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ゾルダーク邸
しおりを挟む鳥が囀り緩やかな風が背を撫でる。常に満開の花を咲かせる花園からは遠くの場所、使用人棟の裏手にある所までテオ様の後をついて歩く。テオ様の手には弓がある。
「テオ様、どちらに?」
「…ハロルド…弓は使えたか?」
剣ならば扱うことができるが弓は見たことはあっても手にしたことがない。
「使えません」
ああ…テオ様の向かう場所がわかった。しかし、何故ノアではなく俺を連れていくんだ?
「使えると便利だぞ」
王都にいて?テオ様はガブリエル様の思考に似てしまったのか?なんとも残念…やはり…鶏小屋が目的地だったか。
「使用人に任せればよろしいでしょう?」
「弓の練習を兼ねようと思ってな」
公爵令息ならば狩猟場で遊ぶが…テオ様は引きこもっているからな。
「ゾルダーク領に久しく行っていない」
慌ただしい日々が続いてしまったのは事実だ。レオン様は辺境に着いて王女を待っているはず…遠い…あまりに遠い。前を歩くテオ様が歩みを止めた。ゾルダーク邸の端にある鶏小屋には多くの鶏がいる。毎日取れる卵に育てる雛に、立派な体格の鶏。民家ほどの大きさを有する鶏小屋。
「テオ様」
鶏小屋の管理人が現れる。その顔にはなぜここに?という驚きがある。
「牛と豚に飽きてな。鶏を食事に出す」
「かしこまりました。捌きますよ」
「ああ…その前に…ハロルド、鶏を持て。射るぞ」
はい?持て…?鶏を持て…?…まさかっ!俺の持つ鶏を射ると言っている?
「ああ…その通りだ」
声に出してはいないのに返事が返るとは…心を読まれるほど顔に出ていた…?
「テオ様、申し訳ございませんでした」
俺は真摯に頭を下げる。
「悪いことをしたのか?」
なぜ知っているんだ…ノアか?ノアにも口止めをしたのに…!
「ク…クレア様に…渡したのは私です」
「なんの話だ」
俺は頭を下げたまま、テオ様の靴を見つめて伝える。
「ね…閨の…指南書です」
「ほう…謝ることじゃないだろ。レオはクレアに閨の知識を与えると言っていたぞ」
く…声が低くなっていく…怒っている…俺の失態を怒っている。
「決してわざとでは…私の愚かな間違いです」
レオン様がいないから気が緩んでいるのか、心寂しいのか…あり得ない失態。
「俺は目を疑ったぞ…クレアの読んでいる書物が…上級の指南書とはな」
やはり知られていたか…注文した最新の指南書…初級を渡したのに手元にあるからクレア様の部屋に駆けつけ取り返したが…遅かった…読まれてしまっていた。黙っていてくれと頼んだ俺の顔を眉尻を下げて困ったように見て微笑んでいらした…あれは…あの表情はすでにテオ様に知られていると言っていたんだ。テオ様がクレア様にそのことを口止めしたのか…俺を罰するために。ああいうものの表紙はわかりづらく書かれているのも問題だ。上級と言えど女性用の上級版だが…
「クレアは熱心に読んだぞ」
好奇心の強いクレア様ならば照れながらも読んでいる姿が想像できる。
「弁解の余地もございません」
「テオ!」
声に頭を上げるとテオ様の黒い瞳が俺を越して走り近寄る足音の方角を見ている。
「はぁはぁ…テオ…ハロルドを怒らないで…」
クレア様が珍しく汗を流し、テオ様の懐に飛び込んだ。俺を助けるために…
「一言言うだけと言ったのに…その弓でハロルドを射るつもりだったのね?駄目よ、レオが悲しむわ」
クレア様…テオ様は俺を射るとは言っていない。いや…わざと外して射るつもりで…!黒い瞳を見ると俺を見ていた。少し口角が上がったのは見間違いではない。
「クレア、走るな。転ぶぞ」
「ふふ…久しぶりに走ったわ。怒らないで、テオ。いつかは読むのよ」
クレア様は腕を上げてテオ様の眉間のしわに触れる。
「上級は読まなくていい物だ」
「そうなの?面白かったわ」
クレア様!それは俺の助けになる言葉なのか!?
「私も弓を使える?」
「怪我をするから駄目だ」
「ふふ…きゃ!ボーマ!」
クレア様の背にボーマが飛び付いた。テオ様の好きなものが揃ったなら…機嫌も上向く。俺の失態も…有耶無耶に…
「ハロルド」
「は!」
テオ様の低い声と険しい瞳が俺を忘れていないと言っている。
「罰を与える。鶏小屋番と共に捌け」
なんてことだ…捌いているのを見たことはあっても、やったことはない…が射られるよりはいい。
「温情、ありがとうございます」
騎士のように拳を胸にあて、感謝を伝える。テオ様は返事もくれず片腕にクレア様を抱き上げ、もう片腕にボーマを抱き上げ去っていく。大きな白い塊がテオ様の肩に足をかけ赤い瞳が俺を見ている。クレア様の笑い声が小さくなるまでそれを見つめた。
「使用人の食事の分も捌きますから、ハロルドさんが手伝ってくれるなら助かります」
にこやかな鶏小屋番が落ちている弓を拾いながら俺に言う。
「ああ…」
レオン様が発って十日を過ぎた…残り二十日間…レオン様…恋しい…気を引き締めねば。
「ハロルドが怪我をしたらレオが怒るわ」
抱き上げた片割れが俺の首にしがみつき笑っている。
「ふふっ弓を持ってハロルドと歩いているから急いで追ったの。ボーマは部屋に置いてきたのよ?ちゃんと扉も閉めたのに…ソーマが出したのかしら?それともノア?」
「ボーマはテラスの扉を開けられる。回さず下ろすだけの握りだからな」
「本当?上階から飛んだの?すごいわボーマ」
クレアは首に回していた腕を伸ばし、白い毛を撫でる。
「離すな、落ちるぞ」
「ふふっボーマは固まってるわ。テオの背にしがみついてる」
「ボーマ、飛べ」
俺はボーマを抱き上げていた腕を離し、白い毛の背を叩くとボーマは俺の体を踏み台にして飛んだ。空いた腕でクレアを抱きなおし歩みを再開する。
「ハロルドは寂しいのよ。私達と同じようにレオから離れたことがないでしょう?間違いもするわ」
それでもだ。あの間違いはレオでも怒るぞ。ノアが俺に確認していなければお前はハロルドを庇って黙っていただろう。
「あれは忘れろ…初級を読め」
「わす…わかったわ。物語は随分遠回しなのよ。男性版もあるかしら…勉強に…」
「クレア…」
「ふふっ」
「あれは婚姻してからルーカスと話し合って行う。約束したろ?今は口づけだけだ」
あんな内容は婚姻してからでさえルーカスとは話せんだろ。閨を臆すかもな。婚姻までの時期が長くなるかもしれん。それならそれでいいがお前が好奇心の塊だと理解している俺はなんとも言えん気持ちだ。やはりハロルドを懲らしめればよかったか。ソーマに言えばぐちぐちとハロルドを叱るか。
「わかってるわ。婚約者の距離感を守るの」
「そうしろ。ルーカスの手紙が来てたろ」
クレアは俺の頭に額をつける。
「ええ。ハインス邸を案内したいって…次に会える日が待ち遠しいって…私を想ってるって」
「そうか、ハインス邸はここよりも派手で華美な邸と聞いてる」
お前の楽しそうに眺める顔が想像できる。クレアの楽しみだと喜ぶ声の後、注がれる視線に上階の窓を見上げる。
「クレア、兄だ」
「え?どこ…?」
庭を眺めているが見当違いだぞ。そのとき兄が指で窓を叩き音を出した。音を拾ったクレアは上階を見る。
「見つけた、ふふ」
手を振るクレアに兄も手を振り返している。
「ハインス邸には兄かレオンと共に行くことになる」
ルーカスの婚約者というだけで睨むメイドもいるだろう。今のハインス邸はルーカスの目に留まろうとメイドが必死になっていると聞いてる。
「レオ…何をしているのかしら」
小さな声に視線を片割れに移す。微笑んではいるが異色の瞳は不安げに揺れている。
「無事だ。ゾルダークの騎士が身を盾にして守る。ギィもいる…鳥の報せを待つ」
「ええ」
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