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第一章 恋愛

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 あの別荘へ行くことはわかっていた。
 私道を上り見えてきた別荘の変わらぬ佇まいに恵美里の記憶は一気に引き戻された。

 晶とは物心つかないうちから一緒だった。
 恵美里の父、恵介は当時静岡県にある自動車大手企業の工場に勤務していた。そこで母の有里子ゆりこと知り合い結婚、恵美里が生まれた年に社宅へ入居した。
 ほぼ同時期に晶の両親も転勤で入居してきた。晶と恵美里が同い年という共通点から、晶の母裕紀ゆきと有里子は親しくなり、いつしか家族ぐるみでの付き合いとなった。
 晶の父和之かずゆきは工場勤務ではなく、支社勤めだった。いまから思えばいずれは本社に戻るエリートだったのだろう。恵美里は細かくは覚えてないが、晶の家の生活水準が自分の家とは違うことを子供心に感じていた。ただ、和之と裕紀の人柄は気さくで優しかった。恵美里が覚えている彼らの印象に悪いものはなかった。そして二人の人当たりの良さを今の晶も受け継いでいると思う。
 たしか幼稚園の年少には毎年夏はこの別荘に招待されていた。
 恵介の話では幼少時は恵美里の方が活発だった。一方の晶は大人しく、同じような絵本を飽きもせず読んでいる子だったらしい。彼が相手をしてくれないので苛立ったのか、恵美里は度々意地悪をしたそうだ。林で捕まえた蝉を晶に投げつけたりもした。晶は「エミリちゃんなんか嫌いだ」と怒ったが、その数分後には庭で一緒に水鉄砲で遊んでいたという。幼かったからか恵美里は覚えていない。
 二人が小学校へ上がってからも別荘への招待は毎年変わらずあったが、一緒に遊ぶことは少なくなった。学校での晶は社交的で活発になり、友だちも多かった。よくいうクラスの人気者だった。だから恵美里が気後れしていたのもある。いつしか晶と話すと緊張するようになった。恵美里の友だちの何人かが晶を「かっこいい」とか「好き」などと言っていたからかもしれない。
 そんな子供時代が一変したのは小学五年の時だ。
 夏休み最後の週に有里子の誕生日があった。恵美里は有里子の似顔絵を恵介は財布をプレゼントとして用意していた。ところがパートに行ったはずの有里子はその日から家に戻ることはなかった。
 もちろん恵介は有里子を捜した。今から思えば警察だったのか、知らない男性が何度か家を訪ねてきたのを恵美里も覚えている。彼らは数ヶ月で来なくなった。大人の失踪は特に事件性を感じさせなければ警察は真剣に動いてくれないことを恵美里が知ったのはつい最近のことだ。
 そして追い討ちをかけるように夏休みが明けての二学期、晶が突然転校していた。何も言ってくれなかった、彼にとってはしょせんそれだけの存在だったことを突きつけられたようだった。ただ、当時は母親が失踪したことの方が大きく、十歳の恵美里には彼のことまで考える余裕もなかった。
 二ヵ月後に恵美里も転校した。恵介が会社を辞めたのだ。神奈川県にある恵介の実家へ転居し、しばらく祖父母の世話になった。中学入学と同時に恵介と今のマンションへ越してきた。以来、父と娘の二人暮らしだ。
 信じたくはなかったが、恵美里はだんだんと有里子が自ら家を出たのではと考えるようになった。恵介に有里子の行方を尋ねても辛そうに顔を背けるので、ここ数年は恵美里もそのことには触れないようにしている。

 晶と思わぬ再会を果たしたのは十五歳のときだ。
 恵美里は中学に入ってから毎年、有里子が失踪した日に住んでいた社宅を訪ねていた。もちろん彼女に会えるわけはないとわかっている。たんなる感傷的な儀式みたいなものだった。
 子供の頃は広大に見えた社宅も成長して見ると全部で三棟しかない団地のような建物だ。ベージュ色の集合住宅を見上げていると後ろから声をかけられた。
「――えっ、恵美里?」
 振り返った恵美里も驚いた。
 背が高く、声も低くなっていたが、顔に面影は残っていた。
「晶?」
 晶も信じられないという表情で恵美里の方へ歩み寄ってくる。
 誰も遊んでいない社宅前の小さな公園。そこの錆びついたブランコに並んで腰掛けると、晶は近くの自販機で買ってきた飲み物を恵美里に手渡した。
「この社宅、取り壊されるんだって」
 どうりで人けがないはずだった。植え込みの雑草も伸び放題で放っておかれているのがわかる。
 二人は今までのことを話した。晶が転校したのは父親の急な転勤が理由らしい。
「けど同時に母さんが入院してしまって、親父は単身赴任。おれは今、叔母さんの家にいるんだ」
 上手く言えないが、会ったときから晶に陰のようなものを感じていた恵美里は事情を聞いて納得した。
「そうだったんだ。紀和きわちゃんも一緒?」
 紀和は晶の四つ下の妹だ。晶はうなづく。
「おばさんのご病気……重いの?」
「……死んだんだ、今年の五月に」
 大きなため息とともに晶は答えた。長い睫毛が伏せる目は赤く染まり、それを恵美里から隠すように彼は俯いた。
「そっか……ごめんね、まだ慣れないよね」
 裕紀のことは恵美里もよく知っていたので、亡くなったと聞いてショックだった。そういえば記憶の中の彼女は細く、病弱な印象である。
 いきなり母親を失う悲しみはよくわかるので、恵美里は晶が落ち着くまで黙って隣にいた。
 しばらくして晶は顔を上げると、恵美里をまっすぐ見た。
 美形の晶に面と向かって見つめられた恵美里は急に恥ずかしくなり、視線をそらした。
「恵美里もおばさんがいなくなってたなんて……今も探しているんだよね?」
「ううん。お父さんはもう諦めたみたいだし……私も慣れた」
「そっか」
 ふたたび沈黙が流れたが、もう空気は重くなかった。
 約五年ぶりに会ったのに、幼なじみというのは不思議なものだ。むしろ離れ離れになる直前より、距離が縮まった気がする。
 ううん。勘違いだ、たぶん――恵美里は戒めるように軽く頭を振った。
「恵美里は今、どこで暮らしてるの?」
 立ったままブランコをこぎながら、晶が尋ねる。恵美里が答えると晶は驚いた。晶も隣の市に住んでいた。と言っても互いの家は数キロは離れていたのだが。
「なんだか運命みたいなものを感じるな。……母さんが引き合わせてくれたのかもね」
 “運命”なんて言葉をてらいなく言われ、恵美里の方が顔が紅潮してきて思わず両手で頬をおさえる。
「今日ここを訪ねたのは本当に偶然だったから。まさか恵美里とまた会えるとは思わなかったよ」
 かつて晶を意識していたのを思い出したのか、恵美里の心臓は再び高鳴り始めた。
「恵美里はどこの高校を受けるの?」
「高校……私の行けるところは月下高校かな」
「本当? おれもそこにしようかな」
「え? だって、晶はもっといい学校行けるでしょ?」
「そんなことないよ」
 他愛なく笑いながら話したが、そのあいだも恵美里の心臓はうるさかった。

 翌年の春、月下高校に無事進学したが、恵美里は晶の言葉をあまり本気にはしてなかった。大体あの日は連絡先すらやりとりせず別れたのだ。半年経つうちに、あの日のことは恵美里の中でいい思い出になっていた。
「よかった。恵美里も合格したんだね」
 だから入学式の後、声をかけられて恵美里は飛び上がるかと思うほど驚いた。晶が同じ制服姿でこちらへ駆けてきた。
 だが話すうちに恵美里は自分の思い上がりに気がついた。晶は中学の時は母親の看護で辞めていたバスケを再開したかっただけなのだ。月下高校バスケ部は地区では強豪校として有名だった。
「三年もブランクあるから、レギュラーになれるかわからないけどね」
 そんなことを言いながら晶は一年生であっさりレギュラー入りした。
 恵美里は小学生の頃と同じ距離を感じはじめた。晶は会えば声をかけてくれるが、高校でもやはり人気者だった。
 やがて彼は学年で同じく人気がある三村真優とつきあい始める。雑誌の読者モデルをやっていると噂される美少女は誰もが納得する相手だ。二人を見てあらためて受けたショックと胸の苦しさに、恵美里は自分の気持ちに気づいた。失恋を受け入れて消化するだけでもだいぶ時間がかかった。
 だから二年生で晶と同じクラスになった時には動揺したが、彼らはとうに別れていた。なぜか晶が何かと話しかけてくる気はしたが、恵美里はあくまで友人として接するよう努力した。変な期待をしてふたたび傷つくのが怖かったからだ。
 その年の夏休みもまた母の失踪日に社宅跡を訪れた。一年生の時は更地、二年生の今は大きなマンションが建っている。
 もう訪れるのはやめようと思ったとき、声をかけられた。
「今度は偶然じゃないよ。恵美里を待ってた」
 ただ見つめ返すことしか出来ない恵美里に晶はゆっくり近づいて言った。
「恵美里が好きなんだ。おれとつきあってほしい」
 そう言われた時から恵美里はずっと地に足がつかない感じで、二学期がはじまって晶が周囲につきあっていることを公言してからもしばらくその状態は続いた。少しずつ手をつなぐ回数が増えて、二人きりの時にキスをされて、ようやく恵美里は晶から好かれていることを受け入れることが出来たのだった。

「さてと、そろそろ夕飯を作ろうか。カレーでいいんだよね?」
 キッチンの冷蔵庫に買ってきた食材をしまいながら言う晶の声で、恵美里は現実に戻された。
 さっき晶は恵美里と幼なじみだったことを皆に話した。恵美里は隠していたつもりはなかったが、特に言うことでもないと思っていた。小学生までの話だし、晶が別荘での想い出に触れたことすら意外だった。
 正直言うと恵美里はこの別荘に来たくはなかった。思い出したくない記憶を嫌でも引き出されてしまう。
「晶は本当に恵美里が好きなんだね。ずっと見てる」
 ふいに紗希からそう耳打ちされ、恵美里は驚きのあまり肩が動いた。
「なにがあったか知らないけど、許してあげたら?」
 紗希の視線の先に晶がいた。彼もこちらを見ていたようで、目が合った。
「恵美里、料理得意だよね? みんなに役割分担してくれないかな? おれは掃除の方に回るから」
「あ、うん。わかった」
 ここ数カ月の恵美里は、あからさまに晶を避けていた。それでも彼はめげることなく話しかけてくる。
 恵美里はあれからずっと苦しかった。
 あのことさえ知らなかったら。
 晶はあのことを知ってもなお好きだと言ってくれたのに。
 なぜ自分も同じように応えられないのだろうか。
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