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8.王国兵の追跡②
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あれから数時間、日暮れに向けて少しずつ太陽が下がり出した頃。
「おい、メル。そろそろ機嫌を治せ」
「…………」
不機嫌なままで顔を合わそうとしないメルに、ラルドリスがしつこく話しかけてくる。
怒りはまだ冷めやらないが、このままずっと気まずいまま旅を続けるのもなんである――そう観念した彼女は、ようやくラルドリスの方を向いた。自分の頬にまだ血が上っていないかが、少し気にかかった。
「駄目なんですよ、寝ている女性に抱き着いたりしたら……。お城でも他の人にあんなことを?」
「そこまで馬鹿じゃない。それに、城ではこんな不自由を感じることはなかった。今思えば、周りがずっと気を使ってくれていたのだろうな。さっきは本当に寒くて、ああするしかなかったんだ。許せ」
(この人は……)
今もラルドリスは寒そうに薄い毛布に包まっている。どうやら本当に悪気は無さそうだ。近づいて身だしなみを整えてやりながら、メルは王族と一般市民の意識の隔たりが広く深いことを今更ながらに認識した。彼はきっと、このまま街に放り出されても自分の力で暮らしてはいけないだろう。
そういえば、フラーゲン邸に行くまでの旅でも、たびたび彼は怪しい行動をとっていた。
店から金も払わず品物を持ちだそうとしたり、宿でも人の部屋に勝手に入ってきたり……彼にとっては、他人のものと自分のものの区別が非常にあいまいなのだろう。
(はあ。大きな子どもみたいなものかな……)
メルはそう自分を納得させることにした。だとしたら、彼には今のうちに色々なことを教えてあげた方がいいだろう。
「ラルドリス様、いいですか? これから外に出られる時、あなたは一個人としての意識をしっかりと持たれるべきです。いくら身分があっても、他の誰かの持ち物を勝手に奪ったり、その人の意思も確かめずなにかを強制することは、本来許されないことなのですよ?」
「そのようだな……どうやら、世間知らずという言葉は、俺のような者のためにあるらしい」
くどくどとお説教し始めたメルに、ラルドリスは意外に素直に非を認めた。
「城ではな、皆が俺にご自由になさいませという。どこにいこうと、なにをしようと咎められることはない。決められた時間に決められたことだけをこなせば後は自由で、話す人皆が同じ微笑みを浮かべている。なんだか誰と話しても、人形のようでつまらなかったよ」
彼は肩を竦めると自虐気味にくすりと笑う。
「母や、たまに来るシーベルだけが唯一俺の相手をまともにしてくれたが、次第に俺もそれが普通なのだと慣れてしまってな。こんな馬鹿の出来上がりさ。正直、どのような態度でいればいいか、まるでわからんのだ……」
「ラルドリス様……」
メルはその話を聞いて、城には彼を王子としてではなく、ラルドリス個人として見てくれる人物がほとんどいなかったのだと思わされた。
彼がシーベルの屋敷に移ってからそんなに時間は立っていないのだろう、外に出た時の振る舞いに悩んでいるのはわかった。せめて、彼が城に戻るまでの間は、周りにいる自分たちだけでも気を付けてやらないと。
だが、ラルドリスはふとこちらに顔を向け微笑む。
「でもな、やはり外は面白いよ。俺が王子だと分かって、お前みたいに叱ってくれるやつはこれまでいなかったんだぞ?」
「それは……出会い方が出会い方でしたし、外では普通のことです。いけないことをしたら、叱るんです」
その嬉しそうな顔を見ていると、少し恥ずかしくなって……メルは顰め面をして見せたが、それが逆にラルドリスの笑いを誘ったようで、彼は喉の奥をくつくつ鳴らした。
「なにがおかしいんです」
「いや、なんだろうなこの気持ちは……。愉快というか、お前と話していると……気分がいい」
「そ……それも、普通です。皆で昨日食事を作ったみたいに助け合って働いて、上手くいったりいかなかったりそんなことを身近な人と話して笑ったり、怒ったり、悩んだりして……」
「そうか……。俺も、そうだったらな――」
そこまで言って彼は首を振り、遠くを見た。
「これから城へ戻ろうという時に……。どうにもならんことだな、こればっかりは」
せっかく外での楽しみを知ったのに、彼はこれから、母親のために城に帰るのだ。
メルの口からはなんと言ってあげればいいのか、上手な慰めも出てこない。シーベルと話す時のように、自然体を晒せる人物は彼の側では稀なのだろう。仮にメルだって、事前にラルドリスが王子だと知っていたら、今の様に話せたかどうか。
それでも……。
「探せば……きっといますよ、お城にも、あなたの気持ちを汲んでくれる人が」
「あんなところにか?」
「皆きっと、ラルドリス様のことをちゃんと知らないだけなんですよ。怖がっているだけなんです。だから……これぞという人がいたら、あなたの方から近づいて、話しかけてみたらどうですか? 自分と仲良くしてくれないかと」
「それは、迷惑をかけることにならないか?」
城で働く人々と同様に、ラルドリスもまた恐れているのかもしれない。王子という立場の彼が関わりをもつことで、誰かの人生を変えてしまうことを。しかし兄に立ち向かい、元の場所に戻ると決めたのならば……彼はその生まれも立場もちゃんと受け入れ、自分の武器として使いこなしていかねばならない。
そうした時、彼が自分の考えを打ち明けられるほど信頼できる人が周りに一人でも多く居るように……メルとしてはそう願うばかりだ。彼が巨大な城の中で一人孤立し、その鮮やかな瞳を翳らせてゆくところなど、想像したくなかった。
「大丈夫です。きっと、あなたに興味を持って、お話したいと思っている人は、たくさんいますよ」
「どうしてそう思う」
「それは……」
自分だって、彼を見た瞬間に興味を抱いた。初めてその瞳を見た時の強烈な印象を未だに忘れられずにいるのだから――などと言えるはずもなく。
「勘、ですかね。魔女としての」
「……はははっ。なんだそれ」
つい思い付きで返したメルに、ラルドリスはというと膝を叩いて大きく口を開け、笑う。
そんなにおかしかったかなと思いながら、その明け透けな笑顔にメルも口元をほころばせる。ラルドリスは笑みを残した表情のまま、メルに尋ねた。
「お前、このことが終わったら、俺に仕えるか」
「え?」
突然のことで、意図かが分からず動揺し、聞き返そうとしたメルにラルドリスが答えようとした時だった……。
「ヂィッ!」
「チタ!?」
いつの間にかメルの肩につかまり、後ろを向いていたチタが鋭い声を発して後ろへ跳ぶ。
特に彼を刺激するようなことはしていないかったはずだが、どうやらその原因は別にあったようで、チタは素早く馬車内を走って後部座席に登り、出入り口に取り付けられた窓を覗いて毛を逆立てている。
「クルルッ! クルルルルッ!」
「どうしたの? 後ろでなにかあったの?」
しきりに警戒音を鳴らす彼に続きメルも窓の外を見ると、遠くにごくごく小さくだが、人――いや、騎乗する兵士たちの姿が見えた。
「ラルドリス様! あれはもしかして……」
「――っ! アルクリフ王国兵!!」
彼はすぐさまシーベルに大きな声で叫んだ。
「シーベル、後ろだ! すぐ後ろにいるッ! 速度を上げろ!」
「嫌な予感が当たりましたね……!」
ラルドリスと共にメルが御者台の方へ寄ると、彼は苦みばしった言葉を吐いて鞭を振るう。馬の速度が目に見えて上がるが、しかしこちらは馬車で、向こうは人を乗せているだけ。追いかけっこは断然向こうの方が有利だ。
「キ――ッ!」
「くそ、追いつかれるぞ! どうする?」
「殿下、こちらへ。馬を頼みます!」
「お、おい! くそっ、二頭立ては動かしたことが無いんだぞ――!」
そこからのシーベルの行動は迅速だった。ただちにラルドリスに手綱を押し付けると、後部の出入り口から外へ。そこは幌に包まれた荷台となっている。
着いてきたメルにもここまでくると、完全に追手の姿が見えた。王国の紋章が描かれた上衣を身に纏う、三人の兵士がそう遠くない場所に迫っており、剣が抜かれた。
「下がっていてください」
鋼のぎらつきにメルが喉を鳴らしていると、シーベルは声を掛けながら既に矢をつがえている。彼が手にしているのは、よく手入れされたトネリコの弓。
「同じ国の仲間に向けたくはありませんが、ラルドリス様の命を狙う不届き者には痛い目を見せてやりませんとね!」
膝立ちの美しい姿勢から、彼は後方の解放部から引き絞られた矢を放つ。
「うぐぁっ……」
鋭い音がした後悲鳴が上がり、急に先頭の一人が馬ごと体勢を崩して道に倒れ込む。見事どこかに命中したらしい。この調子なら……そう思ったメルだったが、次につがえられたシーベルの矢は放たれなかった。
「くっ……」
がくがくと、馬車が不安定に横揺れる。おそらく操るラルドリスが悪戦苦闘しているのだろう。そのせいか、足場が安定せず狙いが定まらない。
その間に兵士ふたりは剣を納めると、自分たちも背負っていた弓をとり、こちらへ向けて放ってくる。
――ドシュシュッ。
幸い旅の荷物が盾となりここまで届かなかったが、下手に荷物の影から姿を現せば訓練された兵士の矢に貫かれるだろう。牽制の矢が幾度も放たれ、その間にも、どんどん双方の距離は縮められていった。このままでは、乗り移られてしまう……!
(どうにかしないと……!)
手をこまねいているわけにもいかず、メルは荷台に置いていた鞄から、一枚の色鮮やかな緑の羽根を取り出した。これは祖母の家に会った貴重なものだし、あまり魔法を人に向けたくは無いけれど……こちらも命が懸かっている。
「メル殿、危ないですよ!?」
「『ケツァールの尾羽よ! 輝く風の記憶を、一時この場に顕したまえ』!」
シーベルの制止をふりきり、メルは一瞬の隙を突いて幌から顔を出すと、大きくその羽を掲げた。
「これは……魔法!?」
目を向いたシーベルの視線の先でそれはきらきらした光の粒子を放ち、一瞬後、後方へ強い旋風が巻き起こった。
「う、うわっぷ! 急に風がっ!?」
「ぐう、体勢を低くしろ! 馬にしがみ付けっ!」
風に巻き上げられそうになった兵士の足が止まる。じっとしているのがやっとの彼らを見て、そこでメルは叫んだ。
「シーベル様、今です! 矢を!」
「さすが魔女! ここで決めねば格好が付きませんな……やっ!」
シーベルは口元を引き結ぶと弓をつがえ、勢いよく二連射する。
「この風が……くおおぉぉっ!」
「ぐあぁぁぁぁっ!」
まるで、引き寄せられたかのように正確に飛んだ矢が、突風に抗い身を屈めた兵たちの騎馬を貫く。彼らは情けない声を上げながら落馬していき、同時にその風が馬車を後押しして、瞬く間に双方の距離が開く。
「ふぅ~っ……」
遠ざかる兵士たちの姿が完全に消えるのを確認してから、メルはその場にへたへたと腰を下ろす。そこへシーベルが手を差し出し、引っ張り上げてくれた。
「ご苦労様でした……まさか魔法で風を起こして見せるとは、驚きましたよ」
「お役に立ててなによりです」
彼とほっとした顔を見合わせていると、魔法を解除したメルの手から、羽が緑風となって空気に解けてゆく。本当に生きた心地がしなかった。だがこれでひとまずの危機は去った。
シーベルはラルドリスから手綱を受け取ろうと御者台へと戻り、メルもそれに続く。
追手が消えたことを察したラルドリスがこちらに明るい顔を向けてきた。
「お、上手く片付けたようだな。俺もようやく慣れてきたところだ」
「それはようございました。練習がてら、このまま道なりに進んでください。しかし……」
シーベルからは難しい表情が消えていない。
「困りましたねぇ。先ほど後ろの方から煙が上がるのが見えた。あれは目標を発見せりという知らせです。恐らくこの先でも、王国兵たちが捜索の網を広げ待ち受けていることでしょう」
「いっそ、馬車を捨てて、別の道を行くか?」
だが、その提案にシーベルは首を振る。
「それは無理です。この先は巨大な山脈によって分断されているのは殿下もご存知でしょう。カルチオラ山――そこを通る唯一の関所を抜けずに迂回しようとすれば、どうしても山越えをしなければならなくなる。越えるにも、迂回するにも一月ほどはかかりましょう。急ぎ母君を救おうというなら、どうにかしてこのまま関所を突破するしかないのですよ」
メルはこの大陸の地図を頭に思い浮かべた。ここより東で縦に伸びるカルチオラ山脈。その切れ目に継ぐように建てられたカルチオラの関は、古くからアルクリフ王国への侵攻を何度も防ぎ止めた要衝らしい。シーベルの話では、今は国土は広がったため、以前より警備は厳重ではないにしても、それなりの守りは備えているということだ。
「いやはや、参りましたね。こうまで早く追手がかかるとは。気づかれていない内に商隊などに紛れ込み、なんとかやり過ごす手筈だったのですが……辿り着く頃には厳しい検閲が布かれているでしょう。まあ、私がひとりで潜入しなんとか指揮官を説得してみます。うまく丸め込めばこちら側に寝返らせることも出来るかもしれませんしね」
シーベルはいつもの朗らかさを見せて言ったが、ふたりを残すということはそれなりの危険を想定しているということだろう。ラルドリスもそれを感じたようだ。
「待て、この先お前の存在は絶対に必要だ。もう少し知恵を絞ろう。なにか、俺たちの姿を隠せる方法を……。そうだ、変装するというのはどうだ?」
「ザハール様の行動が本気だということを考えると、重要な場所には王国から我々の姿をじかに見たことのある者が派遣されているでしょうね。生中なものではすぐにバレると考えた方がよろしい」
「くそっ……いっその事髪でも切って染めてやるか?」
そんなふたりの真剣なやり取りを聞く間、メルにある考えが閃く。
「あのっ! その関の突破、私に任せて貰えませんか!?」
「……なにか方法があるのですね?」
「聞かせてくれ!」
――それから五日後……。
メルの発案で一行は、カルチオラの関に真正面から挑むことになる。
「おい、メル。そろそろ機嫌を治せ」
「…………」
不機嫌なままで顔を合わそうとしないメルに、ラルドリスがしつこく話しかけてくる。
怒りはまだ冷めやらないが、このままずっと気まずいまま旅を続けるのもなんである――そう観念した彼女は、ようやくラルドリスの方を向いた。自分の頬にまだ血が上っていないかが、少し気にかかった。
「駄目なんですよ、寝ている女性に抱き着いたりしたら……。お城でも他の人にあんなことを?」
「そこまで馬鹿じゃない。それに、城ではこんな不自由を感じることはなかった。今思えば、周りがずっと気を使ってくれていたのだろうな。さっきは本当に寒くて、ああするしかなかったんだ。許せ」
(この人は……)
今もラルドリスは寒そうに薄い毛布に包まっている。どうやら本当に悪気は無さそうだ。近づいて身だしなみを整えてやりながら、メルは王族と一般市民の意識の隔たりが広く深いことを今更ながらに認識した。彼はきっと、このまま街に放り出されても自分の力で暮らしてはいけないだろう。
そういえば、フラーゲン邸に行くまでの旅でも、たびたび彼は怪しい行動をとっていた。
店から金も払わず品物を持ちだそうとしたり、宿でも人の部屋に勝手に入ってきたり……彼にとっては、他人のものと自分のものの区別が非常にあいまいなのだろう。
(はあ。大きな子どもみたいなものかな……)
メルはそう自分を納得させることにした。だとしたら、彼には今のうちに色々なことを教えてあげた方がいいだろう。
「ラルドリス様、いいですか? これから外に出られる時、あなたは一個人としての意識をしっかりと持たれるべきです。いくら身分があっても、他の誰かの持ち物を勝手に奪ったり、その人の意思も確かめずなにかを強制することは、本来許されないことなのですよ?」
「そのようだな……どうやら、世間知らずという言葉は、俺のような者のためにあるらしい」
くどくどとお説教し始めたメルに、ラルドリスは意外に素直に非を認めた。
「城ではな、皆が俺にご自由になさいませという。どこにいこうと、なにをしようと咎められることはない。決められた時間に決められたことだけをこなせば後は自由で、話す人皆が同じ微笑みを浮かべている。なんだか誰と話しても、人形のようでつまらなかったよ」
彼は肩を竦めると自虐気味にくすりと笑う。
「母や、たまに来るシーベルだけが唯一俺の相手をまともにしてくれたが、次第に俺もそれが普通なのだと慣れてしまってな。こんな馬鹿の出来上がりさ。正直、どのような態度でいればいいか、まるでわからんのだ……」
「ラルドリス様……」
メルはその話を聞いて、城には彼を王子としてではなく、ラルドリス個人として見てくれる人物がほとんどいなかったのだと思わされた。
彼がシーベルの屋敷に移ってからそんなに時間は立っていないのだろう、外に出た時の振る舞いに悩んでいるのはわかった。せめて、彼が城に戻るまでの間は、周りにいる自分たちだけでも気を付けてやらないと。
だが、ラルドリスはふとこちらに顔を向け微笑む。
「でもな、やはり外は面白いよ。俺が王子だと分かって、お前みたいに叱ってくれるやつはこれまでいなかったんだぞ?」
「それは……出会い方が出会い方でしたし、外では普通のことです。いけないことをしたら、叱るんです」
その嬉しそうな顔を見ていると、少し恥ずかしくなって……メルは顰め面をして見せたが、それが逆にラルドリスの笑いを誘ったようで、彼は喉の奥をくつくつ鳴らした。
「なにがおかしいんです」
「いや、なんだろうなこの気持ちは……。愉快というか、お前と話していると……気分がいい」
「そ……それも、普通です。皆で昨日食事を作ったみたいに助け合って働いて、上手くいったりいかなかったりそんなことを身近な人と話して笑ったり、怒ったり、悩んだりして……」
「そうか……。俺も、そうだったらな――」
そこまで言って彼は首を振り、遠くを見た。
「これから城へ戻ろうという時に……。どうにもならんことだな、こればっかりは」
せっかく外での楽しみを知ったのに、彼はこれから、母親のために城に帰るのだ。
メルの口からはなんと言ってあげればいいのか、上手な慰めも出てこない。シーベルと話す時のように、自然体を晒せる人物は彼の側では稀なのだろう。仮にメルだって、事前にラルドリスが王子だと知っていたら、今の様に話せたかどうか。
それでも……。
「探せば……きっといますよ、お城にも、あなたの気持ちを汲んでくれる人が」
「あんなところにか?」
「皆きっと、ラルドリス様のことをちゃんと知らないだけなんですよ。怖がっているだけなんです。だから……これぞという人がいたら、あなたの方から近づいて、話しかけてみたらどうですか? 自分と仲良くしてくれないかと」
「それは、迷惑をかけることにならないか?」
城で働く人々と同様に、ラルドリスもまた恐れているのかもしれない。王子という立場の彼が関わりをもつことで、誰かの人生を変えてしまうことを。しかし兄に立ち向かい、元の場所に戻ると決めたのならば……彼はその生まれも立場もちゃんと受け入れ、自分の武器として使いこなしていかねばならない。
そうした時、彼が自分の考えを打ち明けられるほど信頼できる人が周りに一人でも多く居るように……メルとしてはそう願うばかりだ。彼が巨大な城の中で一人孤立し、その鮮やかな瞳を翳らせてゆくところなど、想像したくなかった。
「大丈夫です。きっと、あなたに興味を持って、お話したいと思っている人は、たくさんいますよ」
「どうしてそう思う」
「それは……」
自分だって、彼を見た瞬間に興味を抱いた。初めてその瞳を見た時の強烈な印象を未だに忘れられずにいるのだから――などと言えるはずもなく。
「勘、ですかね。魔女としての」
「……はははっ。なんだそれ」
つい思い付きで返したメルに、ラルドリスはというと膝を叩いて大きく口を開け、笑う。
そんなにおかしかったかなと思いながら、その明け透けな笑顔にメルも口元をほころばせる。ラルドリスは笑みを残した表情のまま、メルに尋ねた。
「お前、このことが終わったら、俺に仕えるか」
「え?」
突然のことで、意図かが分からず動揺し、聞き返そうとしたメルにラルドリスが答えようとした時だった……。
「ヂィッ!」
「チタ!?」
いつの間にかメルの肩につかまり、後ろを向いていたチタが鋭い声を発して後ろへ跳ぶ。
特に彼を刺激するようなことはしていないかったはずだが、どうやらその原因は別にあったようで、チタは素早く馬車内を走って後部座席に登り、出入り口に取り付けられた窓を覗いて毛を逆立てている。
「クルルッ! クルルルルッ!」
「どうしたの? 後ろでなにかあったの?」
しきりに警戒音を鳴らす彼に続きメルも窓の外を見ると、遠くにごくごく小さくだが、人――いや、騎乗する兵士たちの姿が見えた。
「ラルドリス様! あれはもしかして……」
「――っ! アルクリフ王国兵!!」
彼はすぐさまシーベルに大きな声で叫んだ。
「シーベル、後ろだ! すぐ後ろにいるッ! 速度を上げろ!」
「嫌な予感が当たりましたね……!」
ラルドリスと共にメルが御者台の方へ寄ると、彼は苦みばしった言葉を吐いて鞭を振るう。馬の速度が目に見えて上がるが、しかしこちらは馬車で、向こうは人を乗せているだけ。追いかけっこは断然向こうの方が有利だ。
「キ――ッ!」
「くそ、追いつかれるぞ! どうする?」
「殿下、こちらへ。馬を頼みます!」
「お、おい! くそっ、二頭立ては動かしたことが無いんだぞ――!」
そこからのシーベルの行動は迅速だった。ただちにラルドリスに手綱を押し付けると、後部の出入り口から外へ。そこは幌に包まれた荷台となっている。
着いてきたメルにもここまでくると、完全に追手の姿が見えた。王国の紋章が描かれた上衣を身に纏う、三人の兵士がそう遠くない場所に迫っており、剣が抜かれた。
「下がっていてください」
鋼のぎらつきにメルが喉を鳴らしていると、シーベルは声を掛けながら既に矢をつがえている。彼が手にしているのは、よく手入れされたトネリコの弓。
「同じ国の仲間に向けたくはありませんが、ラルドリス様の命を狙う不届き者には痛い目を見せてやりませんとね!」
膝立ちの美しい姿勢から、彼は後方の解放部から引き絞られた矢を放つ。
「うぐぁっ……」
鋭い音がした後悲鳴が上がり、急に先頭の一人が馬ごと体勢を崩して道に倒れ込む。見事どこかに命中したらしい。この調子なら……そう思ったメルだったが、次につがえられたシーベルの矢は放たれなかった。
「くっ……」
がくがくと、馬車が不安定に横揺れる。おそらく操るラルドリスが悪戦苦闘しているのだろう。そのせいか、足場が安定せず狙いが定まらない。
その間に兵士ふたりは剣を納めると、自分たちも背負っていた弓をとり、こちらへ向けて放ってくる。
――ドシュシュッ。
幸い旅の荷物が盾となりここまで届かなかったが、下手に荷物の影から姿を現せば訓練された兵士の矢に貫かれるだろう。牽制の矢が幾度も放たれ、その間にも、どんどん双方の距離は縮められていった。このままでは、乗り移られてしまう……!
(どうにかしないと……!)
手をこまねいているわけにもいかず、メルは荷台に置いていた鞄から、一枚の色鮮やかな緑の羽根を取り出した。これは祖母の家に会った貴重なものだし、あまり魔法を人に向けたくは無いけれど……こちらも命が懸かっている。
「メル殿、危ないですよ!?」
「『ケツァールの尾羽よ! 輝く風の記憶を、一時この場に顕したまえ』!」
シーベルの制止をふりきり、メルは一瞬の隙を突いて幌から顔を出すと、大きくその羽を掲げた。
「これは……魔法!?」
目を向いたシーベルの視線の先でそれはきらきらした光の粒子を放ち、一瞬後、後方へ強い旋風が巻き起こった。
「う、うわっぷ! 急に風がっ!?」
「ぐう、体勢を低くしろ! 馬にしがみ付けっ!」
風に巻き上げられそうになった兵士の足が止まる。じっとしているのがやっとの彼らを見て、そこでメルは叫んだ。
「シーベル様、今です! 矢を!」
「さすが魔女! ここで決めねば格好が付きませんな……やっ!」
シーベルは口元を引き結ぶと弓をつがえ、勢いよく二連射する。
「この風が……くおおぉぉっ!」
「ぐあぁぁぁぁっ!」
まるで、引き寄せられたかのように正確に飛んだ矢が、突風に抗い身を屈めた兵たちの騎馬を貫く。彼らは情けない声を上げながら落馬していき、同時にその風が馬車を後押しして、瞬く間に双方の距離が開く。
「ふぅ~っ……」
遠ざかる兵士たちの姿が完全に消えるのを確認してから、メルはその場にへたへたと腰を下ろす。そこへシーベルが手を差し出し、引っ張り上げてくれた。
「ご苦労様でした……まさか魔法で風を起こして見せるとは、驚きましたよ」
「お役に立ててなによりです」
彼とほっとした顔を見合わせていると、魔法を解除したメルの手から、羽が緑風となって空気に解けてゆく。本当に生きた心地がしなかった。だがこれでひとまずの危機は去った。
シーベルはラルドリスから手綱を受け取ろうと御者台へと戻り、メルもそれに続く。
追手が消えたことを察したラルドリスがこちらに明るい顔を向けてきた。
「お、上手く片付けたようだな。俺もようやく慣れてきたところだ」
「それはようございました。練習がてら、このまま道なりに進んでください。しかし……」
シーベルからは難しい表情が消えていない。
「困りましたねぇ。先ほど後ろの方から煙が上がるのが見えた。あれは目標を発見せりという知らせです。恐らくこの先でも、王国兵たちが捜索の網を広げ待ち受けていることでしょう」
「いっそ、馬車を捨てて、別の道を行くか?」
だが、その提案にシーベルは首を振る。
「それは無理です。この先は巨大な山脈によって分断されているのは殿下もご存知でしょう。カルチオラ山――そこを通る唯一の関所を抜けずに迂回しようとすれば、どうしても山越えをしなければならなくなる。越えるにも、迂回するにも一月ほどはかかりましょう。急ぎ母君を救おうというなら、どうにかしてこのまま関所を突破するしかないのですよ」
メルはこの大陸の地図を頭に思い浮かべた。ここより東で縦に伸びるカルチオラ山脈。その切れ目に継ぐように建てられたカルチオラの関は、古くからアルクリフ王国への侵攻を何度も防ぎ止めた要衝らしい。シーベルの話では、今は国土は広がったため、以前より警備は厳重ではないにしても、それなりの守りは備えているということだ。
「いやはや、参りましたね。こうまで早く追手がかかるとは。気づかれていない内に商隊などに紛れ込み、なんとかやり過ごす手筈だったのですが……辿り着く頃には厳しい検閲が布かれているでしょう。まあ、私がひとりで潜入しなんとか指揮官を説得してみます。うまく丸め込めばこちら側に寝返らせることも出来るかもしれませんしね」
シーベルはいつもの朗らかさを見せて言ったが、ふたりを残すということはそれなりの危険を想定しているということだろう。ラルドリスもそれを感じたようだ。
「待て、この先お前の存在は絶対に必要だ。もう少し知恵を絞ろう。なにか、俺たちの姿を隠せる方法を……。そうだ、変装するというのはどうだ?」
「ザハール様の行動が本気だということを考えると、重要な場所には王国から我々の姿をじかに見たことのある者が派遣されているでしょうね。生中なものではすぐにバレると考えた方がよろしい」
「くそっ……いっその事髪でも切って染めてやるか?」
そんなふたりの真剣なやり取りを聞く間、メルにある考えが閃く。
「あのっ! その関の突破、私に任せて貰えませんか!?」
「……なにか方法があるのですね?」
「聞かせてくれ!」
――それから五日後……。
メルの発案で一行は、カルチオラの関に真正面から挑むことになる。
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それをやんわり注意すると、君は家族を大事にしないのか?冷たい女だな。と言われました。
そうですか…あなたの目にはそのように映るのですね…
分かりました。それでは私も義兄を優先する事にしますね!大事な家族なので!
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