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第一章「三嶋蓮」
【最後は笑ってお別れだね。その二】
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公園のベンチに二人並んで座り、とりとめなく話し続けた。
こうして二人で寄り添っていると、歳の差が七つもあるとは思えぬほど、彼女の存在を身近に感じる。彼女の包容力か。それとも俺が、童心に返っているのか。ずっと、こうしていた気にすらなってくる。楽しかったことも。辛かったことも。お互いの不在がどれほど寂しく感じられたのか、今までどれだけ逢いたいと願い続けていたのかを、言外に相手に伝え続けた。
「俺さ、大学に入ってから色んな女の子と付き合ったんだ。でも、誰のことも幸せにしてあげられなかったような気がする。最低だろ? 俺」
「うん。サイテーかもね」
「だよなあ……」
「それで? 三嶋君は、そのことを後悔してるの? 彼女たちに謝りたいと思ってる?」
「うーん……」
黙り込んだ俺を、彼女が一笑する。知らず知らずのうちに、眉間に皺でも寄っていたのだろうか。
「後悔しているからこそ、私にそのことを告白しているんでしょ?」
彼女の言葉で、なるほど、と思う。森川にも、美帆に対しても、俺は後ろめたいと感じているからこそ、こうして話しているのかもしれない。
「そうだな。たぶん、後悔している」
「なら、それでいいじゃない?」
「そう……なのかな?」
「三嶋君は自分の行いを後悔して、反省した上で、前に進もうとしてる。だったら、それで良いじゃない? だって──」森川は一度言葉を切ると、伸びあがって俺の頭を撫でた。
「三嶋君は、私がずっと抱えていた『後悔』も受け止めて、許してくれたんだもん。だから、そんな三嶋君の優しい気持ちだったら、ちゃんとみんなわかってくれると思うよ。絶対に、大丈夫」
『大丈夫だよ』
森川の放った一言が、鮮烈に胸を打つ。彼女は俺から目を逸らさない。ともすると、睨んでいるのかな、と思うほど強い眼差しを向けてくる。
「そうだな。今度彼女たちに出会えたら、ちゃんと謝っておくよ」
「宜しい」と言って彼女は、花のように笑った。
「そう言えばさ。七年前のあの日。どうしてあんなに早い時間帯のバスに乗ったんだ?」
ここ数日、感じていた疑問。森川と俺が待ち合わせをしていた時間は十八時だ。あと一時間遅い時間帯のバスでも、充分に間に合ったはずなのだ。
「え、別に早くなんてないよ? だって待ち合わせの時間は十七時だったでしょ? 三嶋君からそう伝えられてるよ」
「へ? 十七時? 俺、十八時って連絡しなかったっけ?」
え、違うよ十七時だよ間違いない、と言いながら笑った森川の顔を見つめて考える。
ダメだ。全然記憶にない。どっちだったろうか、と記憶の引き出しを片っ端から懸命に探った。
しかし、記憶の中に有力な情報はなく、当時の携帯電話も機種変更で廃棄したのだから、やり取りしたメッセージの記録だって残されていない。結局、真相は忘却の彼方なのだ。
だがもし、森川の言っていることが正しいとするならば、彼女を事故に遭わせた張本人は俺なんじゃないのかと。 死神は自分──というところに考えが至ると、なんだか恐ろしくなり頭を左右に振った。
やめろ。結果論に過ぎない。今さらどう足掻いたところで、現状なんて変わらないのだし。
その時、ひゅるるる……という甲高い音が薄闇を裂いて、夜空に光の筋が描かれた。瞬きにも満たない静寂のあと、頭上で大輪の花が咲く。音と光は殆ど同時だ。
「たまやー」と森川が声を張り上げる。俺の過去も、悩み事も、きれいさっぱり吹き飛ばすような高い声で。
間を置かずに次々と花火があがる。どうやら花火も、終わりの時間が近いようだ。
「三嶋君。今日、楽しかったよ」
それが過去形の台詞だったことに、胃の中に氷を投げ込まれたときみたいに背筋がぞくりとした。
「森川……?」
「会いに来てくれて、本当に、ありがとね」
その言葉で俺は理解した。彼女の未練は、これで全部解消されたんだろうと。俺たちが一緒にいられる時間も、もうこれで終わりなんだと。でも、これで良い。これは、俺が望んでいた未来なのだから。
俺に残された仕事があるとしたら、あとひとつだけ。
「森川。俺のこと、ずっと待っていてくれてありがとう。こんな俺のことを、好きになってくれてありがとう」
うん、と彼女が頷いた。耳をつんざくほどの音と光に満たされていた公園の中に、静かに沈黙が落ちてくる。
先程の花火が、どうやら最後の一発だったらしい。
「俺──森川のことが好きだ。また、会えるよな……?」
森川の目尻が下がって、ちょっと困った顔になる。それから泣き笑いのような表情で、こう答えた。
「私も、三嶋君のことが、ずっとずっと前から好きでした。今日は、本当にありがとう」
森川が、静かに目を閉じる。細い顎に指を添え、軽く唇を重ねた。
それは、優しくて穏やかで、けれど、感情の持って行き場のない、そんな切ないキスだった。ふっくらとした感触とは裏腹に、伝わってこない温もりがまた悲しい。
その時、目の前が眩しくなったことに驚き目を開けると、彼女の全身は青白い光に包まれていた。抱きしめている身体も、次第に質感を失い始める。
「森川!」
色味が損なわれていく体。手がすり抜ける感覚に、悲鳴じみた声を上げると、彼女は俺の唇にそっと指を添えた。
……だがその指先は、もはや触れているという感触が殆どない。
「そんな顔しないで」と彼女が寂しそうに笑う。「最後は笑ってお別れしよ。ね? そしたらさ、私も、三嶋君も、気持ちを切り替えてまた前を向くことができるから」
次第に強くなってくる雨脚。薄っすらと陰る雨のカーテンが、二人の周囲を静かに囲っていく。頭からびしょ濡れになっていく俺と、もう、雨に濡れることもなくなった森川の透けた体との対比が、否が応でも現実を突き付けてくる。覚悟していたはずの別れなのに、受け入れたくない俺の心が泣いていた。雨が降っていて良かった。泣いている顔を見られずに済むのだから──そうして俺と森川は、もう一度唇を重ねた。もう、柔らかさはまったく感じられなかったけれども。
「さようなら」と森川が言った。
「ずっと、元気で」と俺は答えた。
「三嶋君、愛してる」
それが、森川が残した最後の言葉となった。次の瞬間、眩い光が彼女の全身を包み込むと、真夏の陽炎みたいにその姿はかき消えた。
線香花火が地面に落ちて燃え尽きたように、辺りは一瞬にして暗くなった。──森川。降りしきる雨と一緒に、俺の呟きがぬかるんだ地面に落ちる。七年前のあの日と同じように、俺はまた独りになってしまった。
さようなら、か。
森川の残してくれた言葉を噛みしめ、いまだ冷たい雨を降らせ続ける空を恨めしそうに見上げた。
戻ろう、と踵を返したその時、ジャケットの胸ポケットに入れていた携帯電話がメロディーを奏でる。着信の主は、美帆だ。
なんだよ神様。初恋の相手との別れをあの日と同じ雨で演出したうえに、元カノからの電話とか泣きっ面に蜂なんですが? いくら性悪男でもイジメ過ぎでしょ、と思いながら応対する。
「もしもし」
『ごめーん。いきなり電話したりして。忙しかった?』
「いや、そんなことはないけど。んで、どうした?」
自分でも、いや、もうちょっと言うことあるだろうとは思う。
『え。言うことそれだけ? もっとなんかあるでしょ?』
相変わらずだなあ、と通話口の向こうの彼女が無遠慮に笑う。いや、ほんとにな。
「いや、ごめん。驚いた。急にいなくなったからさ」
『……うん、そうだよね。電話したのはさ、その件なんだ』
「うん」
『私の両親、突然離婚することになってね。そんで、引っ越しの日時とかバタバタと決まっちゃって』
「聞いた。大変だったみたいだね」
『今いるのはさ、いわゆる、母親の実家って奴だね。同時期に携帯電話の入れ替えもしてたもんだから、連絡付かなかったかな? と思ってさ』
「母親のほうについていくことにしたんだな。電話の件は知らなかった。そもそも、かけなかったから」
電話の向こうから聞こえてきたのは、返答代わりのため息だった。自分でも、返す言葉が見つからない。
「大学は、どうするの?」
『大学は……寮に入ることとか色々検討してたんだけど、実のところかなり遠くなっちゃうから、辞めちゃうかもしんない』
「そっか。もったいないね」
『本気で言ってる~?』
存外に明るい声で美帆が言う。本気だよ、と笑って答えたが、上手く笑えた自信がない。
「美帆。ゴメンな」
『うん。……じゃないな。私のほうこそゴメンね。本当は、引っ越しする前に説明しておかなくちゃダメだったのにね』
何に謝っているのか明白に伝えなかったが、向こうも『何が』とは訊ねなかった。たぶん、お互いにそれとなく察していた。
『でも、なんとなく伝える勇気がでなかった。だってさ、三嶋君、私のほう全然見てなかったもん』
その指摘はもっとも過ぎた。俺は、誰が相手でも上辺ばかりの交際に留め、深く相手のことを知ろうとしなかったし、踏み込ませもしなかった。なんのことはない。根が臆病だからだ。上手く立ち回っていたつもりでも、美帆にはちゃんとお見通しだったんだ。
そうだな、ごめん、と素直に謝ったあとで、「なあ、美帆」と俺は切り出した。
『うん。なに?』
「今さらこんなことを言っても信じられないと思うけど、俺、美帆のことが好きだったんだ」
電話口の向こうから、ごくりと喉を鳴らす音が聞こえた。それからアハハ、と笑ったのち、小さく『そっか』と美帆が呟いた。
『そりゃあ私たち付き合っていたんだから、好きじゃなかった、なんて言われたら傷つくしそうじゃなきゃ困るよ。でもさ、今頃になって愛の告白とか、ちょっと卑怯だと思うんですが?』
「ああ、だよなあ」と答えながら、そっか、俺はやっぱりフラれているんだな、なんて思う。
『でもね……。私も、蓮君のこと、ちゃんと好きだったよ。だから、ちょっとだけ嬉しいかな』
美帆が、初めて俺のことを下の名前で呼んだ。この瞬間、二人の間に存在していたわだかまりは溶けて消えた。それなのに、これまでと違う壁が一枚できあがっていることに気づくと、その事実が堪らなく辛かった。
「今度から俺、自分に正直に生きることにするよ」
『ふーん? よくわかんないけど、気持ちを入れ替えるってことかな?』
「まあ、そんなところだ」
『ふむ。どうですか? 私がいなくなっても、良い恋できそう?』
「んー、まだわかんないけど頑張るよ。美帆も、どうか元気で」
『またそのうちに、そっち行く機会あると思うからさ、美味しい料理でも奢ってよね?』
「ああ、約束する」
ひとしきり二人で笑いあったのち、電話を切った。美帆が最後に残した言葉は、『じゃあ、さようなら。がんばりなさい、蓮君』だった。
がんばりなさい、という言葉を噛みしめる。一度消していた彼女の名前を、着信履歴から再び登録し直した。『山本美帆』と。スマホをポケットに仕舞い、歩き始める。
今度は天気の良い日を選んで、もう一度西公園に来よう。明日から、今以上に大人になろう。
俺は、彼女『たち』に、そう誓いを立てた。
温かい光を落としている街灯が、雨粒を綺麗に煌めかせていた。
雨はまだ、降り続いていたけれど、俺の心の中で降っていた雨はいつの間にか止み、かすかに晴れ間が見え始めていた。
こうして二人で寄り添っていると、歳の差が七つもあるとは思えぬほど、彼女の存在を身近に感じる。彼女の包容力か。それとも俺が、童心に返っているのか。ずっと、こうしていた気にすらなってくる。楽しかったことも。辛かったことも。お互いの不在がどれほど寂しく感じられたのか、今までどれだけ逢いたいと願い続けていたのかを、言外に相手に伝え続けた。
「俺さ、大学に入ってから色んな女の子と付き合ったんだ。でも、誰のことも幸せにしてあげられなかったような気がする。最低だろ? 俺」
「うん。サイテーかもね」
「だよなあ……」
「それで? 三嶋君は、そのことを後悔してるの? 彼女たちに謝りたいと思ってる?」
「うーん……」
黙り込んだ俺を、彼女が一笑する。知らず知らずのうちに、眉間に皺でも寄っていたのだろうか。
「後悔しているからこそ、私にそのことを告白しているんでしょ?」
彼女の言葉で、なるほど、と思う。森川にも、美帆に対しても、俺は後ろめたいと感じているからこそ、こうして話しているのかもしれない。
「そうだな。たぶん、後悔している」
「なら、それでいいじゃない?」
「そう……なのかな?」
「三嶋君は自分の行いを後悔して、反省した上で、前に進もうとしてる。だったら、それで良いじゃない? だって──」森川は一度言葉を切ると、伸びあがって俺の頭を撫でた。
「三嶋君は、私がずっと抱えていた『後悔』も受け止めて、許してくれたんだもん。だから、そんな三嶋君の優しい気持ちだったら、ちゃんとみんなわかってくれると思うよ。絶対に、大丈夫」
『大丈夫だよ』
森川の放った一言が、鮮烈に胸を打つ。彼女は俺から目を逸らさない。ともすると、睨んでいるのかな、と思うほど強い眼差しを向けてくる。
「そうだな。今度彼女たちに出会えたら、ちゃんと謝っておくよ」
「宜しい」と言って彼女は、花のように笑った。
「そう言えばさ。七年前のあの日。どうしてあんなに早い時間帯のバスに乗ったんだ?」
ここ数日、感じていた疑問。森川と俺が待ち合わせをしていた時間は十八時だ。あと一時間遅い時間帯のバスでも、充分に間に合ったはずなのだ。
「え、別に早くなんてないよ? だって待ち合わせの時間は十七時だったでしょ? 三嶋君からそう伝えられてるよ」
「へ? 十七時? 俺、十八時って連絡しなかったっけ?」
え、違うよ十七時だよ間違いない、と言いながら笑った森川の顔を見つめて考える。
ダメだ。全然記憶にない。どっちだったろうか、と記憶の引き出しを片っ端から懸命に探った。
しかし、記憶の中に有力な情報はなく、当時の携帯電話も機種変更で廃棄したのだから、やり取りしたメッセージの記録だって残されていない。結局、真相は忘却の彼方なのだ。
だがもし、森川の言っていることが正しいとするならば、彼女を事故に遭わせた張本人は俺なんじゃないのかと。 死神は自分──というところに考えが至ると、なんだか恐ろしくなり頭を左右に振った。
やめろ。結果論に過ぎない。今さらどう足掻いたところで、現状なんて変わらないのだし。
その時、ひゅるるる……という甲高い音が薄闇を裂いて、夜空に光の筋が描かれた。瞬きにも満たない静寂のあと、頭上で大輪の花が咲く。音と光は殆ど同時だ。
「たまやー」と森川が声を張り上げる。俺の過去も、悩み事も、きれいさっぱり吹き飛ばすような高い声で。
間を置かずに次々と花火があがる。どうやら花火も、終わりの時間が近いようだ。
「三嶋君。今日、楽しかったよ」
それが過去形の台詞だったことに、胃の中に氷を投げ込まれたときみたいに背筋がぞくりとした。
「森川……?」
「会いに来てくれて、本当に、ありがとね」
その言葉で俺は理解した。彼女の未練は、これで全部解消されたんだろうと。俺たちが一緒にいられる時間も、もうこれで終わりなんだと。でも、これで良い。これは、俺が望んでいた未来なのだから。
俺に残された仕事があるとしたら、あとひとつだけ。
「森川。俺のこと、ずっと待っていてくれてありがとう。こんな俺のことを、好きになってくれてありがとう」
うん、と彼女が頷いた。耳をつんざくほどの音と光に満たされていた公園の中に、静かに沈黙が落ちてくる。
先程の花火が、どうやら最後の一発だったらしい。
「俺──森川のことが好きだ。また、会えるよな……?」
森川の目尻が下がって、ちょっと困った顔になる。それから泣き笑いのような表情で、こう答えた。
「私も、三嶋君のことが、ずっとずっと前から好きでした。今日は、本当にありがとう」
森川が、静かに目を閉じる。細い顎に指を添え、軽く唇を重ねた。
それは、優しくて穏やかで、けれど、感情の持って行き場のない、そんな切ないキスだった。ふっくらとした感触とは裏腹に、伝わってこない温もりがまた悲しい。
その時、目の前が眩しくなったことに驚き目を開けると、彼女の全身は青白い光に包まれていた。抱きしめている身体も、次第に質感を失い始める。
「森川!」
色味が損なわれていく体。手がすり抜ける感覚に、悲鳴じみた声を上げると、彼女は俺の唇にそっと指を添えた。
……だがその指先は、もはや触れているという感触が殆どない。
「そんな顔しないで」と彼女が寂しそうに笑う。「最後は笑ってお別れしよ。ね? そしたらさ、私も、三嶋君も、気持ちを切り替えてまた前を向くことができるから」
次第に強くなってくる雨脚。薄っすらと陰る雨のカーテンが、二人の周囲を静かに囲っていく。頭からびしょ濡れになっていく俺と、もう、雨に濡れることもなくなった森川の透けた体との対比が、否が応でも現実を突き付けてくる。覚悟していたはずの別れなのに、受け入れたくない俺の心が泣いていた。雨が降っていて良かった。泣いている顔を見られずに済むのだから──そうして俺と森川は、もう一度唇を重ねた。もう、柔らかさはまったく感じられなかったけれども。
「さようなら」と森川が言った。
「ずっと、元気で」と俺は答えた。
「三嶋君、愛してる」
それが、森川が残した最後の言葉となった。次の瞬間、眩い光が彼女の全身を包み込むと、真夏の陽炎みたいにその姿はかき消えた。
線香花火が地面に落ちて燃え尽きたように、辺りは一瞬にして暗くなった。──森川。降りしきる雨と一緒に、俺の呟きがぬかるんだ地面に落ちる。七年前のあの日と同じように、俺はまた独りになってしまった。
さようなら、か。
森川の残してくれた言葉を噛みしめ、いまだ冷たい雨を降らせ続ける空を恨めしそうに見上げた。
戻ろう、と踵を返したその時、ジャケットの胸ポケットに入れていた携帯電話がメロディーを奏でる。着信の主は、美帆だ。
なんだよ神様。初恋の相手との別れをあの日と同じ雨で演出したうえに、元カノからの電話とか泣きっ面に蜂なんですが? いくら性悪男でもイジメ過ぎでしょ、と思いながら応対する。
「もしもし」
『ごめーん。いきなり電話したりして。忙しかった?』
「いや、そんなことはないけど。んで、どうした?」
自分でも、いや、もうちょっと言うことあるだろうとは思う。
『え。言うことそれだけ? もっとなんかあるでしょ?』
相変わらずだなあ、と通話口の向こうの彼女が無遠慮に笑う。いや、ほんとにな。
「いや、ごめん。驚いた。急にいなくなったからさ」
『……うん、そうだよね。電話したのはさ、その件なんだ』
「うん」
『私の両親、突然離婚することになってね。そんで、引っ越しの日時とかバタバタと決まっちゃって』
「聞いた。大変だったみたいだね」
『今いるのはさ、いわゆる、母親の実家って奴だね。同時期に携帯電話の入れ替えもしてたもんだから、連絡付かなかったかな? と思ってさ』
「母親のほうについていくことにしたんだな。電話の件は知らなかった。そもそも、かけなかったから」
電話の向こうから聞こえてきたのは、返答代わりのため息だった。自分でも、返す言葉が見つからない。
「大学は、どうするの?」
『大学は……寮に入ることとか色々検討してたんだけど、実のところかなり遠くなっちゃうから、辞めちゃうかもしんない』
「そっか。もったいないね」
『本気で言ってる~?』
存外に明るい声で美帆が言う。本気だよ、と笑って答えたが、上手く笑えた自信がない。
「美帆。ゴメンな」
『うん。……じゃないな。私のほうこそゴメンね。本当は、引っ越しする前に説明しておかなくちゃダメだったのにね』
何に謝っているのか明白に伝えなかったが、向こうも『何が』とは訊ねなかった。たぶん、お互いにそれとなく察していた。
『でも、なんとなく伝える勇気がでなかった。だってさ、三嶋君、私のほう全然見てなかったもん』
その指摘はもっとも過ぎた。俺は、誰が相手でも上辺ばかりの交際に留め、深く相手のことを知ろうとしなかったし、踏み込ませもしなかった。なんのことはない。根が臆病だからだ。上手く立ち回っていたつもりでも、美帆にはちゃんとお見通しだったんだ。
そうだな、ごめん、と素直に謝ったあとで、「なあ、美帆」と俺は切り出した。
『うん。なに?』
「今さらこんなことを言っても信じられないと思うけど、俺、美帆のことが好きだったんだ」
電話口の向こうから、ごくりと喉を鳴らす音が聞こえた。それからアハハ、と笑ったのち、小さく『そっか』と美帆が呟いた。
『そりゃあ私たち付き合っていたんだから、好きじゃなかった、なんて言われたら傷つくしそうじゃなきゃ困るよ。でもさ、今頃になって愛の告白とか、ちょっと卑怯だと思うんですが?』
「ああ、だよなあ」と答えながら、そっか、俺はやっぱりフラれているんだな、なんて思う。
『でもね……。私も、蓮君のこと、ちゃんと好きだったよ。だから、ちょっとだけ嬉しいかな』
美帆が、初めて俺のことを下の名前で呼んだ。この瞬間、二人の間に存在していたわだかまりは溶けて消えた。それなのに、これまでと違う壁が一枚できあがっていることに気づくと、その事実が堪らなく辛かった。
「今度から俺、自分に正直に生きることにするよ」
『ふーん? よくわかんないけど、気持ちを入れ替えるってことかな?』
「まあ、そんなところだ」
『ふむ。どうですか? 私がいなくなっても、良い恋できそう?』
「んー、まだわかんないけど頑張るよ。美帆も、どうか元気で」
『またそのうちに、そっち行く機会あると思うからさ、美味しい料理でも奢ってよね?』
「ああ、約束する」
ひとしきり二人で笑いあったのち、電話を切った。美帆が最後に残した言葉は、『じゃあ、さようなら。がんばりなさい、蓮君』だった。
がんばりなさい、という言葉を噛みしめる。一度消していた彼女の名前を、着信履歴から再び登録し直した。『山本美帆』と。スマホをポケットに仕舞い、歩き始める。
今度は天気の良い日を選んで、もう一度西公園に来よう。明日から、今以上に大人になろう。
俺は、彼女『たち』に、そう誓いを立てた。
温かい光を落としている街灯が、雨粒を綺麗に煌めかせていた。
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