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第二章 惨劇
四
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一瞬何が起こったのか、秀人にはわからなかった。
身体が床に叩きつけられるとともに、目の前で光が瞬き、思わずうめき声をあげた。痛みと衝撃で倒れたまま動けない秀人の足元に謎の襲撃者は立っていた。次第に戻ってくる視界に赤い影が映る。ベッドの上に置いていた懐中電灯の明かりが、襲撃者の動きを照らしていた。
赤いローブを着た襲撃者は秀人のタブレットを手にすると足早に部屋を出て行く。
「ま、待てっ……」
すでに襲撃者の姿はなく、秀人の怒りの声は届かなかった。
ズキズキと痛む頭の左側にそっと触ると少し腫れていた。瘤になってきている。
ゆっくり立ち上ると、懐中電灯を手に部屋を出た。足元がふらつく感じがして、壁に身体をもたれかけながら少しずつ進んだ。
「もう許すとか許さないとか……そんなレベルじゃない」
先ほどの殴打は容赦なかった。殺意すら感じた。
秀人は頭を押さえながら玄関ホールの階段の前に進み出た。
「三村‼︎ 出てこい! お前の仕業なのはわかってるんだぞ!」
懐中電灯でホールのあちこちを照らしながら闇に向かって叫ぶ。
しかし、代わりに聞こえてきたのは別の声だった。
「わっ⁈ や、やめろ!」
晶だ。
「待て! そ、それは……うぁぁっ!」
ドンッと何かにぶつかったような音が晶の悲鳴を打ち消した。
秀人は思わず唾を飲み込んだ。
耳の中で水が流れるような音がする。おそらくは耳鳴りなのだが、秀人は血の気が引く音に感じた。
「い、一ヶ屋?」
秀人は階上に向かって呼びかけた。情けないことに声が震えている。
晶は答えなかった。不気味なくらいの静寂が辺りを支配していた。
「…………」
どういうことだ。一ヶ屋に手を出すとは思わなかった。
秀人は我知らず爪を噛んでいた。めったにないのだが、必死で頭をフル回転させている時に出てしまう癖だった。
秀人は、この悪戯というには行き過ぎた行為の数々を全て三村真優の仕業と考えていた。
最初に違和感を覚えたのは、スマートフォンでのやり取りだ。
なぜ自分と紗希の名前を知っていたのか。特に自分の名は一度で正確に呼ばれた試しがなかった。
もし仮に外部からの侵入者とした場合、ここには六人もの人間が、しかも好き勝手に動いていた。そんな中、誰にも見咎められず二階バスルームまで辿り着くことは不可能に近い。
だが真優の自作自演と考えれば、可能なのだ。
彼女は食事時に酒を配って皆に飲ませた。酩酊するほどではないが判断能力は鈍る。隙をついて各々携帯電話を奪うことはできるだろう。
浴槽や廊下の血だってそうだ。直前まで一緒に風呂に入っていたと恵美里が言っていたではないか。本物の血を使う時点で異常としか思えないが。
悪戯にしては手がこんでいる。事前にタキコの話をし、赤いローブまで用意していた。
あるいは全て自分の思い込みなのだろうか。
本当に外部から異常者が入ってきたということはないのか。
秀人は気づけばボロボロになるほど爪を噛みしめていた。
ナイフを部屋に置いてきてしまったことに気づく。持っているのは懐中電灯だけだ。
なんてマヌケなんだ。
脚が細かく震えだす。
絵美里が見たと言う斧が本物とは思えないが、何を考えてるかわからない相手に丸腰で立ち向かいたくはなかった。
「秀人、大丈夫?」
書斎のドアがわずかに開いて、紗希が顔をのぞかせていた。
彼女の方へ歩いていくうちに脚の震えが止まったので、我ながら驚く。
なけなしのプライドだろうか。好きな子のまえでは情けない姿を見せたくなかった。
「何か……大声が聞こえたけど」
秀人が向けた懐中電灯の光に浮かぶ紗希の顔は白い光源のせいか、不安げな表情もあいまって顔色を失っているように見えた。
「晶の悲鳴が聞こえたんだ、二階で」
「えっ? 晶の?」
そう言って紗希の背後から顔を覗かせたのは、恵美里だった。
「そうだ、四谷。ナイフ持ってただろ? 貸してくれないか」
「えっ? 秀人くん……どうして?」
少し迷ったが、はっきり伝えることにする。
「僕もローブのヤツを見た。というか、殴られた」
「えっ……」
二人は一瞬絶句した。
「もしかして、一人で行く気? バカじゃないの⁈」
紗希が怒るのも無理もなかった。
たしかに危険だと秀人も思う。ただし相手が知らない者でなければだ。
「僕は、じつは三村がやったんじゃないかと思ってる」
「真優が? まさか、どうして?」
恵美里の言う通りだ。秀人もわけまではわからない。
三村真優には元々わがままというか、どこまでやったら許されるのか試すような言動があった。気まぐれで飽きっぽいところもある。しかし今回のこの行動は、さすがにやりすぎで、異常だと思った。
「ナイフを実際に使うつもりはない。あくまで護身用として借りたいだけ」
「……本気なの?」と紗希。
「そうだよ、秀人くん。あいつは……斧を持っていた。本当なんだから」
恵美里も念を押すように言った。秀人は首を横に振る。
「ごめん、四谷。たしかに四谷は見たんだよ。それは信じる。ただ、その斧はたぶんオモチャだ」
秀人は勇斗がここにいてくれたらと思った。しかし彼は外へ助けを呼びに行っていた。自分だけでなんとか対処するしかない。
「でなきゃ、僕はなんで殴られただけで済んでるんだ?」
秀人が問い返すと二人は黙り込んだ。
自分で推測を話しながら、秀人は落ち着いてくるのを感じた。
そうだ、やはり三村の自作自演なんだ。もし本物の斧を持った殺人者なら、あの場で殺されてもおかしくない。秀人が持ってきた立派な包丁だってベッドの上にあった。ただ、そこまでする必要がなかったのだ。警察に通報しそうだったから焦って殴っただけに違いない。
「大丈夫。これを仕掛けたのはきっと三村だ。そう思えば、たしかに異常ではあるけど……対処は出来る」
きっとそうだ。晶も一度は叫んだけれど、相手が真優だとわかって説得してるか、宥めてるところかもしれない。
秀人はその様子まで思い浮かべた。晶は自分と同じかそれより理知的な人間だと信じている。
「とにかくナイフを貸してくれ」
恵美里は不承不承という感じだったが果物ナイフを持ってきた。刃渡りが十センチ程度しかない。それでも人を殺傷するには十分な長さだ。もちろん秀人も使うつもりはなかったが。
「ねえ、三人で行くのは?」
恵美里が言った。
停電してからの恵美里は紗希よりもむしろ落ち着いて見えた。普段と完全に逆転している。意外と土壇場で人の性格は出るのかもしれないと秀人は思った。
だが、秀人は首を横に振って恵美里の申し出を断った。
「ダメだ。二人はそのまま鍵をかけて中にいて。僕か、晶か、あるいは勇斗が戻ってくるまで、ドアは絶対に開けないで」
「秀人……」
紗希が心配そうに自分を見つめていた。
それだけで秀人は勇気を奮い起こせた。
「じゃ、行ってくる」
これ以上引き留められないように秀人の側から部屋のドアを閉めた。
その場にいると出た勇気が再び引っ込んでしまいそうだったので、階段を上りはじめた。
「一ヶ屋? 大丈夫か?」
上へ向かって呼びかけるが、あいかわらず返事がない。
階段を上りきると床の血が目に入ったが、秀人は驚かなかった。
さきほど見たバスルームからの延長だ。ずっと引きずった痕が続いている。
そして異常だ。彼女はあきらかにおかしい。警察に突き出し、病院で治療してもらいたいレベルだ。
真優のことを考えると渋面になっていく。話が通じるだろうか。
血の痕は階段の正面にあるドアのところで途切れていた。というよりも部屋の中へ続いている感じだ。
ここは主寝室だ。ホテルのスイートルーム並みに広く、ベッドやソファもデザインは古いが高級そうだった。
両開きのドア。その片側に手をかけるとノブをゆっくり回した。
そのとたん
二つのドアが勢いよくこちらに開かれ、秀人は弾かれるように二、三歩後ろへよろけた。
ドスッ
何の音なのか、一瞬わからなかった。
だがすぐに腹の辺りが焼けるように熱くなる。
「え……っ?」
秀人は視線を下げ、腹部を見た。
ありえないものが胃の辺りから生えていた。包丁だ。
秀人が、客室に置いてきたはずの刃物だった。
たしか刃渡が二十センチはあった。それが半分以上、自分の体に刺さっている。
懐中電灯も果物ナイフも手から落ち、両手は腹に刺さった包丁の柄をつかむ。
「うぉっ、うぐうぉおおっっ」
握ったことで力が加わったからか、それとも刺されたことを自覚したからか、ようやく痛みを感じた。もちろん秀人にとって初めての痛みだった。例えようのない激痛である。
包丁を引き抜きたかったが、触るだけで痛くて無理だった。
膝に力が入らなくなり、前へ倒れそうになる。
その身体を誰かが支えた。
「うっ、うお……えぁっ?」
秀人の両腕を抱えるように支えた手は白手袋をはめていた。
顔を上げると――赤いローブをまとった人物だった。
全身が見えた。
頭から足の先まで包む、ゆったりしたサイズの赤と言うより真紅のローブ。顔は白いプラスチックの仮面を被っていた。頭に被ったフードで目元が影になっていて、口元しか見えなかった。
これが四谷が見たタキコなのか。それとも……
「み……むら……?」
秀人が切れ切れで問いかけると相手も顔を上げた。
笑っているように見えた。
たぶん仮面のデザインのせいだ。トランプのジョーカーに似た邪悪な笑顔だった。
ただ、穴の開いた目の部分から見えるのはあきらかに生きている人間の目だ。怨霊には見えなかった。だいいち霊が包丁で刺すはずがない。
「な……んで、こ、こんな……」
言葉を発するたび、腹に裂けるような痛みが走った。
そして目の前の殺人鬼の仮面の奥の目が――細められる。
その瞬間、秀人はわかってしまった。
相手が何をしようとしているのかを。
秀人の両腕をつかんでいた殺人鬼の手に力が入った。押されて秀人はさらに数歩、後退する。すぐ後ろは大階段だ。
自分は階段から突き落とされようとしている。
なんとか踏みとどまろうとしたが、腹の傷と相手の力の強さに負け、次の後退で階段を踏み外したのがわかった。
身体が大きく後ろへ傾き、両手が宙をかく。
殺人鬼は目の前にいた。なのに触れられそうで触れられない。
やけに全てがゆっくり見えた。
秀人はふと、これこそが以前どこかで読んだ「タキサイキア現象」なのだと思った。身体的危機に直面しているときに脳処理が追いつかず起こる誤作動のことだ。
たしかに命の危機だった。
三十三段ある階段の一番上から落ちようとしていた。
しかしそんな中でも秀人の右手の人差し指は、殺人者の仮面の顎の部分を爪先でひっかけた。落ちる勢いで上にあがった手が仮面を剥がし、さらには被っていたフードも一緒にめくれる。
その瞬間、秀人は殺人鬼の顔を見た。
身体が床に叩きつけられるとともに、目の前で光が瞬き、思わずうめき声をあげた。痛みと衝撃で倒れたまま動けない秀人の足元に謎の襲撃者は立っていた。次第に戻ってくる視界に赤い影が映る。ベッドの上に置いていた懐中電灯の明かりが、襲撃者の動きを照らしていた。
赤いローブを着た襲撃者は秀人のタブレットを手にすると足早に部屋を出て行く。
「ま、待てっ……」
すでに襲撃者の姿はなく、秀人の怒りの声は届かなかった。
ズキズキと痛む頭の左側にそっと触ると少し腫れていた。瘤になってきている。
ゆっくり立ち上ると、懐中電灯を手に部屋を出た。足元がふらつく感じがして、壁に身体をもたれかけながら少しずつ進んだ。
「もう許すとか許さないとか……そんなレベルじゃない」
先ほどの殴打は容赦なかった。殺意すら感じた。
秀人は頭を押さえながら玄関ホールの階段の前に進み出た。
「三村‼︎ 出てこい! お前の仕業なのはわかってるんだぞ!」
懐中電灯でホールのあちこちを照らしながら闇に向かって叫ぶ。
しかし、代わりに聞こえてきたのは別の声だった。
「わっ⁈ や、やめろ!」
晶だ。
「待て! そ、それは……うぁぁっ!」
ドンッと何かにぶつかったような音が晶の悲鳴を打ち消した。
秀人は思わず唾を飲み込んだ。
耳の中で水が流れるような音がする。おそらくは耳鳴りなのだが、秀人は血の気が引く音に感じた。
「い、一ヶ屋?」
秀人は階上に向かって呼びかけた。情けないことに声が震えている。
晶は答えなかった。不気味なくらいの静寂が辺りを支配していた。
「…………」
どういうことだ。一ヶ屋に手を出すとは思わなかった。
秀人は我知らず爪を噛んでいた。めったにないのだが、必死で頭をフル回転させている時に出てしまう癖だった。
秀人は、この悪戯というには行き過ぎた行為の数々を全て三村真優の仕業と考えていた。
最初に違和感を覚えたのは、スマートフォンでのやり取りだ。
なぜ自分と紗希の名前を知っていたのか。特に自分の名は一度で正確に呼ばれた試しがなかった。
もし仮に外部からの侵入者とした場合、ここには六人もの人間が、しかも好き勝手に動いていた。そんな中、誰にも見咎められず二階バスルームまで辿り着くことは不可能に近い。
だが真優の自作自演と考えれば、可能なのだ。
彼女は食事時に酒を配って皆に飲ませた。酩酊するほどではないが判断能力は鈍る。隙をついて各々携帯電話を奪うことはできるだろう。
浴槽や廊下の血だってそうだ。直前まで一緒に風呂に入っていたと恵美里が言っていたではないか。本物の血を使う時点で異常としか思えないが。
悪戯にしては手がこんでいる。事前にタキコの話をし、赤いローブまで用意していた。
あるいは全て自分の思い込みなのだろうか。
本当に外部から異常者が入ってきたということはないのか。
秀人は気づけばボロボロになるほど爪を噛みしめていた。
ナイフを部屋に置いてきてしまったことに気づく。持っているのは懐中電灯だけだ。
なんてマヌケなんだ。
脚が細かく震えだす。
絵美里が見たと言う斧が本物とは思えないが、何を考えてるかわからない相手に丸腰で立ち向かいたくはなかった。
「秀人、大丈夫?」
書斎のドアがわずかに開いて、紗希が顔をのぞかせていた。
彼女の方へ歩いていくうちに脚の震えが止まったので、我ながら驚く。
なけなしのプライドだろうか。好きな子のまえでは情けない姿を見せたくなかった。
「何か……大声が聞こえたけど」
秀人が向けた懐中電灯の光に浮かぶ紗希の顔は白い光源のせいか、不安げな表情もあいまって顔色を失っているように見えた。
「晶の悲鳴が聞こえたんだ、二階で」
「えっ? 晶の?」
そう言って紗希の背後から顔を覗かせたのは、恵美里だった。
「そうだ、四谷。ナイフ持ってただろ? 貸してくれないか」
「えっ? 秀人くん……どうして?」
少し迷ったが、はっきり伝えることにする。
「僕もローブのヤツを見た。というか、殴られた」
「えっ……」
二人は一瞬絶句した。
「もしかして、一人で行く気? バカじゃないの⁈」
紗希が怒るのも無理もなかった。
たしかに危険だと秀人も思う。ただし相手が知らない者でなければだ。
「僕は、じつは三村がやったんじゃないかと思ってる」
「真優が? まさか、どうして?」
恵美里の言う通りだ。秀人もわけまではわからない。
三村真優には元々わがままというか、どこまでやったら許されるのか試すような言動があった。気まぐれで飽きっぽいところもある。しかし今回のこの行動は、さすがにやりすぎで、異常だと思った。
「ナイフを実際に使うつもりはない。あくまで護身用として借りたいだけ」
「……本気なの?」と紗希。
「そうだよ、秀人くん。あいつは……斧を持っていた。本当なんだから」
恵美里も念を押すように言った。秀人は首を横に振る。
「ごめん、四谷。たしかに四谷は見たんだよ。それは信じる。ただ、その斧はたぶんオモチャだ」
秀人は勇斗がここにいてくれたらと思った。しかし彼は外へ助けを呼びに行っていた。自分だけでなんとか対処するしかない。
「でなきゃ、僕はなんで殴られただけで済んでるんだ?」
秀人が問い返すと二人は黙り込んだ。
自分で推測を話しながら、秀人は落ち着いてくるのを感じた。
そうだ、やはり三村の自作自演なんだ。もし本物の斧を持った殺人者なら、あの場で殺されてもおかしくない。秀人が持ってきた立派な包丁だってベッドの上にあった。ただ、そこまでする必要がなかったのだ。警察に通報しそうだったから焦って殴っただけに違いない。
「大丈夫。これを仕掛けたのはきっと三村だ。そう思えば、たしかに異常ではあるけど……対処は出来る」
きっとそうだ。晶も一度は叫んだけれど、相手が真優だとわかって説得してるか、宥めてるところかもしれない。
秀人はその様子まで思い浮かべた。晶は自分と同じかそれより理知的な人間だと信じている。
「とにかくナイフを貸してくれ」
恵美里は不承不承という感じだったが果物ナイフを持ってきた。刃渡りが十センチ程度しかない。それでも人を殺傷するには十分な長さだ。もちろん秀人も使うつもりはなかったが。
「ねえ、三人で行くのは?」
恵美里が言った。
停電してからの恵美里は紗希よりもむしろ落ち着いて見えた。普段と完全に逆転している。意外と土壇場で人の性格は出るのかもしれないと秀人は思った。
だが、秀人は首を横に振って恵美里の申し出を断った。
「ダメだ。二人はそのまま鍵をかけて中にいて。僕か、晶か、あるいは勇斗が戻ってくるまで、ドアは絶対に開けないで」
「秀人……」
紗希が心配そうに自分を見つめていた。
それだけで秀人は勇気を奮い起こせた。
「じゃ、行ってくる」
これ以上引き留められないように秀人の側から部屋のドアを閉めた。
その場にいると出た勇気が再び引っ込んでしまいそうだったので、階段を上りはじめた。
「一ヶ屋? 大丈夫か?」
上へ向かって呼びかけるが、あいかわらず返事がない。
階段を上りきると床の血が目に入ったが、秀人は驚かなかった。
さきほど見たバスルームからの延長だ。ずっと引きずった痕が続いている。
そして異常だ。彼女はあきらかにおかしい。警察に突き出し、病院で治療してもらいたいレベルだ。
真優のことを考えると渋面になっていく。話が通じるだろうか。
血の痕は階段の正面にあるドアのところで途切れていた。というよりも部屋の中へ続いている感じだ。
ここは主寝室だ。ホテルのスイートルーム並みに広く、ベッドやソファもデザインは古いが高級そうだった。
両開きのドア。その片側に手をかけるとノブをゆっくり回した。
そのとたん
二つのドアが勢いよくこちらに開かれ、秀人は弾かれるように二、三歩後ろへよろけた。
ドスッ
何の音なのか、一瞬わからなかった。
だがすぐに腹の辺りが焼けるように熱くなる。
「え……っ?」
秀人は視線を下げ、腹部を見た。
ありえないものが胃の辺りから生えていた。包丁だ。
秀人が、客室に置いてきたはずの刃物だった。
たしか刃渡が二十センチはあった。それが半分以上、自分の体に刺さっている。
懐中電灯も果物ナイフも手から落ち、両手は腹に刺さった包丁の柄をつかむ。
「うぉっ、うぐうぉおおっっ」
握ったことで力が加わったからか、それとも刺されたことを自覚したからか、ようやく痛みを感じた。もちろん秀人にとって初めての痛みだった。例えようのない激痛である。
包丁を引き抜きたかったが、触るだけで痛くて無理だった。
膝に力が入らなくなり、前へ倒れそうになる。
その身体を誰かが支えた。
「うっ、うお……えぁっ?」
秀人の両腕を抱えるように支えた手は白手袋をはめていた。
顔を上げると――赤いローブをまとった人物だった。
全身が見えた。
頭から足の先まで包む、ゆったりしたサイズの赤と言うより真紅のローブ。顔は白いプラスチックの仮面を被っていた。頭に被ったフードで目元が影になっていて、口元しか見えなかった。
これが四谷が見たタキコなのか。それとも……
「み……むら……?」
秀人が切れ切れで問いかけると相手も顔を上げた。
笑っているように見えた。
たぶん仮面のデザインのせいだ。トランプのジョーカーに似た邪悪な笑顔だった。
ただ、穴の開いた目の部分から見えるのはあきらかに生きている人間の目だ。怨霊には見えなかった。だいいち霊が包丁で刺すはずがない。
「な……んで、こ、こんな……」
言葉を発するたび、腹に裂けるような痛みが走った。
そして目の前の殺人鬼の仮面の奥の目が――細められる。
その瞬間、秀人はわかってしまった。
相手が何をしようとしているのかを。
秀人の両腕をつかんでいた殺人鬼の手に力が入った。押されて秀人はさらに数歩、後退する。すぐ後ろは大階段だ。
自分は階段から突き落とされようとしている。
なんとか踏みとどまろうとしたが、腹の傷と相手の力の強さに負け、次の後退で階段を踏み外したのがわかった。
身体が大きく後ろへ傾き、両手が宙をかく。
殺人鬼は目の前にいた。なのに触れられそうで触れられない。
やけに全てがゆっくり見えた。
秀人はふと、これこそが以前どこかで読んだ「タキサイキア現象」なのだと思った。身体的危機に直面しているときに脳処理が追いつかず起こる誤作動のことだ。
たしかに命の危機だった。
三十三段ある階段の一番上から落ちようとしていた。
しかしそんな中でも秀人の右手の人差し指は、殺人者の仮面の顎の部分を爪先でひっかけた。落ちる勢いで上にあがった手が仮面を剥がし、さらには被っていたフードも一緒にめくれる。
その瞬間、秀人は殺人鬼の顔を見た。
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