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30.因縁の終着③

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 指先が大地を掴む感覚を感じながら、メルは身を起こした。

 魔術師とティーラが驚きの表情でこちらを見ている。
 そして、後ろでは未だ、大きな騒ぎは起きていない。
 ならば、間に合ったのだ。

 そしてメルは、魔術師と姉にふたたび同じ言葉を掛けた。

「もう、止めましょう……?」

 魔術師は明らかに疲弊していた。自身の胸を掴み、脂汗を滴らせながらやっとで立っている。まだ魔術を使おうとするならば、命の保証はできないはずだ。

 それでも彼は、メルの後ろのラルドリスに向けた手を、下ろそうとはしなかった。

「これしか方法は……してやれることは、ないのだ! そこをどけ!」
「どきません!」

 先ほどの闇の中を思い出しながらも、メルは恐れに打ち勝とうと腕を広げた。

「あなたが、なによりも息子さんを大切に思うように……ラルドリス様を大切に思う人がいるんです! あなたの命だって、決して軽んじられるべきものじゃない! マリアさんがいたら、きっとあなたのことを止めたはずです!」

 メルの深緑の目が、魔術師を見据えた。
 それに反し、魔術師は、口元から血を垂らしながら叫んだ。目も血走り、顔に血管が浮く。
限界を迎えているのは明らかだ。

「人が大きな幸せを掴むためには、なにかしらが犠牲にならなければならないのだ! もっとも大切な者のために他を切り捨てて何が悪い!」
「そうまでしてザハールさんを想うなら……」

 その先をメルは口にすることが出来なかった。

 すべてを失い、地獄の苦しみを背負う覚悟で、たったひとりの望みを叶えたい……。それをこうした形でしか実現できなかった彼にしてやれることは、メルの側からはもうないのだ。

 だから、メルにできるのは、同じ覚悟をもって彼に相対することだけだった。

「ならば……私は譲りません! あなたが殺そうとする彼を、全力で守ります!」

「さっさとやりなさい魔術師! これまでのすべてが無駄になるわよ!」

 もう後ろではすべての人の投票が終わり、集計が始まっているようだ。
 痺れを切らすように厳しく告げたティーラの声に、魔術師は目を閉じると、疲れたように言った。

「我が生涯を贄とし、あの者の命を奪い尽くせ……」

 再度訪れた魔の手を防ぐ手立てはメルにはない。
 できたのは、ただ祈ることだけ。
 それでも、なにかが行えるという予感があった。

 それは今も、隣に温かい気配が感じられるから。
 たとえ、体は滅び、二度と触れ合うことができなくなったとしても。
 確かに祖母の存在はメルの側に残り続け、寄り添い励ましてくれているのだ。

(あの人を止めたいの……力を、貸してね)

 魔力の存在を知るメルの祈りは、魔術とは相反する性質を示した。 
 憎しみや敵対心に塗れた負の思念とは反対の、慈しみと友愛を内包する、正の思念。

 一度魔術師の術に直接触れたことでメルはそれらの操り方を理解し、また、広間に集まった人々の意識がラルドリスの演説によって切り替わったことも、正の思念の集合を大きく援けた。

 魔術師が放つ魔術が、白い光を纏うメルに触れた先から分解し、虚空へ戻ってゆく。

「なぜ! なぜだ、私にはこれしか償う方法はないというのに……!」
「誰かから、与えられるだけのもので……人は幸せにはなれますか!? 苦しみを乗り越えてでも、自分から誰かになにかを与えたことのない人が、してもらったことの価値を本当に理解することなんてできるでしょうか! そんなものよりも、あなた自身が彼を認め、心から信じて受け入れられる人に……なってあげて!」

 メルの心からの叫びが闇を貫くようにして、男へと突き抜けた。
 ……気付けば舞台袖の空間に居座っていた闇は姿を消し……ほのかな照明の光が戻っていた。魔術師がその場に崩れ落ちる。

 これでもう、ザハールが直接的な行動に出ない限りは、ラルドリスを害することのできる者はいないはず。

「はぁ、はぁ……」

 メルはどっと気が抜けて、その場に座り込んだ。

「……あ~ぁ、これで終わりね。うまくいかないものだわ」

 かすれた失笑と、嘆息がそっと漏れる。
 ティーラだ。彼女は地面に臥して動かない魔術師をつまらなそうに見やると、メルに瞳を向ける。

「正妃を陥れた時点で、九割がたこの計画の成功を予測したのだけど、まさか……過去の悪行がこのタイミングで足を引くなんて。神様って、本当にいるのかも知れないわね?」

 ティーラは肩を竦めて、力の抜けた笑みを見せた。

「さて、私はこうして負けたわけだけれど……メルローゼ、あなたは私をどうしたい? あなたには私を裁く権利があるわ」

 メルは生気を失くしたように佇むティーラを見て迷った。
 彼女に抵抗の意思はないようだ。その無気力さは、この短い時間のうちに、まるで大きく年をとってしまったかのようだった。

「私からはなにも……。罪を偽装したことを認め、ジェナ様を元の生活に戻してくだされば」
「そう。ならば、言う通りにするわ」

 真実を話すことを約束した彼女はその場に座り、誰かが来るのを待つようだ。
 久しぶりにマーティル家の姉妹は、ふたりきりで対面する。

「あの……もしかして国王様の体調不良も、あなたが?」
「残念ながら、そのことに私は関与していない。思えば王族との婚姻を結べれば、地位としては十分だった。欲をかき過ぎたのね」
「マーティル家の人たちは、どうしていますか?」
「さあね。家に送ったお金で好きなようにしているんでしょう。父も母も、優秀な子が欲しかっただけだから。あんなつまらない家、どうでもいい」

 それはとても静かな時間だった。ことが起こる前は、こんなに落ち着いた気持ちで再会した姉と話すことになろうとは、思いもしなかった。まるで姉が、遠くに旅行にでも行っていた妹の話を尋ねているかのような。

「私があなたの始末を命じた後、どうなったの?」
「森に打ち捨てられ、偶然魔女に救われた後はずっと彼女の下で……。私はそこで、初めて家族の温もりを知りました」
「きっと……その人はきっと、お金以外のものをあなたに与えてくれたのね」
「はい。自慢の祖母でした。少し前に亡くなりましたけど……彼女のことは、これからもずっと憶えています」
「……マーティル家に、あなたのことを伝える必要はなさそうね?」

 小首を傾げ、姉が聞いた言葉にメルは頷いた。

「はい……私にはもう、帰る場所がありますから」
「そう」

 さして興味が無さそうにティーラは苦笑すると、メルに言った。

「ごめんなさいは言わないわ。ひどい姉ではあったけれど、私は、私の人生に後悔していないから。だからあなたも、私や家を許す必要はない。なにが起きても、気に病むことはない」
「はい」

 それは淡々とした受け答えだったが、妙に息が合っていたような気がする。

「――メル……無事だったか!」

 そのすぐ後だった。舞台の方角から息せき切って来た青年が、立ち上がったメルの背中に抱き着いたのは。

「やった、やったぞ! 多くの人が俺の言葉を真剣に受け取ってくれた! この国のためにこれからたくさんやれることがあるんだ! こんなに……嬉しいことはないよ!」

 その様子を見れば分かる。彼は、多くの臣下の支持を得て、次期国王となることが決まったのだ。舞台奥では何か騒ぎが起きている。もしかするとザハールが往生際悪く文句を言い立てているのかもしれない。

「よく無事で……。魔術師を倒し、俺を守ってくれたのだな……お前を信じてよかった……」

 ラルドリスは感極まり、赤く潤んだ眼をこすると、戦いで乱れたメルの肩に顔を埋める。

「本当に仲がいいのね、あなたたち」

 ティーラがくすくすと笑う様子を見て、ラルドリスは不審そうに彼女に尋ねかけた。

「ティーラ・マーティル。毒殺を偽装し、我が母に罪を被せようとしたことを、認めるか?」
「ええ。それだけではなく、ザハール様と共謀し、あなたの命を狙う工作を図ったことを白状し、縛に付きましょう」
「わかった。お前への処分は法務と相談し下す。それまで神妙に控えて待つがよい」
「仰せの通りに」

 素直に頭を下げるティーラに諦めを感じたか、ラルドリスは頷くと、集まって来た騎士団の兵士たちに事情を説明する。大きなどよめきを発しながらも、兵士たちは彼女たちを拘束し、同時にザハールの大きな声がここまで響き渡って来る。

『なぜだ! なぜ……あのようなガキの戯言に耳を貸す! お前たち、わからないのか! この選択がこの国の岐路となってしまうのだぞ! 国家運営に夢想や情など不要だろう! おい、そこの貴様、貴様も、貴様もだっ! あれだけ袖の下を融通されておきながら……! っ……おいベルナール公爵、こいつらを城から追い出せ! 無礼なっ、触るな!』
『ザハール様、彼らひとりひとりを……この国を理解しようという気持ちに欠けていた、我々の負けです』
『殿下! 少し気分が昂られておるようですので……別室にてお休みいただきましょう……!』
『ふざけるな……私は認めんぞ! 私こそが国王の血を継ぐ正当な――……!』

 ザハールの声が遠くへと消えていく……。
 ティーラはそれを聞き届け目を伏せた後、上辺ばかりの関係をせせら笑うように顔を少しだけ歪めた。

「悲しいわね、なにも知らない道化の叫びは……」

 そして最後に。

「さようなら、ラルドリス殿下。それと、魔女メル・クロニア。あなたたちの勝利だわ、おめでとう」

 そんな言葉を残し、魔術師と共に、周りを固めた兵士に連れられていった。

(お姉様……)

 項垂れもせず、自分の足で牢へと胸を張って歩いてゆく姉の姿を、メルは複雑な思いで見送る。
 どうしてか……なんとなく姉と向き合うことは、二度とないような気がしたのだ――。

 こうして、次期王位を巡ってのアルクリフ王国の争いは、終わりを告げた。
 まだ山には雪の残る、年が明けてしばらくに起きた出来事であった。
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