愛玩石

稲葉夏雲

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7話

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 彼女——猫守柳——が行くその道は幸いにも電柱やら、家やら、物陰が多い道だったから僕は安心して彼女を追うことが出来た。

 柳は駅のホームを出た後、直ぐに右に曲がって、山がある方向に向かった。かなりの大きさを持つその山にまるで向かうように建てられた家々はどこも古風な感じで、屋根が瓦だったり土塀がある所も、あった。

 どことなくそこは、宿場町のような雰囲気だった。

 柳はその住宅街をまるで猫が障害物でも避けるように、するするすると、しなやかな動きで進んでいった。
 僕はその動きを目で追うように、尾行した。

 瓦屋根、土塀、町行く人は洋服で、しっかりと現代の雰囲気を纏っているが、それが酷くアンバランスに見えるほど、その住宅街は江戸時代のような空気を湛えていた。

 暫く直線上に歩いた柳だったが、左に折れた。折れた道は軽い路地裏のようで、でも左右の塀が木製だからか、故に隙間が空いている塀だからか、開放感があった。

 その路地裏を曲がる時、路地裏の入り口に鉄線テッセンが咲いていた。いや、家の塀に絡まって、咲いていた。
 大きな花弁は真っ白で、花の中心は葬式を思わせる紫色だった。そこで葬式、なんていう縁起でもないワードが頭に浮かんだのはおそらく、この路地裏の入り口に至るまでに見た「〇〇様葬儀式場」という看板に影響されたのだろう。

 不吉だ。

 さて、柳は路地裏に入ると少し行ってすぐに右に折れた。路地裏は右に折れる道より先にも伸びていたが、やはり突き当たりで右に折れていた。

 僕も続いて右に折れる。というか、バレないように、曲がり角から顔を出すだけだが。

 曲がり角から顔を出すと、前にはすっかり大きく迫った、山が聳えていた。
 遠目から見てもかなり大きさがあった山は遠近法の関係か、近づくと、更に大きく、威圧感を持って僕の視界を覆った。その威圧感はまるで、昔の体育教師みたいだった。

 そんな事を考えている内に柳はどんどん、するする、しなやかに道を進んでいってしまう。早く追わなければ、確実に見失ってしまう。
 僕は急いで塀から次の塀へと移動する。

 するとさっきまでの位置——山が正面に見えていた所——からは見えなかった物が見えた。

 非常に大きな家だった。そして非常に、というのは失礼なぐらい、ではなく、その地に根付いたような、という感じの、他の家とは比べものにならないくらい古そうで、厳しい雰囲気を孕んだ建造物が、そこにはあった。

 外壁は一面木製で、板と板との間がきっちりと詰まった、立派な外壁。うす汚く、汚れてはいるが、雨風から家に住む人間を必死で守ってきたことを語るような、勇ましい瓦。しかも江戸時代からありそうな家なのに、二階建てだ。江戸時代は身分制度で二階建てが庶民には禁止されていたと何処かで聞いたが、それはつまり、この家の主はその当時に二階建ての家を建てられるぐらいの身分があったということなんだろうか。

 まあ、僕には家に対する鑑識眼などこれっぽっちも持ち合わせてはいないから、勝手に江戸時代に作られただろうなどと言うのは失礼なこと甚だしいが。

 柳はその家の方向——向かって左——に、進んでいった。柳が左に曲がったところより先にも道は伸びていたが、やはり突き当たりで左に折れていた。

 ——というか、

 何だ? なぜ彼女がこんな家に向かうのか。もしかして実家か何かなのだろうか。

 僕は彼女と一年と少し付き合っていたが彼女の実家に関する情報を、確かに聞いてはいなかった。だがそれにしても……

 こんな家の出とは知らなかった。少し感心した、というか、感嘆した。
 でも、感心も感嘆も、出来るような立場では、僕はなかった。

 まず彼女と別れているし、ましてや尾行などしているのだ。そんな僕が彼女のことについて何か言う事など、できやしない。いや、する理由が分からない。

 僕は、彼女を追って、何がしたかったのだろう。

 元々の僕の目的は、逃げることだった。自分の過剰な被害者意識と、被害妄想から逃げるために、逃げたのだ。

 つまり、彼女を追いかけるのは僕が逃げるための手段だったのか? それが彼女を尾行する理由なのか?  彼女について行って、それで、何とかして逃げる。そういう無計画な、とっ散らかったプランだったのか? だとしたら、今、プランから外れ、目的と手段が入れ替わってしまっている。別に彼女を追って何をしたいというわけでもない、逃げることが目的なのに、彼女を追うことが目的になっている。

 僕は本当に、彼女と釣り合わない人間だ。

 考えを巡らせても、時間は止まってはくれない。僕はその屋敷の方向にずいぶんと遅れて向かった。

 彼女の姿は、もう無かった。
 そりゃそうである。ずっとその場に立ち止まって考え込んでしまっていたのだ。当然彼女はどこかへ行ってしまった。
 どこに、行ったのだろう。

 まあ、それは僕は大体分かっていることだった。多分、あの立派な、厳かな建造物だろう。

 僕は目的を、本当に失ってしまった。彼女を追うことが目的になってしまった僕は彼女を追えなくなって、目的を失ってしまった。

 僕はどこへ行けば良いのだろう。

 そんな事を考えていると、携帯電話が鳴った。僕は肩からぶら下げていたメッセンジャーバッグを漁って、音の発信源を探る。バックの中には無駄なものだ沢山入っていて大層探しづらかった。が、スマホは上の方に出てきていてすぐに見つかった。

 スマホに表示されている発信者は、見知らぬ番号……いや、下四桁が零一一零だった。
つまり、警察からの電話である。

 酷く不安になった。脳髄が揺さぶられるような感覚だった。

 ——本当に——

 僕が犯人だと、警察は思ってしまったのか? 僕は、犯人じゃない。
 怖くて、不安で、不安定で、僕は塀に手をかけた。そして、その場でしゃがみ込む。目の前が貧血の時のような、モノクロオムのような世界になって、僕の心すらもモノクロオムになってしまいそうだった。否、もう、僕は白黒なのかもしれない。

 そんな風に僕がなっている中でも、容赦なくスマホは鳴り響く。着信音が大音量に聞こえた。

「大丈夫ですか?」

 と、後ろから、声をかけられた。
 その声は濁声、とまではいかずとも、喉が少々潰れているような、そんな声だった。

 返事など、できる訳が無い。僕はただ、その方向に微かに目の筋肉を動かして視点を向け——首すらも、プルプルと痙攣してしまって動かせない——、その人を見た。

 その声は、その声の主は、白装束の、坊? の様な男だった。
 視界にまだ色彩が戻ってきていない。だから坊の男が水墨画に描かれた無表情の、案山子のような無機質な、不吉な物体に見えてしまった。だが坊の男はそう見えたことが、自分の精神状態、身体状態故ではないと言われても頷けるほど、即物的な不吉なオーラをまとっていた。

 「気分でも悪いのですか?」

 さらに近寄って、白装束の坊は言う。

 怖い。

 素直に、そう思った。新興宗教の関係者のような怖さとか、殺人を犯しそうな人の怖さとは全く別の次元の、掴みどころのない、鰻の様なぬめぬめとした不気味さが、その男にはあった。

 僕はそこまで思考の整理がつくようになって、漸く応答する。

「あ、ああ、大丈夫です。ちょっと気分が悪くなってしまって」
「それなら良いんですが……そうですね、貴方は此処ここに何をしに?」

 言葉にも怪しさが滲んでいた。普通、道端でしゃがみ込んでいる人に声をかけて、お前はここに何をしに来たなんて開口一番——正確には開口二番だが——に聞く人は寡聞にして聞いたこともないし見たこともない。

 本能が、関わるなと言っている。

「いや、その、別に……」
「そうですか、でも、この路地に来る人なんていませんから。こんな路地裏もどきに来る人なんて、猫守さんの関係者しかいませんから」

 今、なんと言った? この路地に来る人は猫守さんの家の関係者しか来ない?

 ——関係者しか通らない道。

 そうだ、今、思い返してみれば、この路地に入ってきた時は道こそあれ、すべての道が最終的には右に折れるような構造になっていた。そして柳を追って左に曲がると次は左に全ての道が曲がっているよう——だった。その後はよく覚えていないが、つまり、この路地の道というのはどんな道を選んだとしても、最終的には同じところに行き着く?

「僕は別に猫守さんの関係者じゃ……」
「そうですか、では迷ってしまったと?」

 その言葉には後ろに「普通迷うことなんかないだろう」という言葉を聞いた気がした。
 そして少し顔を下に向け、何か考えたような素振りを見えたあと、

「まあ、そうか、あなたこの街の人じゃないのかい?」
「ええ、そうです」

「ふうん……とりあえず、私の家で一休みして行きなよ」

 こういう時、こういう台詞が出てくるのは田舎だからということなのだろうか。でも、僕は別に行く気はなかったし、裏がありそうだから行きたくもなかった。

「ああ、いえ、大丈夫です」
「そう、でもさ、君、随分と猫守さんの家、見てたよね」

 やはり、あの立派な家は猫守家だったようだ。しかし、その発言は、多かれ少なかれ、悪か善か、含蓄のある言い方だった。

 それは、悪の含みを持っているように聞こえた。

「すいません失礼します」
「ちょっと、待って——」

 僕は男の言葉を待たずに走り出した。猫守家とは真逆の方向に、できる限りの速度で走った。男の気配は後ろに感じるが、遠ざかっていくのは確かだった。

 目の前に見える曲がり角を曲がる——そこで、視界が暗転した。暗転、というのは単に暗くなったとか、気を失ったとかじゃなくて、暗転という文字面の通り、視界がグルンと、前方に回転して、そのまま頭に鈍い衝撃が食わり、視界が暗くなった。

 僕はこの時、視界が前に転がった瞬間、ほんの一瞬地面を向いた目が猫のような、中途半端な大きさの「何か」を捉えていたような気がした。そして、その「何か」が僕を転倒させる瞬間、背後で「やはり」と聞こえた気がしたが、気の所為だったかも知れない。
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