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1巻
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プロローグ
――ずっと、忘れられない恋がある。
ポッと儚く燃え尽きた、線香花火みたいな恋だった。
風に煽られ地に落ちた、蕾みたいな恋だった。
あれから、七年。
今でも心の片隅に彼がいて、たびたび思う。もし、あの頃に戻れるならと。
三日前だったら、私の能力で戻れるのに、なんて。
朱を含んだ薄紫色の夕空の下、私は交差点の一角に立ち尽くしていた。
行き交う人々は、みな、戦慄と混乱の表情をしている。そこかしこから悲鳴が上がり、慌てて電話をしている人の声も聞こえてくる。しかし、それらの喧騒を気にすることもなく、目の前で展開される光景を慄きながらただ見つめていた。
歩道に乗り上げ、信号機をなぎ倒して止まった大型トラック。激しい事故の様子を物語るように、真っ黒なタイヤ痕が路上に残されている。でも、そんなことはどうでもいい。問題なのは、トラックの前部に広がり始めた真っ赤な血だまりのほうで。
その中に倒れているのは私の親友。気が遠くなりそうなほど現実味の薄い光景だが、彼女の額から、腹部から流れ出てくる赤い液体が、これは現実なのだと私の脳にうったえてくる。
「理紗!」
親友の傍らに膝をつき、その手を取って握り締めた。握り返そうとしているのだろうか。辛うじて動く彼女の指先。だが、完全に生気を失いつつある瞳に、私の姿は映っていない。
事故が起きたのは数分前のこと。側方から飛び出してきた信号無視の乗用車と大型トラックが接触すると、トラックの進路が突然変わり、私と理紗が信号待ちをしていた歩道に突っ込んできたのだ。それは一瞬の出来事で、放心状態の私を理紗がどん、と手で押して、彼女だけが撥ねられてしまった。彼女が機転を利かせてくれなければ、きっと私も一緒に血だまりの中だった。
赤色灯の明かりとともに、救急車がやってくる。
「ほら、邪魔になるから事故現場から離れて!」
警察官数人による現場検証と交通整理が慌ただしく始まる。そのうちの一人が青ざめた顔で立ち尽くしている運転手に事情聴取を行い、別の一人が私の元に来た。
「君は、怪我をした女性とは知り合い?」
「はいっ……。学校の同級生なんです! 理紗は、理紗は助かるんですよね!?」
声が上ずっている。自分でもヤバいなって思う。
「落ち着いて、大丈夫ですから。怪我をした女性と君の名前を教えてもらえるかな?」
「か、彼女の名前は菅原理紗。私は煮雪侑です。二人とも、公立道北高校の一年生」
「菅原さんと煮雪さんね。では、事故が起きた時の状況なんだけれども――」
ぼんやりとした意識の中、警察官の声が遠く聞こえ始める。担架に乗せられた友人の手が、力なく垂れ下がるのが見えた。理紗……。一連の流れを見て、自分のやるべきことが定まる。決めたなら、やることは一つだ。
「すみません。時間を確認しても良いでしょうか?」
「時間? いや、別に構わんが」
訝しげな警察官に頭を下げ、制服のポケットからスマホを取り出す。六月十六日、木曜日。時刻は十八時三十三分。事故が起きたのは、二十五分頃と見積もっておけば問題ないだろうか。よし――
事故の状況と酷い出血を見る限り、理紗が助かる見込みはかなり薄い。ならば、彼女を救う手段は一つしかない。
――私の能力を使うこと。
力を行使するため集中力を高めていくと、周囲の喧噪が一切耳に届かなくなった。
「――巻き戻し」
即座に視界は暗転し、次の瞬間気がつくと、私は電車の中にいた。
* * *
人生をやり直したい、と思ったことがあるだろうか?
職場での対人関係がうまくいかない。結婚する相手を間違えたかも。日々、選択の連続である人生の中で、悩みを抱えることは誰にだってある。思い描いていた未来から遠く離れた場所にいる自分を意識した時、やり直したいと感じてしまうのは決して珍しいことではないと思う。
しかし、そんなことはもちろん不可能。
歩んできた人生を、なかったことにはできない。子どもの頃に戻れたら、とか、転生したいと言い出したなら、漫画や小説の読みすぎだと笑われてしまう。
ところが――である。
「アイタタタ……」
四人掛けボックス席の座面に、数十センチの高さから落下したことで痛めたお尻を擦りながら、周囲の状況を確認した。
ここはどこか? 通学のため毎日利用している電車の中。時間は――とスマホを取り出して、そのまま理紗に電話をする。二コールののち、電話の相手が応対した。
「もしもし」
『おー侑か。どうしたの? さっき別れたばかりなのに』
「いや、別に用事はないんだけどさ。無性に理紗の声が聞きたくなって」
『何それ、愛が重い女みたい。心配しなくても、私の声ならいつでも聞かせてやるぞ』
元気な彼女の声を聞いているうちに、動転していた心が落ち着いた。さっき見た凄惨な事故現場の映像が、三日先のものになる。
電話を切ってから改めて日時を確認すると、六月十三日の十八時三十三分だった。良かった。ちゃんと三日前に戻っている。
こんな風に、私は人生をやり直すことができる。ただし『三日間限定』なんだけれどね。『三日間だけ、時間を巻き戻す』ことこそが、私の持っている不思議な能力――巻き戻しの正体である。
この能力には、いくつかの特徴と制約がある。
まず一つ目。きっちり三日間しか戻せない。一日前、もしくは二日前に戻りたいと思っても不可能で、丁度三日前に戻る。時間帯すら選べない。六月十六日の十八時三十三分に能力を使ったならば、六月十三日の十八時三十三分に戻る。それは場所も例外ではなく、三日前の同時刻にいた場所に強制的に戻される。
その時にちょっとだけ、座標がズレたりするのが困りもの。
今回は、本来戻るべき場所よりも、数十センチ高い座標に戻ったらしい。クッション性低めの座面に落ちたことで、尾てい骨が微妙に痛い。痔になったらどうしてくれる。
二つ目。リワインドする前の三日間に起こっていた出来事は、すべてリセットされてなかったことになる。同様に、人々の記憶もすべて消去される。なので、リワインドが行われた事実に誰も気がついていない。……ただ一人、私を除けば。
信号機をなぎ倒した大型トラック。血だまりと、親友の姿。悪夢が再び蘇り、かぶりを振った。
時には忘れたいこともあるんだけどな。とはいえ、三日後に再び事故は起こるのだし、忘れるわけにはいかない。あの時間、あの交差点から理紗と自分を離しておけば、まず大丈夫なはずだけど。念のため、三日後の十八時十分にスマホのアラームをセットしておいた。よし。
この記憶保持も能力の一部かもしれないが、謎の多い能力なのでよくわからない。
最後に三つ目。能力を使用すると、七日先まで再使用できない。能力を何度も使って同じ時間軸を往復することはできないし、リワインドした事実を『なかったこと』にもできない。たぶん、こいつが一番厄介な制約である。時間を戻した結果、状況が益々悪化してしまうことも稀にあるが、やり直しは利かない。だからこそ、むやみやたらと能力を使うべきではないし、使うタイミングについてもきちんと熟考する必要があるのだ。
というわけで。突発的にリワインドを使った場合、多少の不都合が生じるのは茶飯事だ。
「はあ……やり直しか」
衝撃でずり落ちた眼鏡を直し、手元の原稿に目を落とす。膝の上で広げたままのそれは、私が趣味で描いているBL漫画の原稿だ。
『現役女子高生漫画家』のような、大層な肩書きなんてもちろんない。趣味で描いている作品を、投稿サイトで公開しているアマチュア漫画家である。
BLとは、男性同士の恋愛を描いた、小説や漫画のジャンルの一つだ。漫画を描いていることは、誰にも伝えたことがない。というか、むしろ積極的に公開したくない秘匿情報なわけで。
それはともかくとして、たっぷり時間をかけて修正したはずの原稿は、きっちり修正前の状態に戻っていた。これから二日かけて同じ作業をするのか、と思うと笑えない。
「最悪。でも、しょうがないしょや」
流石に、親友の命と趣味を天秤にかけようとは思わない。今は、落胆より安堵のほうが勝っている。
漫画の修正箇所を確認すべく、原稿に目を通しながら電車の窓ガラスにコツンと額を当てると、雨粒がガラスを叩く音が聞こえた。どうやら、三日前は雨が降っていたらしい。そういやこの日、傘を忘れたんじゃなかったかな。良くないことほど重なるものだ。断続的に響く雨音のリズムを数えているうちに、次第に意識が混濁してゆく。
そして気がつくと……
「あれ……?」
眠ってしまっていたのかな。微睡みの中、誰かに肩を叩かれている気がして私は目覚めた。――というか、叩かれていた。驚いて顔を上げると、パンツルックの長髪美人が私の隣に座っていた。年齢は二十歳前後かな? うわ、睫毛長いなー。力強い双眸が、やたら印象的に目に映る。ん……というか、この人誰?
見知らぬ女性が真横にいるという異常事態に硬直していると、彼女がくすりと含み笑いをした。
「次の駅で降りるんじゃないの?」
「え?」
瞳を瞬かせて驚いたあとで、窓の外に目を向ける。そこがまだ、降りる駅まで距離のある場所だと気づいて胸を撫で下ろした。
「はい、その通りです。危うく乗り過ごしてしまうところでした。気遣って起こしてくれたんですか?」
「そうよね? じゃあやっぱり起こして良かった。なんか覗き見ていると思われたら困るし、どうしようかな? と悩んでいたんだけど」
うふふ、と笑う彼女を見ながら、私は今自分が置かれている状況を正確に把握した。
慌てて手元の原稿を隠した。
「み、見たんですか?」
見てないわよ、と彼女は即答した。
「そんなには」
「見たんじゃないですかっ!」
「どうして彼のことを考えると、こんなに胸が痛むのだろう? 俺は男で、彼も男なのに。……この後、トオル君は膨らんでいくユウキ君への想いを抑えることができるのか? そのあたりは気になるわね」
私の漫画のワンシーンを、一言一句違わず彼女は言い当てた。思わずこめかみ付近を押さえて蹲る。
「結構、しっかりと見ているじゃないですかやだー……とか可愛く言いたいところですが、本当に嫌です」
「でも、私が覗き込んでいても、あなたがどんどんページを捲っていくものだから? そりゃあ気にもなるわよ?」
どうやら、現実と夢の狭間を揺蕩う中、手だけはしっかり動いて原稿を捲り続けていたらしい。投稿前の漫画(しかもBL)を読まれるとか最悪だ。人生オワタ。
これ見よがしに肩を竦めてみせると、気後れするように彼女が言った。
「もしあなたが良かったらなんだけど、それ、もうちょっとだけ見せてもらえないかしら?」
「嫌です」と私は即答した。
「なんで?」と彼女は食い下がった。
「恥ずかしいからです」私はきっぱりと拒絶する。
「ふ~ん、でも、すごく上手よ。あなた」
「本当ですか!?」と食い気味に身を乗り出してから私は自嘲した。
恥ずかしいのは本音なのだが、それは描きかけだからだ。ウェブで公開済みの作品についてはなんの問題もない。むしろ読んでほしいとすら思う。
私の漫画は少々伸び悩んでいた。ランキングに載れず埋もれてしまうと、読者が増えず、さらに埋もれていくという悪循環に陥るのだ。そんな歯がゆさを感じていたため、藁にも縋りたくなった。いや、藁はちょっと失礼か。
「描きかけのものは見せられませんが、投稿した作品であれば、全然構わないです」
「投稿? ああ~もしかして、ウェブかなんかで、作品を公開しているんだ?」
そうです、と無駄に重々しく頷き、投稿サイトのページを開いてスマホを差し出した。
「あなたのことを想うだけで、私の〇〇〇はナイアガラ」
形の良い唇から飛び出した放送禁止用語に驚いてスマホを取り上げると、投稿ジャンルを反映してか、肌色成分強めの広告バナーが見えた。だから、BL=R18って一括りにしないで! 私の作品に性描写はないの!
「何を読んでいるんですか! それはただの広告で、私の作品じゃありません!」
手が焼ける、と思いながら一ページ目を表示させて再度手渡した。
「蒼月月華……で読み方あってる? それともあおつき?」
ああ、しまった!
「ごめんなさい、ペンネームは読まないでください! 読み方前者で合っていますから、二度と読まないでください! つか、忘れて……!」
段々弱くなっていく語尾。彼女はお腹を抱えて笑い転げた。死にたい……。どうしてこんな名前を付けたのかと、過去の自分をぶん殴ってやりたい気分だ。いや、名前を変えればいいんだろうけど、せっかく浸透した名前を今更変えるのも癪だ。
「あははっ、あなたって面白いわね」
「私はあんまり、面白くないです」
「でも、なんか楽しみ。あとで探して読んでみるわね」
「あっはい。気が向いたらでいいですし、暇だったらで十分なので、あんまり期待しないで見てやってください……」
厨二病ペンネームがバレた恥ずかしさに赤面しながらも、私は控えめに告げた。内心では、閲覧数伸びるかな? なんて、浅ましい算段を立てながら。
――けど、おかしい。彼女はいったい何者なんだろう? 三日前、この女性と出会ってなんかいないのに。
リワインドをしたあとの世界では、同じ出来事がまた起こる。世界も、人々の言動も、時間を戻す前と寸分違わず同じ流れを繰り返すのだ。
流れを変える方法はある。私が能動的に働きかけることだ。必然的に、私の力でどうにかできる範囲に限られる。例をあげると、明日学校に行くのをやめようと思えばやめられる。それによって変わる未来があれば変わる。だが、例えば明日が、風の強い日だとしても私には変えられないし、強風によって、三十代半ばにして広くなった数学教師山田のおでこが衆目に晒されるのも止められない。
「私の力を超えている」
「なんか言った?」
「あ、いいえ」
つまり『大して変えられない』という意味でもあるんだけれどね。なので『私が別段何もしていない』のに変化が生じている今の状況は、はっきりいって異常事態だ。
どうしてだろう? こんなことは、今まで一度もなかった。イレギュラーが発生している要因として考えられるのは、漫画の原稿を広げたまま居眠りをしたこと。そのせいで彼女の目を惹く結果を生んだ……ということなのか? ここだけは前回と違っているので、一応合点はいくが。
そんなことを思っているうちに、私の降りる駅に着いた。しまい忘れていた原稿を鞄に入れ、彼女にぺこりと頭を下げて席を立つ。
「じゃあ私、ここで降りますんで、これで失礼します」
「うん、またね。……ああそうだ。あなた、三日後の話なんだけど、またこの時間の電車に乗る?」
三日後というと、リワインドをした日のことだな。
「いえ、その日は遅くまで部活動があるので、この時間帯の電車は使いませんね」
ここまできっぱりと宣言するのはまずかっただろうか? 私は知っているものの、これは未来の話だ。それにしても、なぜこんな質問をするのだろう? ところが彼女は、私の発言を不審がる様子もなく、こう言い添えた。
「そう……。ごめんね、変なこと訊いて。それから私の名前、ユウコだから。よろしくね」
自称ユウコサンが、くしゃりと笑う。
電車を降りる時、なぜだろう、彼女――ユウコサンの姿をもう一度見たくなった。開いた扉の前で立ち止まり、彼女の背中に視線を注ぐ。「ほら、邪魔だから早く降りろ」と見知らぬおっさんに後ろから怒鳴られ、すみません、と殊勝に頭を下げた。
ホームに立って電車の窓越しに見つめていると、不意に彼女がこちらを向いた。視線が正面からかち合い、彼女が再び笑みを浮かべる。
電車が走り始めて、絡まっていた視線が剥がれる。電車はあっという間に視界の向こうに消えていった。
七年前もこうして彼を見送ることができていたなら、きっと未来は変わっていたんだ。
胸が苦しくて、どうしようもなく痛くなって、心臓の辺りに左手を添えた。
――ほんとフザけんな。七年前の私。
第一章「未完成のままの初恋とスケッチブック」
――ずっと、忘れられない恋がある。
追憶の中にいる、その男の子の名前は佐々木君。最早、下の名前を思い出せなくなってしまった彼は、小学校二年生の晩秋に転校生としてやってきて、三年生の初夏に再び転校していったクラスメイト。一緒に過ごした時間は半年ほどでしかなかったが、今でも私の記憶の奥底に色濃く存在感を残している男の子であり、もしかすると、いや確実に、私の淡い初恋の相手だった。
その当時の私は、決して友達の多い子ではなかった。二年生に進級してすぐ、父の都合による引っ越しと転校を経験した。小学校という新しい世界に馴染み始めた頃に訪れた友人との別れは、私の心にしっかり影を落として、新しい学校ではどこか浮きがちになった。特定の苦手な誰かがクラスにいたわけでもないが、とかく男子が苦手だった。がさつで、乱暴で、行動もなんだか幼稚。自分も子どもだという事実を棚に上げて、達観した見方をたぶんしていた。
それなのに、佐々木君だけが平気だった。
彼が転校してきた日のことをよく覚えている。緊張した面持ちで、先生に紹介されている彼を見て、数ヶ月前の自分も同じ顔をしていたんだろうなと思った。そこに親近感を覚えたからなのか、襟足が長めの髪の毛と丸っこい瞳のせいで、どこか女性的に見えたからなのか。それはよくわからないが。
昼休みになると、彼はよくスケッチブックを片手に校庭に出ていた。紅葉した木。昇降口の脇にある水飲み場。目についた光景を、紙の上に水彩絵の具で表現していた。とはいえ、文科系の男の子かというとそうでもなく、体育の成績は人並み以上だったし足も速い。それなのに、校庭でへったくそな野球に興じる男子らには目もくれず、ひたすら彼はスケッチブックに筆を走らせていた。
だからある日、私は訊ねてみたんだ。「野球とかして遊ばないの? 佐々木君スポーツが得意だし、かけっこだって速いのに」と。茶色の丸い瞳がこっちに向いた。「別に野球は嫌いじゃないよ。でも、一番やりたいことは絵を描くことなんだ。一番と二番だったら、一番のほうが大事でしょ?」
さも当たり前、と言わんばかりの声だった。それもそうか、と納得しながらも、面白い感性を持っている人だなと思った。
絵を描くことが元々好きだった私は、彼の筆が描き出していく世界の美しさに、段々心を奪われていった。
彼の描き方には少し特徴があった。鉛筆で描いた下描きの線に沿って、まずは色を塗る。そこから内側に向かって、丹念に色を塗り重ねていくのだ。どこか几帳面な塗り方ながら、完成するとどれもがふんわりとした優しい印象の絵になった。
知らず知らずのうちに、私は佐々木君に惹かれていった。昼休みになると彼の隣に座って、時折その横顔を盗み見ながら、スケッチブックを広げるようになった。
佐々木君と同じ風景を描き、自分の絵はちょっと硬いなあ、柔らかくならないなあとボヤいてみせると、彼は人懐っこい顔で笑った。
「ぼくは、煮雪の描く絵が好きだよ。目の前の光景を正確になぞらえているし、ぼくの絵よりも力強くて勢いがある」
「そうかなあ……。わたしは、もっとふんわりとした絵が描きたい」
「いいじゃない。見え方なんて人それぞれだし、描く絵だって人それぞれだよ。同じものを描いたとしても、みんな違うものになるから絵はいいんだよ。写真だったら、こうはいかないでしょ?」
彼に褒められたという事実に心が弾む。同時に、なるほどなあと思った。
校庭の隅っこに咲いた桜を描き、青く萌ゆる山野を描き、またある時は、佐々木君の横顔を描いた。
けれど、私の恋は――満開だった桜が惜しみなく散り、桜の木が青い衣をまとうようになった初夏の日、突然終わる。
佐々木君の転校によって。
私がリワインドの能力を発動させたのも、自分にそんな能力があると気づいたのも、思えばこの日が最初だった。そして、結果は何一つ変えられなかった。三日間だけ時間が戻ったとしても、予定調和の出来事は起こるのだから。食い止める方法がなければ、同じことが繰り返される。結局、佐々木君は転校してまたいなくなった。環境を変える力もないただの幼い子どもでしかなかった私は、途絶えてしまった関係と、行き場を失った初恋の結末に、わんわんと泣くほかなかった。
* * *
机の上には一冊のスケッチブック。開かれたページにあるのは、彼がいなくなってから完成する目処が立たなくなった肖像画。この絵を見るたび、昔のことを思い出す。
転校したあと、彼はどうしたのだろう。どんな高校生になって、今どこで何をしているのだろう。今の私は、あの頃より少しだけ大人になって、精神的に強くなった。日々を懸命に過ごして歳を重ね、別れの日の記憶も次第に薄れた。そのはずなのに――ふとした瞬間に蘇ってくる後悔。私は、いつ会えるかもわからない、おそらく、もう二度と会えないであろう彼に対して抱いた初恋を、今でも忘れられていない。
ぽっかりと、穴が空いたままの心。描きかけになったこの絵と同じで、私の初恋はあの日からずっと未完成のままだ。
ふう、と一つ息を吐き、自室の天井を見上げた。私が七年前に置き去りにしてきた未練は、この絵だけではなかった。あの日私は、佐々木君と喧嘩別れをした。彼の転校によって唐突に引き裂かれ、謝ることもできないまま。
下描きのままで止まっている初恋の彼が、スケッチブックの紙の中央で笑っていた。
* * *
すべてが朧げで、手探りの恋だったけど、私は佐々木君が好きだった。あの頃に――戻りたい。
そんなことを時々考えながらも、あれからもう七年。私、煮雪侑は、とりあえず何事もなく平和に、高一の初夏を迎えている。
「雨か」
六月十六日。三日前にセットしたアラームの時刻を確認しながら空を見上げた。
北海道には梅雨がない、というのは意外と知られていない話。梅雨前線が北海道に届かないか、届いたとしても、前線の活動が著しく衰えるためらしい。
それなのに、今日も今日とて涙雨。濡れたスカートの裾を気にしながら教室に入ると、日常にちょっとした変化があった。私の席の隣に、真新しい机が増えている。
「転校生だってさ」
私の視線に気づいて、親友である理紗が机を指差した。鮮やかな茶髪ショートの彼女は、私より頭半分ほど背が高い。隣に並ぶと自分だけが幼く見える気がして、時々劣等感を抱いてしまう。
――ずっと、忘れられない恋がある。
ポッと儚く燃え尽きた、線香花火みたいな恋だった。
風に煽られ地に落ちた、蕾みたいな恋だった。
あれから、七年。
今でも心の片隅に彼がいて、たびたび思う。もし、あの頃に戻れるならと。
三日前だったら、私の能力で戻れるのに、なんて。
朱を含んだ薄紫色の夕空の下、私は交差点の一角に立ち尽くしていた。
行き交う人々は、みな、戦慄と混乱の表情をしている。そこかしこから悲鳴が上がり、慌てて電話をしている人の声も聞こえてくる。しかし、それらの喧騒を気にすることもなく、目の前で展開される光景を慄きながらただ見つめていた。
歩道に乗り上げ、信号機をなぎ倒して止まった大型トラック。激しい事故の様子を物語るように、真っ黒なタイヤ痕が路上に残されている。でも、そんなことはどうでもいい。問題なのは、トラックの前部に広がり始めた真っ赤な血だまりのほうで。
その中に倒れているのは私の親友。気が遠くなりそうなほど現実味の薄い光景だが、彼女の額から、腹部から流れ出てくる赤い液体が、これは現実なのだと私の脳にうったえてくる。
「理紗!」
親友の傍らに膝をつき、その手を取って握り締めた。握り返そうとしているのだろうか。辛うじて動く彼女の指先。だが、完全に生気を失いつつある瞳に、私の姿は映っていない。
事故が起きたのは数分前のこと。側方から飛び出してきた信号無視の乗用車と大型トラックが接触すると、トラックの進路が突然変わり、私と理紗が信号待ちをしていた歩道に突っ込んできたのだ。それは一瞬の出来事で、放心状態の私を理紗がどん、と手で押して、彼女だけが撥ねられてしまった。彼女が機転を利かせてくれなければ、きっと私も一緒に血だまりの中だった。
赤色灯の明かりとともに、救急車がやってくる。
「ほら、邪魔になるから事故現場から離れて!」
警察官数人による現場検証と交通整理が慌ただしく始まる。そのうちの一人が青ざめた顔で立ち尽くしている運転手に事情聴取を行い、別の一人が私の元に来た。
「君は、怪我をした女性とは知り合い?」
「はいっ……。学校の同級生なんです! 理紗は、理紗は助かるんですよね!?」
声が上ずっている。自分でもヤバいなって思う。
「落ち着いて、大丈夫ですから。怪我をした女性と君の名前を教えてもらえるかな?」
「か、彼女の名前は菅原理紗。私は煮雪侑です。二人とも、公立道北高校の一年生」
「菅原さんと煮雪さんね。では、事故が起きた時の状況なんだけれども――」
ぼんやりとした意識の中、警察官の声が遠く聞こえ始める。担架に乗せられた友人の手が、力なく垂れ下がるのが見えた。理紗……。一連の流れを見て、自分のやるべきことが定まる。決めたなら、やることは一つだ。
「すみません。時間を確認しても良いでしょうか?」
「時間? いや、別に構わんが」
訝しげな警察官に頭を下げ、制服のポケットからスマホを取り出す。六月十六日、木曜日。時刻は十八時三十三分。事故が起きたのは、二十五分頃と見積もっておけば問題ないだろうか。よし――
事故の状況と酷い出血を見る限り、理紗が助かる見込みはかなり薄い。ならば、彼女を救う手段は一つしかない。
――私の能力を使うこと。
力を行使するため集中力を高めていくと、周囲の喧噪が一切耳に届かなくなった。
「――巻き戻し」
即座に視界は暗転し、次の瞬間気がつくと、私は電車の中にいた。
* * *
人生をやり直したい、と思ったことがあるだろうか?
職場での対人関係がうまくいかない。結婚する相手を間違えたかも。日々、選択の連続である人生の中で、悩みを抱えることは誰にだってある。思い描いていた未来から遠く離れた場所にいる自分を意識した時、やり直したいと感じてしまうのは決して珍しいことではないと思う。
しかし、そんなことはもちろん不可能。
歩んできた人生を、なかったことにはできない。子どもの頃に戻れたら、とか、転生したいと言い出したなら、漫画や小説の読みすぎだと笑われてしまう。
ところが――である。
「アイタタタ……」
四人掛けボックス席の座面に、数十センチの高さから落下したことで痛めたお尻を擦りながら、周囲の状況を確認した。
ここはどこか? 通学のため毎日利用している電車の中。時間は――とスマホを取り出して、そのまま理紗に電話をする。二コールののち、電話の相手が応対した。
「もしもし」
『おー侑か。どうしたの? さっき別れたばかりなのに』
「いや、別に用事はないんだけどさ。無性に理紗の声が聞きたくなって」
『何それ、愛が重い女みたい。心配しなくても、私の声ならいつでも聞かせてやるぞ』
元気な彼女の声を聞いているうちに、動転していた心が落ち着いた。さっき見た凄惨な事故現場の映像が、三日先のものになる。
電話を切ってから改めて日時を確認すると、六月十三日の十八時三十三分だった。良かった。ちゃんと三日前に戻っている。
こんな風に、私は人生をやり直すことができる。ただし『三日間限定』なんだけれどね。『三日間だけ、時間を巻き戻す』ことこそが、私の持っている不思議な能力――巻き戻しの正体である。
この能力には、いくつかの特徴と制約がある。
まず一つ目。きっちり三日間しか戻せない。一日前、もしくは二日前に戻りたいと思っても不可能で、丁度三日前に戻る。時間帯すら選べない。六月十六日の十八時三十三分に能力を使ったならば、六月十三日の十八時三十三分に戻る。それは場所も例外ではなく、三日前の同時刻にいた場所に強制的に戻される。
その時にちょっとだけ、座標がズレたりするのが困りもの。
今回は、本来戻るべき場所よりも、数十センチ高い座標に戻ったらしい。クッション性低めの座面に落ちたことで、尾てい骨が微妙に痛い。痔になったらどうしてくれる。
二つ目。リワインドする前の三日間に起こっていた出来事は、すべてリセットされてなかったことになる。同様に、人々の記憶もすべて消去される。なので、リワインドが行われた事実に誰も気がついていない。……ただ一人、私を除けば。
信号機をなぎ倒した大型トラック。血だまりと、親友の姿。悪夢が再び蘇り、かぶりを振った。
時には忘れたいこともあるんだけどな。とはいえ、三日後に再び事故は起こるのだし、忘れるわけにはいかない。あの時間、あの交差点から理紗と自分を離しておけば、まず大丈夫なはずだけど。念のため、三日後の十八時十分にスマホのアラームをセットしておいた。よし。
この記憶保持も能力の一部かもしれないが、謎の多い能力なのでよくわからない。
最後に三つ目。能力を使用すると、七日先まで再使用できない。能力を何度も使って同じ時間軸を往復することはできないし、リワインドした事実を『なかったこと』にもできない。たぶん、こいつが一番厄介な制約である。時間を戻した結果、状況が益々悪化してしまうことも稀にあるが、やり直しは利かない。だからこそ、むやみやたらと能力を使うべきではないし、使うタイミングについてもきちんと熟考する必要があるのだ。
というわけで。突発的にリワインドを使った場合、多少の不都合が生じるのは茶飯事だ。
「はあ……やり直しか」
衝撃でずり落ちた眼鏡を直し、手元の原稿に目を落とす。膝の上で広げたままのそれは、私が趣味で描いているBL漫画の原稿だ。
『現役女子高生漫画家』のような、大層な肩書きなんてもちろんない。趣味で描いている作品を、投稿サイトで公開しているアマチュア漫画家である。
BLとは、男性同士の恋愛を描いた、小説や漫画のジャンルの一つだ。漫画を描いていることは、誰にも伝えたことがない。というか、むしろ積極的に公開したくない秘匿情報なわけで。
それはともかくとして、たっぷり時間をかけて修正したはずの原稿は、きっちり修正前の状態に戻っていた。これから二日かけて同じ作業をするのか、と思うと笑えない。
「最悪。でも、しょうがないしょや」
流石に、親友の命と趣味を天秤にかけようとは思わない。今は、落胆より安堵のほうが勝っている。
漫画の修正箇所を確認すべく、原稿に目を通しながら電車の窓ガラスにコツンと額を当てると、雨粒がガラスを叩く音が聞こえた。どうやら、三日前は雨が降っていたらしい。そういやこの日、傘を忘れたんじゃなかったかな。良くないことほど重なるものだ。断続的に響く雨音のリズムを数えているうちに、次第に意識が混濁してゆく。
そして気がつくと……
「あれ……?」
眠ってしまっていたのかな。微睡みの中、誰かに肩を叩かれている気がして私は目覚めた。――というか、叩かれていた。驚いて顔を上げると、パンツルックの長髪美人が私の隣に座っていた。年齢は二十歳前後かな? うわ、睫毛長いなー。力強い双眸が、やたら印象的に目に映る。ん……というか、この人誰?
見知らぬ女性が真横にいるという異常事態に硬直していると、彼女がくすりと含み笑いをした。
「次の駅で降りるんじゃないの?」
「え?」
瞳を瞬かせて驚いたあとで、窓の外に目を向ける。そこがまだ、降りる駅まで距離のある場所だと気づいて胸を撫で下ろした。
「はい、その通りです。危うく乗り過ごしてしまうところでした。気遣って起こしてくれたんですか?」
「そうよね? じゃあやっぱり起こして良かった。なんか覗き見ていると思われたら困るし、どうしようかな? と悩んでいたんだけど」
うふふ、と笑う彼女を見ながら、私は今自分が置かれている状況を正確に把握した。
慌てて手元の原稿を隠した。
「み、見たんですか?」
見てないわよ、と彼女は即答した。
「そんなには」
「見たんじゃないですかっ!」
「どうして彼のことを考えると、こんなに胸が痛むのだろう? 俺は男で、彼も男なのに。……この後、トオル君は膨らんでいくユウキ君への想いを抑えることができるのか? そのあたりは気になるわね」
私の漫画のワンシーンを、一言一句違わず彼女は言い当てた。思わずこめかみ付近を押さえて蹲る。
「結構、しっかりと見ているじゃないですかやだー……とか可愛く言いたいところですが、本当に嫌です」
「でも、私が覗き込んでいても、あなたがどんどんページを捲っていくものだから? そりゃあ気にもなるわよ?」
どうやら、現実と夢の狭間を揺蕩う中、手だけはしっかり動いて原稿を捲り続けていたらしい。投稿前の漫画(しかもBL)を読まれるとか最悪だ。人生オワタ。
これ見よがしに肩を竦めてみせると、気後れするように彼女が言った。
「もしあなたが良かったらなんだけど、それ、もうちょっとだけ見せてもらえないかしら?」
「嫌です」と私は即答した。
「なんで?」と彼女は食い下がった。
「恥ずかしいからです」私はきっぱりと拒絶する。
「ふ~ん、でも、すごく上手よ。あなた」
「本当ですか!?」と食い気味に身を乗り出してから私は自嘲した。
恥ずかしいのは本音なのだが、それは描きかけだからだ。ウェブで公開済みの作品についてはなんの問題もない。むしろ読んでほしいとすら思う。
私の漫画は少々伸び悩んでいた。ランキングに載れず埋もれてしまうと、読者が増えず、さらに埋もれていくという悪循環に陥るのだ。そんな歯がゆさを感じていたため、藁にも縋りたくなった。いや、藁はちょっと失礼か。
「描きかけのものは見せられませんが、投稿した作品であれば、全然構わないです」
「投稿? ああ~もしかして、ウェブかなんかで、作品を公開しているんだ?」
そうです、と無駄に重々しく頷き、投稿サイトのページを開いてスマホを差し出した。
「あなたのことを想うだけで、私の〇〇〇はナイアガラ」
形の良い唇から飛び出した放送禁止用語に驚いてスマホを取り上げると、投稿ジャンルを反映してか、肌色成分強めの広告バナーが見えた。だから、BL=R18って一括りにしないで! 私の作品に性描写はないの!
「何を読んでいるんですか! それはただの広告で、私の作品じゃありません!」
手が焼ける、と思いながら一ページ目を表示させて再度手渡した。
「蒼月月華……で読み方あってる? それともあおつき?」
ああ、しまった!
「ごめんなさい、ペンネームは読まないでください! 読み方前者で合っていますから、二度と読まないでください! つか、忘れて……!」
段々弱くなっていく語尾。彼女はお腹を抱えて笑い転げた。死にたい……。どうしてこんな名前を付けたのかと、過去の自分をぶん殴ってやりたい気分だ。いや、名前を変えればいいんだろうけど、せっかく浸透した名前を今更変えるのも癪だ。
「あははっ、あなたって面白いわね」
「私はあんまり、面白くないです」
「でも、なんか楽しみ。あとで探して読んでみるわね」
「あっはい。気が向いたらでいいですし、暇だったらで十分なので、あんまり期待しないで見てやってください……」
厨二病ペンネームがバレた恥ずかしさに赤面しながらも、私は控えめに告げた。内心では、閲覧数伸びるかな? なんて、浅ましい算段を立てながら。
――けど、おかしい。彼女はいったい何者なんだろう? 三日前、この女性と出会ってなんかいないのに。
リワインドをしたあとの世界では、同じ出来事がまた起こる。世界も、人々の言動も、時間を戻す前と寸分違わず同じ流れを繰り返すのだ。
流れを変える方法はある。私が能動的に働きかけることだ。必然的に、私の力でどうにかできる範囲に限られる。例をあげると、明日学校に行くのをやめようと思えばやめられる。それによって変わる未来があれば変わる。だが、例えば明日が、風の強い日だとしても私には変えられないし、強風によって、三十代半ばにして広くなった数学教師山田のおでこが衆目に晒されるのも止められない。
「私の力を超えている」
「なんか言った?」
「あ、いいえ」
つまり『大して変えられない』という意味でもあるんだけれどね。なので『私が別段何もしていない』のに変化が生じている今の状況は、はっきりいって異常事態だ。
どうしてだろう? こんなことは、今まで一度もなかった。イレギュラーが発生している要因として考えられるのは、漫画の原稿を広げたまま居眠りをしたこと。そのせいで彼女の目を惹く結果を生んだ……ということなのか? ここだけは前回と違っているので、一応合点はいくが。
そんなことを思っているうちに、私の降りる駅に着いた。しまい忘れていた原稿を鞄に入れ、彼女にぺこりと頭を下げて席を立つ。
「じゃあ私、ここで降りますんで、これで失礼します」
「うん、またね。……ああそうだ。あなた、三日後の話なんだけど、またこの時間の電車に乗る?」
三日後というと、リワインドをした日のことだな。
「いえ、その日は遅くまで部活動があるので、この時間帯の電車は使いませんね」
ここまできっぱりと宣言するのはまずかっただろうか? 私は知っているものの、これは未来の話だ。それにしても、なぜこんな質問をするのだろう? ところが彼女は、私の発言を不審がる様子もなく、こう言い添えた。
「そう……。ごめんね、変なこと訊いて。それから私の名前、ユウコだから。よろしくね」
自称ユウコサンが、くしゃりと笑う。
電車を降りる時、なぜだろう、彼女――ユウコサンの姿をもう一度見たくなった。開いた扉の前で立ち止まり、彼女の背中に視線を注ぐ。「ほら、邪魔だから早く降りろ」と見知らぬおっさんに後ろから怒鳴られ、すみません、と殊勝に頭を下げた。
ホームに立って電車の窓越しに見つめていると、不意に彼女がこちらを向いた。視線が正面からかち合い、彼女が再び笑みを浮かべる。
電車が走り始めて、絡まっていた視線が剥がれる。電車はあっという間に視界の向こうに消えていった。
七年前もこうして彼を見送ることができていたなら、きっと未来は変わっていたんだ。
胸が苦しくて、どうしようもなく痛くなって、心臓の辺りに左手を添えた。
――ほんとフザけんな。七年前の私。
第一章「未完成のままの初恋とスケッチブック」
――ずっと、忘れられない恋がある。
追憶の中にいる、その男の子の名前は佐々木君。最早、下の名前を思い出せなくなってしまった彼は、小学校二年生の晩秋に転校生としてやってきて、三年生の初夏に再び転校していったクラスメイト。一緒に過ごした時間は半年ほどでしかなかったが、今でも私の記憶の奥底に色濃く存在感を残している男の子であり、もしかすると、いや確実に、私の淡い初恋の相手だった。
その当時の私は、決して友達の多い子ではなかった。二年生に進級してすぐ、父の都合による引っ越しと転校を経験した。小学校という新しい世界に馴染み始めた頃に訪れた友人との別れは、私の心にしっかり影を落として、新しい学校ではどこか浮きがちになった。特定の苦手な誰かがクラスにいたわけでもないが、とかく男子が苦手だった。がさつで、乱暴で、行動もなんだか幼稚。自分も子どもだという事実を棚に上げて、達観した見方をたぶんしていた。
それなのに、佐々木君だけが平気だった。
彼が転校してきた日のことをよく覚えている。緊張した面持ちで、先生に紹介されている彼を見て、数ヶ月前の自分も同じ顔をしていたんだろうなと思った。そこに親近感を覚えたからなのか、襟足が長めの髪の毛と丸っこい瞳のせいで、どこか女性的に見えたからなのか。それはよくわからないが。
昼休みになると、彼はよくスケッチブックを片手に校庭に出ていた。紅葉した木。昇降口の脇にある水飲み場。目についた光景を、紙の上に水彩絵の具で表現していた。とはいえ、文科系の男の子かというとそうでもなく、体育の成績は人並み以上だったし足も速い。それなのに、校庭でへったくそな野球に興じる男子らには目もくれず、ひたすら彼はスケッチブックに筆を走らせていた。
だからある日、私は訊ねてみたんだ。「野球とかして遊ばないの? 佐々木君スポーツが得意だし、かけっこだって速いのに」と。茶色の丸い瞳がこっちに向いた。「別に野球は嫌いじゃないよ。でも、一番やりたいことは絵を描くことなんだ。一番と二番だったら、一番のほうが大事でしょ?」
さも当たり前、と言わんばかりの声だった。それもそうか、と納得しながらも、面白い感性を持っている人だなと思った。
絵を描くことが元々好きだった私は、彼の筆が描き出していく世界の美しさに、段々心を奪われていった。
彼の描き方には少し特徴があった。鉛筆で描いた下描きの線に沿って、まずは色を塗る。そこから内側に向かって、丹念に色を塗り重ねていくのだ。どこか几帳面な塗り方ながら、完成するとどれもがふんわりとした優しい印象の絵になった。
知らず知らずのうちに、私は佐々木君に惹かれていった。昼休みになると彼の隣に座って、時折その横顔を盗み見ながら、スケッチブックを広げるようになった。
佐々木君と同じ風景を描き、自分の絵はちょっと硬いなあ、柔らかくならないなあとボヤいてみせると、彼は人懐っこい顔で笑った。
「ぼくは、煮雪の描く絵が好きだよ。目の前の光景を正確になぞらえているし、ぼくの絵よりも力強くて勢いがある」
「そうかなあ……。わたしは、もっとふんわりとした絵が描きたい」
「いいじゃない。見え方なんて人それぞれだし、描く絵だって人それぞれだよ。同じものを描いたとしても、みんな違うものになるから絵はいいんだよ。写真だったら、こうはいかないでしょ?」
彼に褒められたという事実に心が弾む。同時に、なるほどなあと思った。
校庭の隅っこに咲いた桜を描き、青く萌ゆる山野を描き、またある時は、佐々木君の横顔を描いた。
けれど、私の恋は――満開だった桜が惜しみなく散り、桜の木が青い衣をまとうようになった初夏の日、突然終わる。
佐々木君の転校によって。
私がリワインドの能力を発動させたのも、自分にそんな能力があると気づいたのも、思えばこの日が最初だった。そして、結果は何一つ変えられなかった。三日間だけ時間が戻ったとしても、予定調和の出来事は起こるのだから。食い止める方法がなければ、同じことが繰り返される。結局、佐々木君は転校してまたいなくなった。環境を変える力もないただの幼い子どもでしかなかった私は、途絶えてしまった関係と、行き場を失った初恋の結末に、わんわんと泣くほかなかった。
* * *
机の上には一冊のスケッチブック。開かれたページにあるのは、彼がいなくなってから完成する目処が立たなくなった肖像画。この絵を見るたび、昔のことを思い出す。
転校したあと、彼はどうしたのだろう。どんな高校生になって、今どこで何をしているのだろう。今の私は、あの頃より少しだけ大人になって、精神的に強くなった。日々を懸命に過ごして歳を重ね、別れの日の記憶も次第に薄れた。そのはずなのに――ふとした瞬間に蘇ってくる後悔。私は、いつ会えるかもわからない、おそらく、もう二度と会えないであろう彼に対して抱いた初恋を、今でも忘れられていない。
ぽっかりと、穴が空いたままの心。描きかけになったこの絵と同じで、私の初恋はあの日からずっと未完成のままだ。
ふう、と一つ息を吐き、自室の天井を見上げた。私が七年前に置き去りにしてきた未練は、この絵だけではなかった。あの日私は、佐々木君と喧嘩別れをした。彼の転校によって唐突に引き裂かれ、謝ることもできないまま。
下描きのままで止まっている初恋の彼が、スケッチブックの紙の中央で笑っていた。
* * *
すべてが朧げで、手探りの恋だったけど、私は佐々木君が好きだった。あの頃に――戻りたい。
そんなことを時々考えながらも、あれからもう七年。私、煮雪侑は、とりあえず何事もなく平和に、高一の初夏を迎えている。
「雨か」
六月十六日。三日前にセットしたアラームの時刻を確認しながら空を見上げた。
北海道には梅雨がない、というのは意外と知られていない話。梅雨前線が北海道に届かないか、届いたとしても、前線の活動が著しく衰えるためらしい。
それなのに、今日も今日とて涙雨。濡れたスカートの裾を気にしながら教室に入ると、日常にちょっとした変化があった。私の席の隣に、真新しい机が増えている。
「転校生だってさ」
私の視線に気づいて、親友である理紗が机を指差した。鮮やかな茶髪ショートの彼女は、私より頭半分ほど背が高い。隣に並ぶと自分だけが幼く見える気がして、時々劣等感を抱いてしまう。
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