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第二章「霧島七瀬」

【もう、全てが限界だった】

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 自宅アパートから学校までの距離は約五キロ。
 歩くには遠く、かといって車だと近すぎるという微妙な距離。そのため移動手段は、買い物が多いとき以外は基本的に自転車だ。もっとも、車なんて持ってないが。自動車ローンを組む余裕だってないし。
 学校を出ると、自宅の方角に自転車を向け漕ぎ始めた。直線状に伸びてくる暮れかけの夕陽が目に染みる。

「そういえば景の奴、今日は飲み会なんだっけ」

 昨晩、彼が言った台詞を、ふと思い出した。
 一人きりの寂しい夕食なら、コンビニ弁当でも構わないな。たまには手抜きも良かろうて。いや、たまにどころじゃないでしょここ最近は、なんて、自分に突っ込んだところで気がついた。
 財布の中身が心もとない。銀行、寄っていかなくちゃ。

 銀行に着いてお金を下ろす。通帳記入をして何気なく見ると、心当たりのない支払い記録が目に留まった。なんだろう、これ? と疑問に感じ、ネットショッピングの購入履歴を調べてみた。
『小紋柄プリントワンピース5990円』
『パンプス3980円』

「え……、なんなのこれ」

 トップに表示されたのは、身に覚えのない二点の購入履歴。こんな物、私は買った記憶なんてない。
 このアカウントは、私と景の二人で使っているもの。必然的に、購入したのは景だということになるのだが、どう考えてもこれは女物だ。もちろん私は、彼にプレゼントなどされてない。
 女物の衣服。同級生と行く飲み会。
 考えたくは無かったが、二つの情報が繋がった瞬間、良くない想像が頭の中をスッと過った。


「ただいまあ」
「お帰り」

 自宅玄関の扉を開けると、パソコンから流れている流麗な音楽とともに、着替え途中の景がひょっこり顔を覗かせる。自分に用事があるときだけは、時間通りに行動するんだよな。

「ねえ」
「ん?」
「今日ってさ、何時くらいに帰ってくんの?」
「あー、どうかな。二次会があるかどうかもわかんねーし。まあ、適当に?」

 景はいつだってこんな感じだ。計画性というのがまったくなくて、行き当たりばったりで行動した挙句、都合が悪くなると平気で約束をすっぽかす。
 端的に言って、ルーズなんだ。もっともそれ自体は、付き合い始めた当初からわかっている。今更四の五の言っても始まらないし、彼が自分の態度を改める気がないのも知っている。

「まあ、別にいいけど……。明日の朝は早く出るから、日付が変わるまでには帰って来てね」
「え、なんで? 明日の朝早いの?」

 ドライヤーを握っていた手を休めると、キョトンとした表情で景が訊ねてくる。そのリアクションに、今度はこっちが目を丸くする番だ。
 なんでって……。

「明日日曜日だし、それ以前に、私たちの交際記念日でしょ? 朝早く出かけてショッピングしたあとで、美味しいフランス料理でも食べに行こうかって約束してたじゃない」
「あー。そうだったっけ?」

 それは、完全に忘れてました、というリアクションで。
 それでも『ごめん』という一言があれば、私も許す気になったのかもしれない。けど、その後に続いた景の言葉に、堪忍袋の緒が切れてしまう。

「明日は俺も、用事あるんだよね。午前九時には家を出ないと間に合わない」
「な、に、それ……! いっつもそうやって勝手に決めちゃうから、前もって伝えておいたのに」

 視線に怒気をこめて睨むと、「わりーわりー」と言いながら景が肩をすくめた。いかにも面倒だな、という顔で。
 そうだよね、知ってるよ。男は女と違って記念日を大切にしない人が多いってことも。その中でも景は、特に『おざなり』にする性格だってことも。

「ほら、フランス料理だったらさ、来週また行こうよ」

 一緒に住んでるんだから、どうとでもなるでしょ? とでも言いたげな、楽観的な口調。そりゃそうだけどさ。フランス料理だったら、確かに今週末じゃなくても食えるけどさ。
 でも──記念日は、明日だけなんだよ?
 今回についていえば、私が一方的に予定を決めた面もある。それに関しては勝手だったという反省もある。
 これまでは、本当に時間が合わなかった。景がアルバイトをしていた時は、殆ど外出する余裕がなかった。
 だが、景がアルバイトを辞めてから、忙しいのは自分だけになっていた。それでも、これ幸いとばかりに予定を詰め込んだりはしなかった。過度な束縛はしなかった。彼には、別の仕事を探して欲しいと思っていたから。
 だからこそ、事前に話を通したんだ。彼だって、スケジュールを立てられないだろうと気づかっていたから。なのに――。

「そりゃあ景はいつだっていいよね。だって、仕事してないんだもん」
「……なんだよ、その言い方」

 次の瞬間、彼の表情が強張った。言ってはいけないことを口にしたと、即座に後悔した。それなのに、ため込んでいた鬱憤は既に臨界点を超えていて、自制心による歯止めが効かない。次から次へと叩きつけるような不満の言葉が機関銃のように出た

「でも、事実でしょ」
「いや、そうだけどさ。俺だって、ずっとこのままでいいなんて思ってない。いくらなんでもその言い方は、酷いんじゃないの?」
「そうだね、酷いかもしれない。でも、そう感じるのは、自分にも非があるってことを、自覚しているからでしょ? 他にもさ、色々思い当たるフシがあるんじゃないの!?」
「色々ってなんだよ……。全然わかんねえよ、ハッキリ言えよ」

 ここで認めてくれたなら、許すつもりだった。なのに。惚けたような彼の表情と声に、益々苛々が募っていく。

「そもそもの話。最近、小説書いてんの? 自分の夢、諦めちゃったわけじゃないんでしょ?」
「なっ、当たり前だろ。ちゃんと書いてるよ」
「いつ? 今日は何文字書いたの?」
「…………」

 ちょっと突っ込んだら、黙り込んでしまった。嘘でもいいから、何か言い返して欲しかった。男のプライドとかそういうの、見せてほしかった。

「どうして、そういうすぐわかる嘘なんてつくの? 景が小説を書いているところなんてもうずっと見たことないし、当然読ませて貰ったこともない。毎日毎日、ゲームしてる暇があるんだったらさ、ちょっとずつでもいいから書いたらいいじゃん。なんかネタとか考えたらいいじゃん!!」
「そんな簡単に言うなよ」

 うん、知っている。そんなに簡単じゃないってことは。小説を書くのが簡単だったら、とっくに何らかの賞が取れているだろうってことも。でもね。それだけじゃないんだよ。

「ねえ、景。話は変わるんだけどさ。最近、女物のパンプス、買った?」
「え、何のこと?」
「フザけないでよ! 買ったでしょ? ちゃんと知ってるんだから!」
「いや、それは──」

 耳たぶを弄りながら、おろおろしている景。もう、限界だった。
 内服薬を飲むため持っていたコップを、激情に任せてシンクの中に投げつけた。甲高い破砕音と、「ちょ、待てよ!」という景の声が背中から追いかけてくるが、勢いもそのままに玄関から飛び出した。待てよと言われても、足を止める気にはなれなかった。
 約束を忘れられてたこと。
 生活態度を改めようという気がないこと。
 女物の靴とワンピース。
 もう、すべてが限界だった。
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