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クレア
しおりを挟む「クレア様」
ノアの声に俯いていた顔を上げる。ノアの視線を追いクレアが振り向くと近づいてくる大柄な銀髪が見えた。ガブリエルよりも体の厚みはないががっしりとした体格の青年が歩いてクレアの乗るブランコの脇に立ち止まる。クレアは座ったまま青年を見上げる。ソーマは少し離れた位置で二人を見ていた。
「こんにちは」
低い優しそうな声が挨拶をする。
「…こんにちは、王太子殿下」
クレアは座ったままだと気づきブランコから立ち上がろうとする。
「私も乗れるかな?随分頑丈そうだ。いいかな?」
エゼキエルの言葉に頷いたクレアは隣を空けるためにブランコの端に動いた。エゼキエルがブランコに座ると少し傾く。
「久しぶりだね。覚えていないよね」
「少し覚えています。父上の部屋でソファに座っていた殿下と会いました」
「あの時は怖がらせたね。君は泣いていた」
それは覚えていなかったクレアは返す言葉が見つからなかった。
「君が心配で来てしまった」
エゼキエルの言葉にクレアは隣に座る銀眼を見つめる。
「心配?」
「うん。大切な人を亡くしてしまっただろ?また泣いているのかと思ってね」
「ふふっあの時の私は二つです。今は十一です…涙は出ますけど。心配してくれてありがとうございます殿下」
「ゼキと呼んでくれない?」
クレアは返答に困った。この人はすでに二十を越えた年上の男性だ。願いを叶えていいのかわからなかった。ソーマに確認したかったが離れている。ノアも離れてしまった。
「ゼキ様」
クレアに名を呼ばれたエゼキエルは嬉しそうに微笑んだ。エゼキエルのことはレオンから聞いていた。二つのクレアを好きになった変態でチェスターの王太子、ギィの子供。
「ありがとう。嬉しいよ。クレア嬢は海を見たことがある?」
クレアは唐突な話に首を傾げエゼキエル見つめる。頬が赤くなったエゼキエルは話し続けた。
「すごく広い湖だよ。果ての見えない水溜まり。たくさんの魚も泳いでる。船に乗って他国からいろんな物や人が海から来る」
クレアはエゼキエルから視線をそらし空を見上げる。
「海も湖も見たことはありません。ゾルダーク領に湖はあるけれど行ったことはありません」
「見に来るかい?」
クレアは頭を振って断った。特に興味はなかった。周りを見回すとチェスターの者はいない。クレアの近くにいるのはソーマとノア、視界には入らないが隠れているテオだけ。
「異色の瞳が欲しいの?」
クレアの言葉にエゼキエルの笑顔が翳る。
「違うよ。君の瞳は綺麗だよ。両方黒でも空色でもね。ははっ気味が悪かったかな?…邸からここまで歩いて君に向かっていた私は…」
クレアは言葉の止まったエゼキエルに視線を向ける。真剣な眼差しの銀眼がクレアを見つめていた。
「胸が高鳴ったよ。隠すことさえできないほど顔も赤いだろうね。すまない、おかしいと思うだろう?私もそう思う」
そんなことを言われてもなんて答えていいのかクレアにはわからない。
「私の国に来ない?私の隣に座らない?」
「隣?王妃に?座らないわ」
「即答だね」
クレアは心のままにエゼキエルに答える。
「王妃なんて興味ないわ。ゾルダークが好きなの…大切な人がたくさんいるの。チェスターにはいないわ」
エゼキエルの悲しげな微笑みにクレアは首を傾げる。その表情の意味がわからなかった。
「私が大切な人になるかもしれないよ」
「ふふっ会ったのは二回なのに?ふふふ」
クレアの笑いにエゼキエルは頬を染める。
「面白いことを言うのね。ギィみたい。ギィは大切な人の一人よ」
「それだ、チェスターにはギィが二人…三人いるよ」
クレアは瞳を見開きエゼキエルを見つめる。
「三人?あっギデオン…」
「よく知っているね。私の弟のギデオン。君の大切なギィが二の父上の名を付けたんだよ。紛らわしいだろ?二の父上は嬉しそうだったけどね」
「ふふ、ギィは面白いわ」
ゾルダークの庭は静かになった。エゼキエルは足を揺らして微笑むクレアに見惚れていた。
「私がどれほど狙われているのか、レオンは教えてくれるの。私を怖がらせたいわけじゃなくて知っていないと対処ができないから…アムレ王国は私を欲しいんですって」
「うん。知ってるよ」
エゼキエルの返答にクレアは頷く。
「父上は王族では私を守れないと言ったわ。だから…」
「うん。だからハインス公爵を導いた…」
クレアは驚いていた。
「なんでも知っているのね」
「情報を集めたんだ。そこから推測した…どうすれば君の近くにいられるのか。留学もしたかったんだよ…時期が悪かったから流れてしまったけどね。君に私を知って欲しかった、話したかった」
エゼキエルは手を伸ばし紺色の髪を摘まんで離す。
「チェスターの臣下の令嬢と婚約すると聞いたわ」
エゼキエルはクレアから視線を外して足元を見つめる。
「よく知っているね。兄君に聞いたのかな?」
「ええ」
この年まで婚約者を決めていないことがおかしかった。なんとか抑え込んでいた声に応えなくてはならなくなった。チェスター王国内の力のある高位貴族家の令嬢が候補に挙がりエゼキエルは頷くしかなかった。母親の代で揺らいだ国内の結束を強めるための婚姻。もし、奇跡が起きてクレアが嫁ぐと言っても肩身の狭い王妃になるか側妃が現実だった。まだ八つの弟を担ぎ出そうにも臣下は納得しない。エゼキエルは苦悩の中にいた。
「まだ披露はしてない…胸が苦しくてね」
クレアは俯くエゼキエルを見つめる。
「あの時…君を確かめなければ…クレア」
こんなに苦しい想いを抱くことはなかったとエゼキエルの頭に何度も過った考えは、それでも出会えばいつか想うことになると心が教えていた。クレアを想うことは必然かとその度に思い至った。
「はい」
「困ったことがあったら頼ってくれ。アムレには私の間者がいるから、君を…クレア。名を呼んでくれる?」
エゼキエルはクレアを見つめ願いを口にした。
「ゼキ様」
「様は取ってよ」
大きな体を縮めてブランコに座っている姿が可愛く見えたクレアは願いを叶えた。
「ゼキ」
「クレア」
エゼキエルは銀眼に焼き付けようとクレアを見つめ続けた。紺色の長い真っ直ぐな髪が輝き、黒い色の瞳には空色の筋が走り、空色の瞳は煌めいて美しかった。エゼキエルは指を一本立てて、もう一度と願った。
「ふふっゼキ」
エゼキエルはこの笑顔を忘れないと頭の中に刻み込む。
「ありがとう、クレア嬢」
エゼキエルはクレアの小さな手を取り甲に口を落とし、ブランコから腰を上げて何も言わずにクレアから離れていった。
「ノア、ハンカチを濡らせ。早くしろ」
隠れていたテオが飛び出しクレアに近づきながらノアに命じている。ノアは机の上に置かれた果実水でハンカチを濡らしてテオに渡した。クレアの横に座りエゼキエルが口を落とした手を取りハンカチで拭う。
「冷たいわ」
「我慢しろ」
「驚いて動けなかったわ」
「笑っているからだ。願いを叶えてやることなかった」
「だって、二文字よ。それで満足するならいいと思ったの…テオ、もういいんじゃない?」
「ノア、乾いたハンカチはあるか?」
テオは何度もクレアの手の甲を拭って、乾いたハンカチでまた拭う。
「触れられた。二度と会わなくていい」
「もう会わないわ。気持ちが知れたもの。あの人はどこかの令嬢と婚約する。レオから聞いていたけど変態かどうかは私にはわからないわ。変態を知らないの。ゾルダークの益になるなら婚約してもいいんだけど」
クレアの言葉を聞いたテオは小さな手を握り黒と空色の瞳を見つめる。
「お前は嫁ぎたいところへ嫁げる。レオがそう言ったろ」
クレアは険しい眼差しのテオの眉間に触れて撫でる。
「その顔、父上そっくりね…ふふ…テオ、私はゾルダークの、レオのためになるならどこへでも嫁ぐわ」
「クレア…」
「私は守られてばかりよ。レオは一つしか違わないのに。もう父上はいない…支え合わないと」
「お父様もレオも俺もいる。いいか、俺はお前の幸せを母上に誓った。オットーにも誓った。父上のように強くなると天に誓った。クレア、この先お前に辛い想いは訪れない」
テオの真剣な眼差しはクレアの心を熱くさせた。守られているだけの自身があまり好きではなかったクレアはどうしたらいいのかわからない。
「誓え、クレア。不幸せになる未来は選ばないと誓え」
「テオ…」
「泣くな。お前の未来は喜びしかない。俺がそう作る」
テオの大きな手のひらはクレアの頬を包み指で涙を払う。
「わかったわ。誓う…母様と父上に誓う」
「それでいい」
テオは腕を回してクレアの頭を抱きしめ、鼓動を聞かせる。母親の腹の中から聞いていたお互いの心音が安らぎを与えると知っている。
「守られていろ、クレア。お前の笑顔は俺を温める」
テオは紺色の髪に口を落とした。手触りのいい長い髪を指に巻き付け感触を楽しむ。
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