セダクティヴ・キス

百瀬圭井子

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3 凍窓(2)

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 賑やかなパーティー会場とは壁一枚を隔て、扉の向こうは静かな空間だった。
 照明は点いていたが、壁などに装飾の類はなく、この時間、人気もなかった。
 表示は目にしていないが、従業員専用の通路なのかもしれない。
 誰かがやってくればなにか言われるかもしれないと、彼は数メートル先に見えた行き止まりの非常口のドアまで足早に歩み寄った。
 重い扉の先は役所のように素っ気ないリノリウムの内階段で───おそらくは非常通路だろう───空気はヒヤリと冷たかった。
 何気なく見回すと、半階下の踊り場にある縦長の滑り出し窓がわずかに開いていた。
 見つかれば誰かに咎められるかもしれないが……。
 今は一人きり。祐介は鈍い足音を立てて踊り場に降りた。
 名のあるホテルの巨大な建物の中で、彼は思いがけず外の───師走の、日が暮れたばかりの空気に触れた。
 その時だった。
 カツン、と背後から音がした。
 咄嗟に振り返ると、航がしなやかな足取りで階段を降りてくるところだった。
 そのまま彼に駆け寄り、いきなり唇を寄せる。
「!───」
 驚いて身を引いた祐介の頭が冷え切った窓の隙間に当たった。
 自分よりも高いところにある頭を引き寄せ、航は深く相手の唇を割った。
 こんな人気のない───けれど誰がいつ通ってもおかしくない───場所で陥った思いがけない状況に、祐介は混乱───……いや、錯覚しかけた。
「……っ……!」
 相手の両の二の腕を強く掴み、乱暴にならぬよう体を引きはがす。
 すると、息遣いが伝わる間近な距離で、航は真剣な───祐介が初めて目にするような───冴えた瞳で彼を見つめてきた。
「全然、嫌がってないじゃん」
「?───」
 今のキスのことかと考えて───次に、最初に会ったときのキスが脳裏に浮かんだ。

 深海の底のような夜の店。普段耳にしない音楽が流れる中、心もなく激しく交わした口づけは───…。

 祐介は片手を放し、無意識に手の甲で唇を拭った。
 ───止むに止まれぬ理由があったからだ。
 それとも、嫌悪で身を強張らせていればよかったのだろうか。
「……好きだよ……」
 ハスキーな声が耳元で囁かれた。
「!───」
 航が自由になった片腕で、祐介の襟を掴んだ。
 眼差しがぶつかる。吸い込まれそうな漆黒の闇。
 この瞳が向けられれば、大抵のことは───生身の人間相手ならば───叶うのかもしれない。
 反射的に祐介はそれを傲慢だと感じた。
 彼は沈黙を保ったまま、わずかに力を抜くと体を窓に預けた。
 スーツ越しの背中に冷気が染みた。
 再び航が口を開いた。
「───この半年間、ずっと考えてた」
 真剣な瞳、低い声。
「なんで忘れらんないのか。ただの……思い込みのような気もして。あんたには二度しか会ったことがないのに」
「………」
「……なんとか言ったら?」
 航が焦れたような声を出した。
 ───とんだ愁嘆場だ。
 祐介は頭のどこかで考えていた。
 誰かに聞かれたら、と……。
「……なにを?」
「───」
「自分でも言ってるじゃないか。他人の思い込みにどうつき合えっていうんだ」
 教師のように説得力のある落ち着いた声音が硬く響いた。
 予期した冷たさに、それでも航は表情を強張らせた。
「……オレにキスできるくせに……」
 大きな瞳はうっすらと潤んでさえいた。
 感情の発露というより生理的なものかもしれない。
 彼はどこまでいっても女性ではない。
 祐介同様壮健な心身を持つ、端正な容姿の青年。
 おそらく、力一杯抱き締めても壊れることはなく……。
「ああ……」
 その瞬間、祐介は悟った。
「……そうだな。おまえと寝たら楽しいだろうな」
「!」
 航の目が大きく見開かれた。
 自分から仕掛けたことなど忘れたかのような無防備な表情だ。
「───だけどオレは年下の男を恋人にする気はない」
「!……」
『ああ見えて、あいつはキッツイぜー。なんていうのかな、『氷点下』の部分があるんだよ。さすがにそこまでは滅多に他人に見せないけどな』
 航の脳裏に、いつかの会話の最中、不意に口を滑らせた久の言葉が甦った。
 …その通りだ───…
 人を歓喜させたあと、容赦なく───きっと悪意すらなく───叩き落とす。
 これがそうなのかと実感しつつ、航は相手を睨みつけた。
「世間体を気にするタイプには見えないけど」
「まさか」
 祐介はこんな会話をしている真っ最中だというのに生真面目そうに首を横に振った。
「こっちは客商売だ。世間にどう見られるかは気にするよ」
「あんたは───」
「───それに来年あたり、結婚することになると思う」
「! そんな話……っ!」
「あやも久も知らない」
 航にとって腹の立つことに、祐介の表情は一貫して忠実だった。
 この男はとんでもなく朴念仁なのか、あるいはとことんタチが悪いのか……。
 わからない……───今はまだ。
 それでも航は自分が強く彼に惹きつけられていることをはっきりと自覚した。
 この半年間出なかった答えも、本人を目の前にすれば明らかだ。
 しかし……。
 …傷つきたい、なんて悪趣味は、とっくの昔に卒業したはずなのに───…
 航は自嘲した。
 制御できない自分。
 理由は簡単だ。
 恋に落ちたから。
「……あんたに結婚決めた女がいるなんて知らなかったよ」
 航は吐息を感じる距離から一歩後ずさり、乾いた声で言った。
「そんな女はいない」
 憎らしいくらい落ち着いた口調だった。
「見合いをするかもしれない。決まれば、いわゆる政略結婚だな」
「冗談だろ」
「オレの父親が───あやの父親がどんな人間か、もう知ってんだろ?」
「……有名な政治家だって……」
「そう。オレには兄がいて、今は秘書だ。後継者ってやつだな」
「だったら……」
「……そう」
  彼はわずかに視線を落とした。
「───オレは好きなように生きてきた。そしてこれからも好きなことをして生きていく。だけど───いや、だからこそ協力できるところは協力する。ずっとそのつもりだった」
「それが結婚?」
「ああ」
「……あんた、正気か?」
「もちろん正気だ。おまえに理解できなくてもな」
「できるか! 信じらんねー……今時、それも政治家継ぐ予定もないのに、“政略結婚”? 端っから愛のない結婚をする気か?」
 あまりにも真っ当な台詞に、祐介は思わず口の端を上げた。
「なんだよ?」
「ずいぶん世慣れた風に見えていたけど……やっぱりおまえも年相応にまっすぐなんだな」
 持ち上げているのか、落としているのか。
 航は首を振った。
「愛のない結婚なんて、トラブルの元になるだけだろ。───“大人”はすぐに忘れるみたいだけど」
「───」
 一体どんなバックグラウンドがあればそんな発言が出てくるのか。やはり一筋縄ではいかないと、祐介は半ば感心した。
「大体、なんであんたがそこまで……“協力”しなくちゃなんないんだよ?」
「さあな。まあ、そういう家に生まれたから」
「───」
「そしてそういう家を出て、ある部分オレだけ解放されて……。オレなりに家族への負い目を減らしたいんだ」
 他人には初めて話す内容だ。それがサラリと口からついて出たことに祐介自身が驚いていた。
「───負い目っていうのも変だと思うけど。あるとしたら、あやちゃんにだけだろ」
「………」
 やはり航はもう知っていた。
 あやは祐介の異母妹で、彼女の母親は祐介の父親の、いわゆる“妾”“二号さん”というものだった。
 だが、彼らの関係は、あやの生まれる前に終わっていた。
「───いや、そうでもない。父親はなぜかオレに甘くて……。後継者として厳しく育てた兄よりも、子どもは作らない約束だったと言って、結局、認知すらしなかったあやよりもな」
「……それが負い目……?」
「ほかに言葉が見つからない」
「そんなの、あんたの……っ!」
 せいじゃない、と繋がる言葉は祐介が遮った。
「───だからといって割り切れるもんでもないだろ、家族の間題は。……これでも割り切った方なんだ。オレが一番わがままなんだ。一番どうでもいい結婚だけを犠牲にするんだから」
 航は呆然とした表情で首を振った。
「信じらんねー……。愛してもいない───どころか、自分の意志ですらない結婚を、そんな当たり前に……」
「言ったろ、理解しなくてもいい」
 航はキッと祐介を睨みつけた。
「あんた、冷たい男だな」
「好きなように」
「!」
 シュッと動いた平手を、祐介は目の端で捉えた。
 殴られても良かったな───と思ったのは、咄嗟にその腕を掴んでしまってからだ。
「このっ……!」
 ほかにどうしようもなくて、彼はもがく相手をその腕ごと引き寄せ、自分と入れ替わるように壁に押しつけた。
「祐───…!」
 優しくしたい───と思ったのは真実なのに、噛みつくような口づけになってしまった。
「……っ……」
 性急に相手の舌を探し出し、強く絡ませ合う。
 咄嗟に応じながらも、航は、体の自由を奪われたせいで反射的に湧き上がる反発を自らの意思で抑えつけた。

 最初の時の方がよほど甘いと思えるようなキスが、頭の中を焼き尽くしていき───…。
 応えているのか、逃げ出したいのか。
 そんなことすらわからなくて……。

「───!」
 祐介から乱暴に引き離されたとき、航はぼやける視界の中、それでも見つめ合っているのは認識した。
『なんで……?』
 結局、声にならなかった───しなかったのは、息が上がっていたせいと、無意味な問いかけだと知っていたせい……。
「───」
 航が手の甲を口元まで持っていった時、祐介は無言で彼から離れ、階段を上がっていった。
 たまらず壁に寄りかかった航は、去って行く背をただ見つめていた。
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