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第二章 惨劇
一
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シダの茂みを越えてそれが姿を現した。
すでに庭まで足を踏み入れ、芝生を一歩ずつ踏みしめるようにこちらへ近づいてきている。
月明かりの下でそれは真紅のローブを身につけた人に見えた。
その者は頭からフードを被っており、ローブも足元まで覆う長いものだったため、髪型や服装から推察できる男か女かすらの判別もつかなかった。しかも唯一見えるはずの顔も白い仮面をつけている。
それらのことがわかる距離、つまり恵美里と相手との間は十メートルも離れていなかった。
長い袖から見える白い手袋をはめた右手には何かが握られている。
何なのか気づいた瞬間、恵美里の体が震えはじめた。
今、自分に何が起ころうとしているのか、わからないながらも体が先に反応したのだ。
何者かの白い顔は声もなく笑っていた。
耳まで裂けた大きな口と糸のように細めた目。
思い出した。これは仮面だ。
恵美里は椅子から下りた。
脚が震えて力が入らない。水の中を歩くようになかなか前に進まない。
別荘の入口までほんの二メートルもないのに。
座りこみそうになりながら一歩一歩前に踏み出す。
水をかくように両手を前に出し、身体を引っぱるようにして。
見てはいないが、彼女が背後に迫ってきているのはわかった。
恵美里の背中に向かって、右手の斧を振り上げる。見えないけれどわかる。
別荘内に踏み込んだ瞬間、あんなに重かった足が急に軽くなるのを感じて、そのまま倒れそうになった。
だが、何かにぶつかった。
「きゃあぁぁっっ‼︎」
「恵美里⁈ ど、どうした?」
勇斗が驚いた顔で抱きとめた彼女を見下ろしていた。
「あ、あ、は、はやし、林の中から、で、出てきたの。赤い、ローブを着てた。お、斧を持ってて。お、襲ってきて」
切れ切れだが、なんとか勇斗に伝えた。蒼白の顔色の恵美里を見た勇斗も緊張した表情に変わる。
「待ってて」
勇斗は恵美里からゆっくり離れると庭へ出る戸口から半分身体を出して辺りを見回した。
「……誰も、いないけど」
振り返って答える勇斗は少し疑うような目になっていた。
「晶もさっき林に何かいるって言ってたけど……おれのことからかってない?」
それには答えず、恵美里は戸口に立つ勇斗へ近づくと彼の背中越しに恐る恐る庭を覗き込む。
赤いローブの人物はいなくなっていた。
庭は恵美里が来た時と同じように静かだった。林の中も揺れるシダの葉以外、動くものはない。
「だって、たしかに見たの。たった今よ! 信じて!」
「わかった、ちょっと見てくる。林の中だよね?」
外へ出ようとした勇斗のTシャツの裾を恵美里はつかんだ。
「や、やめて。いいよ。本当にいたら危な――」
「オノタキコだったっけ?」
「やめて、ふざけないでよ!」
怯える恵美里に勇斗は「ごめん、ごめん」と微笑んだ。
「だいじょうぶだよ。何もいやしない。ちょっと確認してすぐ戻るから」
そう言うと外へ出て行った。
恵美里は戸口に立って見送った。その直後、
「恵美里、どうかした?」
晶が居間へ入ってきた。秀人も一緒だ。
「今、庭に――」
「きゃあぁっ‼︎」
恵美里の声を遮るように上階で叫び声が響きわたった。
三人が階段を駆け上がると廊下の左奥で紗希が座り込んでいた。
「紗希っ⁈ 紗希? どうしたの、大丈夫?」
恵美里が彼女の両肩に手をかけると細かな震えが伝わってきた。
一方、バスルームを覗く晶と秀人の表情が強張っている。ただならぬ様子に恵美里は息を飲んだ。
「紗希、いったい何が?」
再度問いかけて、ようやく紗希は恵美里と目を合わせた。
「あ、あの、な、中で……あと、そこ、み、見て」
紗希が震える指で指し示した床を見た。
赤い液体がこびりついている。何かを引きずったようにバスルームから長い筋が出来ていた。そして辺りにたちこめる、生臭い、鉄錆のような匂い。赤い色とその独特な匂いが導き出す答えは一つしかなかったが、恵美里は信じたくなかった。
晶が手で鼻と口を押さえながらバスルームの中へ入っていった。秀人も後へ続く。
「げっ!」
えづくような秀人の声が聞こえた。
恵美里は紗希から離れるとバスルームに向かう。
「入ってくるな、恵美里」
晶に止められたが、すでに足を踏み入れていた。
晶は浴室の入り口に立っていたが、その後ろにいる秀人は壁にもたれるようにして口を押さえていた。顔色は悪いが吐いてはいないようだ。
恵美里は晶の傍らから浴室を覗き込む。
つい一時間ほど前、真優と一緒に入っていた黒い御影石の浴槽が見えた。
透明なお湯が入っていたはずが今は真っ赤な液体で満たされていた。さらに何かを引きずり出したかのごとく、赤い筋状になった水の痕がバスルームの出口へ向かって延びている。
浴槽の赤い湯はまだ温かく、そのせいか血の独特の匂いを浴室中に充満させていて、恵美里は胸のむかつきを覚えた。
「と、とにかく、ここから出よう」
秀人が言い、晶と恵美里は一緒に廊下へ出た。秀人がバスルームのドアを閉める。
三人はすかさず深呼吸した。廊下にも血なまぐさい匂いはたちこめていたが、バスルームの中に比べればだいぶましだ。
「ね、ねえ。これ、何? 何なの?」
紗希は落ち着いてきたのか、立ち上がると三人に近づいてきた。足は床の血の痕を無意識に避けている。
「五十嵐、大丈夫か? どこか怪我してない?」
秀人が尋ねると紗希は首を横に振った。
「だ、大丈夫。私の血じゃない」
それは三人にもなんとなく最初からわかっていた。紗希はこの惨状を見て悲鳴をあげたのだ。
「私もお風呂に入ろうと思って。最初、この床の血は気づかなかった。バスルームに入ったら血のお風呂にびっくりして……廊下で転んで、そうしたら床も血だらけで……」
紗希はバスルームと床の血を指して話す。まだ顔色が青く額にも汗が滲んでいたが、口調は落ち着いてきている。ただ彼女のエメラルドグリーンのサマーセーターはきつく自らを抱きしめていたからなのか、襟が伸びて肩がのぞいていた。
「そ、そうだ。ま、真優。真優は……どこにいるの?」
恵美里は足に力が入らなくなって、その場にへたりこんだ。
「恵美里」
晶が屈みこみ、震える恵美里の背に手を当てる。
「さっきまで一緒に入ってたんだよ? 一緒に」
「真優はいなかったよ」
「でも、あの血‼︎ あれは一体誰の血なの?」
恵美里は晶にしがみついて尋ねた。まるで晶が答えを知っているかのように。
もちろん晶は答えられず、暗い目で恵美里の背をさすった。
「真優を探そうよ。ま――」
「しっ!」
真優の名前を大声で呼びかけようとした紗希の口を秀人が塞いだ。
「大声を出さない方がいいと思う。この血や……誰がどうしたのかはっきりするまでは」
紗希がうなづくと秀人は手を離した。
「たしかに、これは只事じゃないね」
秀人の言葉に晶もうなづく。
恵美里が何かを思い出したかのように目を見開いた。
「わ、私、見た! さっき、林から出てきたの!」
「しっ、四谷も静かにして。そういえば、五十嵐より前に四谷の叫び声が聞こえたけど……出てきたって、誰が?」
「…………」
秀人に問われ、恵美里は助けを求めるように晶を見た。
「勇斗も『晶が林の中に何かを見た』って言ってたよ。晶も見たの? 赤いローブを着た」
「いや、おれはそんなはっきりは見てなくて……てか、勇斗は?」
恵美里はハッとした。
「は、林を見に――」
「ねえ、どういうこと? 何を言ってるの? まさか、外から誰か入ってきたってこと?」
紗希は興奮してはいたが、皆に合わせて声量を落とすのを忘れなかった。
「かもしれない。真優に何かあった……とか?」
晶の声も動揺していた。恵美里の肩に回された彼の手からも緊張が伝わってくる。
恵美里は思い返した。少し前に彼女を襲った――赤いローブの人物。
「お、斧に血がついて……あれは、もしかして、あれは」
「四谷?」
「恵美里?」
「まさか――タキコ?」
恵美里が誰に問うでもなく溢した直後、突然、別荘の照明が落ちた。
すでに庭まで足を踏み入れ、芝生を一歩ずつ踏みしめるようにこちらへ近づいてきている。
月明かりの下でそれは真紅のローブを身につけた人に見えた。
その者は頭からフードを被っており、ローブも足元まで覆う長いものだったため、髪型や服装から推察できる男か女かすらの判別もつかなかった。しかも唯一見えるはずの顔も白い仮面をつけている。
それらのことがわかる距離、つまり恵美里と相手との間は十メートルも離れていなかった。
長い袖から見える白い手袋をはめた右手には何かが握られている。
何なのか気づいた瞬間、恵美里の体が震えはじめた。
今、自分に何が起ころうとしているのか、わからないながらも体が先に反応したのだ。
何者かの白い顔は声もなく笑っていた。
耳まで裂けた大きな口と糸のように細めた目。
思い出した。これは仮面だ。
恵美里は椅子から下りた。
脚が震えて力が入らない。水の中を歩くようになかなか前に進まない。
別荘の入口までほんの二メートルもないのに。
座りこみそうになりながら一歩一歩前に踏み出す。
水をかくように両手を前に出し、身体を引っぱるようにして。
見てはいないが、彼女が背後に迫ってきているのはわかった。
恵美里の背中に向かって、右手の斧を振り上げる。見えないけれどわかる。
別荘内に踏み込んだ瞬間、あんなに重かった足が急に軽くなるのを感じて、そのまま倒れそうになった。
だが、何かにぶつかった。
「きゃあぁぁっっ‼︎」
「恵美里⁈ ど、どうした?」
勇斗が驚いた顔で抱きとめた彼女を見下ろしていた。
「あ、あ、は、はやし、林の中から、で、出てきたの。赤い、ローブを着てた。お、斧を持ってて。お、襲ってきて」
切れ切れだが、なんとか勇斗に伝えた。蒼白の顔色の恵美里を見た勇斗も緊張した表情に変わる。
「待ってて」
勇斗は恵美里からゆっくり離れると庭へ出る戸口から半分身体を出して辺りを見回した。
「……誰も、いないけど」
振り返って答える勇斗は少し疑うような目になっていた。
「晶もさっき林に何かいるって言ってたけど……おれのことからかってない?」
それには答えず、恵美里は戸口に立つ勇斗へ近づくと彼の背中越しに恐る恐る庭を覗き込む。
赤いローブの人物はいなくなっていた。
庭は恵美里が来た時と同じように静かだった。林の中も揺れるシダの葉以外、動くものはない。
「だって、たしかに見たの。たった今よ! 信じて!」
「わかった、ちょっと見てくる。林の中だよね?」
外へ出ようとした勇斗のTシャツの裾を恵美里はつかんだ。
「や、やめて。いいよ。本当にいたら危な――」
「オノタキコだったっけ?」
「やめて、ふざけないでよ!」
怯える恵美里に勇斗は「ごめん、ごめん」と微笑んだ。
「だいじょうぶだよ。何もいやしない。ちょっと確認してすぐ戻るから」
そう言うと外へ出て行った。
恵美里は戸口に立って見送った。その直後、
「恵美里、どうかした?」
晶が居間へ入ってきた。秀人も一緒だ。
「今、庭に――」
「きゃあぁっ‼︎」
恵美里の声を遮るように上階で叫び声が響きわたった。
三人が階段を駆け上がると廊下の左奥で紗希が座り込んでいた。
「紗希っ⁈ 紗希? どうしたの、大丈夫?」
恵美里が彼女の両肩に手をかけると細かな震えが伝わってきた。
一方、バスルームを覗く晶と秀人の表情が強張っている。ただならぬ様子に恵美里は息を飲んだ。
「紗希、いったい何が?」
再度問いかけて、ようやく紗希は恵美里と目を合わせた。
「あ、あの、な、中で……あと、そこ、み、見て」
紗希が震える指で指し示した床を見た。
赤い液体がこびりついている。何かを引きずったようにバスルームから長い筋が出来ていた。そして辺りにたちこめる、生臭い、鉄錆のような匂い。赤い色とその独特な匂いが導き出す答えは一つしかなかったが、恵美里は信じたくなかった。
晶が手で鼻と口を押さえながらバスルームの中へ入っていった。秀人も後へ続く。
「げっ!」
えづくような秀人の声が聞こえた。
恵美里は紗希から離れるとバスルームに向かう。
「入ってくるな、恵美里」
晶に止められたが、すでに足を踏み入れていた。
晶は浴室の入り口に立っていたが、その後ろにいる秀人は壁にもたれるようにして口を押さえていた。顔色は悪いが吐いてはいないようだ。
恵美里は晶の傍らから浴室を覗き込む。
つい一時間ほど前、真優と一緒に入っていた黒い御影石の浴槽が見えた。
透明なお湯が入っていたはずが今は真っ赤な液体で満たされていた。さらに何かを引きずり出したかのごとく、赤い筋状になった水の痕がバスルームの出口へ向かって延びている。
浴槽の赤い湯はまだ温かく、そのせいか血の独特の匂いを浴室中に充満させていて、恵美里は胸のむかつきを覚えた。
「と、とにかく、ここから出よう」
秀人が言い、晶と恵美里は一緒に廊下へ出た。秀人がバスルームのドアを閉める。
三人はすかさず深呼吸した。廊下にも血なまぐさい匂いはたちこめていたが、バスルームの中に比べればだいぶましだ。
「ね、ねえ。これ、何? 何なの?」
紗希は落ち着いてきたのか、立ち上がると三人に近づいてきた。足は床の血の痕を無意識に避けている。
「五十嵐、大丈夫か? どこか怪我してない?」
秀人が尋ねると紗希は首を横に振った。
「だ、大丈夫。私の血じゃない」
それは三人にもなんとなく最初からわかっていた。紗希はこの惨状を見て悲鳴をあげたのだ。
「私もお風呂に入ろうと思って。最初、この床の血は気づかなかった。バスルームに入ったら血のお風呂にびっくりして……廊下で転んで、そうしたら床も血だらけで……」
紗希はバスルームと床の血を指して話す。まだ顔色が青く額にも汗が滲んでいたが、口調は落ち着いてきている。ただ彼女のエメラルドグリーンのサマーセーターはきつく自らを抱きしめていたからなのか、襟が伸びて肩がのぞいていた。
「そ、そうだ。ま、真優。真優は……どこにいるの?」
恵美里は足に力が入らなくなって、その場にへたりこんだ。
「恵美里」
晶が屈みこみ、震える恵美里の背に手を当てる。
「さっきまで一緒に入ってたんだよ? 一緒に」
「真優はいなかったよ」
「でも、あの血‼︎ あれは一体誰の血なの?」
恵美里は晶にしがみついて尋ねた。まるで晶が答えを知っているかのように。
もちろん晶は答えられず、暗い目で恵美里の背をさすった。
「真優を探そうよ。ま――」
「しっ!」
真優の名前を大声で呼びかけようとした紗希の口を秀人が塞いだ。
「大声を出さない方がいいと思う。この血や……誰がどうしたのかはっきりするまでは」
紗希がうなづくと秀人は手を離した。
「たしかに、これは只事じゃないね」
秀人の言葉に晶もうなづく。
恵美里が何かを思い出したかのように目を見開いた。
「わ、私、見た! さっき、林から出てきたの!」
「しっ、四谷も静かにして。そういえば、五十嵐より前に四谷の叫び声が聞こえたけど……出てきたって、誰が?」
「…………」
秀人に問われ、恵美里は助けを求めるように晶を見た。
「勇斗も『晶が林の中に何かを見た』って言ってたよ。晶も見たの? 赤いローブを着た」
「いや、おれはそんなはっきりは見てなくて……てか、勇斗は?」
恵美里はハッとした。
「は、林を見に――」
「ねえ、どういうこと? 何を言ってるの? まさか、外から誰か入ってきたってこと?」
紗希は興奮してはいたが、皆に合わせて声量を落とすのを忘れなかった。
「かもしれない。真優に何かあった……とか?」
晶の声も動揺していた。恵美里の肩に回された彼の手からも緊張が伝わってくる。
恵美里は思い返した。少し前に彼女を襲った――赤いローブの人物。
「お、斧に血がついて……あれは、もしかして、あれは」
「四谷?」
「恵美里?」
「まさか――タキコ?」
恵美里が誰に問うでもなく溢した直後、突然、別荘の照明が落ちた。
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