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ケイトン侯爵邸

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「旦那様」

 廊下に侍っていた若い使用人が扉を叩き声をかけた。ブルーノが開き顔を出す。 

「大奥様が」

 聞こえた言葉に扉へ近づく。

 「どうした?」

 僕はブルーノの後ろから使用人に尋ねる。

「消えました」

「なに?」

「馬車の音がしましたからおそらく馬車で…」

 飛び出しただと?何を考えているんだ。 

「使用人は消えていないか?誰も連れずに出ていったのか?」

「そのようです」

 なぜ大人しくしていられない! 

「バトー!」

「ハインス騎士団!!」 

バトーが声を上げて部下を呼ぶ。
「団長」

 バトーの副官が返事をした。 

「閣下、この二人はどうしますか?」

 バトーの言葉にうずくまる二人を見つめる。ベリーは未だバトーに踏まれたまま泣いている。 

「牢に放り込め。別々にな」

 久しく牢など使っていない。この二人はいい見せしめになる。 

「は!パズ!連れていけ」 

バトーの指示に副官は騎士を呼び二人を部屋から連れ出していく。ベリーは僕を見つけて暴れ、騎士が手刀で昏倒させた。 

「閣下、大奥様の馬車は部下が追っています」 

副官の言葉に命じなくても動いてくれたと安堵が湧く。

「よくやった。伯母上は領地に向かったわけではないだろう。着の身着のままなんだな?」 

報告に来た使用人に尋ねると頷いた。 

「貴族街か…向かった場所がわかったらハインス騎士団を五名送れ。迎えに来たと告げろ。身を寄せた家が断るなら伯母上は僕を怒らせたと伝えろ」

 僕を怒らせた人物はいない。今までどんなに侮蔑されても下世話な話が聞こえても微笑んで流してきた。貴族家の当主なら伯母上が僕の逆鱗に触れたと理解するだろう。伯母上を匿うならハインス公爵家を敵に回すと同じこと。

「は!」

 バトーが副官に命じているのをぼんやり見つめベリーの醜態を思い出す。

「ブルーノ」 

「はい」 

「寝室を替える。この部屋で寝たくない」

 嫌な記憶が刻まれた部屋でくつろぐことはできない。

「ベリーは鍵を使った。イバリーが渡したんだろうが…ブルーノ、全室の鍵の管理をお前に任せる」

 ブルーノの仕事が増えてしまうが仕方ない。メイドらには渡せない。ベリーの行動に触発されては困る。僕は僕を守らねばならない。




 高級貴族街に佇む、白をふんだんに使った大きな邸に一台の馬車が夕日と共に入る。

「旦那様、サラ・ハインス様が現れました」

 執務室で書類を眺めていたロバート・ケイトン侯爵は白が混ざった眉をしかめる。

「必死な様子だそうです」 

「…入れていい」 

ロバート・ケイトンの言葉に使用人が動く。しばらく待つとサラ・ハインスが髪を乱した姿で執務室へ入った。

「ロバート様っ」 

今にも泣き出しそうな顔で執務机に向かい走り寄るサラ・ハインスを使用人が止める。

「落ち着け」 

「落ち着けないわ!ルーカスが私に声を上げたのよ!この私に!」

 ケイトン侯爵はルーカスの性格を知っている。忍耐強く、他者の言葉に振り回されず悪意や敵意を流すことに長けているルーカスが年寄りの夫人に声を上げたならそれは許しがたいことをしたからだと察した。

「お前は何をやらかした?」 

「私は!知り合いの家に頼まれて令嬢を預かっただけよ!」 

「それだけでルーカスがお前に声を上げた?信じられん」 

サラ・ハインスは気まずそうに視線を逸らす。 

「ゾルダーク公爵と異色の令嬢が来たのよ」

 その場に令嬢を並べたのかとサラ・ハインスに険しい眼差しを送る。 

「頭の悪い女だ」 

「皆が頼むのよ!……長く王都を離れていた私を茶会に誘ってくれて…よくしてくれたのよ。遠い田舎では聞けないような話もたくさんしてくれたわ」

 心にもない賛辞をそのまま受け取る癖は抜けていないとケイトン侯爵はサラ・ハインスから視線を逸らし木目の机を見つめる。

「で?用は」 

「……このままではまた領邸に閉じ込められるわ…ロバート様から話してくれないかしら」

 面白い話を聞くため、久しぶりに近づいた己の行動をケイトン侯爵は悔いている。

「なぜ私が?」 

「なぜって…アーロンは貴方を慕っていたし仲もよかった。何より約束通りジェイドの婚約者に娘を据えたでしょう」 

その話題は誰もが避けていることだったが、今のサラは興奮して忘れている。

「アーロンは死に娘も王族に名を連ねる前に死んだ!いつの話をしている!?」

 ケイトン侯爵は拳で机を叩き怒りを顕にする。

「声を荒げないで!」 

「サラ、お前の話は証拠もなければ証人もいない話だ。そんなもので私がお前の願いを叶えると思うか?」 

「アーロンが私に話したのよっ娘達も私に泣きながら教えてくれたの!」 

「娘らの悪戯をゾルダークの嫁が奴に告げ口して罰を受けたんだったな。死に際のアーロンがエドガーの名を呼び泣きながら謝る姿を見せた。お前の話を聞いて奴の策略かと思った…が奴は…たかが悪戯では動かない。話を聞いた誰もがゾルダークを責められないから制裁を与えた…奴を知る者ならお前の話に疑問を抱く」

 年が十も下の険しい男に何度もやり込められた。さすがに学習する、とケイトン侯爵は毒づく。

「カイラン・ゾルダーク公爵が…」 

「まさか…過去の変事の真実をお前に話したのか?」 

「ええ…死産薬を…」 

「聞きたくない!」

 ケイトン侯爵はそれだけで察した。当時、ゾルダーク公爵家の嫁は子を宿していた。茶会でハインスの娘らがやらかしたことまでは王宮で働く者から聞いていたが死産薬は初めて聞く。関わることは破滅を呼ぶと何かが囁いたように感じた。 

「ロバート様!」 

「サラ…私はゾルダークが嫌いだ。陛下の寵愛を受け尊大な態度…私はハンク・ゾルダークが嫌いだった…ケイトン侯爵家は損害を被ったうえ奴の好きなようにさせるしかない立場だった…私の長年の悲願を悉くゾルダークが拐う。腸が煮えくり返るが…お前とは関係を絶つ。出ていけ」

 不確かな話には飛び付けない。飛び付いた過去の損害は大きかった。

「エドガーは落馬じゃなかった!エドガーはゾルダークに殺されたのよ!嫡男だからと…責任を押し付けたわけ!?」 

「愚かな…当時の責任と言うならアーロンだ…そうか…エドガーが…手を貸したのか…」

 ケイトン侯爵は手のひらで顔を覆う。ハインスの変事が見え、陛下とゾルダークの謀略ではないと確信した。小娘が死産薬を手に入れることは困難、自ずと答えは出る。

「贅沢な余生を送りたければ領地に戻れ」

「嫌よ!あんな田舎もう…何よ…ロバート…私を見捨てる気?いいのね!?私にそんなことを言えるのね!?」

 厄介な存在が放たれてしまったとケイトン侯爵の頭は痛む。

「…サラ…お前も終わる…死ぬことはないが向かう先は領地ではなく修道院になるぞ」

「なんでもいいわよっ!エドガーは落馬じゃなかった!殺された!陛下に進言するわ…ゾルダークの罪を…でも…誓約書が…」 

「誓約書…誰と誰のだ?」

「アーロンと陛下よ。誓約書ってなんなの?意味を持つもの?」

 陛下が持つアーロンとの誓約書ならば保管もされ互いの封蝋で閉じられたもの…世間に出せばどちらもただではすまない。

「お前…その話をなぜ隠していた?」

「ゾルダーク小公爵が私を脅したのよ。陛下に尋ねれば誓約書の存在くらいは教えてくれると」

ゾルダークが知る誓約書…アーロンと陛下の誓約書をゾルダークが知る意味は…完全なる被害者。

「……摘まみ出せ」

サラ・ハインスから話を聞いたときはルーカスの婚約に加えゾルダーク小公爵の婚約に亀裂を入れることができればいいと思っていたケイトン侯爵は流れの悪さに己の終焉を感じ頭を抱える。多くの金を使いレグルスの貴族を支援したことまで無駄に終わり、今は己の息の根を止めるサラ・ハインスが正気を失ったかのように目の前に現れ喚いている。

「ロバート!!ゾルダークに話すわよ!貴方は終わるわ!」

「私はアーロンとお前を助けただけだ。醜聞になる程度だ。お前はそれだけじゃすまないぞ。エドガーは死んだがウィルマとジャニスは生きている。知られるぞ…娘らはどうなる?命を絶つかもな」

サラ・ハインスはケイトン侯爵の言葉に押し黙りうつむく。

「連れていけ」 

ケイトン侯爵の言葉に使用人はサラ・ハインスの体を掴んだがその体が揺らぎ崩れる。

「サラ様!」

サラ・ハインスは胸に手を宛て床にうずくまる。ケイトン侯爵は声を上げて医師を呼ぶ。ここで死なれては困ると嫌な汗が額を伝う。医師と共に使用人がケイトン侯爵の元へ駆け込んできた。

「旦那様!ハインス騎士団が門に…」

 ケイトン侯爵は震える目蓋をきつく閉じ、入れるよう指示を出す。サラ・ハインスが使用人に抱き上げられ、それに寄り添う医師を見つめながら濃い紺色を思い出す。険しく厳めしい眼差しで人を見下ろし、虫けらでも見るような黒い瞳が、底の見えない闇がロバート・ケイトンの眼前に現れる。

「ゾルダーク…貴様…」

 陛下の寵愛を受けながらも態度を変えず奢りもせず、年上に敬意を示さず尊大で他家との関わりを極限にしてもシャルマイノスに君臨する男は今もケイトン侯爵の胸に苦みを与える。
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