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16.魔の再来襲①
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荒々しい蹄の音が、いくつも大地に響き渡った。
「あそこに見えるは第二王子、絶対に逃がすなっ! ザハール様の命だ、しくじると我々の命も危ういぞ!」
「オオッ!」
「不味いですね……」
「くっ……引き離せんか! やるぞっ!」
押し寄せる王国兵たちに、並走するふたりは足を止める。
乗っている馬の疲労も限界だ、このまま駆け続けさせてもどこかで潰れる。
そう判断したラルドリスたちは、武器を手に背から飛び降りた……。
――ラルドリスたちがルシェナの街を発って翌日。
予想以上の兵を動員しそこかしこに用意された検閲や王国兵の巡回に、ふたりは大いに苦しめられていた。
シーベルの機転と、街で仕入れた煙幕などの小道具のお陰で、都度なんとか追跡を振り切ってきたものの、しかしすべては躱し切れず……ついに彼らは捕捉され、追い詰められてしまったのだ。
馬を走らせながら抵抗し、ラルドリスの剣やシーベルの弓で何騎かを落としたものの……敵方との距離はどんどん狭められ、ついにふたりは戦うことでしかこの場を切り抜ける方法がなくなってしまう。
絶対的な窮地に汗を流す中、取り囲む王国兵たちの間から彼らを率いる小隊長と思しき人物が進み出てきた。
「ラルドリス殿下、それにフラーゲン卿……。あなたがたを城に戻らせるわけにはいきませんのでな。ご覚悟を!」
剣を構えるラルドリスを背に回し、シーベルは説得を始めた。
「待たれよ。ここで我々を始末しようと、ザハール王子の差し金だということはすぐに広まる。そうなれば殿下の配下はやすやすと彼に従わず、この国が乱れ多くの民が苦しむのだ。あなたもこの国を守る者のひとりだろう? ならばそれを防ぐためにも、どうかここは我々が王都に入るのを、黙って見逃してくれないか? もちろん、当家からも十分に礼はする」
ここで下手に出れば、弱気ととられかねない。シーベルはしっかりと小隊長を見据え、きっぱりとした口調で告げた。だが、それでも小隊長は、態度を翻さない。
「……くくく、有難いお言葉ですが、今や、このような状況に陥っているお二方がその約束を守れるとは思えませんな。正義や大義などよりも我々には目先の手柄が大事! 者ども、こやつらを討ち取れ! さすればザハール様のお力で爵位も恩賞も望むままだ!」
「「ウオオオオォッ!」」
説得は失敗し、兵士たちの殺気が目に見えて膨れ上がった。もはや、戦って切り抜ける以外の方法は残されていないようだ。ラルドリスが苦々しそうに呟く。
「痴れ者どもが……」
「やれやれ……この様子だと、軍部を掌握するのにも骨が折れそうですね。白兵戦はあまり得意ではないのだが。殿下、お背中をお守りします!」
「シーベル、簡単にやられるなよ!」
抜剣したラルドリスたちに、我先にと下級兵士が群がってゆく。
しかし、それを見るふたりの目は冷静だった。
背中合わせになると、突出した者から順に攻撃を打ち払い、一撃で仕留めていく。
「若造と侮ってもらっては困るな! こちとら幼い頃から自衛のために宮廷剣術を叩き込まれているんだ。身体を動かすのは苦手じゃない!」
「ふう、やれやれ。私の方は汗と血で服が汚れるのがなんとも苦手ですがね。殿下、御油断召されませぬよう」
「わかっているさ」
「……やりおる! 手練れだな……」
瞬く間に数人の兵士が倒れ、小隊長は歯噛みする。
「お前ら、慎重に取り囲め! 単独ではかかるな!」
そうは言うが、下級兵士は恩賞に目が眩んでいる。我先に飛びかかってはふたりの息の合った剣術に翻弄され、着実に数を減らしてゆく。
三十ほどもいた兵士たちが、半分ほどになり……小隊長はたまらず兵を引かせた。
「者ども、一旦下がれ……!」
「どうした、打つ手はもうないのか? ならば黙って囲いを解け! ここで引けば、貴様らの罪は問わん! 最後の忠告だぞ!」
「他ならぬ殿下がこうおっしゃっているのだ! 温情に感謝し、今すぐ道を開けよ! 無駄に罪を重ねるな!」
貴人たちの叱声に、退いた兵士の迷いが生じるのを見て、小隊長は悔しそうに懐からあるものを取り出した。
「せめて王族として尊厳ある死をと思ってやったが、仕方あるまい……。身に着けたもので持ち帰れば証としては十分よ! 闇の獣に骨まで食い散らかされるがよい! 『魔物よ、我が憎しみを標とし、仇の血肉を啜れ』!」
それは、獣の骨でできた歪な十字架のようなものだった……。男が口上を読み上げ、それを勢いよく宙に放り投げた途端、噴き出した黒い煙が小山のような獣を形作ってゆく。
「ゴオオオオオォォォッ!」
「……あれはっ! あの時の……」
空高く産声を発した黒い獅子のような獣に、ラルドリスが青ざめた。
まさしくそれは、メルと出会う前彼を窮地に陥れた魔物そのものだったのだ。
「さあ者ども、ラルドリスを逃がさぬよう包囲を続けろ! うまくいけば手柄が転がり込んでくるかもしれんぞ!」
小隊長は魔物とラルドリスを中心として、彼らを逃がさぬよう周りの兵士たちの配置を広げさせた。おこぼれに預かろうという兵士たちは、魔物に慄きながらも薄笑いを浮かべ、退路を遮る。
「……シーベル、なにか奴を倒せるような方法はあるか」
「いやはや、ここまでとは……」
こめかみから汗を伝わせたラルドリスの質問に、シーベルも目元を険しくしている。
何とか突破口を探そうと、彼はラルドリスに当時を思い返させた。
「我々を殺そうというのだし、実体はあるのでしょうが……先の戦いではどのような様子だったのです?」
「見た目通りの荒ぶりようだったぞ。そして、こちらも反撃したが、剣や槍、火矢などもたいして効いている様子はなかったな。まるで粘土でも切りつけているようだと誰かが言っていた。ただ……攻撃すれば一時的に身体の一部は削れていたように思う」
「そうですか。単に物量が足りなかっただけかもしれませんね……ならばっ!」
そこで前触れもなくシーベルの手が閃いた。彼は奇術師の如き手際で腰のポーチからマッチを取り出して擦ると、同時に握った丸い塊から伸びる紐を燃やし、一息に投げ放つ。
「――なんだっ!?」
「殿下、目を閉じて!」
「おいっ!」
次いでシーベルはラルドリスを地面に組み伏せると、その耳を両手で塞いだ。
黒い塊は放物線を描いて丁度魔物の頭上に達し、そして――。
――バッ……ゴオォォォンッ!!
「「うぎゃあぁぁぁっ!」」
(くうぅっ……)
一瞬空を白く染めるほどの爆発が起こった。
衝撃は兵士たちの体勢を大きく崩させ、ラルドリスもいきなりのことで、シーベルの指示に従うのが精一杯だった。
爆発の余韻が辺りを静寂に染める中……煙に咳き込むラルドリスは、なんとか体を起こす。
「ふう……お、怖ろしい兵器だったな、焦ったぞシーベル……。シーベル?」
瞼の上からも目を貫いた閃光にしばし視力を戻すのに時間がかかる。
その後ラルドリスは、倒れ込んだ状態で動かないシーベルを助け起こした。
「シーベルッ!? おい、大丈夫か!」
「……殿下、ご無事ですか」
「なんともない。それより、お前……」
弱々しく返事したシーベルの右耳からは鮮血が滴っている。もしかしたら、爆発の余波で鼓膜でも傷つけたのかもしれない。
「い、今のうちに……先に囲いを突破してください。私は、後から……」
「馬鹿かお前、早く立て! 肩を貸す!」
平衡感覚を一時的に失くしたのか、上手く立てないシーベルの腕を掴み、ラルドリスは強引に引っ張り上げた。
「ふざけるなよ! こんなところもしお前を失ったら、誰がこれからの厄介な政務を片付けてくれる! これから問題なんて山ほど出て来るんだっ……有能な臣下をこんなところで離脱させてたまるか!」
「……聞き分けの、ない人ですね」
シーベルはへらへらと笑いつつ、ラルドリスの肩を借り足を引きずる。
さすがに魔物も、あそこまで大規模な爆発が頭部の近くで起これば無事ではすむまい。
兵士たちの大半も倒れている。今なら、逃げ切れる……。
(――まさか)
――そこで異様な気配を感じ、ラルドリスは思わずシーベルごと体を前に投げ出していた。
その判断は正しかったようで……髪が風で揺らいだのに寒気を感じながらすぐに身を起こし、剣を構えながらも振り返ると、慄然とさせられる。
「く……そぉっ」
あの魔物が立っていた。
頭部が半壊した状態でありながら、なんの痛痒も見せずに黒い獣は油断なくラルドリスたちを見下ろしている。先ほど頭の上の空気を薙いだのは、その太い前脚であったのだ。しかも、欠けた部分はゆっくりと蠢き再生を始めていた。
「馬鹿な……あれだけの爆発で」
「で、んか……はやく、行きなさい! 私が足止めします!」
立ち上がったシーベルがラルドリスを強く後ろへ突き飛ばすと、剣を構え魔物に相対した。しかしその足はふらついており、とても戦えるようには見えない。
「シーベル、何を……」
「いい加減に立場を弁えなさい! あなたには、この国の未来が懸かっている!」
今まで聞いたことのないくらい厳しい声で、シーベルはラルドリスを叱る。
そして顔だけを彼の方に向けた。
「ジェナ様に――姉上に頼まれたからこうするのではありませんよ。私があなたを守ると決めたのは、権謀術数渦巻く宮廷にいながらも、悪意に染まらぬ純粋な心を持つあなたなら、きっとこの国を照らす唯一の光になれると信じているからです」
清々しい笑みを作ったシーベルは再び剣を構え、次は確実に彼らを仕留めるべく両目の再生を待つ獣と向かい合った。
「さあ……行くのです。そして姉上を救い、ザハール王子からこの国を、民の幸せを守ってください。それが、あなたの持つ責任なのですから」
「そんな、勝手なことを……っ」
ここまで言われても……ラルドリスは退くことができなかった。
シーベルは、ラルドリスにとって、数少ない全幅の信頼を置く配下というだけではなく、実は……彼の叔父にあたるのだ。
現国王ターロフを生んだ前王には、弟がいた。その人物は娘ジェナと、息子シーベルの二人の子を授かったが、ターロフが前王から王冠を受け継いだため、生涯玉座に付くことはなかった。その彼への配慮とし、ターロフは彼の娘であるジェナを、妃として迎えた――。
つまり、シーベルは、年は離れてこそいるものの現国王ターロフ王の従弟――王家の血を引いている。
そして、なによりも……ラルドリスが生まれて以来シーベルは、ずっと兄の様に優しく、面倒を見てくれた。自己主張が激しいザハールとは反対に孤立気味で、軽んじられやすかったラルドリスが宮中で不自由しないよう、様々なことを取り計らってくれた。飄々として笑いを絶やさない彼の姿は、いつも頼もしく傍にあった。そんな、兄も同然の彼を、ここで見捨てるなど……。
「できるわけがあるかっ!」
ラルドリスは葛藤を捨て走った――前へ。
その時にはもう、魔物の再生は終わる。
来るな、とシーベルの口が動き、丸太のような巨大な前脚が真上に振り被られる。
それらがずいぶんゆっくりと感じられ、必死に伸ばす自分の手も、遅々として進まない。
あらん限りの力を振り絞って足を動かす――。
(シーベル! 届いてくれっ……!)
しかし……。
無情な鉤爪は、それよりも早く……まるで死神の鎌の如く目の前を滑り落ちてゆく。
(誰か……っ!)
時間も、力も、人脈も、何一つとして足らない。
自分たち以外には誰もいないこの場だ。奇跡を願う以外にやれることはない――逃走し、命を繋ぐことしかできなかったあの時と同じ状況。
では、ここまでの乗り越えてきた旅路に価値は無かったのか……。
(いいや……そんなはずはない!)
そうではないはずと、否定する自分がいた。
確かに自分にたいした力はない。でも、ここに来るまでに多くの人と関わり、その想いを知った。多くの人と繋がることができた。ならば……目に変わらなくとも、その願いを背負って動こうとする今の自分はもう、かつて何事からも目を背けていた日陰者の王子ではないはずだ。そして今ここにいなくても、支えてくれる大切な人もできた。
「と……どけぇっ!」
ラルドリスは手に持っていた剣を振りかぶり、真っ直ぐに投げ放つ。
そして瞬き一つで終わる瞬間……必死に声を張り上げて叫ぶのは、神や聖母の名前でも、なんでもなく。
「……メルぅっ!」
ようやくできたたったひとりの友達。彼をここまで導いてくれた、誰よりも信のおける、小さな魔女の名。
なにかが視界の端を掠める。
影すら縮め、煌々とすべて照らす太陽の元で、こちらへ一直線に突っ込んで来るものがあった。
「『生命の基となりし大地よ……! 忌まわしきを貫く、破魔の槍となって飛べ――』!」
それは勢いのまま、跨っていた黒馬から飛び降りると、割り込むように魔獣とシーベルの間の地面へ転がり込み、唱えた。目の前で、ここにないはずの真っ黒いローブがはためいている。
ラルドリスの投げ放った剣は、空で彼女の放つ魔法の槍と合わさった。
そして光の尾を放ち、今まさに叩きつけられようとしている魔獣の手を貫いた。
「グオォォォ――ン!」
腕部が半ばから吹き飛び、魔獣は大きく体を仰け反らせて叫ぶ。しかしそれよりも……ラルドリスの視線は目の前のものを追っていた。
「あ・わ・わ……わうっ……!」
慌て声を出しながら勢いあまってくるくると転がる人物を、反射的にラルドリスは身体で止めてやる。そして目を白黒させる彼女に、かすれ声で当たり前のことを尋ねた。
「……メ、ル……? メルなのか?」
半信半疑で呼ぶその名に、改めて彼女は深緑の瞳を瞬かせる。
「たたた……すみませんでした。ラルドリス様……御無事、ですよね?」
「――――っ!」
その姿を見て、ラルドリスは湧き上がってきた感情を抑えきれなくなり。
「お前ってやつはっ……いつだって、俺の期待に答えてくれる!!」
「きゃぁっ!?」
誰にも憚ることなく、彼女の身体を力一杯抱きすくめた。
「あそこに見えるは第二王子、絶対に逃がすなっ! ザハール様の命だ、しくじると我々の命も危ういぞ!」
「オオッ!」
「不味いですね……」
「くっ……引き離せんか! やるぞっ!」
押し寄せる王国兵たちに、並走するふたりは足を止める。
乗っている馬の疲労も限界だ、このまま駆け続けさせてもどこかで潰れる。
そう判断したラルドリスたちは、武器を手に背から飛び降りた……。
――ラルドリスたちがルシェナの街を発って翌日。
予想以上の兵を動員しそこかしこに用意された検閲や王国兵の巡回に、ふたりは大いに苦しめられていた。
シーベルの機転と、街で仕入れた煙幕などの小道具のお陰で、都度なんとか追跡を振り切ってきたものの、しかしすべては躱し切れず……ついに彼らは捕捉され、追い詰められてしまったのだ。
馬を走らせながら抵抗し、ラルドリスの剣やシーベルの弓で何騎かを落としたものの……敵方との距離はどんどん狭められ、ついにふたりは戦うことでしかこの場を切り抜ける方法がなくなってしまう。
絶対的な窮地に汗を流す中、取り囲む王国兵たちの間から彼らを率いる小隊長と思しき人物が進み出てきた。
「ラルドリス殿下、それにフラーゲン卿……。あなたがたを城に戻らせるわけにはいきませんのでな。ご覚悟を!」
剣を構えるラルドリスを背に回し、シーベルは説得を始めた。
「待たれよ。ここで我々を始末しようと、ザハール王子の差し金だということはすぐに広まる。そうなれば殿下の配下はやすやすと彼に従わず、この国が乱れ多くの民が苦しむのだ。あなたもこの国を守る者のひとりだろう? ならばそれを防ぐためにも、どうかここは我々が王都に入るのを、黙って見逃してくれないか? もちろん、当家からも十分に礼はする」
ここで下手に出れば、弱気ととられかねない。シーベルはしっかりと小隊長を見据え、きっぱりとした口調で告げた。だが、それでも小隊長は、態度を翻さない。
「……くくく、有難いお言葉ですが、今や、このような状況に陥っているお二方がその約束を守れるとは思えませんな。正義や大義などよりも我々には目先の手柄が大事! 者ども、こやつらを討ち取れ! さすればザハール様のお力で爵位も恩賞も望むままだ!」
「「ウオオオオォッ!」」
説得は失敗し、兵士たちの殺気が目に見えて膨れ上がった。もはや、戦って切り抜ける以外の方法は残されていないようだ。ラルドリスが苦々しそうに呟く。
「痴れ者どもが……」
「やれやれ……この様子だと、軍部を掌握するのにも骨が折れそうですね。白兵戦はあまり得意ではないのだが。殿下、お背中をお守りします!」
「シーベル、簡単にやられるなよ!」
抜剣したラルドリスたちに、我先にと下級兵士が群がってゆく。
しかし、それを見るふたりの目は冷静だった。
背中合わせになると、突出した者から順に攻撃を打ち払い、一撃で仕留めていく。
「若造と侮ってもらっては困るな! こちとら幼い頃から自衛のために宮廷剣術を叩き込まれているんだ。身体を動かすのは苦手じゃない!」
「ふう、やれやれ。私の方は汗と血で服が汚れるのがなんとも苦手ですがね。殿下、御油断召されませぬよう」
「わかっているさ」
「……やりおる! 手練れだな……」
瞬く間に数人の兵士が倒れ、小隊長は歯噛みする。
「お前ら、慎重に取り囲め! 単独ではかかるな!」
そうは言うが、下級兵士は恩賞に目が眩んでいる。我先に飛びかかってはふたりの息の合った剣術に翻弄され、着実に数を減らしてゆく。
三十ほどもいた兵士たちが、半分ほどになり……小隊長はたまらず兵を引かせた。
「者ども、一旦下がれ……!」
「どうした、打つ手はもうないのか? ならば黙って囲いを解け! ここで引けば、貴様らの罪は問わん! 最後の忠告だぞ!」
「他ならぬ殿下がこうおっしゃっているのだ! 温情に感謝し、今すぐ道を開けよ! 無駄に罪を重ねるな!」
貴人たちの叱声に、退いた兵士の迷いが生じるのを見て、小隊長は悔しそうに懐からあるものを取り出した。
「せめて王族として尊厳ある死をと思ってやったが、仕方あるまい……。身に着けたもので持ち帰れば証としては十分よ! 闇の獣に骨まで食い散らかされるがよい! 『魔物よ、我が憎しみを標とし、仇の血肉を啜れ』!」
それは、獣の骨でできた歪な十字架のようなものだった……。男が口上を読み上げ、それを勢いよく宙に放り投げた途端、噴き出した黒い煙が小山のような獣を形作ってゆく。
「ゴオオオオオォォォッ!」
「……あれはっ! あの時の……」
空高く産声を発した黒い獅子のような獣に、ラルドリスが青ざめた。
まさしくそれは、メルと出会う前彼を窮地に陥れた魔物そのものだったのだ。
「さあ者ども、ラルドリスを逃がさぬよう包囲を続けろ! うまくいけば手柄が転がり込んでくるかもしれんぞ!」
小隊長は魔物とラルドリスを中心として、彼らを逃がさぬよう周りの兵士たちの配置を広げさせた。おこぼれに預かろうという兵士たちは、魔物に慄きながらも薄笑いを浮かべ、退路を遮る。
「……シーベル、なにか奴を倒せるような方法はあるか」
「いやはや、ここまでとは……」
こめかみから汗を伝わせたラルドリスの質問に、シーベルも目元を険しくしている。
何とか突破口を探そうと、彼はラルドリスに当時を思い返させた。
「我々を殺そうというのだし、実体はあるのでしょうが……先の戦いではどのような様子だったのです?」
「見た目通りの荒ぶりようだったぞ。そして、こちらも反撃したが、剣や槍、火矢などもたいして効いている様子はなかったな。まるで粘土でも切りつけているようだと誰かが言っていた。ただ……攻撃すれば一時的に身体の一部は削れていたように思う」
「そうですか。単に物量が足りなかっただけかもしれませんね……ならばっ!」
そこで前触れもなくシーベルの手が閃いた。彼は奇術師の如き手際で腰のポーチからマッチを取り出して擦ると、同時に握った丸い塊から伸びる紐を燃やし、一息に投げ放つ。
「――なんだっ!?」
「殿下、目を閉じて!」
「おいっ!」
次いでシーベルはラルドリスを地面に組み伏せると、その耳を両手で塞いだ。
黒い塊は放物線を描いて丁度魔物の頭上に達し、そして――。
――バッ……ゴオォォォンッ!!
「「うぎゃあぁぁぁっ!」」
(くうぅっ……)
一瞬空を白く染めるほどの爆発が起こった。
衝撃は兵士たちの体勢を大きく崩させ、ラルドリスもいきなりのことで、シーベルの指示に従うのが精一杯だった。
爆発の余韻が辺りを静寂に染める中……煙に咳き込むラルドリスは、なんとか体を起こす。
「ふう……お、怖ろしい兵器だったな、焦ったぞシーベル……。シーベル?」
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「シーベルッ!? おい、大丈夫か!」
「……殿下、ご無事ですか」
「なんともない。それより、お前……」
弱々しく返事したシーベルの右耳からは鮮血が滴っている。もしかしたら、爆発の余波で鼓膜でも傷つけたのかもしれない。
「い、今のうちに……先に囲いを突破してください。私は、後から……」
「馬鹿かお前、早く立て! 肩を貸す!」
平衡感覚を一時的に失くしたのか、上手く立てないシーベルの腕を掴み、ラルドリスは強引に引っ張り上げた。
「ふざけるなよ! こんなところもしお前を失ったら、誰がこれからの厄介な政務を片付けてくれる! これから問題なんて山ほど出て来るんだっ……有能な臣下をこんなところで離脱させてたまるか!」
「……聞き分けの、ない人ですね」
シーベルはへらへらと笑いつつ、ラルドリスの肩を借り足を引きずる。
さすがに魔物も、あそこまで大規模な爆発が頭部の近くで起これば無事ではすむまい。
兵士たちの大半も倒れている。今なら、逃げ切れる……。
(――まさか)
――そこで異様な気配を感じ、ラルドリスは思わずシーベルごと体を前に投げ出していた。
その判断は正しかったようで……髪が風で揺らいだのに寒気を感じながらすぐに身を起こし、剣を構えながらも振り返ると、慄然とさせられる。
「く……そぉっ」
あの魔物が立っていた。
頭部が半壊した状態でありながら、なんの痛痒も見せずに黒い獣は油断なくラルドリスたちを見下ろしている。先ほど頭の上の空気を薙いだのは、その太い前脚であったのだ。しかも、欠けた部分はゆっくりと蠢き再生を始めていた。
「馬鹿な……あれだけの爆発で」
「で、んか……はやく、行きなさい! 私が足止めします!」
立ち上がったシーベルがラルドリスを強く後ろへ突き飛ばすと、剣を構え魔物に相対した。しかしその足はふらついており、とても戦えるようには見えない。
「シーベル、何を……」
「いい加減に立場を弁えなさい! あなたには、この国の未来が懸かっている!」
今まで聞いたことのないくらい厳しい声で、シーベルはラルドリスを叱る。
そして顔だけを彼の方に向けた。
「ジェナ様に――姉上に頼まれたからこうするのではありませんよ。私があなたを守ると決めたのは、権謀術数渦巻く宮廷にいながらも、悪意に染まらぬ純粋な心を持つあなたなら、きっとこの国を照らす唯一の光になれると信じているからです」
清々しい笑みを作ったシーベルは再び剣を構え、次は確実に彼らを仕留めるべく両目の再生を待つ獣と向かい合った。
「さあ……行くのです。そして姉上を救い、ザハール王子からこの国を、民の幸せを守ってください。それが、あなたの持つ責任なのですから」
「そんな、勝手なことを……っ」
ここまで言われても……ラルドリスは退くことができなかった。
シーベルは、ラルドリスにとって、数少ない全幅の信頼を置く配下というだけではなく、実は……彼の叔父にあたるのだ。
現国王ターロフを生んだ前王には、弟がいた。その人物は娘ジェナと、息子シーベルの二人の子を授かったが、ターロフが前王から王冠を受け継いだため、生涯玉座に付くことはなかった。その彼への配慮とし、ターロフは彼の娘であるジェナを、妃として迎えた――。
つまり、シーベルは、年は離れてこそいるものの現国王ターロフ王の従弟――王家の血を引いている。
そして、なによりも……ラルドリスが生まれて以来シーベルは、ずっと兄の様に優しく、面倒を見てくれた。自己主張が激しいザハールとは反対に孤立気味で、軽んじられやすかったラルドリスが宮中で不自由しないよう、様々なことを取り計らってくれた。飄々として笑いを絶やさない彼の姿は、いつも頼もしく傍にあった。そんな、兄も同然の彼を、ここで見捨てるなど……。
「できるわけがあるかっ!」
ラルドリスは葛藤を捨て走った――前へ。
その時にはもう、魔物の再生は終わる。
来るな、とシーベルの口が動き、丸太のような巨大な前脚が真上に振り被られる。
それらがずいぶんゆっくりと感じられ、必死に伸ばす自分の手も、遅々として進まない。
あらん限りの力を振り絞って足を動かす――。
(シーベル! 届いてくれっ……!)
しかし……。
無情な鉤爪は、それよりも早く……まるで死神の鎌の如く目の前を滑り落ちてゆく。
(誰か……っ!)
時間も、力も、人脈も、何一つとして足らない。
自分たち以外には誰もいないこの場だ。奇跡を願う以外にやれることはない――逃走し、命を繋ぐことしかできなかったあの時と同じ状況。
では、ここまでの乗り越えてきた旅路に価値は無かったのか……。
(いいや……そんなはずはない!)
そうではないはずと、否定する自分がいた。
確かに自分にたいした力はない。でも、ここに来るまでに多くの人と関わり、その想いを知った。多くの人と繋がることができた。ならば……目に変わらなくとも、その願いを背負って動こうとする今の自分はもう、かつて何事からも目を背けていた日陰者の王子ではないはずだ。そして今ここにいなくても、支えてくれる大切な人もできた。
「と……どけぇっ!」
ラルドリスは手に持っていた剣を振りかぶり、真っ直ぐに投げ放つ。
そして瞬き一つで終わる瞬間……必死に声を張り上げて叫ぶのは、神や聖母の名前でも、なんでもなく。
「……メルぅっ!」
ようやくできたたったひとりの友達。彼をここまで導いてくれた、誰よりも信のおける、小さな魔女の名。
なにかが視界の端を掠める。
影すら縮め、煌々とすべて照らす太陽の元で、こちらへ一直線に突っ込んで来るものがあった。
「『生命の基となりし大地よ……! 忌まわしきを貫く、破魔の槍となって飛べ――』!」
それは勢いのまま、跨っていた黒馬から飛び降りると、割り込むように魔獣とシーベルの間の地面へ転がり込み、唱えた。目の前で、ここにないはずの真っ黒いローブがはためいている。
ラルドリスの投げ放った剣は、空で彼女の放つ魔法の槍と合わさった。
そして光の尾を放ち、今まさに叩きつけられようとしている魔獣の手を貫いた。
「グオォォォ――ン!」
腕部が半ばから吹き飛び、魔獣は大きく体を仰け反らせて叫ぶ。しかしそれよりも……ラルドリスの視線は目の前のものを追っていた。
「あ・わ・わ……わうっ……!」
慌て声を出しながら勢いあまってくるくると転がる人物を、反射的にラルドリスは身体で止めてやる。そして目を白黒させる彼女に、かすれ声で当たり前のことを尋ねた。
「……メ、ル……? メルなのか?」
半信半疑で呼ぶその名に、改めて彼女は深緑の瞳を瞬かせる。
「たたた……すみませんでした。ラルドリス様……御無事、ですよね?」
「――――っ!」
その姿を見て、ラルドリスは湧き上がってきた感情を抑えきれなくなり。
「お前ってやつはっ……いつだって、俺の期待に答えてくれる!!」
「きゃぁっ!?」
誰にも憚ることなく、彼女の身体を力一杯抱きすくめた。
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◆表紙はGilry Drop様からお借りした画像を加工して使用しています
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