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1巻

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 私と理紗は二人ともバドミントン部所属だ。私がバドミントンを始めたのは小六の頃だ。その当時通っていたサークルに理紗がいたので、中学が別々のわりに付き合いが長い。それがまあ、比べてしまう原因だと言えなくもない。

「転校生、ねえ。高校に入学して間もないこんな時期に?」
「ねー。なんか不憫だよね。聞いた噂によると、親の都合で引っ越しが多いんだって。いわゆる転勤族って奴だべか」

 その情報は、佐々木君のことを私に連想させた。父親が転勤族なのだと、聞いた記憶がおぼろげながらある。

「女の子?」
「男子だよ。わりとかっこいいって目撃した女子の間で噂になってる」
「もしかして、その子の名前って佐々木君?」
「佐々木って誰? たぶん違ったと思うけど」
「ですよね。ふうん」

 なんてね。そんな少女漫画みたいな展開ありえないのだが。

「何それ。めちゃめちゃ興味なさそうだね……。あー来たよ」

 理紗が自分の席に戻っていくのと、教室の扉が開くのは同時だった。担任教師と転校生が入って来ると、さっきまでのざわめきが嘘みたいに静かになる。
 転校生を見て、前の席の女子が息を呑んだ。さらさらとした明るめの茶髪に二重の目。すっとした端整な顔立ち。どこか憂いを帯びたその表情には、近寄りがたいクールな雰囲気があった。
 先生に長谷川はせがわ拓実たくみと紹介された転校生は、千歳市ちとせしの高校から親の都合で転校してきました、とだけ告げると、隣の席にやってくる。
 背筋をピンと伸ばした歩き方。派手なその外見とは裏腹に、真面目そうだな、なんか人生生きづらそうだな、などと、天邪鬼にも粗探しをしてしまう。
 やがて席に着いた彼は、机の上に鞄を置く。

「私、煮雪侑っていうの。ヨロシクね」

 、こちらから声をかけてみた。私なりの、社交辞令みたいなもんだ。見上げる格好になって、結構、背高いなって思う。たぶん、百八十センチくらい?
 ところが彼は、驚いた顔でこっちを見た。驚嘆とか困惑とかさまざまな感情が混じり合っていそうな複雑な表情。それなのに、口元はちょっとだけ笑っている。なんでそんな顔?

「へえ。煮雪さん、俺の隣の席なんだ、すごい偶然。これからヨロシクね」

 へ、私のこと知ってんの? と思いながら、握手を要求されたので応じておく。

「どこかで会ったりしてましたっけ?」

 忖度そんたくなしの疑問が漏れると、彼は今度は瞳を瞬かせた。

「あれ? 俺のこと全然覚えていない?」
「いや、ごめん。とりあえず最初に謝っておくけど、たぶん知らない」

 悪いなとは思うけど、マジで思い出せないんだからしょうがない。ただ、なんだろ。茶色の瞳とかさらっとした髪質とか、どことなく佐々木君の面影が重なって見えるんだ。でも――長谷川なんだよね。そもそもの話。青森に引っ越した彼が北海道にいるはずがない。

「中学の時さ、何度か君のこと見かけてるよ」
「へ? どこで」
「体育館。つか、俺もバドミントンやっていたから、大会の会場で煮雪さんのこと時々見ていた」

 それって、一方的にこっちを見てただけなんじゃ? と思うが突っ込まずにおく。

「そうなんだ。ほら、私の苗字珍しいから、わりと覚えられているんだよね。で、どこのチームにいたの?」
「千歳のクラブチームだよ。もっとも地区が違うんで、煮雪さんを見たといっても、大きい大会だけだったけどね」
「へえ」
「リアクションうっす。というか、本当に覚えていないんだ!?」
「だからごめんて」

 罪悪感強くなるから、これ以上胸をえぐらないで。私は男子のプレーをほとんど見ないし、地区が違うから予選会場も別だし、接点が薄いのだからしょうがないだろう。
 記憶にはなかったが、私の名前を知っていたこと、バドミントンの経験者だったことに少なからず興味が湧いた。そこでいくつか質問してみた。強かったの? バドミントン歴は何年? とか。
 転校生は、そこそこ強かった、バド歴は三年かな、と答えた。始めたのは中学に上がってかららしい。バド歴がほぼ同じなのも相まって、なんとなく親近感を覚える。
 高校入学後、間もない時期にやってくる転校生は、それだけでも珍しい存在。クラス中の注目を、彼は一身に集めることとなる。加えて高身長、そこそこイケメンとくれば、クラス中の女子が一斉に目の色を変えるのも必然なわけで。休み時間になると、拓実君は女子達に囲まれて質問攻めにあった。どうしてこの時期に引っ越してきたのか。趣味は何か。部活動は何に入る予定なのか。恋人はいるのか等々。それはもうさまざまに。
 耳をそばだてるつもりもないが、席が隣じゃあ嫌でも聞こえる。転校をしてきた理由は、母親の転勤。なんでも母親が支店長に抜擢ばってきされたとかで、千歳から江別えべつに引っ越したのだという。千歳は札幌さっぽろの南にある都市で、だいぶ距離が離れている。札幌のすぐ東にある江別からなら、確かにこの学校のほうが通いやすい。趣味も入りたい部活もバドミントン。マジか本気だな。そんで、中学の頃は彼女いたけど今はフリー。
 なんだか、一度にいろいろと詳しくなってしまった。


 その日の放課後。宣言通りに彼はバドミントン部に入った。
 うちの学校のバドミントン部は男女間の垣根がなく、同じ場所で練習に励む。そこで、部活動が始まると、彼のプレーをまじまじと拝見させてもらった。こう言ってしまうと身も蓋もないが、まあ普通。キャリアから見ると、そこそこ上手なほうではあるかな。しばらくプレーを眺めていたが、やっぱり彼のことは思い出せない。中学の頃、大会かなんかで見たことくらいはありそうなものだが。
「なに、転校生見てんの?」と理紗がからかってきたので「んなわけあるか」と否定しておいた。
 部活動が終わると、ラケットバッグを背負って理紗と一緒に学校を出る。私と彼女の家は別々の町にあるのだが、利用している駅は一緒なのである。
 重く垂れこめていたうっとうしい雲は、吹く風に散らされなくなっていたが、街角にはまだ雨の残り香が満ちていた。北海道は、初夏でも日によって肌寒い。東京の人には想像もできないことだろうが、日当たりの悪い民家の軒下には五月頃まで雪が残っているし、遠く見える山間の景色は、今もまだ白と茶色のコントラストが鮮やかだ。急に吹き込んできた風が予想外に冷たくて、カーディガンのボタンを一つ留めた。

「侑、人の話聞いてるー?」

 突然鼓膜こまくを揺らした声に隣を見ると、理紗が私の顔を凝視していた。

「ん、ごめん、ちょっとぼんやりしてた」
「もう!」

 ぷくっと頬をふくらませた理紗はなんだか可愛らしい。もっとも、彼女が拗ねるのも無理はない。さっきから理紗が一人で話し続けていて、私は「うん」とか「そうだよね」とか相槌を打っているだけなのだから。
 それにしても……

「いいよねぇ、理紗は」

 隣を歩く友人の、ブレザー越しの胸のふくらみをじっとにらんだ。私が彼女と比較してコンプレックスを抱いているのは、身長の他にもう一つある。

「え、突然なに? 意味わかんないんだけど」

 そもそもの話、大きさによってAとかBとかCとかランク分けするのが理解できない。サイズでなくてさ、形で勝負させてよね? 底辺ランクになった人が傷つくっしょや? 私のことだけど! 形で勝負しようにも、そもそもないけど!

「いや、この間さあ、ちゃんとした下着を買いに行ったんだけど」

 ちゃんとした、なんて形容詞を付けている時点で恥ずかしい。

「おー。ようやく」

 ようやく、とか言うな。

「サイズ測る前から、店員にAですねって言われた」

 すると理紗が、あっはっはと笑いだした。やかましいんだよ。君にはわからない悩みだ。

「いいじゃん、大きさなんて関係ないって。侑はさ、スタイルが良いんだからそっちで勝負しよう」

 つまり、胸では勝負できないってことじゃないですか。私は諦めと戸惑いの、中間くらいの溜息を吐いた。

「勝負っつうてもね。ようやくブラジャーの選び方を考え始めた女子高生を、どこの男子が相手にするんですか」
「はっはっは。それもそうだ」

 いや、そこはなんかフォローください。大きさじゃないとかマニア向けだとか。あ、ダメだ。それはそれでひどく虚しい。
 ねえねえ! と話題を変えるようにテンション高く理紗が言った。

「今日の転校生さあ。どう思った?」
「男子だった」
めてんのか君は。そんなん当たり前だよ」

 理紗が呆れ顔になった。一矢報いた気がして、胸のつかえが少し下りる。

「拓実君ってさ。超かっこよくない?」
「まあ、普通? 超はつかない」
「彼女、いるのかなあ……」
「自分で聞きなよ」

 乙女の顔で遠くを見つめる理紗に、素っ気なく返した。あんまり関わりたくなかった。恋愛話は面倒だからだ。

「何そのリアクション……。まあ、侑だとそんなもんか」

 失礼だな。私だって、別に男子に興味がないわけではない。拓実君は確かにかっこいい。でも、感じるのはそれだけだ。そこから先のステップ、いわゆる『好き』という感情を抱いたり、付き合いたい、と思ったりすることはない。彼に対してだけではない。もう――ずっとそうだ。


 中学二年の頃、同じクラブチームに所属していた男子と付き合ったことがある。その子とはチーム内でも特に仲が良かったし、一緒にいるとなんか楽しいし、好きなのかもしれない。そう思っていた。だから、どっちからということもなく、ごく自然に「付き合おうか」という話になった。
 ところが、交際を始めてから一ヶ月した頃、唐突に我に返る瞬間があって、思わずこう口走った。

「あれ? これって好きとは違うんじゃない?」

 その段階になって初めて気がついた。仲が良いことと、好きとは違うのだと。思えばキスはおろか、繋ごう、とこちらから手を差し伸べたこともなかった。素っ気ない私の態度が、意図せず彼を傷つけていた事実にようやく気づいた。そして、あっという間に破局が訪れる。振ったのは私から。呆れたような口調で、しっかり捨て台詞ぜりふまでいただいてね。「煮雪ってさ、俺のことちゃんと見てくれてなかったよね? 自分の気持ちと向き合ったことあるの?」と。
 私が恋愛できなくなっている、と気づいたのは、たぶんこの日が最初だ。それから――ずっとダメだ。いや、もしかすると、もっと前からダメだったのかもしれないが。誰かのことを好きだと感じたり、憧れを抱いたりしても、そこから恋愛感情に発展しなくなった理由は、彼――佐々木君との間にある後悔なのかもしれない。


「好きってなんだろう」思わずそう呟いた。

「突然どうした。哲学的な話をされても私は助言できないぞ? とりあえず辞書でも引いてみな」
「一、心がかれること。気に入ること。二、偏ってそのことを好む様。物好き。三、自分の思うままに振る舞うこと。また、その様……その様って、何様だよ?」

「その『様』、じゃないと思うけど」と理紗が苦笑する。

「つか、もう引いたのかよ、早いな」
「文明の利器、スマホ様様だね。おお、様が二つとか、やっぱすごいよねスマホ」
「はいはい。で、なんかわかったの?」
「いや、全然。益々混乱した」

 なんとなくわかったことが一つ。どこで何をしているのかまったくわからない佐々木君だけど、彼に対する未練だけはしっかり残っているってことかな。一と二は、ちゃんと該当していた。
 溜息が虚空に紛れて消える。雨上がりの夕刻の風は冷ややかだ。これまでしてきた過ちのあれこれを思い出し、感傷的になっているから冷たく感じるだけだろうか?
 とたんに重さを感じ始めたラケットバッグを背負い直して、駅までの道のりを急ぐ。とその時、ポケットの中でスマホが震えた。そうそう、この道と時間帯はダメだった。

「ねえ、理紗。マック寄って行こうよ。小腹が空いた」
「え、別に良いけど。太るぞ?」
「だいじょぶ、だいじょぶ。私は太らない体質だから」

 私ダイエット中なんだけど、と不満をあらわにした理紗の背を強引に押して歩き出す。嘘をついてごめんね、と心中で舌を出した。本当は私だって太る体質だし、本音を言うと、そこまで腹が減ってもいなかった。
 事故そのものを防げたら本当は一番良いんだろうけど、あの時も理紗以外に怪我けがにんが出なかったんだから、きっとなんとかなるだろう。
 この先の未来を私は知っている。このまま進んで、交差点に突っ込んでくるトラックと遭遇するわけにはいかない。知らない振りをして生活してきたけれど、これは私にとって二度目の世界なのだから。


 リワインドしたあとの三日間は退屈だ。三日間限定とはいえ、起こる出来事のすべてを把握しているのは、なんとも味気ないもので。
 二度目となる転校生との出会いを初対面のようにやり過ごし、事故が起こる交差点には近づかないように帰宅する。こうして、三日間は無味乾燥に過ぎ去った、と話を終えたいところだが、一個だけ驚くことがあった。
 昨日、つまりはリワインドをした日の夕方、電車の脱線事故が起きたのだ。事故があったのは十八時半頃。部活動が早く終わっていれば、私も乗っていたであろう電車だ。偶然乗り合わせていた同級生は「すごい振動で、マジで死ぬかと思った」とまるで武勇伝のように語っていた。異常に気づいた運転士が、非常ブレーキをかけて迅速に電車を止めたため、大事には至らなかった。だからこうして笑い話にできる。
 もっとも、私としてはたまったもんじゃなかった。電車が一時不通になってしまい、振替輸送のバスで帰宅する羽目はめになったのだから。
 そんな一幕を挟みながら、四日目の朝を迎える。こうして訪れた新しい世界、もとい金曜日の朝のホームルーム。担任の教師は教卓の脇に立つとこう告げた。

「今日は午前中一杯を使って、体力テストを行う。各自でペアを作るように」

 一人が体力測定を行い、もう一人が記録係を受け持つというアレだ。通称、新体力テスト。私がペアを組むとしたら、一番仲の良い友人である彼女だ。「理紗――」と言いかけたところを、転校生の声が阻害した。

「俺と組もうよ。煮雪さん」

 予期せぬ発言に、立ったままの姿勢で固まった。

「いやいや。私は女で、君は男」

「そうだね」満面の笑みだ。「君は良い人。俺も良い人」と彼は続けた。

「確かに私は良い人だけれども、君は会ったばかりだから知らん。……じゃなくて。男子と組めばいいしょや!」
「だって俺、転校してきたばっかで友達いないもん」
「作ればいいべさ。友達」
「それは名案。……じゃあさ。早速、俺と友達になってよ煮雪さん」
「どうしてそーなる?」

 助けてよ、という念をこめて理紗に視線を送るが、どうぞごゆっくり、と言わんばかりに肩をすくめられた。そうこうしているうちに、他の全員がペアを作り終えていた。いつの間にか取り残されている私達二人。男子も女子も人数が奇数だったため、どのみち誰かが異性同士でペアを作るしかなかったようだ。まさかそれが、自分達になるとは想定外だった。
「しょうがないね、これはきっと運命だよ」と満足げに彼が頷いた。

「拓実君が関わってきたせいなんだから、運命じゃないよ……」

 そう呟いてはみるものの、この転校生とペアを作る以外に選択肢はない。
「じゃあ、よろしくお願いします」と渋々握手を求めると、彼は「おう」と破顔した。何が「おう」だ。
 そんなこんなで体操服に着替えてグラウンドに出る。天候は快晴。まだ六月だというのに、先日とは打って変わって蒸し暑い。北海道の夏は涼しくて過ごしやすい、なんて戯言を言う輩がいたら、この空の色を見せてやりたい気分だ。着替えた私をじっと見て、この学校の体操服って色気がないね、と彼が心底残念そうに呟いた。いや、どんな体操服が好みなのよ? と冷めた目で見る。やっぱり男子の頭の中ってエロいことばかり、とまでは流石さすがに言えず、心の中に留めておいた。
 私は走った。走った。もう、必死で。
 背中を伝う汗が気持ち悪いし足はしびれてもつれそうだし、息もすでに絶え絶えだ。
 やがて私は、五十メートル走のゴールを駆け抜ける。膝に手をつき、ぜーぜーと肩で息をしながら彼にタイムを訊ねた。

「何秒だった?」
「えっと……全力だよね?」

 ストップウォッチの表示を見つめ、苦笑している拓実君。

「全速……力……です」
「九秒一一」
「よし、新記録」

 顔だけを上げ、ガッツポーズを作る。すると彼は、ストップウォッチを持っていた手をすっと下ろし、憐憫れんびんの目を向けてきた。

「いやいやいや……遅くね?」
「しょうがないでしょ……。私は背が低いほうだし、短距離はそもそも得意じゃないし、それに――」
「それに?」
「平均よりちょっと悪いくらいでしょ」

「いや、平均以下はマズいでしょ」と今度は渋い顔になる。

「だって煮雪さんはバド部でしょ? 運動部でしょ?」
「運動部は足が速いって誰が決めた? 君か? 学校か? それとも政府か? そんな常識、私がぶち破ってみせるね」

「下にぶち抜いてどうすんだよ」といよいよ彼は嘆息した。

「まあ、長距離が得意な人だと、短距離はいまいちってケースもよくあるけど」

 長距離も苦手だけどね、と呟くと笑い始めた。うるさいんだよ、と思った。ちなみに拓実君のタイム、六秒五〇だった。あれ? 速くね?
 私にとってわりと苦痛な体力テストは、体育館に場所を変えてなおも続く。でも、反復横跳びとか柔軟系は結構得意。やっぱインドアが良いよねなどと、くだらないことを取り留めなく考えていた時のこと。

「煮雪さんってさ、絵を描くのが趣味なの?」

 なんの脈絡もなく、けれどごく自然な体で、彼がそう訊ねてきた。立位体前屈を計測中の私は、前屈みの姿勢を維持したまま考える。絵って何? 水彩画のこと? それともまさかBL漫画のこと? いや、それは誰も知らない秘匿情報のはず。

「絵、なんて描いてないよ」

 上体を起こしながら答える。自分でも、流石さすがに白々しいと思う。でも、それは嘘のようであり、ある意味真実でもあった。確かに私は、水彩画への情熱を失い、まったく描けなくなっている。今BL漫画を描いているのも、水彩画を描けなくなった自分を誤魔化ごまかすための代償行為みたいなもんだ。

「ん、そうなの? 菅原に聞いた話だと、昔水彩画を描いていて、今もよくわかんない絵を描いているって聞いたけれど?」
「あー。ちょっとだけね。昔ちょっとだけ描いてた」

 しまった。そういえば理紗にだけぽろっと漏らしたことがあるような。それにしてもよくわかんない絵ってなんだよ!

「それから! 今描いているのは漫画。うん」

 あまり突っ込まれたくないので、簡潔明瞭に答える。

「ふうん。実は俺もさ、昔絵を描いていた時期があったんだよね。それなのに、いつの間にか描けなくなったというか、興味がなくなったというか。なんでだろうね?」
「ほんとに?」
「うん」

 絵を描いていた? その情報は、否が応でもとある人物を連想させた。思わず拓実君の顔をマジマジと見つめてしまい、目が合って大慌てで逸らした。

「俺の顔になんか付いてる?」
「あっ……、いや、な、なんでもない」

 やっちゃった。恥ずかしい。そうだよ、『長谷川』だってわかってたじゃん。顔が似ているだけの違う人ってわかってたじゃん。

「変な奴。ま、いいや。なんていうかさ。俺、すぐ立ち止まっちゃうんだよね。昔は良かった、なんて感傷に浸ってみたりして。大事なのは、前を見据えることなのにね。絵を描けなくなったのも、きっとそのせい……っと、今度は俺の番。ほらほら交代して」
「あ、うん」

 まるで、自分のことを言われているみたいだった。忘れなくちゃいけないんだと、彼とよく似た彼に、そう言われている気がした。
 そうだよね。やっぱり、私達の運命の糸はとっくに切れているんだ。
 ――私のせいで。


 家族の団欒だんらんもそこそこに二階に上がってしまう娘のことを、勉強熱心で感心だ、などと私の両親は勘違いをしているかもしれない。嬉しい誤算であり都合の良い勘違いなので、否定はせずにそのままにしておく。
 そして無論、私は勉強などしていなかった。
 パソコンを起動して、漫画投稿サイトに接続する。もっとも先日更新したばかりなので、次の原稿は上がっていない。新着の感想がないか、確認をするためだった。

「あれ? 感想が来てる」

 マイページの端に、『新しい感想が届いています』という赤字のメッセージがある。

「マジで!?」

 自然と口角が上がる。感想どころか、ほとんど反応をもらえていない私にとって、これはかなり嬉しいイベントだ。期待と緊張がない交ぜになる中マウスをクリックすると、感想が表示された。

『作品読みました。絵柄も綺麗だし、ストーリーもシンプルでわかりやすいと思います。これからも頑張ってください』

 ……なんか、淡々とした感想だな。まあいいか。リアクションがあるだけでも十分嬉しい。底辺漫画家の私は贅沢ぜいたくを言える身分じゃない。そう思い直し、返信を打ち始める。「感想をお寄せいただき、ありがとうございました。これからの展開に期待していただけますよう、全力で頑張りますので、よろしくお願します」っと……ん?
 感想をくれた人の名前、優子ゆうこさんになっているな。
 優子さん。ゆうこさん。ユウコサン。

「ん? 優子さんって、この間電車の中で会ったあの人か?」

 なんだ。新しい読者が増えたかと思っていたのに、自分が宣伝勧誘した相手だったとは。嬉しいような、悲しいような、なんとも複雑な心境だった。まあ、読者が増えたことに変わりはないし、いいのかな。しょーがねーな……とか考えている最中、母の呼ぶ声が聞こえてくる。

「侑! 風呂沸いたから入っちまいな」

「へいへい」と返事をしながら、パソコンの電源を落とした。
 父は帰宅時間がまちまちの上、遅い。そのため、風呂はだいたい私が一番目か二番目に入ることになる。パジャマと替えの下着を持って部屋を出たところで、階段を上ってくる弟とすれ違う。小学六年生の分際で私に迫る背丈を持ち、有り体に言って生意気な私の弟、煮雪優斗ゆうとだ。

「まーた飯食ったらさっさと部屋にこもって。どうせ漫画描いてたんでしょや、ねーちゃん?」

 グサっとな。

「う、うるさいな。優斗には関係ないしょや」

 そう強がってみせるが、図星なだけに後ろめたい。漫画を描く趣味が悪い、なんて、全国にゴマンといる同胞を敵に回す発言をするつもりはない。むしろいい趣味だとすら思う。だがそれは、やるべきことをやっている人間がするべき主張。私のように、授業中も漫画のことを考え、家に帰っても勉強もせずにペンを取り、あまつさえ開き直っている人間には言う資格がない。
 わかっているから面と向かって指摘すんな。というか、そんな目で見るな。風呂に向かうためシカトを決め込んだ私に優斗が言った。

「姉ちゃんの入っているバド部にさ、中津川なかつがわの姉貴がいるんだっけ?」
「中津川なぎさのことか。いるよ。最近、部活サボり気味だけどね」
「ああ、やっぱりね。その姉貴はさ、強いの?」
「……強い。正直、悔しいけどね。たぶんシングルスでなら、うちの部で最強クラス。もしかして、渚の弟と試合した?」

 中津川渚。三年生が引退し、新体制に切り替わった現在の女子バドミントン部において、一年生ながら一番の実力を持つ女子部員。入部当初から頭角を現したが、春季の地区予選会直前の練習で右肩に違和感を覚えて出場を見合わせたため、高校での実績はない。だが出場していれば、台風の目になっていたであろう選手だ。団体戦でも主力として出場し、大いに暴れていたはずだ。
 渚には弟が一人いて、うちの弟同様バドミントンのクラブチームに入っている。所属しているチームこそ違うが、何か大きな大会でもあれば対戦する機会もあるだろう。


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