子。大叔母……って言うのかな? 母方の祖母の妹にあたる人だね、おれから見て。彼女は小野って官僚の家に嫁いだ。けど、彼女の夫は結婚後も愛し合っていた恋人と密かに会っていたんだ。夫が愛人との逢瀬に使っていた別荘も、ここじゃないけど、近くにあったらしいよ。ある日、瀧子は二人が逢っているところに乗り込んで、斧で二人を滅多打ちにしたそうだ。瀧子は、病院送りになったんだって。閉鎖病棟から死ぬまで出られなかったらしい」
晶が話している間、恵美里はなんとか手錠から手を抜けないかとあがいてみたが、彼女の小さな手でも途中で引っかかってしまい、無理だった。
「五十年くらい前の事件だよ。なぜおれがそれを知ったかと言うと――」
晶は立ち上がり、恵美里の横にあるベッドサイドテーブルから何かを取り出すと彼女に手渡した。
「――それに書いてあった」
恵美里は手渡されたものを見た。
大きさは文庫本サイズで、硬い紙の表紙がついており、三センチほどの厚みがあった。やや色あせた深紅の表紙には金文字で『Diary』と刻まれていた。
「母さんの日記帳。最初の方に瀧子のことが書かれていた。母さんが子供の頃、病院で亡くなったらしい」
恵美里はページをざっと捲っていく。
最初は流麗だった文字が後半になればなるほど乱れていき、最後は両開きのページいっぱいに殴るように書かれていた。
『四谷有里子 殺してやる!!』
文字から強い憎しみが伝わってきて、恐ろしさに恵美里は日記を手から取り落とした。
晶が拾って、サイドテーブルの上に置く。
「恵美里にあげるから、あとでゆっくり読めばいいよ。で、これからおれが伝えたいのは、その最後の記述の日に起こったことなんだ」
恵美里は困惑していた。これはきっと復讐なのだろう。
だがその言い方に恵美里はどこか引っかかるものがあった。
あとで読む時間を自分に与えてくれるのだろうか。自分を殺すつもりなんじゃないのか。
「おれの父親と四谷有里子は、母さんが殺した――八年前のあの日に」
恵美里の目が驚愕に大きく見開かれたが、それにたいして晶はわずかに眉を寄せただけだった。
恵美里は叫び声をあげたつもりだったが、実際は喉から空気が漏れただけだった。肌に冷たい汗が滲み、吐き気もこみ上げてくる。
「そうだ、続きを話す前に……恵美里に確認したいことがあるんだった」
晶はベッドの足側の方へ向かうと、何かを取り上げた。恵美里の横の床に放るようにしてそれを置く。
丸まっているがグレーの綿のパーカーだとわかった。恵美里には見覚えがあった。
別荘の明かりが落ちる直前まで晶が着ていたものだ。
「恵美里のバッグの中に入っていた……どういうことかな?」
「えっ? し、知らない。これ、晶のでしょう?」
「違う、中のノコギリだよ! 包んであるけど、見えてるじゃないか」
晶が何を言っているのか、恵美里にはまるでわからない。
「ノコギリ?」
「あ? 血だらけで錆びついたノコギリが、目の前にあるだろう!」
晶が恵美里の左腕を強くつかんできた。身体を引っ張られて手錠が手首に食い込み、恵美里は痛みに身をよじった。
「何を……言ってるの? 私にはパーカーしか見えないんだけど」
「見えないだと?! そらとぼけやがって。恵美里、本当は知ってたんじゃないのか? おまえが遺体を移したんじゃないのか? それとも父親か?」
晶は今度は恵美里の両腕をつかみ、身体全体を揺さぶった。
彼の黒い瞳は瞳孔が小さく縮み、ギラギラと輝いていた。
恵美里は震えながらも首を横に振る。
彼は幻覚でも見えているのだろうか。恵美里には晶の言うノコギリは全く見えないのだ。
「何を言ってるのか本当にわからない。イタイって、何なの?」
「晶、おれにも……見えないけど」
勇斗の言葉に晶は振り返った。
「なんだと?」
晶は恵美里から手を離すと丸まったグレーのパーカーを広げた。そしてひっくり返したり、裏返したりし始めた。
「ない。さっきはあったのに」
「晶?」
「たくさん掘り返した……庭中掘り返したのに見つからないんだ!」
「見つからない……って?」
恵美里の問いかけに晶が顔を上げた。
彼は怯えていた。笑おうとしたが、口の端が引き攣っている。
今までは晶のことを恐ろしい殺戮を行いながらも話は通じていたので、ある意味正常なのだと思っていた。
だが、今はどうだろう。
恵美里は先ほど晶から告げられた衝撃の事実を完全には飲み込めていなかったが、頭のどこかで彼から全てを聞き出さねばと考える冷静な自分がいた。
「晶……庭に何を埋めたの?」
「遺体だよ。言っただろ? 母さんがあの女と親父を殺したって」
「あの女?」
「おまえの母親だよ。あの淫乱女のことだ!」
晶は吐き捨てるように言い、恵美里を見た。
だが、冷静さを取り戻したのかすぐに無表情になり、静かに立ち上がった。
「おれと母さんで二人を埋めた。ノコギリでバラバラにした。恨みのあまりではなく、合理的な理由でね。おれはまだ子供だったし、母さんも力がないから、バラしてからじゃないと下に運べなかったんだ」
晶がさきほどから言っているノコギリというのは、その時使ったものなのだろうか。
恵美里はその様子を想像してしまい、こみあげる吐き気を必死に堪えた。
「叔父が別荘を売却したと知って……真っ先に考えたのが遺体のことだった。昨日も話したと思うけど、この建物は価値がないから確実に取り壊される。引き渡しは八月末だ。地面が掘り返されれば、遺体が見つかってしまう。
おれは別荘に何度も足を運んで、庭を掘り返した。八年前のことだから記憶が間違ってるのかと思い、別の場所も掘り返してみた。でも見つからなかった……なぜか」
晶の話を聞いて恵美里は考えた。
もしかしたら、さきほど彼にだけノコギリが〈見えていた〉ように、遺体はそこにあるのに彼には〈見えなかった〉だけなのかもしれないと。
それがどういうことなのか、恵美里にも上手く説明出来ない。ただ、今の晶は精神的に追いつめられているように見えた。だからといって、こんなことをしていい理由にはならないが。
「……だが、もう、どうでもいい。どうせ捕まるなら……そう考えた時に一つだけ、やっておきたいことがあった」
晶はそう言うと恵美里を見た。
「それが……この、恐ろしいことなの?」
恵美里が問い返すと晶は笑った。しかし目は笑っていない。
「叔父たちを殺したのは母さんが残してくれた遺産をこれ以上食い潰されなかったからだけど、秀人たちは……全て恵美里のためにやったんだ」
さらりと言ったが、晶はここに来るまでに叔父たちを〈殺して〉きたらしい。恵美里と勇斗は愕然としたが、晶がにじり寄ってきたので恵美里は反射的に避けた。
晶の目が、ふたたび爛々と不気味に輝いている。
恵美里は後退したが、背中がベッドのヘッドレストにぶつかった。横へ逃れようとしたが、左手が手錠でつながれているため虚しい抵抗だった。
「全ては恵美里がおれを忘れないように――永遠に心に刻みつけるためだ」
晶は恵美里の両手首をつかむと、腰の上に乗り、身体を押さえつけた。恵美里は完全に動きを封じられてしまった。
「晶っ! やめろ!!」
ドアのところで、勇斗がこちらへ身を乗り出しているのが視界の隅に入ってきた。手錠とドアノブが激しく触れ合う音が聞こえる。
勇斗の方を見ようとした恵美里の顔を晶は両手で押さえつけ、顔を寄せた。
「大丈夫、恵美里は殺さないから。ただ、抵抗したら痛いだろうし、できるだけおれに委ねて」
「……なんのこと?」
「このまえの続きだよ。ここで?と思うか。勇斗の前で……はわざとだよ。こいつの前でおまえとヤッて、そうしたらこいつは用無しだ。ズドンと撃つだろうな」
恵美里の顔色はそれ以上できないほど青白くなっていた。
何も言葉は出てこなかった。恐怖に震えようと絶望に嘆こうと、晶はそれを行うつもりだろう。
「……どうした? 何も言わないのか」
口もとにいやらしい笑みを浮かべてはいたが、晶の眼窩は昏く見えた。
「晶、八年前の話を聞かせて。まだ何があったのか、ちゃんと聞けてないよね?」
恵美里は言った。心の中では違うことを考えながら。
時間を稼ぐんだ。なんとかして、手錠の鍵を外させないと。
「そうだな、たしかに。おれの人生が一変した日のことを恵美里にも知っておいてもらわないとな」
主寝室へ入ってきた恵美里を見て、晶は満足げに言った。
部屋の右側、クイーンサイズのベッドの端に腰かけていた。その膝の上にはショットガンが乗っている。
「恵美里のすぐ横にいるよ」
恵美里が目で勇斗を探しているのがわかったのか、晶は目で指し示した。
両開きのドアの左側は最初から開いていたので恵美里はそこから入ったのだが、振り返ると閉まったままの右側ドアのところに勇斗が座りこんでいた。
彼の姿に恵美里は衝撃を受けた。
手錠がドアノブと勇斗の左手にかけなおされている。顔を上げた勇斗を見て恵美里はさらに驚いた。両頬が赤黒く腫れあがり、唇が切れている。にじんだ血はすでに乾きつつあった。
「晶!」
恵美里の非難の視線も、晶は笑って受け流した。
「ちょっと殴り合っただけだよ。勇斗はおれより背が高いし、力もあるから、ハンデはつけさせてもらったけどね。右手は自由にした。ほら、おれだって殴り返されたし」
たしかに晶の左頬も殴られたようで、腫れていた。
恵美里が勇斗に視線を戻すと、彼はうつむいていた。握った右の拳が震えている。
「恵美里……なんで逃げなかったんだ?」
「逃げるわけないって、言っただろ。恵美里はそんなことしたら、一生自分を許せない性格なんだよな? 潔癖というか、頑固というか」
晶は呆れたように言ったが、恵美里に向ける瞳は優しかった。その顔だけを見ていると、恵美里には今のこの状況がとても信じられなかった。
勇斗の苦しそうな呼吸音が聞こえて、恵美里は彼を見た。腰を下ろすと勇斗が自分の腹を押さえている手に上から触れる。勇斗が腹を痛めつけられていたことを思い出し、恵美里は顔を上げると晶を見た。
「晶、勇斗の手錠を外して。彼は逃がしてあげて。私が残るから。私がいればいいんでしょう?」
晶はひきつった笑みを浮かべると、二人に向けてショットガンを構えた。
「恵美里、ばかだな。今さら、そんなことできるわけないのは、わかるでしょ。そんな優しさ見せつけられたら、ますます、憎たらしくなる。……もう撃ち殺しちゃおうかな」
銃口がわずかに勇斗の方へ動く。
「やめて! ……どうすればいいの?」
勇斗を庇うように前に出た恵美里だったが、唇を噛みしめ、そう尋ねた。
「そいつから離れて、こっちに来て」
恵美里はゆっくり立ち上がると、勇斗から離れた。
「そう。そのまま、こっちへ」
「恵美里……やめろ、行くな」
勇斗の搾り出すような声が聞こえたが、恵美里は晶の方へ近づいていった。晶は座ったまま両腕を広げている。恵美里が腕の中まで入ってくると、強く抱きしめた。
晶は力なく立ったままの恵美里のお腹の辺りに顔を埋めて言った。
「恵美里、その愚かなほど頑ななところも好きだよ」
Tシャツ一枚を着ているだけなので、肌に直接晶の温かい息を感じた。恵美里は嫌悪感に身をよじりそうになったが、目を閉じてなんとか堪えた。両腕を垂らして抱き返さないことが彼女の唯一の抵抗だった。
「……だめだ……逃げろ……えみりっ!」
勇斗の声に重なるように、金属の触れ合う音が聞こえた。
恵美里は冷たい感触に気づいて、そこを見た。左手首に手錠がはまっている。
驚く間もなく、晶が恵美里をベッドに押し倒す。そして手錠の残った輪をベッドのヘッドレストの装飾部分にはめた。
恵美里も左手をベッドにつながれてしまった。
晶は恵美里を組み敷いたまま、上から彼女を見下ろしていた。
「この手錠、アメリカ製だけど、よく出来てない? オモチャみたいかなと期待してなかったのに、意外と外れないんだ」
「だから、何?」
恵美里が冷たい目で返すと、晶は興奮が醒めたようにスッと無表情に戻った。
それから恵美里から離れて立ち上がったが、またベッドの上に座った。寝ている恵美里の足下ではあったが、足を伸ばしてもたぶん届かないところだ。
「オノタキコはね、実在するんだ」
晶は恵美里と勇斗、どちらの方も見ずに話しはじめた。
「真優が話した都市伝説はおれが考えた作り話。でも、全くの嘘ってわけじゃない。実際のオノタキコは被害者じゃなくて加害者の方ではあるけどね」
言いながら晶はふいに窓の方を振り返った。恵美里もつられてそちらを見る。
寝室の窓には半円形の小さなバルコニーがついている。その開いた窓の外は濃さを増した霧によって一面、真っ白になっていた。
「小野瀧子。大叔母……って言うのかな? 母方の祖母の妹にあたる人だね、おれから見て。彼女は小野って官僚の家に嫁いだ。けど、彼女の夫は結婚後も愛し合っていた恋人と密かに会っていたんだ。夫が愛人との逢瀬に使っていた別荘も、ここじゃないけど、近くにあったらしいよ。ある日、瀧子は二人が逢っているところに乗り込んで、斧で二人を滅多打ちにしたそうだ。瀧子は、病院送りになったんだって。閉鎖病棟から死ぬまで出られなかったらしい」
晶が話している間、恵美里はなんとか手錠から手を抜けないかとあがいてみたが、彼女の小さな手でも途中で引っかかってしまい、無理だった。
「五十年くらい前の事件だよ。なぜおれがそれを知ったかと言うと――」
晶は立ち上がり、恵美里の横にあるベッドサイドテーブルから何かを取り出すと彼女に手渡した。
「――それに書いてあった」
恵美里は手渡されたものを見た。
大きさは文庫本サイズで、硬い紙の表紙がついており、三センチほどの厚みがあった。やや色あせた深紅の表紙には金文字で『Diary』と刻まれていた。
「母さんの日記帳。最初の方に瀧子のことが書かれていた。母さんが子供の頃、病院で亡くなったらしい」
恵美里はページをざっと捲っていく。
最初は流麗だった文字が後半になればなるほど乱れていき、最後は両開きのページいっぱいに殴るように書かれていた。
『四谷有里子 殺してやる!!』
文字から強い憎しみが伝わってきて、恐ろしさに恵美里は日記を手から取り落とした。
晶が拾って、サイドテーブルの上に置く。
「恵美里にあげるから、あとでゆっくり読めばいいよ。で、これからおれが伝えたいのは、その最後の記述の日に起こったことなんだ」
恵美里は困惑していた。これはきっと復讐なのだろう。
だがその言い方に恵美里はどこか引っかかるものがあった。
あとで読む時間を自分に与えてくれるのだろうか。自分を殺すつもりなんじゃないのか。
「おれの父親と四谷有里子は、母さんが殺した――八年前のあの日に」
恵美里の目が驚愕に大きく見開かれたが、それにたいして晶はわずかに眉を寄せただけだった。
恵美里は叫び声をあげたつもりだったが、実際は喉から空気が漏れただけだった。肌に冷たい汗が滲み、吐き気もこみ上げてくる。
「そうだ、続きを話す前に……恵美里に確認したいことがあるんだった」
晶はベッドの足側の方へ向かうと、何かを取り上げた。恵美里の横の床に放るようにしてそれを置く。
丸まっているがグレーの綿のパーカーだとわかった。恵美里には見覚えがあった。
別荘の明かりが落ちる直前まで晶が着ていたものだ。
「恵美里のバッグの中に入っていた……どういうことかな?」
「えっ? し、知らない。これ、晶のでしょう?」
「違う、中のノコギリだよ! 包んであるけど、見えてるじゃないか」
晶が何を言っているのか、恵美里にはまるでわからない。
「ノコギリ?」
「あ? 血だらけで錆びついたノコギリが、目の前にあるだろう!」
晶が恵美里の左腕を強くつかんできた。身体を引っ張られて手錠が手首に食い込み、恵美里は痛みに身をよじった。
「何を……言ってるの? 私にはパーカーしか見えないんだけど」
「見えないだと?! そらとぼけやがって。恵美里、本当は知ってたんじゃないのか? おまえが遺体を移したんじゃないのか? それとも父親か?」
晶は今度は恵美里の両腕をつかみ、身体全体を揺さぶった。
彼の黒い瞳は瞳孔が小さく縮み、ギラギラと輝いていた。
恵美里は震えながらも首を横に振る。
彼は幻覚でも見えているのだろうか。恵美里には晶の言うノコギリは全く見えないのだ。
「何を言ってるのか本当にわからない。イタイって、何なの?」
「晶、おれにも……見えないけど」
勇斗の言葉に晶は振り返った。
「なんだと?」
晶は恵美里から手を離すと丸まったグレーのパーカーを広げた。そしてひっくり返したり、裏返したりし始めた。
「ない。さっきはあったのに」
「晶?」
「たくさん掘り返した……庭中掘り返したのに見つからないんだ!」
「見つからない……って?」
恵美里の問いかけに晶が顔を上げた。
彼は怯えていた。笑おうとしたが、口の端が引き攣っている。
今までは晶のことを恐ろしい殺戮を行いながらも話は通じていたので、ある意味正常なのだと思っていた。
だが、今はどうだろう。
恵美里は先ほど晶から告げられた衝撃の事実を完全には飲み込めていなかったが、頭のどこかで彼から全てを聞き出さねばと考える冷静な自分がいた。
「晶……庭に何を埋めたの?」
「遺体だよ。言っただろ? 母さんがあの女と親父を殺したって」
「あの女?」
「おまえの母親だよ。あの淫乱女のことだ!」
晶は吐き捨てるように言い、恵美里を見た。
だが、冷静さを取り戻したのかすぐに無表情になり、静かに立ち上がった。
「おれと母さんで二人を埋めた。ノコギリでバラバラにした。恨みのあまりではなく、合理的な理由でね。おれはまだ子供だったし、母さんも力がないから、バラしてからじゃないと下に運べなかったんだ」
晶がさきほどから言っているノコギリというのは、その時使ったものなのだろうか。
恵美里はその様子を想像してしまい、こみあげる吐き気を必死に堪えた。
「叔父が別荘を売却したと知って……真っ先に考えたのが遺体のことだった。昨日も話したと思うけど、この建物は価値がないから確実に取り壊される。引き渡しは八月末だ。地面が掘り返されれば、遺体が見つかってしまう。
おれは別荘に何度も足を運んで、庭を掘り返した。八年前のことだから記憶が間違ってるのかと思い、別の場所も掘り返してみた。でも見つからなかった……なぜか」
晶の話を聞いて恵美里は考えた。
もしかしたら、さきほど彼にだけノコギリが〈見えていた〉ように、遺体はそこにあるのに彼には〈見えなかった〉だけなのかもしれないと。
それがどういうことなのか、恵美里にも上手く説明出来ない。ただ、今の晶は精神的に追いつめられているように見えた。だからといって、こんなことをしていい理由にはならないが。
「……だが、もう、どうでもいい。どうせ捕まるなら……そう考えた時に一つだけ、やっておきたいことがあった」
晶はそう言うと恵美里を見た。
「それが……この、恐ろしいことなの?」
恵美里が問い返すと晶は笑った。しかし目は笑っていない。
「叔父たちを殺したのは母さんが残してくれた遺産をこれ以上食い潰されなかったからだけど、秀人たちは……全て恵美里のためにやったんだ」
さらりと言ったが、晶はここに来るまでに叔父たちを〈殺して〉きたらしい。恵美里と勇斗は愕然としたが、晶がにじり寄ってきたので恵美里は反射的に避けた。
晶の目が、ふたたび爛々と不気味に輝いている。
恵美里は後退したが、背中がベッドのヘッドレストにぶつかった。横へ逃れようとしたが、左手が手錠でつながれているため虚しい抵抗だった。
「全ては恵美里がおれを忘れないように――永遠に心に刻みつけるためだ」
晶は恵美里の両手首をつかむと、腰の上に乗り、身体を押さえつけた。恵美里は完全に動きを封じられてしまった。
「晶っ! やめろ!!」
ドアのところで、勇斗がこちらへ身を乗り出しているのが視界の隅に入ってきた。手錠とドアノブが激しく触れ合う音が聞こえる。
勇斗の方を見ようとした恵美里の顔を晶は両手で押さえつけ、顔を寄せた。
「大丈夫、恵美里は殺さないから。ただ、抵抗したら痛いだろうし、できるだけおれに委ねて」
「……なんのこと?」
「このまえの続きだよ。ここで?と思うか。勇斗の前で……はわざとだよ。こいつの前でおまえとヤッて、そうしたらこいつは用無しだ。ズドンと撃つだろうな」
恵美里の顔色はそれ以上できないほど青白くなっていた。
何も言葉は出てこなかった。恐怖に震えようと絶望に嘆こうと、晶はそれを行うつもりだろう。
「……どうした? 何も言わないのか」
口もとにいやらしい笑みを浮かべてはいたが、晶の眼窩は昏く見えた。
「晶、八年前の話を聞かせて。まだ何があったのか、ちゃんと聞けてないよね?」
恵美里は言った。心の中では違うことを考えながら。
時間を稼ぐんだ。なんとかして、手錠の鍵を外させないと。
「そうだな、たしかに。おれの人生が一変した日のことを恵美里にも知っておいてもらわないとな」
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