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「はっ……はっ」
深夜、一人の若い青年が灼熱のような痛みに喘ぎながら、深い森を駆けていく。
一目で身分が高いと分かる洒脱な衣服や、闇の下でも鮮やかに浮かび上がるような美しい外見。彼は、時々なにかに追われるように後ろを振り向いては、怯えの表情を濃くする。右肩から腰にかけて切り裂かれた傷からは未だに血が滴り、衣服を濡らす。
「こんな、ところでっ……。ぐぁっ!」
馬が潰れるまで駆けたせいで追手は引き離したが、ここで倒れては本末転倒だ。
しかし視界はぐらつき、足が木の根をひっかけた。
青年はそのまま前方に身を投げ出すと、木の幹に強く身体をぶつける。
「ぐううっ……!」
背中も、胸も……全身が焼けるように熱い。
幹を背に、なんとか立ち上がろうとするが、体を起こしたところでわずかたりとも動けなくなった。疲労の限界と、血を流しすぎたのかもしれない。雪こそ降っていないものの、寒い季節だ。行動を止めると今度は身体が急激に冷たくなってきた。意識の消失と覚醒が繰り返される。
(あの城へ、帰らなければ、いけないのに……)
――救わなければいけない家族がいる。
青年はぐっと顔を上げ、空を見た。まだ月が浮いている。辺りは暗いが、もう数時間もすれば山間から太陽が顔を出すだろうという頃合い。彼はふと笑った。
(……どうして殺そうとするんだか、俺なんかを。そんな価値なんてないのに)
もって生まれた身分だけの……こんな非才な自らを呪うだけの人間。
それを周りはなにも知らずに持ち上げ、一方で邪魔だからと始末しようとする。馬鹿馬鹿しくて、仕方がない。
「俺のことなんて分かろうともしないくせに。ははは……あんたも、そう思わないか」
霞む目の前には、ぼんやりとなにか人影のようなものが映っていた。節くれだった杖を持ち、とんがり帽子を被るそのシルエットは、お伽噺などの表紙によく見かける……そう、魔女のような。
いよいよ朦朧としてきた頭が見せた幻なのかも知れないが、なんでもいい。誰かに愚痴でも言わないと、やっていられなかった。すると……もう輪郭以外があらかた姿を消した視界の中、幻は思いがけないことに青年に語りかけてきた。
『生きることに、苦しんでおるのだね……。だが、価値がないなんてそんなことはないさ。お前さんにも、大切にしてくれる家族はいるのだろう? それに、出会いを待つ人々だってたくさんいる……。少し眠っているといい。あの子を連れてくるから』
「あの子……? その人は、俺の……友達になってくれるだろうか。本当の俺を、見てくれるのかな」
『大丈夫さ。あの子は……メルは、失うことのつらさを知る、とても優しい子だから――』
誰かの手が頭を撫でてくれた気がした。
痛みが遠のいて眠気が急速に強くなり、青年は不思議と安らかな気持ちでまぶたを閉じる。さわさわと風が木の葉を通り抜ける音がそのまま子守歌となり、気配が遠ざかってゆく。夢のような出来事だった。だが夜が明け、隙間から射してきた木漏れ日に包まれていると、不思議とさっきの誰かの言葉を、信じてみようという気になって……。
青年は、穏やかに息を立て始めると……ゆっくりと眠りについた。
深夜、一人の若い青年が灼熱のような痛みに喘ぎながら、深い森を駆けていく。
一目で身分が高いと分かる洒脱な衣服や、闇の下でも鮮やかに浮かび上がるような美しい外見。彼は、時々なにかに追われるように後ろを振り向いては、怯えの表情を濃くする。右肩から腰にかけて切り裂かれた傷からは未だに血が滴り、衣服を濡らす。
「こんな、ところでっ……。ぐぁっ!」
馬が潰れるまで駆けたせいで追手は引き離したが、ここで倒れては本末転倒だ。
しかし視界はぐらつき、足が木の根をひっかけた。
青年はそのまま前方に身を投げ出すと、木の幹に強く身体をぶつける。
「ぐううっ……!」
背中も、胸も……全身が焼けるように熱い。
幹を背に、なんとか立ち上がろうとするが、体を起こしたところでわずかたりとも動けなくなった。疲労の限界と、血を流しすぎたのかもしれない。雪こそ降っていないものの、寒い季節だ。行動を止めると今度は身体が急激に冷たくなってきた。意識の消失と覚醒が繰り返される。
(あの城へ、帰らなければ、いけないのに……)
――救わなければいけない家族がいる。
青年はぐっと顔を上げ、空を見た。まだ月が浮いている。辺りは暗いが、もう数時間もすれば山間から太陽が顔を出すだろうという頃合い。彼はふと笑った。
(……どうして殺そうとするんだか、俺なんかを。そんな価値なんてないのに)
もって生まれた身分だけの……こんな非才な自らを呪うだけの人間。
それを周りはなにも知らずに持ち上げ、一方で邪魔だからと始末しようとする。馬鹿馬鹿しくて、仕方がない。
「俺のことなんて分かろうともしないくせに。ははは……あんたも、そう思わないか」
霞む目の前には、ぼんやりとなにか人影のようなものが映っていた。節くれだった杖を持ち、とんがり帽子を被るそのシルエットは、お伽噺などの表紙によく見かける……そう、魔女のような。
いよいよ朦朧としてきた頭が見せた幻なのかも知れないが、なんでもいい。誰かに愚痴でも言わないと、やっていられなかった。すると……もう輪郭以外があらかた姿を消した視界の中、幻は思いがけないことに青年に語りかけてきた。
『生きることに、苦しんでおるのだね……。だが、価値がないなんてそんなことはないさ。お前さんにも、大切にしてくれる家族はいるのだろう? それに、出会いを待つ人々だってたくさんいる……。少し眠っているといい。あの子を連れてくるから』
「あの子……? その人は、俺の……友達になってくれるだろうか。本当の俺を、見てくれるのかな」
『大丈夫さ。あの子は……メルは、失うことのつらさを知る、とても優しい子だから――』
誰かの手が頭を撫でてくれた気がした。
痛みが遠のいて眠気が急速に強くなり、青年は不思議と安らかな気持ちでまぶたを閉じる。さわさわと風が木の葉を通り抜ける音がそのまま子守歌となり、気配が遠ざかってゆく。夢のような出来事だった。だが夜が明け、隙間から射してきた木漏れ日に包まれていると、不思議とさっきの誰かの言葉を、信じてみようという気になって……。
青年は、穏やかに息を立て始めると……ゆっくりと眠りについた。
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