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4「逢瀬」
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何度抱いても冷たい体………。
合わせた肌から伝わる頑なな心。
不快、羞恥はもちろん、生み出される快感を理性が強情に抑えつけているため、きっとそれすらも苦痛に変換されてしまっているのだろう。
それでも───見ることすら叶わなかった五年間に比べ、ある部分確実に満たされた。───と同時に、ある部分ぽっかりと大きくて深い穴が空いた。
会わないままだったらそのままだったかもしれない距離が、今となっては開くばかりで………。
週に一度くらいの割合で会った。
約束していてもすっぽかされる、あるいは嫌々なのがあからさまな一、二時間の遅刻に閉口して、昼間会社に電話をかけ、終業近くの六時頃会社まで迎えに行った。
するとさすがに嫌がられ、近くの喫茶店を指定された。
そこから連れ立ってマンション近くのレストランで夕食を取り、六階の一番奥の部屋に行く。
それが八時くらい。
そして早くて十一時前───遅くても十二時前───にはどんなに疲労の色を濃くしていようと、関は葎の引き留める声にも耳を貸さず帰っていった。
シャワーは必ず浴びていく。
それはお世辞にもこの部屋に気を許し、寛いだからではなく、ほんの少しの痕跡すら消して家に帰りたいと思っているからなのだろう。
そんなことを………数えればもう二カ月くらい繰り返している。
何もかも分かっていながら、葎は、自身にも苦痛になりつつあるこの時間を自分から止めることはできなかった。
関が、己が彼に飽きることを密かに宿望しているのが察せられるから、尚更、自分の方からは止められない───というのもあった。
積もっていく苛立ちは、ベッドの中での行為が、相手に対してだけでなく、自分に対しても手荒なものになっていくということで発散され、二人の関係はますます殺伐としたものになっていった。
これをまさに悪循環というのだろう。
…バカじゃねーの───…
いっそ関の単純さが恨めしくなる。
簡単に飽きてしまう、諦められるくらいの恋心なら、十三のあの時、あんな真似などしなかった。
誰も愛せない、良心と未練に苛まれた五年間を過ごしたりはしない。
なにより目を逸らしてしまえば見ずに済むはずだった自分の罪を───苦しそうな目で見返してくる相手を───抱き締めたりはしない。
───いっそ毎日でも会っていたい。
それを堪えて堪えて………必死で自分を押し止めて七日を数える自分の気持ちを、自分がどんな想いで彼の肌を感じているかを、関は想像すらしていないに違いない。───彼の立場からすれば当然だろうが。
多分、終わりにするべきなんだろう。
理性では分かる。
無理に肌を重ねたりはせず、たまに会ってくれるだけでいい、としおらしい態度でも取れば、彼との溝は決して狭まることはなくても───少なくとも、今のスピードで広まっていくことは避けられるのだろう。
もちろん、関の本心は自分に会うことすら嫌だろうが。
だったら、いっそ彼が死ぬほど自分を拒んでくれれば………。
………死ぬほど嫌がっているくせに───。
彼が自分の相手をしている動機は、ただひたすら自身の家に───子どもに、葎を関わらせたくない、という思いから来ている。
関は未だに自宅の住所はもちろん、電話番号も葎には教えない。
そんなもの、とっくに彼の会社の女性社員一人籠絡して聞き出してしまっていたが。
家まで押しかければ───彼の子どもに会えば、彼は激怒し、自分を拒むだろうか? 自分もまた彼を思い切ることができるだろうか?
できなくても、彼のため(と自分に言い聞かせて)、今の不毛な時間を終わりにすることはできるのだろうか………。
結局、いい加減焦れてきているだけなのかもしれない。
始まらない、終わらない、二人の関係に。
彼の消息が知れなかった頃よりずっとマシだと理性が感情を無理矢理納得させていても………。
梅雨の季節が近いのか、やけに湿度の高い夜。
『どなた?』
インターフォン越しのくぐもった声。それさえ葎が二人きりの空間で聞く、いつもの押し殺した短い言葉よりリラックスしていた。
「───オレ」
『!』
ハッと息を飲む音。
「───開けて」
『………』
機械が壊れたかと思うくらいの無音。
「───開けて。ヘンなこと言わねーからさ」
ダークレッドの冷たいドアに手をつき、額を伏せる。この瞬間、ドアが開いたら本気で彼を諦めていいと思った。
しかし、
『………家には来ないって約束のはずだ………』
ようやく返ってきたのは、重い、冷たい言葉。
「んじゃ、ここで叫ぼっか? ドア叩いてさ、入れてくれーって、騒いじゃおっかな。近所の人、さすがに出てくるんじゃない? 子ども、いんだろ? なにかと思うんじゃん?」
きっと憎らしく思うに違いない、馬鹿にしたような軽い口調。
案の定、返事はなかった。
ドンドンドン!
葎がドアを叩くと、ファミリータイプのマンションの廊下に鈍い音が響き渡った。
「関くん! 関くん!」
ドンドンドン! ドンドンドン!
───カチャ、カチャカチャ。
音がして、一瞬息を詰めると、次の瞬間、ドアが開いた。
待ちわびた開放。
今まで二人が会ったことのない日曜の夜の関は、ゆったりと襟割りの大きい黒のセーターにジーンズ、夜とはいえそのまま近くのコンビニに行けるくらいの格好だった。
ともあれ、普段は───再会の時以来───無難なスーツしか見たことのない葎にとっては新鮮な、ラフさが目につく、関のもうひとつの姿だった。
「関くん………」
さすがに怒られるだろうと葎は反射的に首を辣めたが、何も起こらず、ゆるゆると視線を上げると間近に彼はいなかった。
「?」
咄嵯に中を覗くと、関は玄関の、敷居を上がったところに戻っていた。
「………」
葎は無言で、初めて関のマンションの中に足を踏み入れた。
バタンと背後でドアが閉まる。
靴を脱いでその先に進んでいいものか───。
迷う葎に構わず、関は何も言わずにパタパタと廊下の先を歩いていってしまった。
それは招き入れたことを黙認したのか、あるいは、何をどう止めても無駄だと諦めた無言の仕草なのか………。
葎は関を追って家に上がり、居間が広がる廊下との境目で彼に追いついた。
「!───」
相手の肘を取り、振り向かそうとしたところで視界の隅に入ったものに注意を奪われる。
居間の壁にはダンボール箱が積み上げられていた。
中央には開いたままのがいくつか。
明らかに荷造り途中と分かる、散乱した室内の様子。
「なに………?」
腕を取ったまま葎は関を見上げた。
「───」
相変わらず関は答えず、黙って葎の手を振り払った。
「なんの用だよ? ここには来ないって約束だろ」
「約束………? じゃあこれはなんだよ?」
葎は段ボールを指さした。
「………」
「開けてるとこ、じゃないだろ? 荷物詰めてる途中じゃん。………引っ越すんだ」
「転勤だ」
「どこに?」
「………」
「いつから? オレには言わないつもりだったんだ。………当たり前か、知らないうちにいなくなっちゃうつもりだったんだな。五年前みたいに」
「違う」
「どこがっ!」
「だから転勤だって言ったろ? もうずいぶん前から決まってたんだ。おまえとは関係ない」
「いなくなっちゃうから………それまでだと思って我慢してたんだ? オレとのこと」
ピクンと関が反応したのを葎は見逃さなかった。
「なんだ………。あんた、オレがあんたに飽きんの待ってんのかと思ってたけど、そんな気ィ長くなかったってわけだ。あんたの方が先にいなくなっちゃうつもりだったんだから───」
「やめろよ」
「───いっつもそれだね」
葎は関を睨みつけた。
「やめろ───そればっかで顔逸らして、いっつもそれで済むと思ってんだから、あんたホントに気楽だよ」
「オレがか?」
珍しく関がムッとしたように葎を睨み返した。が、葎だって負けてはいない。
「そうだよ。逃げてればそれで済むと思ってんだ」
「オレが………気楽だって、逃げてるって?」
「そうじゃん」
「オレがなにも考えてない、悩んでないとでも思ってんのかよ?」
「じゃあなに考えてんだよ、言ってみろよ!」
「───」
「それじゃん」
押し黙った関を葎はせせら笑った。もうそんな表情は見飽きている。
「そうやって、肝心なトコにくると黙って、なにも言わないで………。なんでだか今日、これ見てやっと分かったけどね」
と言って、辺りを見渡しながら、葎は思い出した。
「ねえ………子どもは? あの子、あかねちゃん」
葎は、関が決して彼には告げたことのない名前を口にした。
「いないの? いるよねぇ。奥?」
今にも探し出しそうな葎に、
「いないって、ホントだ」
語気を強めて関は止めた。
「どこ行ってんの? こんな時間」
行き先が知りたくて聞いたわけではなかったが、関は意外なことを口にした。
「───知り合いの家に預けてる。二週間前、出張の時に預けたんだ」
「………ああ、アメリカ行ってたっていう………。? まだ帰ってこないの?」
「そのまま預けるつもりだ。あちらの───大人に上手く懐いたようだし。前に連れていった時、向こうの生活に馴染めなくて辛い思いをさせたから、今度は日本に残すつもりで」
「………」
決して多くはない言葉に、関の親としての愛惜の念が滲んでいた。
おそらく自分の感情を抑えて、彼は子どもにとって一番いい環境というものを選んだのだろう。
親といえど───なかなかそれをできる人間は少ない。
「転勤ってどこ?」
「サンフランシスコ」
「どのくらい?」
一瞬躊躇った相手を見て、葎は悪い予感を覚えた。
「………決まってない。現地会社の立ち上げに参加するから」
「───!」
目を背ける関を、葎は一瞬、マジマジと見つめた。
それからおもむろに、パシッ! と平手で相手の頬を叩いた。
反動でわずかによろめいたものの、彼は視線を落としたまま声も上げなかった。
「………なんで………!」
葎は思わずそんな相手の胸を叩いていた。
「なんで、いつもただ逃げるだけなんだよ!」
激情に我を忘れた。
「せめて───オレが嫌いなら嫌いだって納得させるくらいの言葉とか態度とかっ、少しは努力したらどうなんだよ!!」
「葎………」
「なんで………言わないんだよっ、あのこと!」
「葎!」
「オレがしたこと詰ればいいじゃん、恨めばいいじゃん。なんでなんも言わないでいなくなったんだよっ。あんたはいっつもそれだ! いい加減───オレ、あんたにとことん迷惑かけるまでつきまとってやろうかっ!?」
「葎!───馬鹿なことを………」
「一生つきまとえば───あんた、諦めてオレのものになるのかな………?」
叩いていた拳を止め、その胸に顔を伏せる。
優しい言葉はもちろん、声すらかけられないと思っていたのに、降ってきたのは思いもよらない───再会以来、今までで一番長い言葉だった。
「………こんな男のどこがいいんだよ? 十歳も年上で、男で………。五年前より年取ったろ、オレ。おっさんじゃん。おまえなら可愛くて性格のいい女の子、いくらでもいるだろうに。若いんだし、将来だっていくらでも可能性が………」
「………」
あまりにありきたりな言葉にまともに答える気にもなれず、葎は関の襟ぐりを握り締めたまま顔を上げた。
「バッカじゃねーの」
「───」
「あんたが好きなんだよ。八年前、初めて会った時からずっと。今までずっと変わらなかったのに───あんたにあんなことして、好かれる可能性ゼロだって分かってるけど………ダメなんだ。こんな気持ち、なくなった方が楽だって………その方があんたのためにもなるって分かっててもやめらんない。もう自分でもどうしたらいいのか、分かんないよ」
語尾はわずかに乱れたが、涙は堪えた。
「───葎」
「好きなんだよ………」
そう言って、目を合わせたまま首を伸ばした。
ほんの少し顔を背けた関は、しかし彼を引き剥がしはしなかったので、葎はそっと相手の口の端に唇を触れさせた。
子どものような───他愛ないキス。
軽く触れただけで離れると、葎はそのまま自分より大きい、自分より薄い体を抱き締めた。
このまま───何度か過ごした夜のように抱き合ってしまおうか、とも思う。
それはそれで何か………かなり投げやりな何かが満たされるには違いない。
それでもっと大きな穴が空こうとも───。
それでも葎は、この時は不思議とそうはせず、自分から腕を解いた。
読み解き切れない、不可思議な表情で関が自分を見つめている。
そういえば彼はいつもそうだ。
怒りも詰りもせず、無視するようなあからさまな無表情でも苦い顔でもなく、どこか………悲しい、何かを耐えるような眼差しで自分を見、それから何かを守るように顔を背ける。
いつも。
何を守っているんだろう。何を耐えているんだろう………。
───謎が多すぎる。
彼は何一つ語らない。
どうしたらその堅い口を開いてくれるのか………。
「出発は………いつ………?」
「来月の末頃………」
「………ふうん………」
葎はゆっくりと彼から離れた。
無意識に室内を見回すと、日常の雑然さとは異なる散らかりようの中、壁に寄せられたローチェストだけがまだ手つかずで、葎は関の視線を感じながら、そちらに歩み寄った。
木調の天板に直に置かれた二つのフォトスタンド───少しでもインテリアに興味のある人がいたら、レースくらいは敷かれていただろう───の中で笑う、幼い女の子。
赤ちゃんの頃、三、四歳の頃。
どちらも写っているのは女の子だけで、写真の中には父親も母親もはいなかった。
「?………」
普通、家族写真を並べるだろうに、と葎は少し不審に感じた。
「ねぇ………。この子のお母さん、どうしてんの? 別れたの? 今はもう付き合いないの? それとも亡くなった………?」
「………生きてるよ」
「ふうん………」
ここまで母親の影がないことに、葎はもしかしたらと他意なく思っていたのだが、それは違ったらしい。
「まあ今時、父親のところで育てられるのも珍しくないらしいけど………。知り合いって母親のところ?」
先ほど、関は「知り合いの家に預けている」と言っていた。他人行儀な言い方だが葎を警戒してのことなら分からなくもない。
「葎、あの子のことは………」
「へぇ、お母さんのところじゃないんだ」
葎は関が誤魔化そうとした答えを正確に嗅ぎ当ててみせた。
「なに? よっぽど離婚の時揉めたんだ」
「………結婚、はしてないよ………」
葎は振り返り、複雑な表情で床に視線を落としている関を見た。
「今でも好きなんだ?」
「………どうかな………」
煮えきらない言い方。
その時はいろいろ悩んでも長くは引きずらなさそうな関にしては珍しい態度だった───あるいはらしいのか。
「やり直せないの?」
葎の言葉に関はハッと顔を上げた。
咄嵯にどんな顔で葎が言ったのか見たいと思ってしまったようだ。
だが葎は表情を崩さず関を見返していた。
「葎───」
「帰るよ」
何か言いかけた関を葎は遮った。
「───今日は。でもまた来る」
「葎」
「だってあかねちゃん、いないんでしょ? じゃいいじゃん」
「葎、オレは………」
「来月末、でしょ。………それまででいいよ。いくらオレだってアメリカまでは追ってけないし」
「………」
あと一か月と少し。
───その時が来たら、自分は果たして別れに耐えられるのだろうか? どんな辛い思いをして彼と別れるんだろう? と葎は、漠然とした疑問を抱きながら関から視線を外した。
もう彼を責める気にはなれない。もちろんそんな権利など最初からなかったが。
「───じゃ」
と言って近づく。
「?」
無防備に不思議そうな顔をした相手に葎は小さく微笑んだ。
「!───」
両手を伸ばして無造作に抱き締めると、もう条件反射のように相手は身を強張らせた。
顔を上げ、相手の項も引き寄せて深いキスを………。
「っ………」
終わらせると、いつもすぐに離れていってしまう相手が動かなかった。
「?」
不思議に思った葎が改めて間近にある顔を見直そうとすると、関はそれを避けようとして顔を背けたが、そのまま葎の肩口に額を落とした。───触れはしなかったが。
動かない。だから動けない。
葎はじっとそのままでいた。
………やがて、
「もう───やめてくれ」
くぐもった声がした。
関の口元は葎の服には触れていない。だから、その声音が濁るのは………。
「………関くん?」
「もう………ダメだ」
「泣い───」
思わず口にしてしまいそうになった葎を、関は自分から抱き締めることによって遮った。
「!」
決して強くはないけれど、初めて関の意志によって、彼の腕が自分の体に回っている………。
葎は言葉にならないほど驚いた。
なぜ───とか、どう感じる───以前に思考が止まった。
そして………。
「───おまえのこと………嫌いじゃない。どんなことをされても………。───五年前のことも………恨んじゃいない、怒ってない」
その言葉は、あとでどんなに思い返そうとしても、葎には関がどんな声でどんな口調で言っていたのか、思い出せなかった。
「ウソ───んなことあるはずが」
「ホントだ」
「ウソだよ!」
耐えきれなくなった葎は関を自分から引き剥がした。
赤かったが潤んではいなかったその瞳。それを見られまいと後ずさるのを両手で両腕を掴んで無理矢理止めた。
「オレがなにしたか覚えてんだろ!」
「やめろ!」
「オレ、あんたにクスリ飲ませて逃げられないようにして、一日中乱暴したんだ!」
「違う!」
「なにが違うってんだよ!」
「オレだって………!」
「あんたが? あんたがなんだって言うんだ!」
一瞬詰まった関は、それでも目を閉じて吐き出した。
「───分かってんだろ! 逃げようと思えば逃げられた。動けたんだから、あの薬は!」
通常認定病院でのみ処方されるSabという薬は、長期服用が常識だが、一度に大量摂取すれば軽い催淫剤の代用になることは───当時、一般にはあまり知られていなかった。
葎はその“認定病院”の経営者の息子と仲がよかった。
ともかく、関がそのことを知ったのは、あのことから二カ月以上過ぎてからのことだった。
それまで、使われた薬がなんだったのかさえ知らなかった関は、思いも寄らぬ形でそれを知らされたのだ。
「………だとしても………───キモチよくなったのはクスリのせいで………」
葎は、関が何に拘っているのか分からないまま唖然と呟いた。
すると、思いがけなく関が苦く笑った。
「あれが?」
「関くん………」
葎は正直言って、あの時の始まりと終わり以外の、最中の細かいことはよく覚えていなかった。
あまりにも強烈な初体験ではあったが、五年という長さと、その後重ねた情事が記憶の順序を曖昧なものにしていた。
だからこそ葎は、関がそこまで自嘲する意味をすぐに理解することはできなかった。
「あの薬は………そういう意味じゃ軽い効果しかない。オレはおまえに流されたんだ」
関は葎の手を外そうともがきながら言った。
全力で抵抗されたら彼には御しきれない。縫れ合いながら葎は言った。
「流されたって───どういうこと?」
「………」
「少しは───イヤじゃなかったってこと? クスリのせいだけじゃなく」
「───ああ」
葎の腕を振り切った関は、勢いのまま彼に背を向けた。
「関くん………」
「───分かったろ。おまえを恨む筋合いなんかないって。そりゃ頭にきたけど………。五年も恨み続けてなんていられない。───おまえももう気にする必要はないんだ」
「関くん………」
許す言葉を口にしつつも、関は完壁に葎を拒んでいた。
その冷たい背に、しかし葎は触れずにはいられなかった。
警戒心を起こさせぬよう、再び逃げられないようそっと───そんな意味ではないと、壊れやすい物を扱うように───彼の胸に手を回す。
「………じゃあ………じゃあ、オレはあんなことさえしなかったら………三カ月前、もう一回会ってからも………あんな無理強いさえしなかったら、関くん、オレに応えてくれていた?」
「………」
「答えてよ!」
今度は葎の声音に涙が混ざった。
するとビクッと関が肩を震わせ、動揺したのが分かった。
「葎………」
それは溜め息のように吐き出され………。
「───無理だ、もう」
「関く………」
「───絶対」
微かにその身を震わせながら、関は迷いなく言い切った。
それは水の匂いのする物憂い夜。
案の定、夜半過ぎには雨が降り出していた───…。
合わせた肌から伝わる頑なな心。
不快、羞恥はもちろん、生み出される快感を理性が強情に抑えつけているため、きっとそれすらも苦痛に変換されてしまっているのだろう。
それでも───見ることすら叶わなかった五年間に比べ、ある部分確実に満たされた。───と同時に、ある部分ぽっかりと大きくて深い穴が空いた。
会わないままだったらそのままだったかもしれない距離が、今となっては開くばかりで………。
週に一度くらいの割合で会った。
約束していてもすっぽかされる、あるいは嫌々なのがあからさまな一、二時間の遅刻に閉口して、昼間会社に電話をかけ、終業近くの六時頃会社まで迎えに行った。
するとさすがに嫌がられ、近くの喫茶店を指定された。
そこから連れ立ってマンション近くのレストランで夕食を取り、六階の一番奥の部屋に行く。
それが八時くらい。
そして早くて十一時前───遅くても十二時前───にはどんなに疲労の色を濃くしていようと、関は葎の引き留める声にも耳を貸さず帰っていった。
シャワーは必ず浴びていく。
それはお世辞にもこの部屋に気を許し、寛いだからではなく、ほんの少しの痕跡すら消して家に帰りたいと思っているからなのだろう。
そんなことを………数えればもう二カ月くらい繰り返している。
何もかも分かっていながら、葎は、自身にも苦痛になりつつあるこの時間を自分から止めることはできなかった。
関が、己が彼に飽きることを密かに宿望しているのが察せられるから、尚更、自分の方からは止められない───というのもあった。
積もっていく苛立ちは、ベッドの中での行為が、相手に対してだけでなく、自分に対しても手荒なものになっていくということで発散され、二人の関係はますます殺伐としたものになっていった。
これをまさに悪循環というのだろう。
…バカじゃねーの───…
いっそ関の単純さが恨めしくなる。
簡単に飽きてしまう、諦められるくらいの恋心なら、十三のあの時、あんな真似などしなかった。
誰も愛せない、良心と未練に苛まれた五年間を過ごしたりはしない。
なにより目を逸らしてしまえば見ずに済むはずだった自分の罪を───苦しそうな目で見返してくる相手を───抱き締めたりはしない。
───いっそ毎日でも会っていたい。
それを堪えて堪えて………必死で自分を押し止めて七日を数える自分の気持ちを、自分がどんな想いで彼の肌を感じているかを、関は想像すらしていないに違いない。───彼の立場からすれば当然だろうが。
多分、終わりにするべきなんだろう。
理性では分かる。
無理に肌を重ねたりはせず、たまに会ってくれるだけでいい、としおらしい態度でも取れば、彼との溝は決して狭まることはなくても───少なくとも、今のスピードで広まっていくことは避けられるのだろう。
もちろん、関の本心は自分に会うことすら嫌だろうが。
だったら、いっそ彼が死ぬほど自分を拒んでくれれば………。
………死ぬほど嫌がっているくせに───。
彼が自分の相手をしている動機は、ただひたすら自身の家に───子どもに、葎を関わらせたくない、という思いから来ている。
関は未だに自宅の住所はもちろん、電話番号も葎には教えない。
そんなもの、とっくに彼の会社の女性社員一人籠絡して聞き出してしまっていたが。
家まで押しかければ───彼の子どもに会えば、彼は激怒し、自分を拒むだろうか? 自分もまた彼を思い切ることができるだろうか?
できなくても、彼のため(と自分に言い聞かせて)、今の不毛な時間を終わりにすることはできるのだろうか………。
結局、いい加減焦れてきているだけなのかもしれない。
始まらない、終わらない、二人の関係に。
彼の消息が知れなかった頃よりずっとマシだと理性が感情を無理矢理納得させていても………。
梅雨の季節が近いのか、やけに湿度の高い夜。
『どなた?』
インターフォン越しのくぐもった声。それさえ葎が二人きりの空間で聞く、いつもの押し殺した短い言葉よりリラックスしていた。
「───オレ」
『!』
ハッと息を飲む音。
「───開けて」
『………』
機械が壊れたかと思うくらいの無音。
「───開けて。ヘンなこと言わねーからさ」
ダークレッドの冷たいドアに手をつき、額を伏せる。この瞬間、ドアが開いたら本気で彼を諦めていいと思った。
しかし、
『………家には来ないって約束のはずだ………』
ようやく返ってきたのは、重い、冷たい言葉。
「んじゃ、ここで叫ぼっか? ドア叩いてさ、入れてくれーって、騒いじゃおっかな。近所の人、さすがに出てくるんじゃない? 子ども、いんだろ? なにかと思うんじゃん?」
きっと憎らしく思うに違いない、馬鹿にしたような軽い口調。
案の定、返事はなかった。
ドンドンドン!
葎がドアを叩くと、ファミリータイプのマンションの廊下に鈍い音が響き渡った。
「関くん! 関くん!」
ドンドンドン! ドンドンドン!
───カチャ、カチャカチャ。
音がして、一瞬息を詰めると、次の瞬間、ドアが開いた。
待ちわびた開放。
今まで二人が会ったことのない日曜の夜の関は、ゆったりと襟割りの大きい黒のセーターにジーンズ、夜とはいえそのまま近くのコンビニに行けるくらいの格好だった。
ともあれ、普段は───再会の時以来───無難なスーツしか見たことのない葎にとっては新鮮な、ラフさが目につく、関のもうひとつの姿だった。
「関くん………」
さすがに怒られるだろうと葎は反射的に首を辣めたが、何も起こらず、ゆるゆると視線を上げると間近に彼はいなかった。
「?」
咄嵯に中を覗くと、関は玄関の、敷居を上がったところに戻っていた。
「………」
葎は無言で、初めて関のマンションの中に足を踏み入れた。
バタンと背後でドアが閉まる。
靴を脱いでその先に進んでいいものか───。
迷う葎に構わず、関は何も言わずにパタパタと廊下の先を歩いていってしまった。
それは招き入れたことを黙認したのか、あるいは、何をどう止めても無駄だと諦めた無言の仕草なのか………。
葎は関を追って家に上がり、居間が広がる廊下との境目で彼に追いついた。
「!───」
相手の肘を取り、振り向かそうとしたところで視界の隅に入ったものに注意を奪われる。
居間の壁にはダンボール箱が積み上げられていた。
中央には開いたままのがいくつか。
明らかに荷造り途中と分かる、散乱した室内の様子。
「なに………?」
腕を取ったまま葎は関を見上げた。
「───」
相変わらず関は答えず、黙って葎の手を振り払った。
「なんの用だよ? ここには来ないって約束だろ」
「約束………? じゃあこれはなんだよ?」
葎は段ボールを指さした。
「………」
「開けてるとこ、じゃないだろ? 荷物詰めてる途中じゃん。………引っ越すんだ」
「転勤だ」
「どこに?」
「………」
「いつから? オレには言わないつもりだったんだ。………当たり前か、知らないうちにいなくなっちゃうつもりだったんだな。五年前みたいに」
「違う」
「どこがっ!」
「だから転勤だって言ったろ? もうずいぶん前から決まってたんだ。おまえとは関係ない」
「いなくなっちゃうから………それまでだと思って我慢してたんだ? オレとのこと」
ピクンと関が反応したのを葎は見逃さなかった。
「なんだ………。あんた、オレがあんたに飽きんの待ってんのかと思ってたけど、そんな気ィ長くなかったってわけだ。あんたの方が先にいなくなっちゃうつもりだったんだから───」
「やめろよ」
「───いっつもそれだね」
葎は関を睨みつけた。
「やめろ───そればっかで顔逸らして、いっつもそれで済むと思ってんだから、あんたホントに気楽だよ」
「オレがか?」
珍しく関がムッとしたように葎を睨み返した。が、葎だって負けてはいない。
「そうだよ。逃げてればそれで済むと思ってんだ」
「オレが………気楽だって、逃げてるって?」
「そうじゃん」
「オレがなにも考えてない、悩んでないとでも思ってんのかよ?」
「じゃあなに考えてんだよ、言ってみろよ!」
「───」
「それじゃん」
押し黙った関を葎はせせら笑った。もうそんな表情は見飽きている。
「そうやって、肝心なトコにくると黙って、なにも言わないで………。なんでだか今日、これ見てやっと分かったけどね」
と言って、辺りを見渡しながら、葎は思い出した。
「ねえ………子どもは? あの子、あかねちゃん」
葎は、関が決して彼には告げたことのない名前を口にした。
「いないの? いるよねぇ。奥?」
今にも探し出しそうな葎に、
「いないって、ホントだ」
語気を強めて関は止めた。
「どこ行ってんの? こんな時間」
行き先が知りたくて聞いたわけではなかったが、関は意外なことを口にした。
「───知り合いの家に預けてる。二週間前、出張の時に預けたんだ」
「………ああ、アメリカ行ってたっていう………。? まだ帰ってこないの?」
「そのまま預けるつもりだ。あちらの───大人に上手く懐いたようだし。前に連れていった時、向こうの生活に馴染めなくて辛い思いをさせたから、今度は日本に残すつもりで」
「………」
決して多くはない言葉に、関の親としての愛惜の念が滲んでいた。
おそらく自分の感情を抑えて、彼は子どもにとって一番いい環境というものを選んだのだろう。
親といえど───なかなかそれをできる人間は少ない。
「転勤ってどこ?」
「サンフランシスコ」
「どのくらい?」
一瞬躊躇った相手を見て、葎は悪い予感を覚えた。
「………決まってない。現地会社の立ち上げに参加するから」
「───!」
目を背ける関を、葎は一瞬、マジマジと見つめた。
それからおもむろに、パシッ! と平手で相手の頬を叩いた。
反動でわずかによろめいたものの、彼は視線を落としたまま声も上げなかった。
「………なんで………!」
葎は思わずそんな相手の胸を叩いていた。
「なんで、いつもただ逃げるだけなんだよ!」
激情に我を忘れた。
「せめて───オレが嫌いなら嫌いだって納得させるくらいの言葉とか態度とかっ、少しは努力したらどうなんだよ!!」
「葎………」
「なんで………言わないんだよっ、あのこと!」
「葎!」
「オレがしたこと詰ればいいじゃん、恨めばいいじゃん。なんでなんも言わないでいなくなったんだよっ。あんたはいっつもそれだ! いい加減───オレ、あんたにとことん迷惑かけるまでつきまとってやろうかっ!?」
「葎!───馬鹿なことを………」
「一生つきまとえば───あんた、諦めてオレのものになるのかな………?」
叩いていた拳を止め、その胸に顔を伏せる。
優しい言葉はもちろん、声すらかけられないと思っていたのに、降ってきたのは思いもよらない───再会以来、今までで一番長い言葉だった。
「………こんな男のどこがいいんだよ? 十歳も年上で、男で………。五年前より年取ったろ、オレ。おっさんじゃん。おまえなら可愛くて性格のいい女の子、いくらでもいるだろうに。若いんだし、将来だっていくらでも可能性が………」
「………」
あまりにありきたりな言葉にまともに答える気にもなれず、葎は関の襟ぐりを握り締めたまま顔を上げた。
「バッカじゃねーの」
「───」
「あんたが好きなんだよ。八年前、初めて会った時からずっと。今までずっと変わらなかったのに───あんたにあんなことして、好かれる可能性ゼロだって分かってるけど………ダメなんだ。こんな気持ち、なくなった方が楽だって………その方があんたのためにもなるって分かっててもやめらんない。もう自分でもどうしたらいいのか、分かんないよ」
語尾はわずかに乱れたが、涙は堪えた。
「───葎」
「好きなんだよ………」
そう言って、目を合わせたまま首を伸ばした。
ほんの少し顔を背けた関は、しかし彼を引き剥がしはしなかったので、葎はそっと相手の口の端に唇を触れさせた。
子どものような───他愛ないキス。
軽く触れただけで離れると、葎はそのまま自分より大きい、自分より薄い体を抱き締めた。
このまま───何度か過ごした夜のように抱き合ってしまおうか、とも思う。
それはそれで何か………かなり投げやりな何かが満たされるには違いない。
それでもっと大きな穴が空こうとも───。
それでも葎は、この時は不思議とそうはせず、自分から腕を解いた。
読み解き切れない、不可思議な表情で関が自分を見つめている。
そういえば彼はいつもそうだ。
怒りも詰りもせず、無視するようなあからさまな無表情でも苦い顔でもなく、どこか………悲しい、何かを耐えるような眼差しで自分を見、それから何かを守るように顔を背ける。
いつも。
何を守っているんだろう。何を耐えているんだろう………。
───謎が多すぎる。
彼は何一つ語らない。
どうしたらその堅い口を開いてくれるのか………。
「出発は………いつ………?」
「来月の末頃………」
「………ふうん………」
葎はゆっくりと彼から離れた。
無意識に室内を見回すと、日常の雑然さとは異なる散らかりようの中、壁に寄せられたローチェストだけがまだ手つかずで、葎は関の視線を感じながら、そちらに歩み寄った。
木調の天板に直に置かれた二つのフォトスタンド───少しでもインテリアに興味のある人がいたら、レースくらいは敷かれていただろう───の中で笑う、幼い女の子。
赤ちゃんの頃、三、四歳の頃。
どちらも写っているのは女の子だけで、写真の中には父親も母親もはいなかった。
「?………」
普通、家族写真を並べるだろうに、と葎は少し不審に感じた。
「ねぇ………。この子のお母さん、どうしてんの? 別れたの? 今はもう付き合いないの? それとも亡くなった………?」
「………生きてるよ」
「ふうん………」
ここまで母親の影がないことに、葎はもしかしたらと他意なく思っていたのだが、それは違ったらしい。
「まあ今時、父親のところで育てられるのも珍しくないらしいけど………。知り合いって母親のところ?」
先ほど、関は「知り合いの家に預けている」と言っていた。他人行儀な言い方だが葎を警戒してのことなら分からなくもない。
「葎、あの子のことは………」
「へぇ、お母さんのところじゃないんだ」
葎は関が誤魔化そうとした答えを正確に嗅ぎ当ててみせた。
「なに? よっぽど離婚の時揉めたんだ」
「………結婚、はしてないよ………」
葎は振り返り、複雑な表情で床に視線を落としている関を見た。
「今でも好きなんだ?」
「………どうかな………」
煮えきらない言い方。
その時はいろいろ悩んでも長くは引きずらなさそうな関にしては珍しい態度だった───あるいはらしいのか。
「やり直せないの?」
葎の言葉に関はハッと顔を上げた。
咄嵯にどんな顔で葎が言ったのか見たいと思ってしまったようだ。
だが葎は表情を崩さず関を見返していた。
「葎───」
「帰るよ」
何か言いかけた関を葎は遮った。
「───今日は。でもまた来る」
「葎」
「だってあかねちゃん、いないんでしょ? じゃいいじゃん」
「葎、オレは………」
「来月末、でしょ。………それまででいいよ。いくらオレだってアメリカまでは追ってけないし」
「………」
あと一か月と少し。
───その時が来たら、自分は果たして別れに耐えられるのだろうか? どんな辛い思いをして彼と別れるんだろう? と葎は、漠然とした疑問を抱きながら関から視線を外した。
もう彼を責める気にはなれない。もちろんそんな権利など最初からなかったが。
「───じゃ」
と言って近づく。
「?」
無防備に不思議そうな顔をした相手に葎は小さく微笑んだ。
「!───」
両手を伸ばして無造作に抱き締めると、もう条件反射のように相手は身を強張らせた。
顔を上げ、相手の項も引き寄せて深いキスを………。
「っ………」
終わらせると、いつもすぐに離れていってしまう相手が動かなかった。
「?」
不思議に思った葎が改めて間近にある顔を見直そうとすると、関はそれを避けようとして顔を背けたが、そのまま葎の肩口に額を落とした。───触れはしなかったが。
動かない。だから動けない。
葎はじっとそのままでいた。
………やがて、
「もう───やめてくれ」
くぐもった声がした。
関の口元は葎の服には触れていない。だから、その声音が濁るのは………。
「………関くん?」
「もう………ダメだ」
「泣い───」
思わず口にしてしまいそうになった葎を、関は自分から抱き締めることによって遮った。
「!」
決して強くはないけれど、初めて関の意志によって、彼の腕が自分の体に回っている………。
葎は言葉にならないほど驚いた。
なぜ───とか、どう感じる───以前に思考が止まった。
そして………。
「───おまえのこと………嫌いじゃない。どんなことをされても………。───五年前のことも………恨んじゃいない、怒ってない」
その言葉は、あとでどんなに思い返そうとしても、葎には関がどんな声でどんな口調で言っていたのか、思い出せなかった。
「ウソ───んなことあるはずが」
「ホントだ」
「ウソだよ!」
耐えきれなくなった葎は関を自分から引き剥がした。
赤かったが潤んではいなかったその瞳。それを見られまいと後ずさるのを両手で両腕を掴んで無理矢理止めた。
「オレがなにしたか覚えてんだろ!」
「やめろ!」
「オレ、あんたにクスリ飲ませて逃げられないようにして、一日中乱暴したんだ!」
「違う!」
「なにが違うってんだよ!」
「オレだって………!」
「あんたが? あんたがなんだって言うんだ!」
一瞬詰まった関は、それでも目を閉じて吐き出した。
「───分かってんだろ! 逃げようと思えば逃げられた。動けたんだから、あの薬は!」
通常認定病院でのみ処方されるSabという薬は、長期服用が常識だが、一度に大量摂取すれば軽い催淫剤の代用になることは───当時、一般にはあまり知られていなかった。
葎はその“認定病院”の経営者の息子と仲がよかった。
ともかく、関がそのことを知ったのは、あのことから二カ月以上過ぎてからのことだった。
それまで、使われた薬がなんだったのかさえ知らなかった関は、思いも寄らぬ形でそれを知らされたのだ。
「………だとしても………───キモチよくなったのはクスリのせいで………」
葎は、関が何に拘っているのか分からないまま唖然と呟いた。
すると、思いがけなく関が苦く笑った。
「あれが?」
「関くん………」
葎は正直言って、あの時の始まりと終わり以外の、最中の細かいことはよく覚えていなかった。
あまりにも強烈な初体験ではあったが、五年という長さと、その後重ねた情事が記憶の順序を曖昧なものにしていた。
だからこそ葎は、関がそこまで自嘲する意味をすぐに理解することはできなかった。
「あの薬は………そういう意味じゃ軽い効果しかない。オレはおまえに流されたんだ」
関は葎の手を外そうともがきながら言った。
全力で抵抗されたら彼には御しきれない。縫れ合いながら葎は言った。
「流されたって───どういうこと?」
「………」
「少しは───イヤじゃなかったってこと? クスリのせいだけじゃなく」
「───ああ」
葎の腕を振り切った関は、勢いのまま彼に背を向けた。
「関くん………」
「───分かったろ。おまえを恨む筋合いなんかないって。そりゃ頭にきたけど………。五年も恨み続けてなんていられない。───おまえももう気にする必要はないんだ」
「関くん………」
許す言葉を口にしつつも、関は完壁に葎を拒んでいた。
その冷たい背に、しかし葎は触れずにはいられなかった。
警戒心を起こさせぬよう、再び逃げられないようそっと───そんな意味ではないと、壊れやすい物を扱うように───彼の胸に手を回す。
「………じゃあ………じゃあ、オレはあんなことさえしなかったら………三カ月前、もう一回会ってからも………あんな無理強いさえしなかったら、関くん、オレに応えてくれていた?」
「………」
「答えてよ!」
今度は葎の声音に涙が混ざった。
するとビクッと関が肩を震わせ、動揺したのが分かった。
「葎………」
それは溜め息のように吐き出され………。
「───無理だ、もう」
「関く………」
「───絶対」
微かにその身を震わせながら、関は迷いなく言い切った。
それは水の匂いのする物憂い夜。
案の定、夜半過ぎには雨が降り出していた───…。
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