花相戦記

梔子

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黄金の追憶

(3)

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 方哩山はさほど高い山ではない。闇の中、李瑛を含む新兵たちは山の崖沿いの茂みに沿って潜んでいた。崖の片方ずつにそれぞれ新兵が五百。下を見れば、山間の道が切り立った崖に両脇から挟まれるようにして通っている。
 ―――あの後。胡志城に籠って来たる敵軍を待ち受けるのだと、おそらくは場の誰もが思っていただろう。ところが使者を名乗った女は、馬淵といくつか話をした後、大急ぎで兵のほとんどを方哩山へと配置した。城に残っているのはおよそ一千足らずの寡兵のみというから、兵法に明るくない李瑛も驚くしかない。一体なにを考えているというのか。本当にこの使者に任せて大丈夫なのだろうかと思う気持ちもありはしたものの、疑問に構う余裕もないままに配置されたというのが正しかった。それくらい電光石火の配置だったのである。
 空はいよいよ暗く、時折雲の隙間から月明かりが差し込めば崖下の様子が伺えた。今のところ敵軍はおろか犬一匹通る気配すらない。
 「奴ら本当にここを通るのか…?」
潜んでいるうちの誰かがそうこぼした。李瑛とてにわかに信じられない。だが兵の後ろの方を確認していた使者殿は、その呟きに抑えた声で静かに答えた。
 「必ずここを通る。方哩山は高くはないけど木々がかなり密集しているから、大勢の騎馬が通り抜けるには向いてない。敵は夜の間にこちらを欺いて胡志城まで進んでおきたいはずだから、そうなると最短である山間のこの道を通るはずだ。一列に並んでね」
 「そこを弓で狙うのですか」
 「その通りだよ」
 李瑛の言葉に頷いて見せる女は、近くで見ると一層簡素さが目立った。その身なりだけではない。馬淵との会話から察するにそれなりの身分や地位を持つ人間のようではあったが、話し方や佇まいに気取ったところや見下した様子は見当たらず、挙句こうやって崖沿いに潜む新兵の指揮についている。
 (普通、指揮をする人間や隊長なんかはこんな前線に立たないんじゃないのか?)
 李瑛は内心でそう思ったが、兵を振り割ったあの様子を見ていると得体の知れない自称使者の女とはいえ多少は心強くはある。手にした弓が汗で滑るのを見て、李瑛は手のひらを握りなおした。自分で思っているより初陣というものに緊張しているのかもしれない。
 「さっきも言ったけど、絶対に守ってほしいことが二つ。ここに潜んでいることを悟られないこと。それから、二つ目は―――」
 そこまで言いかけたとき、女の元へ物見役が戻ってきて報告を寄越す。李瑛はその顔を見て、ついに来たのだと思った。いよいよ、戦うべきときが。
 …空気が変わったのを嫌でも感じた。まるで燃えるように肌がざわめく。指示通り息を殺しながら、李瑛は木々の隙間から山の下の方へ視線を向けた。焦れるような時の流れの中、少しずつ少しずつ、気配が近づいてくる。揺れる地面。鎧の金属音。そうしてその向こうに、初めて捉えた騎馬隊の姿があった。
 (―――こんなに、多いのか)
 馬は貴重なものだ。それ故に敵軍の二万すべてが騎馬であるわけもないことはもちろん理解している。だからこそ先鋒の騎馬隊だけでこの数というのはどれほどの敵が差し向けられているのかと、背筋が薄ら寒くなった。これに歩兵団や弓兵まで合わされば一体どれだけ圧倒されることだろうかと、李瑛には想像もできない。もっとも、このとき二万の軍勢を正しく思い浮かべられた者はおそらくこの新兵の中にはいなかったろうが。
 長い列を成して騎馬隊が進んでゆく。相手もまた警戒しているのか、皆一様に口を引き結び、馬を歩かせる程度の歩みである。そっと目の端で〝使者殿″の様子を伺うと、まだ待てと静止の手が伸ばされたままだった。物音を立ててはならない。気配を悟られてはならない。重い息苦しさが纏わりつく。まだかまだかと、そのときをひたすらに待つだけの時間が続いた。
 ―――二つ目は。
 噛んで含むように言われていたこと。逸りそうな気持ちをなんとか抑えることがこんなにも難しい。緊張状態が長く続いて、早鐘のように打つ心臓の音が響いてしまうのではないかと本気で思った。もういっそ始めてしまえたら楽だろうにと、李瑛が思ったとき。
 騎馬が、通り過ぎていった。そのやや後ろに続くのは歩兵団である。
 ―――今だ。
 指揮を執る女の手が振り上げられる。その様が、ひどくゆっくり見えた。
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