キラー・イン・レッド〜惨劇の夜〜

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第二章 惨劇

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 違う、彼だけは絶対違う。こんな酷いこと出来るはずない!
 恵美里はすぐにその恐ろしい推測を打ち消した。
「お願い、紗希。しっかりして!」
「ううっ、ごめん、恵美里、ごめんね」
 半ば叱責するように言ってしまってから、とっさに恵美里は反省した。
「大丈夫だから、行こ――」
「ぎゃっ!」
 もうすぐ庭へ出られるところで、紗希が転び、恵美里まで一緒に倒れた。
「紗希?」
「ぃぎゃあーっ‼︎ いだいぃ‼︎ いだぁいぃっ‼︎」
 転んだだけにしては大げさな痛がりように恵美里は唖然としたが、紗希の顔を見て尋常じゃないのに気づいた。
 紗希が全く動かせない左足を見て、恵美里は凍りついた。
 斧が刺さっている。ちょうど彼女の左足首のあたりに。
 その斧を手にしているのは――赤いローブと白い仮面の殺人鬼だった。
「⁈」
 一体、どこから?
 恵美里は混乱した。紗希の足先の暗闇には倒れている真優の頭部がぼんやりと見える。
「ううっ……はぁっ……」
 紗希の足首からはドクドクと血が溢れ、顔色もみるみるうちに青白くなってきている。
 斧を外してあげなきゃ。
 恵美里はただそれだけを考えて、殺人鬼の身体に体当たりした。
 予想外の行動だったのか、殺人鬼は思いきり跳ね飛ばされ、ガラステーブルに尻餅をつくと背中から床へ落ちた。
 恵美里は刃先が床にまで入った斧を見たが、一度大きく深呼吸すると、
「紗希、ごめん!」
 一息に紗希の足首から抜いた。
「ぃぎゃぁあっ‼︎」
 紗希の絶叫が轟いた。
 足首は完全に断ち切られてはいなかったが、傷口は白い骨が覗き、恵美里は息を呑んだ。
 だが次の瞬間、恵美里は肩を強くつかまれ、庭先へ押し出された。
 気づくと殺人鬼が上から恵美里を押さえつけている。
 腰の辺りに体重をかけられていて、身動きがとれない。
「イヤッ‼︎」
 恵美里は両手を振り回して抵抗したが、殺人鬼の手が伸びてきた。
 両手で恵美里の首をつかむと、ぐいぐい締めあげていく。
「ぐっ、うっ」
 ものすごい力だ。
 恵美里はその両手を引き剥がせないとわかると、震える手を白い仮面へ伸ばした。
 誰なのか……見てやる!
 渾身の力を振りしぼった恵美里の右手が白い仮面に触れると、相手が身を引いた。
 そのとき首への締めつけは一瞬緩んだが、すぐに力がこめられ、恵美里の視界はみるみる霞んでいった。
 もう、だめ……。
 閉じられていく恵美里の目に最後に映ったのは、力無く倒れた紗希の白い顔だった。
「えみりーっ! さきーっ!」
 その直後、林の奥から呼ぶ声があったが、彼女らのどちらの耳にも届くことはなかった。
 ただ、殺人鬼はその声に反応し、恵美里の首から手を離した。
 しばらく林の方を見てから、恵美里の側に腰を落とす。つかの間、彼女の手首を掴んでいたが、ふいに立ち上がった。
 紗希に近づくと、両脇の下に手を入れて身体を持ち上げた。千切れかけた足首にはお構いなしで、上半身を抱えただけで引きずっていった。紗希も気を失っているのか、それとも事切れてしまったのか、一言も発しなかった。
 彼らは別荘の中へ消え、あとに残されたのは庭先で倒れている恵美里だけだった。

 二時間ほど前、皆と別れた勇斗は、玄関から表へ出た。
 一度足が竦んで、その場で立ち止まったが、やることを思い出して一歩踏み出す。
 もう深夜になろうとしているのだろうか。時計がないので、感覚で判断するしかなかった。
 下の県道へと繋がる私道は勇斗の目の前にあったが、しんと音がしそうなほど静かな闇に包まれている。私道は長く、百メートル強あった。緩やかにカーブした道の先には、一つだけではあるが、外灯が県道との境目を示すかのように灯って見えた。
 つまり、電気が消えたのは家の中だけで、停電ではないということだ。
 一瞬、現状を忘れそうになる。さきほど秀人たちから聞いた話が今でも信じられなかった。数時間前は、庭で花火を振り回して遊んでいたのだから。
 しかし、たしかにあの頃から異変は始まっていた。
 晶はどうか知らないが、勇斗は携帯電話を始終持ち歩くタイプではなかった。家でもその辺に置きっぱなしにしていることが多い。おそらく夕食後、テーブルの上にでも置き忘れたのだろう。それを盗ることは誰にでも可能だった。
 でも誰が? 何の目的で?
 なぜ自分から「警察を呼びに行く」と言ってしまったのかわからない。本当は勇斗も一人は不安だった。
「……かっこつけか」
 別れ際、恵美りが心配そうにこちらを見ていたのは気のせいだろう。それでも嬉しかった。
 勇斗は右手に懐中電灯、左手には包丁を握りしめながら、私道を下り始めた。別荘から落ちる影の中から出ると、手にしている包丁の刃が月明かりに反射して光る。
 思わず唾を飲み込む。たとえ襲われたとしても、この刃を相手に向けられる気がしなかった。
 大丈夫だ、これから目の前の道を全速力で駆け下りるだけだ。
 夏休み前まで部活をやっていたし、脚力には自信があった。
 ふと背後から視線を感じて、勇斗は振り返る。
 別荘の両側に裏庭へ繋がる細い通路があった。
 その左側、勇斗から見て右側に、黒い影が見えた。一瞬、植木か何かを見間違えたのかと思ったが、それはかすかに左右に動いている。
 そしてだんだんこちらへ近づいてきた。
 建物の影から姿を現した何者かは――赤いローブに全身を包んでいた。
「だ、誰だ?」
 声が震えたが、勇斗は懐中電灯の光を相手に向けた。
 ローブは足まで隠れる長さで、全身を包んでいる。
 頭髪もフードを被っているため、男女の区別すらつかなかった。
 そしてフードの中に見える顔も、真っ白な仮面を被っていた。
 仮装パーティ用の仮面なのか、口もとは微かに不気味なほほ笑みを浮かべている。
 勇斗は、さきほどの恵美里の言葉を思い出した。
 『赤いローブ……斧を持った』
 まさか、本当にタキコ……なのか?
 勇斗はゾッとした。
 恐怖で動けなかった彼を動かしたのは、タキコの方だった。
 赤いローブの隙間から、白手袋をはめた右手を出す。その手には斧が握られていた。
 それをゆっくりと頭上へ掲げる。
 全体で五十センチほどの長さ、刃の部分はおよそ十センチ程度だったが、そこは赤く濡れて光っていた。
 斧を振り上げたまま、タキコがこちらへ向かってきた。
 気づけば間合いは数メートルもない。
 斧を振り下ろされ、勇斗は反射的に避けた。
 めったやたらと振り回してくる斧から逃げるうちに、勇斗は行きたい方とは反対側、左手にある林へと追いつめられた。
 無我夢中で、気づくと勇斗は林の中へ逃げ込んでいた。懐中電灯の光が揺れている。
「はあ、はあ」
 振り返ると、タキコとは数十メートルほどの距離が開いていた。
 タキコの肩が上下している。何かが変だ。
 遅い?
 逃げきれる気がしてきた。何者かは知らないが、あまり体力はなさそうだ。
 一度振りきるつもりで、勇斗はどんどんシダの茂みの奥へと踏み込んでいった。
 だがタキコもあとを追ってくる。
 勇斗は何度も後ろを振り返りながら、邪魔な葉を左手の包丁でなぎ払いつつ、奥へと逃げた。
 だから気がつかなかった――藪が開けた先にある崖に。
「わあああああぁぁぁーっ」
 勇斗は全身で崖を滑り落ちていった。
 藪の切れ目に立ったタキコは、少しの間、崖下に倒れている勇斗を見ていた。
 だが、やがて気づいたように背を向けると、私道の方へ戻りはじめた。右手に斧、左手には懐中電灯を持って、やや早足で別荘の方へと向かっていった。

 恵美里は走っていた。
 どこまでも暗い闇の中を、あてどもなく。
 ただ、追われている恐怖だけが、あった。
 振り向くと、少し後方から、彼女が追ってくる。
 タキコだ。
 赤いローブの裾をはためかせながら、走ってくる。
 ローブの隙間から、白いスカートの裾が見え隠れする。
 異様に痩せ、骨ばった足先は、ストラップの付いた赤い靴を履いていた。
 しかし依然、その顔は例の白い仮面に覆われ、誰かわからない。
 いつの間に距離を詰められたのか、いきなり肩をつかまれ、恵美里はタキコに背後からのしかかられるようにして倒れた。
『なんなの? タキコ、私たちが何をしたっていうの?!』
 思いきり倒されたにもかかわらず、痛みは感じなかった。
 どこかでこれは現実ではないと恵美里もわかっていた。
『”私たち”ですって?』
 タキコが笑う。
『おまえが呼んだのだ。思わせぶりで淫乱なおまえが、私を呼んだのだよ』
 タキコの白い手が、恵美里の首にかかる。
『私が?』
 息が苦しくなっていく――何かを思い出しそうだった。
『おまえは、私を軽蔑してるのよね? なのに心の奥では、いいえ、身体の芯がうずいているのよ。本当はあのとき、快楽に身をまかせたいと思ったんじゃない?』
『なにを……言っているの? あなたは誰?』
『晶を拒絶したことを後悔しているでしょう? 本当は無理矢理にでも抱かれたかった、違う?』
『やめて!!』
 恵美里はタキコの白い仮面を剥いだ。
 奇妙な既視感デジャブを覚えながら。
『ははははははははははははははは』
 笑いながら彼女を見下ろしていたのは――母、有里子だった。
『おまえも堕落していく……深い深い深い深い深い闇の底へ』
 違う! こんなの、お母さんじゃない!!
「グェホ、ゲホッ、ゲホゲホッ」
 肺の中へ急激に送られた空気が、恵美里の上半身を跳ね上げた。
 喉を押さえながら、必死で息を吸う。
 全身に空気を送り出しているからか、身体が震えた。
 やがて死ぬような苦しさは和らいでいった。
 恵美里は目を開けた。
 はるか上空に気持ち悪いくらいの数の星が瞬いていた。
 喉をさすると、自然と涙がこぼれてきた。
 少しずつ身体を起こすと、そこは庭の芝の上だった。
 襲われた後、そのまま放っておかれたらしい。
 恵美里は思い出し、ふたたび震えてくるのを感じた。
 忙しなく周囲を見回す。
 静かだった。
 涙に濡れた目は自然と別荘の中へ向けられる。
 薄暗がりの中に広がる惨状が、彼女にこれは悪夢ではないと突きつけてきた。
 恵美里は今、一人きりだった。
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