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1巻
1-3
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「先週の市民大会で当たった」
「へえ、それで結果はどうだったの?」
優斗が、露骨に苦い顔をした。
「負けたよ。ゲームカウント〇対二。スコアは十対二十一、十一対二十一とかそんな感じ」
うへえ、予想通りだ。身内の贔屓目を差し引いても、優斗は弱い選手ではない。幼少期からバドミントンを始めた優斗は、小学生時代の戦績で私を上回る。そんな優斗が、ほぼダブルスコアの大差で負けるということは、渚の弟も相応にバケモノってことだ。
「そっか……。強かったか、やっぱ」
「めっちゃ強かった。そんでアイツさ、汗一つかいてなかった」
ははは……。諦めに近い笑みが自然と漏れる。それにしても、嫌な奴のことを思い出させやがって。この際だからはっきり言ってしまうが、私は中津川渚のことが――
――大嫌いなんだ。
人間誰しも、得手不得手というものがあるだろう。
例えば私の場合、得意なのは絵を描くことでありバドミントン。苦手なものは……恋愛。恋愛が苦手な女性には、いくつか特徴があるのだという。
・仲良くなるのに時間がかかる
・無趣味で話題が広がらない
・受け身すぎる
・スキンシップが嫌い
・男性を異性として意識しすぎる
・めんどくさがり屋である
・嫌いになるのが早い
・自己表現が苦手
・オヤジ化している ……オヤジ化ってなんだよ。
「うーん……。該当せず。該当せず。該当せず。該当せず。該当せず。該当。該当。該当。微妙。うーん……」
休み時間。スマホを片手にぶつぶつ呟いていると、隣の空席に理紗が腰を下ろした。
「何それ? 誰かに呪いでもかけるつもりか?」
「なんでもない。五分でできる簡単なアンケートみたいなもん」
今抱えている悩みを馬鹿正直に相談したら絶対笑いのネタにされるだけなので、理紗にだけは言いたくない。
恋愛がわからない、と思い悩んでいる私の元に、突如として舞い降りてきた難題というか、平々凡々と続いていた日々に紛れ込んできた異物とでもいうべきか。それは、転校生である長谷川拓実君その人だった。
いったいどういう風の吹き回しか、特に用事がなくとも彼が頻繁に話しかけてくるようになった。その言葉の多くは、私の意識が向いていない先から唐突にかけられた。
例えば朝の昇降口。教室に向かっていると、後ろから来た拓実君に髪をわしゃっと乱される。「髪の毛ぐしゃぐしゃになるよ」と怒ると、「触りやすい場所にあったんだよ」と子どもじみた言い訳をされた。
例えば部活動が終わったあとの体育館。理紗と二人で帰ろうとすると、後ろから割り込んできて肩を組んでくる。「馴れ馴れしいのよ」と直球で不満を告げてもどこ吹く風。「あれ? 顔が赤いよ。もしかして俺に惚れちゃった?」と邪気のない顔で舌を出した。
私の顔が紅潮していたとしても、それはセクハラめいた君の言動のせいだろう? 席が隣なのだし、いい加減に慣れても良さそうなものだが、いつまで経っても私の体には免疫も抗体も形成されず、都度仰々しく驚くばかりだ。
やっぱり男子って苦手。
距離感のおかしい彼の接し方は、私のみならず理紗にも影響を及ぼしていた。彼に対する言動が、妙にぎこちなくなった。三人で駅まで歩く道すがら、彼女にしては不自然に口数が少なくなるし、拓実君がいなくなればなったで、直近で入手した彼の情報をこと細かに披露してみせた。
例えばこんな話だ。彼が住んでいるマンションは、理紗の家からそこそこ近い場所にあること。中学の頃交際していた相手は、彼と同じバドミントンサークルに所属していた女の子であること。見た目によらず絵を描くのが好きで、水彩画を描いていた時期があること。
「水彩画?」と一瞬驚き、そういえばそんな話を聞いたなあ、と心の片隅で思う。
ここで話が終わるなら、頭を悩ますこともない。風になぶられた水面の如くさざめく心を因数分解すると、いくつかの感情が浮き彫りになってくる。掴みどころのない彼に不満を抱きつつも、異性として意識し始めている自分への違和感と、親友と同じ人を、好きになるかもしれないことへの不安とが。ろくに恋をしたこともないのに、三角関係とか荷が重い。
彼のことは嫌いじゃない。むしろ話しやすいし好きだとも思う。
かといって、「好き」と思うこの気持ちが「恋」なのかわからない。これは一時の気の迷い。彼に、無意識のうちに佐々木君の面影を重ねてしまうせいなんだ。きっと。
部活中の休憩時間に、理紗と拓実君が談笑していた。
理紗の心境の変化は、薄っすら透けて見えていた。
だから私は、この場所から見守るだけだ。
季節は七月の初め。夏らしい暑さと蝉の声量が日々増していく中、一学期の期末考査が終わる。採点が終わり返ってきた答案用紙を片手に、私は頭を抱えていた。
「なあ煮雪。ここの因数分解の解き方、わかった?」
二時限目の数学が終わったあとの休み時間。こんな質問をぶつけてくる拓実君に、種々雑多な思いをこめて端的に返した。
「訊く相手、間違えてる」
「え、やっぱり難しかったよね?」
「うん、もちろん。しいていうなら、どこが難しかったのかがわからない」
「それって、どっちの意味?」
「答案用紙見りゃわかる」
百聞は一見に如かずと、答案用紙を拓実君に差し出した。私から用紙を受け取ると、点数を見つめて彼が目を見張った。
「八十一点。驚いた。意外と良いじゃん……」
驚いたってなんなの。でも、その驚き方は違う。
「君君、逆だよ。上下逆」
「へ? ああ、逆か」
慌てて用紙を逆さまにして、彼が哀れみの目でこっちを見た。
「……」
「わからなすぎて、どこが? とは、うまく言語化できない」
「なんていうか、ごめん。俺、気が利かなくて」
「なあに、いいってことよ。いつものことだから」
決まり悪そうに頭を下げた彼の言葉を一蹴する。次から本気出す。永久に本気を出せない人の常套句だけど。
とかく勉学に関しては、私より理紗のほうが優秀だ。それは彼だって心得ているはずだが、まず私に声がけをして、次に理紗のところに向かう習慣があった。けれど、これもきっと勘違い。理紗を差し置いて、私が自惚れるわけにはいかない。特別な想いが溢れた表情を彼に向ける理紗を見るたび、きゅうっと胸の中心がしまる。日々強くなる後ろめたさとともに。
部活が終わると、今日も三人連れ立って駅まで歩く。なんとなく続いている、私達の曖昧な距離感。他愛もない話で盛り上がっている理紗と拓実君の一つ隣で、胸がひりひりしている私。
彼の一挙一動が気になる。話しかけられると過敏に反応してしまうし、心拍数が跳ね上がる。だからきっと、私は彼に惹かれている。とはいえ、これが恋愛感情なのか、それとも単なる憧れにすぎないのか。感情の行方は相変わらず五里霧中。
そう。なんていうんだろう。やっぱり甘くはならない。
例えるならば、熟れることなく青いまんまの蜜柑。放り投げても弾んでこない、そんな感情。彼が好きだと結論を出そうとしても、本当にそれでいいの? と冷静に一線を引く自分が同時にいる。今の関係を壊したくないというか、友達みたいな曖昧な関係でいいじゃん、と思ってしまう。結局のところ、よくわからない。彼とどんな関係を築きたいのか。自分の気持ちがわからない。
「んじゃ、今日は俺、これから塾なんで。したっけ、煮雪、菅原」
「おう」
「したっけ、拓実君~」
だから今日も、未成熟な気持ちを胸に隠したまま、適当な挨拶を交わして別れた。
ふう、悩み事が、細い息となって漏れた。
「部活が終わってから塾通いだなんて、頑張るよね拓実君」
「ああ~……そうだねえ。なんでも行きたい大学が決まっているから、受験に向けた準備を今から始めているんだってさ」
「そうなんだ?」
「らしいよ。人伝に聞いた話だから、私も詳しいことは知らんけど」
理紗の質問に答えながら、ついでに情報を足しておく。
まあ、感心しているのは私だって同様だ。まだ高校一年生だし、と現状に甘え、将来設計もせずに漫画ばかり描いている私とは雲泥の差だ。むしろ、彼の爪の垢でも煎じて飲むべきだろう。学校と部活動が終わってから塾なんて私には想像もできない。そんな勤勉な学生には、何年経ってもなれそうにない。
「すごいね、拓実君。どこの大学狙ってるのかな?」
「さあ? そこまでは。なんでも、文科系の大学らしい」
言いながら思った。かつて私も、四年制大学の芸術学部を目指していた頃があったなあ、と。水彩画をやめているのだから、お察しだが。
「将来の夢、かあ……。侑はなんか考えてる?」
「う~ん。そうだなあ」
せっかくなので、真面目に考えてみた。
「自堕落な生活をしているだけで、どこからともなく金が湧いてくるような生活がしたい。そうか、油田でも掘り当ててみるか」
「油田を掘り当てるまでの労力、考えてないしょや? やっぱりバカだった」
ダメだこりゃ、と言わんばかりに理紗が両手を広げた。失礼な。アンタだって何もないだろう?
駅に着き、改札を通ったところで理紗と別れる。乗る路線が彼女とは反対方向だからだ。定刻通りにやってきた電車に乗り、地方路線にありがちな四人掛けボックス席の一つにどっかりと腰を下ろした。
通学鞄からBL漫画の原稿を取り出そうとして……またしまう。この間覗き見されたばかりだし、やめておくか。
電車は市内を過ぎた所まで来ており、車窓越しの景色が繁華街から田園に移る。
「こんばんは、月華ちゃん。今帰り?」
その声に顔を上げると、隣のボックス席に優子さんがいた。白いブラウスを着て、踝丈のジーンズを穿いている。荷物を抱えてすっくと立ちあがり、彼女がいる席まで移動する。断りなく隣に座って、大袈裟に咳払いをした。
「えーと。この間は、投稿サイトに感想をいただきましてありがとうございました」
「いえいえ、どういたしまして」
「それでですね」
極限まで潜めた声で告げた。
「……月華ちゃんはやめてください。そのペンネームは絶対的タブーです。人前で言ってはいけません」
すると彼女はケラケラと乾いた声で笑った。おい、笑いごとじゃないんだよ。人の身にもなってくれ。
「そっかそっか、ごめんね。だってあなたの名前を知らないんだもの。他に呼び方がなかったの」
ああ、確かに。筆名しか教えていなかった自分の迂闊さを恥じる。なんだよ、自分で墓穴掘ってただけしょや。
「煮雪侑です。侑とでも呼んでください」
「にゆきさん」
子どもが初めて聞いた単語を呟いたみたいに、カタコトだ。なんなんですかそれ。
「煮えるに雪って書いて煮雪です。私は聞き慣れていますが、かなり珍しい苗字らしいですね。なんでも、北海道以外にはほとんどいなくて、北海道でも十数軒しかないんだったかな?」
「へえ、そうなんだ」
「なんか、あんまり驚いていませんね?」
「ん、そうでもないけど」
「ま、別にいいんですが。そういえば私も、優子さんのフルネーム伺ってないです。いや、訊く必要ないのかもしれないですけど、なんか気になっちゃいまして」
「山口よ。山口優子。改めましてよろしくね、侑」
そう言って、右手を差し出してくる。どうやら握手を要求されているらしい。断る理由もないので応じると、優子さんはニッコリと花のように笑んだ。
「ところで、漫画……どうでした?」
こわごわそう訊ねると、優子さんは腕組みをしてう~ん、と唸った。
「絵は綺麗で上手だし、内容もちゃんと面白い。でも、なんていうんだろう。ちょっとした違和感が」
「違和感ですか」
明らかにネガティブな感想が寄せられようとしていることに心が沈む。でも、悪い意見から目を背けていては、成長できないのも確か。サイトに寄せられる感想は、当たり障りのないものに留まる傾向が強いため、こういった意見こそ重要なんだ。
「登場人物が互いに惹かれていく過程にリアリティがないというか、安直というか、そんなことで好きになるかなあ? という感じはちょっとしたんだよね」
心当たりがある、と落胆してしまう。
「やっぱりそうですか。自分でも感じていた部分です、それは」
「そう? じゃあ言ってよかった。批評じみたことを言うのも失礼かな、と思ったんだけど」
「いえいえ、大丈夫ですよ。どうしてそこが課題なのか、自分でもわかっているんです。私は、恋というものがよくわからないので」
まさにタイムリーな話題。これには意識の外から溜息が出た。
「え? どういうこと?」
「恋に落ちる感覚ってのが、よくわからないんですよ。もうずっと、本気で誰かを好きになったことがないですし」
「ふ~ん……。あなた、素材は悪くないのに、意外というかもったいないわねえ。誰かいないの? 気になっている人」
頭の中に佐々木君の姿が朧げに浮かび、それはすぐに拓実君で上書きされた。
「いると言えばいるんですけど、付き合いたいとか、恋人になりたいとかは特に思わないですね」
「それ、ほんとに気になっているの?」
「……だとは思うんですが」
改めて指摘されると、自信がなくなってしまう。自分でも落としどころがない感情の話だけに、第三者にどう伝えていいのか、さっぱりわからない。
「なるほど。抱いている感情を、友情と恋愛のどちらに区分けするべきなのか、侑の中で答えが定まっていないのかもね。一度熱い恋でもすれば、一息に変わりそうだけど。どうやら、侑に必要なのは経験ね。恋愛の経験値が不足しているのかも」
「たぶん、仰る通りです」
襟足をかきむしりながら、レンアイノケイケンチ、なんか良い言葉だな、と思う。
どうして自分が恋をできないのか。本当はなんとなくわかっている。私はまだ怖いんだ。本気の恋に踏み出して、それが掌から零れ落ちて、傷つくのを恐れている。初恋の思い出を引きずるあまり恋ができない私は、言うまでもなく経験値=ゼロだ。装備はひのきの棒と布の服。恋を追い求める勇者にはまだなれそうもない。でも、どうしたらいいのだろう。四の五の言わずに、拓実君に告白したらいいのだろうか。……いやいや。好きかどうかもわからないのにそれは順番がおかしい。そもそも、告白する勇気だってない癖に。
恋人にならなくても良い「好き」って、恋なのかな……
ぼんやりと、電車の揺れに身を委ねているうちに、私が降りる駅に着いた。鞄を手に取り立ち上がる。
「今日はつまんない話に付き合っていただき、ありがとうございました。それではまた」
「じゃあね侑。頑張って」
笑顔で手を振る彼女に会釈を返すと、私は電車を降りた。
* * *
騒々しい蝉の声は影を潜めて、山野が赤く色づく秋がきた。
秋の訪れを告げる鮭の遡上。南瓜やさつま芋の収穫も始まり、台風の被害を受けることが少ない北海道においても、比較的雨の日が多くなった。残暑の気配は次第に遠のき、秋の深まりを肌身で感じられるようになっていた。
暦は十月の初旬。瞬く間に季節は移ろい、大嫌いな中津川渚とは過度な接触を避け、日々は平穏無事に過ぎ去っていた。と話を締めくくりたいところだが、有為転変は人の世の常とでも言うべきか、私と彼女との間で、ちょっとした事件が起こる。
放課後の掃除を終えると、理紗と二人で足早に体育館へと向かう。全道大会――北海道高等学校新人バドミントン大会――への出場権をかけた秋季地区予選会が近いため、バドミントン部の練習も最終調整に入っていた。掃除当番に当たり遅くなったぶん、練習が始まっていたとしてもおかしくない。体育館に着き、木製の大きなドアを開けて隙間から体を潜り込ませると、部員らによる柔軟体操がすでに始まっていた。
「掃除ご苦労さん、煮雪。菅原」
入り口付近で柔軟体操をしていた拓実君が声をかけてくる。それに応えながらラケットバッグを背負い直し、視線を左右に配った。
「げ。アイツ来てんじゃん」
「そりゃあな。予選会も間もなくだし、ようやく重い腰を上げたんじゃないの?」
「お~確かに。珍しく来てるべさ」
私と拓実君のやり取りに釣られ、理紗もアイツに視線を向けた。
三人が話題にしている『アイツ』というのが、中津川渚のことである。苦々しく歪んでいるだろう顔を私が向けると、アイツも正面から睨み返してきた。こっち見ないでよ、という圧を視線にこめると、渚はふい、と顔を逸らした。頭頂部で結わえた茶髪のポニーテールがふわりと揺れた。細身ながら、しっかり筋肉が付いた渚の肢体は、しなやかなネコ科の動物を思わせる。ぱっちりした瞳と細い顎。学年随一といえる整った容姿の彼女は、立っているだけでも存在感が際立っている。その洗練された立ち姿に、また苛々してしまう。
渚はシングルス専門なので、高校入学後、ダブルス専門に切り替えた私との対戦はもうない。だが、仮に今シングルスで彼女と対戦したとして、勝てる気はまったくしない。大変に不本意かつ悔しい話ではあるが、その程度には自分と力の差があると思う。三年生が引退するまで団体戦のメンバーにも入れなかった私にとっては、完全に雲の上の存在。
ところが、重大な問題点が彼女にはある。
素行があまりよろしくない。というか、端的に言って部活をよくサボるのだ。その傾向は、三年生が抜けてからより顕著になった。顔を出したのだって、確か一週間ぶりだ。それだけじゃない。長期間にわたる無断欠席をしていたにも関わらず、アイツは申し訳ないという素振り一つみせない。無論、頭の中で何を考えているかなんて知らないし、知ろうとも思わない。だが少なくとも、私の目には反省の色なんて微塵も見えない。その事実に益々苛々する。
無駄に苛々したまま部室に向かって着替えを済ませると、柔軟体操をしている輪に合流する。練習中もダブルスとシングルスで分かれることが多いため、アイツとの絡みは希薄だ。お互い不干渉を貫くには、都合のいい環境なのだ。だがそれでも、柔軟体操をしている時など、どうしても接近するタイミングはある。
私は「こっち見てんじゃねーよ」というオーラを醸し出す。渚は渚で「あんたみたいな虫ケラになど興味ありませんわ」と憐憫の目を向けてくる。こちらが一方的に渚を嫌っているだけな気もするが、それは些末事。私はコイツが嫌いなんだ。
睨み合ったまま足が止まっていると、キャプテンである二年生の澤藤萌香に窘められた。
「ほら、集中。手も足も止まってるよ。一年生」
「はい、すみません」
殊勝に頭を下げた。反省していますというアピールだ。一方で渚の奴は、スっと顔を伏せただけで、そのまま柔軟体操に戻っていった。コイツ……こういう態度がまた気に入らない。
練習に入ろうとした矢先、顧問の教師が全部員に招集をかけた。
数日後に迫った地区予選会に向けての展望と注意事項が、先生とコーチから伝えられていく。部内でイケメンと噂のコーチが、「今度は怪我などしないように」と渚に声をかけた。眉目秀麗な二人を横目に、「け」と悪態をつきたくなるが、最近番手が一つ上がったのだしと、溜飲を下げておく。
番手が上がったということは、団体戦で確実に出番が回ってくるということで、責任重大だ。どうでもいいことで心を乱している場合じゃないのだ。
「じゃあ、解散。各自練習に入ってください」
先生の声を合図に、三々五々部員達が練習に戻っていく。澤藤先輩の指示により、レギュラー組は試合形式で、キャリアの浅い一年生は、空きコートで乱打を始める。私と理紗のペアは、団体メンバー外の二年生と試合形式で練習を始めた。
バドミントンは見た目以上にハードなスポーツだ。
ダブルスは特にそう。人数が多い分、ゲーム展開はシングルスより圧倒的に速い。やみくもにスマッシュを打ち込んだり、高く打ち上げるショット――クリアで時間稼ぎを狙ったりしても、そう簡単に流れは引き寄せられない。自分がいない場所はパートナーが埋めるのだからと信じ、二人で効率よくローテーションを回していく必要があるのだ。相手が取れない一打を狙うより、打たせながら相手のミスを誘う攻め方がセオリーだ。個人技だけでは勝てない。二人の呼吸や相性も良くないと、勝利の女神が微笑まないのがダブルスなんだ。
「一本!」
私が声を出すと、パートナーの理紗が呼応する。彼女はラケットを押し出すようにして、低い弾道のショートサーブを放つ。練習相手の二年生ペアが対抗し、シャトルが素早く互いのコートを行き来していく。
再三プッシュを狙う理紗の動きを嫌った相手がクリアを上げてくる。予想通り! 私はステップを刻むと、相手コートにスマッシュを打ちこんだ。対応した相手前衛の甘いレシーブを理紗が待ってましたとばかりに押し込む。
「ナイスショット侑!」
「ナイス前衛! あんがと理紗!」
レギュラー組が負けてられるか、とばかりにゲームカウント二対〇で退ける。続けて試合に入る二年生と交代して線審を行っていたその時、事件は起こった。
「侑。申し訳ないんだけど、中津川さんとシングルスで戦ってくれない?」
澤藤先輩からかけられた言葉に、ぞくりと背筋が冷え込んだ。
「澤藤先輩、私、基本的にダブルス専門ですけど」
「そりゃ知ってるよ。今丁度手が空いている相手がいないのよ。中津川さんにダブルスの人とやってみる? って訊ねたら、侑がいいって言うからさ」
「はあ? 私ですか?」
これには腑抜けた声が出る。道北高校バドミントン部の部員数は、男女合わせて二十四名。数ヶ月前に三年生が引退してこぢんまりとしたことで、ダブルスだけ、またはシングルスだけで練習をすると人数が不足することはたびたびあった。こういった帳尻合わせはわりと起きる。
まあ、それはいい。それにしてもだ。
なん……だと。私がいいだと!?
冗談でしょ? 驚愕の展開に慄きながら渚に視線を送ると、アイツはニヤっと唇の端を歪めてみせた。言葉にこそしていないが、彼女の顔には「やるの? それとも逃げる?」と書いてあった。アノヤロウ舐めやがって。望むところだ。
「やります。ええ、やってやりますとも」
「ああ、そう? じゃあお願いできるかしら。ごめん一年生、誰か煮雪さんと線審変わってくれない?」
私の声色がやたら低いのに驚いたのか、澤藤先輩は顔を引きつらせながら手近な一年生を呼びつける。その子に線審を任せると、ラケットを握って隣のコートに向かった。
手持ち無沙汰な様子で、渚は待機していた。私は表情を殺して彼女の正面に立つと、ネットの下から握手を要求する。一応のスポーツマンシップというものだ。テメーと握手をするわけじゃない。スポーツの神様に、私は敬意を示しているんだよ。
「ヨロシクお願いします」
「ちょっと痛いわね、煮雪さん。握力でしか勝てないのかしら?」
渋々握手に応じながらも、渚が皮肉で返してくる。無自覚だったが、どうやら握る手に力が入りすぎていたようだ。脳筋で悪かったなコノヤロウ。脳内で暴言を垂れ流し、じゃんけんをしてサーブ権を決定する。勝った私はサーブを選択した。
シャトルを片手に渚の様子を窺う。全身から力の抜けた、ゆったりとしたフォームでラケットを構えていた。スタートが肝心。初っ端から、スピードで圧すよ。
シャトルをリリースすると、ネットスレスレの軌道でショートサーブを打ち込んだ。渚のレシーブは、逆サイドに緩い弧を描く軌道で返ってくる。瞬発力なら、私だって負ける気はない。素早く落下点に移動すると、渚のいない場所に瞬時にシャトルを押し戻した。
決して、悪いコースではなかった――はずなのに。
空いていたはずの空間には、いつの間にか渚がいた。そこから放たれてきたカットスマッシュはネットを超えた所で失速し、私の足が届かないコートの端に落ちる。
「へえ、それで結果はどうだったの?」
優斗が、露骨に苦い顔をした。
「負けたよ。ゲームカウント〇対二。スコアは十対二十一、十一対二十一とかそんな感じ」
うへえ、予想通りだ。身内の贔屓目を差し引いても、優斗は弱い選手ではない。幼少期からバドミントンを始めた優斗は、小学生時代の戦績で私を上回る。そんな優斗が、ほぼダブルスコアの大差で負けるということは、渚の弟も相応にバケモノってことだ。
「そっか……。強かったか、やっぱ」
「めっちゃ強かった。そんでアイツさ、汗一つかいてなかった」
ははは……。諦めに近い笑みが自然と漏れる。それにしても、嫌な奴のことを思い出させやがって。この際だからはっきり言ってしまうが、私は中津川渚のことが――
――大嫌いなんだ。
人間誰しも、得手不得手というものがあるだろう。
例えば私の場合、得意なのは絵を描くことでありバドミントン。苦手なものは……恋愛。恋愛が苦手な女性には、いくつか特徴があるのだという。
・仲良くなるのに時間がかかる
・無趣味で話題が広がらない
・受け身すぎる
・スキンシップが嫌い
・男性を異性として意識しすぎる
・めんどくさがり屋である
・嫌いになるのが早い
・自己表現が苦手
・オヤジ化している ……オヤジ化ってなんだよ。
「うーん……。該当せず。該当せず。該当せず。該当せず。該当せず。該当。該当。該当。微妙。うーん……」
休み時間。スマホを片手にぶつぶつ呟いていると、隣の空席に理紗が腰を下ろした。
「何それ? 誰かに呪いでもかけるつもりか?」
「なんでもない。五分でできる簡単なアンケートみたいなもん」
今抱えている悩みを馬鹿正直に相談したら絶対笑いのネタにされるだけなので、理紗にだけは言いたくない。
恋愛がわからない、と思い悩んでいる私の元に、突如として舞い降りてきた難題というか、平々凡々と続いていた日々に紛れ込んできた異物とでもいうべきか。それは、転校生である長谷川拓実君その人だった。
いったいどういう風の吹き回しか、特に用事がなくとも彼が頻繁に話しかけてくるようになった。その言葉の多くは、私の意識が向いていない先から唐突にかけられた。
例えば朝の昇降口。教室に向かっていると、後ろから来た拓実君に髪をわしゃっと乱される。「髪の毛ぐしゃぐしゃになるよ」と怒ると、「触りやすい場所にあったんだよ」と子どもじみた言い訳をされた。
例えば部活動が終わったあとの体育館。理紗と二人で帰ろうとすると、後ろから割り込んできて肩を組んでくる。「馴れ馴れしいのよ」と直球で不満を告げてもどこ吹く風。「あれ? 顔が赤いよ。もしかして俺に惚れちゃった?」と邪気のない顔で舌を出した。
私の顔が紅潮していたとしても、それはセクハラめいた君の言動のせいだろう? 席が隣なのだし、いい加減に慣れても良さそうなものだが、いつまで経っても私の体には免疫も抗体も形成されず、都度仰々しく驚くばかりだ。
やっぱり男子って苦手。
距離感のおかしい彼の接し方は、私のみならず理紗にも影響を及ぼしていた。彼に対する言動が、妙にぎこちなくなった。三人で駅まで歩く道すがら、彼女にしては不自然に口数が少なくなるし、拓実君がいなくなればなったで、直近で入手した彼の情報をこと細かに披露してみせた。
例えばこんな話だ。彼が住んでいるマンションは、理紗の家からそこそこ近い場所にあること。中学の頃交際していた相手は、彼と同じバドミントンサークルに所属していた女の子であること。見た目によらず絵を描くのが好きで、水彩画を描いていた時期があること。
「水彩画?」と一瞬驚き、そういえばそんな話を聞いたなあ、と心の片隅で思う。
ここで話が終わるなら、頭を悩ますこともない。風になぶられた水面の如くさざめく心を因数分解すると、いくつかの感情が浮き彫りになってくる。掴みどころのない彼に不満を抱きつつも、異性として意識し始めている自分への違和感と、親友と同じ人を、好きになるかもしれないことへの不安とが。ろくに恋をしたこともないのに、三角関係とか荷が重い。
彼のことは嫌いじゃない。むしろ話しやすいし好きだとも思う。
かといって、「好き」と思うこの気持ちが「恋」なのかわからない。これは一時の気の迷い。彼に、無意識のうちに佐々木君の面影を重ねてしまうせいなんだ。きっと。
部活中の休憩時間に、理紗と拓実君が談笑していた。
理紗の心境の変化は、薄っすら透けて見えていた。
だから私は、この場所から見守るだけだ。
季節は七月の初め。夏らしい暑さと蝉の声量が日々増していく中、一学期の期末考査が終わる。採点が終わり返ってきた答案用紙を片手に、私は頭を抱えていた。
「なあ煮雪。ここの因数分解の解き方、わかった?」
二時限目の数学が終わったあとの休み時間。こんな質問をぶつけてくる拓実君に、種々雑多な思いをこめて端的に返した。
「訊く相手、間違えてる」
「え、やっぱり難しかったよね?」
「うん、もちろん。しいていうなら、どこが難しかったのかがわからない」
「それって、どっちの意味?」
「答案用紙見りゃわかる」
百聞は一見に如かずと、答案用紙を拓実君に差し出した。私から用紙を受け取ると、点数を見つめて彼が目を見張った。
「八十一点。驚いた。意外と良いじゃん……」
驚いたってなんなの。でも、その驚き方は違う。
「君君、逆だよ。上下逆」
「へ? ああ、逆か」
慌てて用紙を逆さまにして、彼が哀れみの目でこっちを見た。
「……」
「わからなすぎて、どこが? とは、うまく言語化できない」
「なんていうか、ごめん。俺、気が利かなくて」
「なあに、いいってことよ。いつものことだから」
決まり悪そうに頭を下げた彼の言葉を一蹴する。次から本気出す。永久に本気を出せない人の常套句だけど。
とかく勉学に関しては、私より理紗のほうが優秀だ。それは彼だって心得ているはずだが、まず私に声がけをして、次に理紗のところに向かう習慣があった。けれど、これもきっと勘違い。理紗を差し置いて、私が自惚れるわけにはいかない。特別な想いが溢れた表情を彼に向ける理紗を見るたび、きゅうっと胸の中心がしまる。日々強くなる後ろめたさとともに。
部活が終わると、今日も三人連れ立って駅まで歩く。なんとなく続いている、私達の曖昧な距離感。他愛もない話で盛り上がっている理紗と拓実君の一つ隣で、胸がひりひりしている私。
彼の一挙一動が気になる。話しかけられると過敏に反応してしまうし、心拍数が跳ね上がる。だからきっと、私は彼に惹かれている。とはいえ、これが恋愛感情なのか、それとも単なる憧れにすぎないのか。感情の行方は相変わらず五里霧中。
そう。なんていうんだろう。やっぱり甘くはならない。
例えるならば、熟れることなく青いまんまの蜜柑。放り投げても弾んでこない、そんな感情。彼が好きだと結論を出そうとしても、本当にそれでいいの? と冷静に一線を引く自分が同時にいる。今の関係を壊したくないというか、友達みたいな曖昧な関係でいいじゃん、と思ってしまう。結局のところ、よくわからない。彼とどんな関係を築きたいのか。自分の気持ちがわからない。
「んじゃ、今日は俺、これから塾なんで。したっけ、煮雪、菅原」
「おう」
「したっけ、拓実君~」
だから今日も、未成熟な気持ちを胸に隠したまま、適当な挨拶を交わして別れた。
ふう、悩み事が、細い息となって漏れた。
「部活が終わってから塾通いだなんて、頑張るよね拓実君」
「ああ~……そうだねえ。なんでも行きたい大学が決まっているから、受験に向けた準備を今から始めているんだってさ」
「そうなんだ?」
「らしいよ。人伝に聞いた話だから、私も詳しいことは知らんけど」
理紗の質問に答えながら、ついでに情報を足しておく。
まあ、感心しているのは私だって同様だ。まだ高校一年生だし、と現状に甘え、将来設計もせずに漫画ばかり描いている私とは雲泥の差だ。むしろ、彼の爪の垢でも煎じて飲むべきだろう。学校と部活動が終わってから塾なんて私には想像もできない。そんな勤勉な学生には、何年経ってもなれそうにない。
「すごいね、拓実君。どこの大学狙ってるのかな?」
「さあ? そこまでは。なんでも、文科系の大学らしい」
言いながら思った。かつて私も、四年制大学の芸術学部を目指していた頃があったなあ、と。水彩画をやめているのだから、お察しだが。
「将来の夢、かあ……。侑はなんか考えてる?」
「う~ん。そうだなあ」
せっかくなので、真面目に考えてみた。
「自堕落な生活をしているだけで、どこからともなく金が湧いてくるような生活がしたい。そうか、油田でも掘り当ててみるか」
「油田を掘り当てるまでの労力、考えてないしょや? やっぱりバカだった」
ダメだこりゃ、と言わんばかりに理紗が両手を広げた。失礼な。アンタだって何もないだろう?
駅に着き、改札を通ったところで理紗と別れる。乗る路線が彼女とは反対方向だからだ。定刻通りにやってきた電車に乗り、地方路線にありがちな四人掛けボックス席の一つにどっかりと腰を下ろした。
通学鞄からBL漫画の原稿を取り出そうとして……またしまう。この間覗き見されたばかりだし、やめておくか。
電車は市内を過ぎた所まで来ており、車窓越しの景色が繁華街から田園に移る。
「こんばんは、月華ちゃん。今帰り?」
その声に顔を上げると、隣のボックス席に優子さんがいた。白いブラウスを着て、踝丈のジーンズを穿いている。荷物を抱えてすっくと立ちあがり、彼女がいる席まで移動する。断りなく隣に座って、大袈裟に咳払いをした。
「えーと。この間は、投稿サイトに感想をいただきましてありがとうございました」
「いえいえ、どういたしまして」
「それでですね」
極限まで潜めた声で告げた。
「……月華ちゃんはやめてください。そのペンネームは絶対的タブーです。人前で言ってはいけません」
すると彼女はケラケラと乾いた声で笑った。おい、笑いごとじゃないんだよ。人の身にもなってくれ。
「そっかそっか、ごめんね。だってあなたの名前を知らないんだもの。他に呼び方がなかったの」
ああ、確かに。筆名しか教えていなかった自分の迂闊さを恥じる。なんだよ、自分で墓穴掘ってただけしょや。
「煮雪侑です。侑とでも呼んでください」
「にゆきさん」
子どもが初めて聞いた単語を呟いたみたいに、カタコトだ。なんなんですかそれ。
「煮えるに雪って書いて煮雪です。私は聞き慣れていますが、かなり珍しい苗字らしいですね。なんでも、北海道以外にはほとんどいなくて、北海道でも十数軒しかないんだったかな?」
「へえ、そうなんだ」
「なんか、あんまり驚いていませんね?」
「ん、そうでもないけど」
「ま、別にいいんですが。そういえば私も、優子さんのフルネーム伺ってないです。いや、訊く必要ないのかもしれないですけど、なんか気になっちゃいまして」
「山口よ。山口優子。改めましてよろしくね、侑」
そう言って、右手を差し出してくる。どうやら握手を要求されているらしい。断る理由もないので応じると、優子さんはニッコリと花のように笑んだ。
「ところで、漫画……どうでした?」
こわごわそう訊ねると、優子さんは腕組みをしてう~ん、と唸った。
「絵は綺麗で上手だし、内容もちゃんと面白い。でも、なんていうんだろう。ちょっとした違和感が」
「違和感ですか」
明らかにネガティブな感想が寄せられようとしていることに心が沈む。でも、悪い意見から目を背けていては、成長できないのも確か。サイトに寄せられる感想は、当たり障りのないものに留まる傾向が強いため、こういった意見こそ重要なんだ。
「登場人物が互いに惹かれていく過程にリアリティがないというか、安直というか、そんなことで好きになるかなあ? という感じはちょっとしたんだよね」
心当たりがある、と落胆してしまう。
「やっぱりそうですか。自分でも感じていた部分です、それは」
「そう? じゃあ言ってよかった。批評じみたことを言うのも失礼かな、と思ったんだけど」
「いえいえ、大丈夫ですよ。どうしてそこが課題なのか、自分でもわかっているんです。私は、恋というものがよくわからないので」
まさにタイムリーな話題。これには意識の外から溜息が出た。
「え? どういうこと?」
「恋に落ちる感覚ってのが、よくわからないんですよ。もうずっと、本気で誰かを好きになったことがないですし」
「ふ~ん……。あなた、素材は悪くないのに、意外というかもったいないわねえ。誰かいないの? 気になっている人」
頭の中に佐々木君の姿が朧げに浮かび、それはすぐに拓実君で上書きされた。
「いると言えばいるんですけど、付き合いたいとか、恋人になりたいとかは特に思わないですね」
「それ、ほんとに気になっているの?」
「……だとは思うんですが」
改めて指摘されると、自信がなくなってしまう。自分でも落としどころがない感情の話だけに、第三者にどう伝えていいのか、さっぱりわからない。
「なるほど。抱いている感情を、友情と恋愛のどちらに区分けするべきなのか、侑の中で答えが定まっていないのかもね。一度熱い恋でもすれば、一息に変わりそうだけど。どうやら、侑に必要なのは経験ね。恋愛の経験値が不足しているのかも」
「たぶん、仰る通りです」
襟足をかきむしりながら、レンアイノケイケンチ、なんか良い言葉だな、と思う。
どうして自分が恋をできないのか。本当はなんとなくわかっている。私はまだ怖いんだ。本気の恋に踏み出して、それが掌から零れ落ちて、傷つくのを恐れている。初恋の思い出を引きずるあまり恋ができない私は、言うまでもなく経験値=ゼロだ。装備はひのきの棒と布の服。恋を追い求める勇者にはまだなれそうもない。でも、どうしたらいいのだろう。四の五の言わずに、拓実君に告白したらいいのだろうか。……いやいや。好きかどうかもわからないのにそれは順番がおかしい。そもそも、告白する勇気だってない癖に。
恋人にならなくても良い「好き」って、恋なのかな……
ぼんやりと、電車の揺れに身を委ねているうちに、私が降りる駅に着いた。鞄を手に取り立ち上がる。
「今日はつまんない話に付き合っていただき、ありがとうございました。それではまた」
「じゃあね侑。頑張って」
笑顔で手を振る彼女に会釈を返すと、私は電車を降りた。
* * *
騒々しい蝉の声は影を潜めて、山野が赤く色づく秋がきた。
秋の訪れを告げる鮭の遡上。南瓜やさつま芋の収穫も始まり、台風の被害を受けることが少ない北海道においても、比較的雨の日が多くなった。残暑の気配は次第に遠のき、秋の深まりを肌身で感じられるようになっていた。
暦は十月の初旬。瞬く間に季節は移ろい、大嫌いな中津川渚とは過度な接触を避け、日々は平穏無事に過ぎ去っていた。と話を締めくくりたいところだが、有為転変は人の世の常とでも言うべきか、私と彼女との間で、ちょっとした事件が起こる。
放課後の掃除を終えると、理紗と二人で足早に体育館へと向かう。全道大会――北海道高等学校新人バドミントン大会――への出場権をかけた秋季地区予選会が近いため、バドミントン部の練習も最終調整に入っていた。掃除当番に当たり遅くなったぶん、練習が始まっていたとしてもおかしくない。体育館に着き、木製の大きなドアを開けて隙間から体を潜り込ませると、部員らによる柔軟体操がすでに始まっていた。
「掃除ご苦労さん、煮雪。菅原」
入り口付近で柔軟体操をしていた拓実君が声をかけてくる。それに応えながらラケットバッグを背負い直し、視線を左右に配った。
「げ。アイツ来てんじゃん」
「そりゃあな。予選会も間もなくだし、ようやく重い腰を上げたんじゃないの?」
「お~確かに。珍しく来てるべさ」
私と拓実君のやり取りに釣られ、理紗もアイツに視線を向けた。
三人が話題にしている『アイツ』というのが、中津川渚のことである。苦々しく歪んでいるだろう顔を私が向けると、アイツも正面から睨み返してきた。こっち見ないでよ、という圧を視線にこめると、渚はふい、と顔を逸らした。頭頂部で結わえた茶髪のポニーテールがふわりと揺れた。細身ながら、しっかり筋肉が付いた渚の肢体は、しなやかなネコ科の動物を思わせる。ぱっちりした瞳と細い顎。学年随一といえる整った容姿の彼女は、立っているだけでも存在感が際立っている。その洗練された立ち姿に、また苛々してしまう。
渚はシングルス専門なので、高校入学後、ダブルス専門に切り替えた私との対戦はもうない。だが、仮に今シングルスで彼女と対戦したとして、勝てる気はまったくしない。大変に不本意かつ悔しい話ではあるが、その程度には自分と力の差があると思う。三年生が引退するまで団体戦のメンバーにも入れなかった私にとっては、完全に雲の上の存在。
ところが、重大な問題点が彼女にはある。
素行があまりよろしくない。というか、端的に言って部活をよくサボるのだ。その傾向は、三年生が抜けてからより顕著になった。顔を出したのだって、確か一週間ぶりだ。それだけじゃない。長期間にわたる無断欠席をしていたにも関わらず、アイツは申し訳ないという素振り一つみせない。無論、頭の中で何を考えているかなんて知らないし、知ろうとも思わない。だが少なくとも、私の目には反省の色なんて微塵も見えない。その事実に益々苛々する。
無駄に苛々したまま部室に向かって着替えを済ませると、柔軟体操をしている輪に合流する。練習中もダブルスとシングルスで分かれることが多いため、アイツとの絡みは希薄だ。お互い不干渉を貫くには、都合のいい環境なのだ。だがそれでも、柔軟体操をしている時など、どうしても接近するタイミングはある。
私は「こっち見てんじゃねーよ」というオーラを醸し出す。渚は渚で「あんたみたいな虫ケラになど興味ありませんわ」と憐憫の目を向けてくる。こちらが一方的に渚を嫌っているだけな気もするが、それは些末事。私はコイツが嫌いなんだ。
睨み合ったまま足が止まっていると、キャプテンである二年生の澤藤萌香に窘められた。
「ほら、集中。手も足も止まってるよ。一年生」
「はい、すみません」
殊勝に頭を下げた。反省していますというアピールだ。一方で渚の奴は、スっと顔を伏せただけで、そのまま柔軟体操に戻っていった。コイツ……こういう態度がまた気に入らない。
練習に入ろうとした矢先、顧問の教師が全部員に招集をかけた。
数日後に迫った地区予選会に向けての展望と注意事項が、先生とコーチから伝えられていく。部内でイケメンと噂のコーチが、「今度は怪我などしないように」と渚に声をかけた。眉目秀麗な二人を横目に、「け」と悪態をつきたくなるが、最近番手が一つ上がったのだしと、溜飲を下げておく。
番手が上がったということは、団体戦で確実に出番が回ってくるということで、責任重大だ。どうでもいいことで心を乱している場合じゃないのだ。
「じゃあ、解散。各自練習に入ってください」
先生の声を合図に、三々五々部員達が練習に戻っていく。澤藤先輩の指示により、レギュラー組は試合形式で、キャリアの浅い一年生は、空きコートで乱打を始める。私と理紗のペアは、団体メンバー外の二年生と試合形式で練習を始めた。
バドミントンは見た目以上にハードなスポーツだ。
ダブルスは特にそう。人数が多い分、ゲーム展開はシングルスより圧倒的に速い。やみくもにスマッシュを打ち込んだり、高く打ち上げるショット――クリアで時間稼ぎを狙ったりしても、そう簡単に流れは引き寄せられない。自分がいない場所はパートナーが埋めるのだからと信じ、二人で効率よくローテーションを回していく必要があるのだ。相手が取れない一打を狙うより、打たせながら相手のミスを誘う攻め方がセオリーだ。個人技だけでは勝てない。二人の呼吸や相性も良くないと、勝利の女神が微笑まないのがダブルスなんだ。
「一本!」
私が声を出すと、パートナーの理紗が呼応する。彼女はラケットを押し出すようにして、低い弾道のショートサーブを放つ。練習相手の二年生ペアが対抗し、シャトルが素早く互いのコートを行き来していく。
再三プッシュを狙う理紗の動きを嫌った相手がクリアを上げてくる。予想通り! 私はステップを刻むと、相手コートにスマッシュを打ちこんだ。対応した相手前衛の甘いレシーブを理紗が待ってましたとばかりに押し込む。
「ナイスショット侑!」
「ナイス前衛! あんがと理紗!」
レギュラー組が負けてられるか、とばかりにゲームカウント二対〇で退ける。続けて試合に入る二年生と交代して線審を行っていたその時、事件は起こった。
「侑。申し訳ないんだけど、中津川さんとシングルスで戦ってくれない?」
澤藤先輩からかけられた言葉に、ぞくりと背筋が冷え込んだ。
「澤藤先輩、私、基本的にダブルス専門ですけど」
「そりゃ知ってるよ。今丁度手が空いている相手がいないのよ。中津川さんにダブルスの人とやってみる? って訊ねたら、侑がいいって言うからさ」
「はあ? 私ですか?」
これには腑抜けた声が出る。道北高校バドミントン部の部員数は、男女合わせて二十四名。数ヶ月前に三年生が引退してこぢんまりとしたことで、ダブルスだけ、またはシングルスだけで練習をすると人数が不足することはたびたびあった。こういった帳尻合わせはわりと起きる。
まあ、それはいい。それにしてもだ。
なん……だと。私がいいだと!?
冗談でしょ? 驚愕の展開に慄きながら渚に視線を送ると、アイツはニヤっと唇の端を歪めてみせた。言葉にこそしていないが、彼女の顔には「やるの? それとも逃げる?」と書いてあった。アノヤロウ舐めやがって。望むところだ。
「やります。ええ、やってやりますとも」
「ああ、そう? じゃあお願いできるかしら。ごめん一年生、誰か煮雪さんと線審変わってくれない?」
私の声色がやたら低いのに驚いたのか、澤藤先輩は顔を引きつらせながら手近な一年生を呼びつける。その子に線審を任せると、ラケットを握って隣のコートに向かった。
手持ち無沙汰な様子で、渚は待機していた。私は表情を殺して彼女の正面に立つと、ネットの下から握手を要求する。一応のスポーツマンシップというものだ。テメーと握手をするわけじゃない。スポーツの神様に、私は敬意を示しているんだよ。
「ヨロシクお願いします」
「ちょっと痛いわね、煮雪さん。握力でしか勝てないのかしら?」
渋々握手に応じながらも、渚が皮肉で返してくる。無自覚だったが、どうやら握る手に力が入りすぎていたようだ。脳筋で悪かったなコノヤロウ。脳内で暴言を垂れ流し、じゃんけんをしてサーブ権を決定する。勝った私はサーブを選択した。
シャトルを片手に渚の様子を窺う。全身から力の抜けた、ゆったりとしたフォームでラケットを構えていた。スタートが肝心。初っ端から、スピードで圧すよ。
シャトルをリリースすると、ネットスレスレの軌道でショートサーブを打ち込んだ。渚のレシーブは、逆サイドに緩い弧を描く軌道で返ってくる。瞬発力なら、私だって負ける気はない。素早く落下点に移動すると、渚のいない場所に瞬時にシャトルを押し戻した。
決して、悪いコースではなかった――はずなのに。
空いていたはずの空間には、いつの間にか渚がいた。そこから放たれてきたカットスマッシュはネットを超えた所で失速し、私の足が届かないコートの端に落ちる。
応援ありがとうございます!
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