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第三章「五周目の世界」
【母が死んだ、あの夜のこと】
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記憶の引き出しをそっと開いてみる。辛いことも、楽しいことも、たくさんあった。まるで昨日あった出来事のように、色鮮やかに思い出せる記憶がある一方で、断片的にすら、思い出すことが叶わない他愛のない記憶もある。記憶の強弱は、動かされた感情の量に比例するのだろう。
それなのに、あの日の記憶は不思議なほど不鮮明だ。思い出そうとしたところで、砂をかんだ歯車みたいに頭の回転が鈍くなってしまうのだ。
母を失ったあの日、私はきっと、涙が枯れるほどに泣いたはずなのに、覚えているのはいくつかの場面だけ。古い書物の上に、誤って落涙をして、そこだけ文字が滲んで読めなくなってしまったみたいに、記憶は虫食いだらけだった。
「月が綺麗な夜だった。それだけは、皮肉なくらいによく覚えているの」
あの日私は、屋敷の裏手にある果樹園を、母と二人で散歩していた。
月が綺麗な夜だった。草むらから虫の声がわき立って、どこか遠くの山で、獣の遠吠えが響いていた。思えばこのとき、警戒すべきだったのだと思う。
ここから、記憶が断片的になってしまう。
気が付けば、目の前で母は死んでいた。お腹を何者かに食い破られて、無残な亡骸となっていた。その傍らで、怪我をして血まみれになった私は、ルーチェに抱きしめられていた。
ここから、また数日記憶が飛ぶ。次目覚めたときは自室のベッドの上にいた。このときも、傍らにはルーチェがいてくれて、そこでようやく、私はあの日何があったのかを聞いたのだ。
あの日、母と二人で果樹園を散歩していたときに、野生のオオカミの群れに襲われたのだと。襲われているところを最初に見つけたのはルーチェだった。ルーチェはすぐに父を呼んで、二人でオオカミの群れを追い払った。そのとき母はすでに事切れていたのだという。
「オオカミ」と私の口から声がもれた。
事情は理解した。
けれど、頭では納得できていなかった。
私の母は、優秀な冒険者だと聞いていたから。
私を守りながらの戦いだったので、遅れを取ったのだろうとのことだった。
とはいえ、その程度のことで遅れを取るものなの?
この考えが、浅ましい自己保身であることにはすぐ気付いた。
どんな事情がそこにあったとしても、真実は覆らないのだ。
夜になってから散歩がしたいと言い出したのは私だった。私が言ったせいで、私が足手まといになったせいで、私の母は死んだのだ。
それだけは、くつがえらないのだ。
「どうして、この日の記憶が断片的になってしまっているのか、わからないの。強い精神的ショックを受けたせいなんだと、そう思ってはいるんだけれどね」
脳が現実を受け入れられずにいたのは確かだった。目が覚めたあとも、そこからさらに三日ほど床にふせった。
「落ち込んでいた私に、母さんの形見だからと父さんが授けてくれたのが、この指輪なんだ。これを付けている限り、お母さんが私のことを守ってくれるのだと」
「少し、見せてくれる?」
私の右手に嵌まった指輪を、シェルドがじっと見つめる。
「これは、もしかすると魔法具かもしれないね」
「魔法具? これ、魔法の品なの?」
「うん、たぶん。うまく説明できないけれど、何か、特別な力がこめられている気がするんだよね。……何か、感じない?」
「うーん……。私は別に何も」
シェルドの見立てによると、私の右手に嵌っている指輪は、どうやら魔法具である可能性が高いとのこと。魔法具とは、あらかじめ魔力をこめておくことで、キーワードひとつ唱えるだけで、魔法を使えない者でも魔法を行使できるようサポートするものだ。
使えるものは、こめてある魔法ひとつだけだが、魔力を消耗しないので術者であっても便利なものだ。
ずっと身に着けてきていたのに、まったく気付いていなかった。
もしかしたら、シェルドが持っていた指輪も魔法具なのだろうか? と一瞬思うが、こちらから聞くことでもないなと思いとどまった。
「本当に魔法具かどうか、あとでちゃんと調べてもらったほうがいいよ」
「うん、そうだね」
「魔法具の類だとしたら、使い方を調べる必要があるし。それに、何かの役に立つかもしれない。それから、魔物がどうやってこの世界にやってきているのかについても、ね」
「そうだね。それについても、調べてみるよ」
「またそんな言い方をする」
「また?」
この世界では、君と初めて出会ったはずだ。「また」と言われることに違和感があった。
「レイチェルは、いつも一人で抱え込んでしまうんだ、と言っていたよ。エドが」
「余計なことばっかり言うんだから。あいつ」
そう言えば、エドとシェルドは仲が良いんだったな、と思い出した。
心から信頼できる人がいて、恥ずかしげもなく相談できるのって、簡単なようでいて案外難しい。そのことを、再三指摘されることで私も自覚していた。
私にはできないことだから、それができる君のことが、提案できる君のことが、羨ましくも頼もしくもある。
私と出会ってくれて、ありがとう。
それからしばらくの間、二人で丘の上にいた。初夏の風が頬を撫でた。草いきれの匂いがした。二人で時々会話をした。草地に足を投げ出して、無言で空を見上げていた。何もしないこの時間が、なぜかとても心地良かった。郷愁の念が心を満たした。この世界では、初めて会ったはずなのに。
空の真上まで昇った太陽が、次第に西の空に傾き始めた頃、「そろそろ帰ろうか」と言い出したのは私からだった。シェルドはそれに「うん」とだけ返した。
それが妙に寂しそうに聞こえたものだから、私は咄嗟にこう提案していた。
「また二人でここに来ようよ。いつでもさ」
彼は一瞬驚いた顔をしたあと、眉を下げて笑った。それは彼らしい、優しい微笑みだったと思う。
「そうだね」
それから、私たちは二人で街まで引き返していったのだった。
それなのに、あの日の記憶は不思議なほど不鮮明だ。思い出そうとしたところで、砂をかんだ歯車みたいに頭の回転が鈍くなってしまうのだ。
母を失ったあの日、私はきっと、涙が枯れるほどに泣いたはずなのに、覚えているのはいくつかの場面だけ。古い書物の上に、誤って落涙をして、そこだけ文字が滲んで読めなくなってしまったみたいに、記憶は虫食いだらけだった。
「月が綺麗な夜だった。それだけは、皮肉なくらいによく覚えているの」
あの日私は、屋敷の裏手にある果樹園を、母と二人で散歩していた。
月が綺麗な夜だった。草むらから虫の声がわき立って、どこか遠くの山で、獣の遠吠えが響いていた。思えばこのとき、警戒すべきだったのだと思う。
ここから、記憶が断片的になってしまう。
気が付けば、目の前で母は死んでいた。お腹を何者かに食い破られて、無残な亡骸となっていた。その傍らで、怪我をして血まみれになった私は、ルーチェに抱きしめられていた。
ここから、また数日記憶が飛ぶ。次目覚めたときは自室のベッドの上にいた。このときも、傍らにはルーチェがいてくれて、そこでようやく、私はあの日何があったのかを聞いたのだ。
あの日、母と二人で果樹園を散歩していたときに、野生のオオカミの群れに襲われたのだと。襲われているところを最初に見つけたのはルーチェだった。ルーチェはすぐに父を呼んで、二人でオオカミの群れを追い払った。そのとき母はすでに事切れていたのだという。
「オオカミ」と私の口から声がもれた。
事情は理解した。
けれど、頭では納得できていなかった。
私の母は、優秀な冒険者だと聞いていたから。
私を守りながらの戦いだったので、遅れを取ったのだろうとのことだった。
とはいえ、その程度のことで遅れを取るものなの?
この考えが、浅ましい自己保身であることにはすぐ気付いた。
どんな事情がそこにあったとしても、真実は覆らないのだ。
夜になってから散歩がしたいと言い出したのは私だった。私が言ったせいで、私が足手まといになったせいで、私の母は死んだのだ。
それだけは、くつがえらないのだ。
「どうして、この日の記憶が断片的になってしまっているのか、わからないの。強い精神的ショックを受けたせいなんだと、そう思ってはいるんだけれどね」
脳が現実を受け入れられずにいたのは確かだった。目が覚めたあとも、そこからさらに三日ほど床にふせった。
「落ち込んでいた私に、母さんの形見だからと父さんが授けてくれたのが、この指輪なんだ。これを付けている限り、お母さんが私のことを守ってくれるのだと」
「少し、見せてくれる?」
私の右手に嵌まった指輪を、シェルドがじっと見つめる。
「これは、もしかすると魔法具かもしれないね」
「魔法具? これ、魔法の品なの?」
「うん、たぶん。うまく説明できないけれど、何か、特別な力がこめられている気がするんだよね。……何か、感じない?」
「うーん……。私は別に何も」
シェルドの見立てによると、私の右手に嵌っている指輪は、どうやら魔法具である可能性が高いとのこと。魔法具とは、あらかじめ魔力をこめておくことで、キーワードひとつ唱えるだけで、魔法を使えない者でも魔法を行使できるようサポートするものだ。
使えるものは、こめてある魔法ひとつだけだが、魔力を消耗しないので術者であっても便利なものだ。
ずっと身に着けてきていたのに、まったく気付いていなかった。
もしかしたら、シェルドが持っていた指輪も魔法具なのだろうか? と一瞬思うが、こちらから聞くことでもないなと思いとどまった。
「本当に魔法具かどうか、あとでちゃんと調べてもらったほうがいいよ」
「うん、そうだね」
「魔法具の類だとしたら、使い方を調べる必要があるし。それに、何かの役に立つかもしれない。それから、魔物がどうやってこの世界にやってきているのかについても、ね」
「そうだね。それについても、調べてみるよ」
「またそんな言い方をする」
「また?」
この世界では、君と初めて出会ったはずだ。「また」と言われることに違和感があった。
「レイチェルは、いつも一人で抱え込んでしまうんだ、と言っていたよ。エドが」
「余計なことばっかり言うんだから。あいつ」
そう言えば、エドとシェルドは仲が良いんだったな、と思い出した。
心から信頼できる人がいて、恥ずかしげもなく相談できるのって、簡単なようでいて案外難しい。そのことを、再三指摘されることで私も自覚していた。
私にはできないことだから、それができる君のことが、提案できる君のことが、羨ましくも頼もしくもある。
私と出会ってくれて、ありがとう。
それからしばらくの間、二人で丘の上にいた。初夏の風が頬を撫でた。草いきれの匂いがした。二人で時々会話をした。草地に足を投げ出して、無言で空を見上げていた。何もしないこの時間が、なぜかとても心地良かった。郷愁の念が心を満たした。この世界では、初めて会ったはずなのに。
空の真上まで昇った太陽が、次第に西の空に傾き始めた頃、「そろそろ帰ろうか」と言い出したのは私からだった。シェルドはそれに「うん」とだけ返した。
それが妙に寂しそうに聞こえたものだから、私は咄嗟にこう提案していた。
「また二人でここに来ようよ。いつでもさ」
彼は一瞬驚いた顔をしたあと、眉を下げて笑った。それは彼らしい、優しい微笑みだったと思う。
「そうだね」
それから、私たちは二人で街まで引き返していったのだった。
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