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最終章
しおりを挟むハンクが最後の貴族院に参席した数日後の日の出に数台の馬車がゾルダーク邸から出立した。レオンに見送られた二人は馬車の中で寄り添いキャスリンはハンクの腕に凭れ欠伸をしている。
「寝ろ」
「ええ」
ハンクとキャスリンを乗せた木目の馬車の他にジュノとライナ、ソーマを乗せた馬車、二人の長い滞在のための荷物が乗せられた馬車が連なり、あの邸に向かって走る。急ぐ必要の無い旅は揺れない速度で走らせ、休憩を入れても昼を過ぎて二刻後には邸に着いた。先に下りたハンクはキャスリンの手を取り馬車から下ろす。
「あら?ハンク…邸…より小さいわね。家を建てたの?前来たときにはなかったわ」
キャスリンと手を繋ぎ、建てたばかりの家に近づく。一年ほど前に訪れた後からハンクはこの家を建て始めていた。邸とは門で隔たれている。鍵は邸の中にある。
「出来上がったばかりだ。あいつらは報せの前に来るだろ。クレアに夜営などできん。何かあってもこっちの騎士が駆けつける。家の鍵はあいつに渡した」
俺を見上げる空色の瞳が潤み、泣くのを耐えようと口角を下げている顔を見下ろす。
「あの子達はここで待つのね…私達を運んでくれるの?」
「ああ…」
レオンに告げたときも、今朝別れをしたときも涙を落とさなかった空色の瞳は俺を見つめ、とうとう涙を落とした。それは止まらず流れ続ける。
「空色」
体を屈め涙を吸うと、泣いていることに気づいたキャスリンは頬に手をあてる。
「ありがとう、ハンク。クレアは泣き止んでいるかしら」
「あいつには片割れがいる。慰める」
「ふふっそうね。テオの声が急に低くなったときは驚いたわ。レオンは話すから声変わりの様子がわかったけど、あの子は話さないから…ふふっレオンより大きくなって、ハンクに似てる。きっと二人とも素敵な男性になるわ」
使用人が荷物を運び入れている間、俺達は手を繋ぎ小さな庭に向かい歩く。
「空色…お前は天から見たいか」
「子供達を?」
「ああ」
キャスリンは少し考えてから答える。
「天ってあるの?私はそこへ行くの?ハンクが一緒なら二人で見たいわ」
「あるかは知らんがオットーは信じていた。天から見守ると言っていた」
「ふふっそう…見守る…あの子達が困ったとき助けられないなら意味がないような気がするわ」
「そうだな…ははっテオが困っていたらオットーは天で何もできずに騒ぐだけか。わからんぞ、オットーなら助けに行くかもしれん」
庭を眺めるために置かれたソファにキャスリンを抱き上げて座る。
「そうね、テオは驚くわ。オットーが天からの贈り物?ふふっ想像したわ…」
「テオは迎えに来たと思うだろうな」
腕の中に囲われたキャスリンは微笑み、陽に照らされた花達を見ている。穏やかな時が流れる。もう俺には予定がない。執務机の上に積まれる書類もない。ただ愛しい女と過ごす日々が待っている。
「空色、あのハンカチは誰に渡す」
子の誰かに渡すのかと思っていたが、体の不調を告げても急がずのんびり刺していた。この邸に持ち込んでいる。もう少しで出来上がるが、誰に渡すか聞いても秘密、と答えるだけだった。
「ふふっ三回目の問いね。ソーマよ」
「ソーマか。だから空色の生地に黒い糸か。クレアの色だな」
「ええ、ハンクがソーマから取り上げたことを思い出したの。ふふっ上出来よ」
「ああ、上達した」
俺を見上げる空色の瞳が輝き赤い唇は弧を描く。顔を落としキャスリンと口を合わせる。
「明日は何をする?」
「そうね、刺繍をするわ」
「俺はそれを見てる」
キャスリンは笑い手を伸ばしてハンクの髪を掴んで引き寄せ、赤い唇を開けて待っている。腕の中の愛しい体を抱きしめ、開けた口で覆い舌を絡めて互いの唾液を混ぜ合わせる。
「静かね」
「ああ」
花と草が風に揺れる音が届くだけの田舎の庭は静かに時が流れる。
「私はどうやって死ぬの?」
「馬車の事故だ。棺は開けられん」
「事故って…ゾルダークまでの道は整備されてるわ」
「馬が暴走する」
「そうなの…横転ね」
若い馬は驚いて暴走することがある。
「手配は済んでる」
「わかったわ」
「ハンク、家にも驚いたけど…馬車よね?」
「ああ、棺桶と人が乗れる物を作らせたんだ。馬車に見えたろ」
「車輪の付いた小さな小屋かと思ったわ」
邸の敷地の端には大きな荷馬車が置かれている。俺の身長と体格に合わせた棺桶は重厚で贅沢に作られ、重量もある。それを運ぶには特別な荷馬車が必要になる。これには伝えないが、かなりの金を使った。
「小屋か、懐かしいな」
「ええ」
ゾルダーク領の邸の森の中に建てられた小屋にはあれから二度、訪れることができた。
「ふふっあの子達は見つけるかしら。私は貴方がいないと見つけられないわ」
「見つけるだろ」
すでに見つけているかもしれん。ゾルダークの全てはあいつの物だ、好きにしたらいい。俺はもう何も考えん。お前だけを見て過ごせる。
「部屋に入るか。食事の後は二人で灯す…全てだぞ」
腕の中の小さな体が揺れる。
「全て?ふふっ半時かかるわ…そうだわ、何個あるか数えましょう?」
「ああ」
俺は知っているが、知らないふりをしてやる。
狭い食堂で話しながら食事をとり、蝋燭を手に持ちキャスリンと光を灯していく。全てを灯し終えいつもの椅子に座り、懐に小さな愛しい存在を仕舞い温めながら気に入りの庭を眺める。
「おかしいわ、もっとあるはずよ」
商人が来る度、買った燭台は飾りきれず仕舞ってあることをこれは知らなかった。
「ああ、三十一だけ置いてある。全てを飾ると明るすぎるだろ」
「ふふっそうよね。買いすぎたわ。並べる商人が悪いわ」
腕の中で機嫌よく笑って揺れる細い肩に額を付けて襲う痛みに耐える。時折ふいに体の内側から痛みが走る。あいつには一月と言ったが早まるかもしれん。長く息を吐き出し耐えていると俺の頭を小さな手が優しく撫でる。それは止まらず俺に心地よさを伝える。聞こえる子守唄は痛みを和らげる気さえする。引いていく痛みは時が経つにつれ間隔を狭めていくか、感覚が鈍くなるか。この体がどうなるか俺にもわからん。肩から額を離し煌めく庭を見つめる。
「あいつは俺達の寝台で寝るだろうな。甘やかし過ぎたぞ」
「ハンク!」
腕の中でキャスリンは体を激しく揺らした。
「ちゃんと処分したわよね…忘れていたわ」
ああ…張り形か。子に知られるのは嫌なんだな。
「俺の宝物だぞ。ちゃんと持ってきた」
「ああ…よかったわ。宝物って、ハンク…あれが宝物って」
「ははっ棺桶にお前が俺に刺したハンカチと張り形を忍ばせる」
「……あれは見つからない所にね。約束よ」
強い眼差しが俺を見上げる。
「ああ、敷き綿の下に置けばわからんだろ?捲って探す奴などいない。口を合わせてくれ」
俺の腕はお前を抱いてる。キャスリンは体を伸ばして唇で俺に触れる。口を開けて舌で小さな口を開かせ絡め合う。俺から流れる唾液はキャスリンが飲み込み、荒い呼吸だけが聞こえる。それでも俺の陰茎は硬くはならない。お前を悦ばせることができなくなってる。泥濘が恋しいが仕方ない。滾らせる薬さえ俺には効かん…
「お前が触れても硬くならんだろうな。寂しいだろ」
キャスリンは濡れた俺の口を指で拭う。
「寂しくないわ。こうしていられる…離れないでしょう?」
「ああ…俺の膝でハンカチを刺せよ」
「ふふっわかったわ」
キャスリンは俺に体を預け胸に耳をあてる。
「痛かったの?」
「ああ…強くなっている。終わりは予想より早い」
「そう」
「離さんぞ」
「ええ」
近づいたら寝室に棺桶を運ばせるか。狭いが仕方がない。
日中は庭に運ばせた大きなソファでキャスリンと二人で過ごす。
「あの子達、学園に通うかしら?」
「必要ないだろうがな、あいつには暇がないから通わんだろ。クレアも行きたがらんかもな」
「オリヴィア様が通うならクレアも行くわよ。周りの人を見ることも楽しいわ。いろんな人がいるもの」
「楽しかったのか?」
「それなりにね。微笑みの下で何を思っているのか、高位というだけで偉ぶる人、下位だからと卑下しない人、観察するのは好きだったの」
膝に乗る俺の髪を撫でながら心地よい声が昔を語る。
「クレアが通うならテオも通うだろう」
「そうね。あの子は常にクレアを守ってる。優しい子よ、貴方に面差しがそっくり…嬉しいの」
俺に似た子を喜ぶなどお前だけだぞ。
「お前は俺が好きだな」
「ふふっそうなの。貴方は素敵よ。真っ直ぐで優しくて素直なハンク」
どこをどう見たらそうなる…
「よくわからんな」
「私には貴方の感情を隠さずに教えてくれるわ。嬉しいの」
「そうか、お前に嘘は吐かん。お前に関しては胸が揺さぶられる。抑えられん」
陽射しに輝く薄い茶の髪と空色の瞳は俺の胸を高鳴らせ喜びを与える。
「もっと撫でてくれ」
微笑んだ美しい女は指先で頭を撫でて子守唄を歌う。ソファから垂れていた腕を持ち上げ額を指差すと赤い唇は弧を描き近づいて額に触れた。
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