穢れた、記憶の消去者

木立 花音

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最終章「七月七日夜七時」

第四話【記憶を消すという名の功罪(1)】

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 意識が、次第に覚醒し始める。薄い闇に覆われていた意識の中に、蛍光灯の光が割り込んできた。
 眩しくて目を開けると、目の前に畳があった。古い畳だ。湿っぽくてかび臭い匂いがする。
 どうやら俺は、畳の上にうつ伏せで寝ているらしい。
 どうしてこんな場所に、と思うが、鉛でも詰まっているみたいに頭の回転が悪くて何も思い出せない。
 立ち上がろうとして身をよじって、四肢が不自由なのに気がつく。縄で後ろ手に縛られて、足首も同じように拘束されていた。

「ようやく目が覚めたか」

 男の声が頭上から聞こえて、視界の中に男の足が入ってきた。スーツ姿の男が、目の前に立っているようだ。そいつが身を屈めて、俺の頭をつかんで持ち上げた。
 男の、端正な顔が目に入る。頭髪を短く刈りそろえている。ここで全てを思い出した。
 呼び出されて、神社の境内に行った。そこでこの男に襲われて、ここに監禁されたのだと。
 浅野、とその男の名を呼んだ。

「やっぱりお前だったのか」

 八畳ほどの部屋だ。窓がひとつ、壁際に小さいデスクがひとつある。床は一面畳張りで、それ以外は何もない。古民家の和室といった感じだ。

「へえ? 黒幕が僕だと、気づいていたのか?」
「確証はなかった。むしろほとんど疑っていなかった。今日、葉子が残してくれたメッセージを読むまでは、な」

 葉子は自殺ではないんじゃないか、と疑い始めたあたりから、誰になら殺す理由があるのかと考えてきた。そう考えたとき、浮上してくるのは我妻教授、あるいは研究室の面々だった。ただし、これらすべては憶測でしかなく、物的証拠がなければ動機もわからなかった。だから、そこから話が進まなかった。

「だが、葉子が残してくれたメッセージを読んで考えが変わった。葉子は、記憶消去方の問題点について把握していた。相談できる相手を探していた。それなのに、同級生であるお前の名前は、メッセージの中に一度も出てこない。なぜか? 浅野貴なる人物のことを、葉子は信用していなかった。あるいは、浅野貴という人物は最初からいなかった。そう考えるのが自然だ。違うか?」

 ふ、と浅野が鼻で笑った。

「じゃあ、ここにいる僕はいったいなんなんだ?」
「もちろん、浅野貴なる人物はいるだろうさ。しかし、俺や葉子と同級生だった――という設定の――浅野はいない。こう言い換えるべきか? 葉子が残したメッセージの中にこうあったんだよ。記憶消去方を応用することで、人の記憶を書き換えられると。そういうことじゃないのか?」

 沙耶は浅野の名前を知らなかった。あのときは軽く聞き流したが、今思えば納得だ。
 沙耶や、葉子が浅野の名前を知らなかったんじゃない。”俺だけが、浅野の名前を知っていた”。こう考えるとすべての辻褄が合う。
 浅野の店に行ったとき、浅野が俺の記憶を書き換えた。なぜか? 葉子から奪えなかったデータの所在を確かめるため。俺に接近しやすくするため。必然的に――。

「葉子を殺したのはお前なんだな?」

 こういう結論になる。
 浅野が瞳をすっと細めた。頷くことで肯定した。
 どんなトリックを使ったのかはわからないが、俺の部屋に侵入をして葉子を突き落としたのだろう。

「そうか。そこまでわかっているのなら、まどろっこしい手を使うこともないな」

 おい、と浅野が声をかけると、部屋の扉が開いて女性が二人入ってきた。
 一人は柚乃だ。白いブラウスにショートパンツという軽装だ。後ろ手に縛られていて、もう一人の女性に引きずられるようにしてやってくる。彼女を拘束しているほうは、すらっとした長身の女性。トレードマークである眼鏡をかけていなかったが、俺にはそれが誰かすぐわかった。だが――。
 なぜ、彼女はここにいるのか? なぜ、彼女の髪はセミロングなのか?

「松橋さん。どうして?」
「痛いじゃない楓。やめてよ!」

 背中を突き飛ばされた柚乃と、俺の声とが綺麗にハモる。
 同じ人物に呼びかけたはずなのに、俺たちの口から出てきたのは別の人物の名前で。驚きから柚乃と顔を見合わせた。

「松橋って誰のこと?」
「楓って誰のことだよ?」

 再び声がそろう。

「正直、いつ気づくのかと思っていたが、こうも気づかないものとはね」

 愉悦の瞳で浅野が笑う。

「どういうことですか松橋さん。わかりやすく説明してください」
「私の名前は松橋涼子。知っているでしょう? 薫君。こっちがいわば私の主人格ね。IT企業の中間管理職にして君の上司」

 松橋さんが、俺の顔を見る。

「一方で、ほぼ週末限定となる二つ目の顔が、私立探偵高辻楓。神崎柚乃の、顔なじみ――という設定の」

 松橋さんが首を振ると、頭髪の一部がばさりと落ちた。「ウィッグ……!」と言ったきり柚乃が絶句した。

「騙していたのね。……でも、どういうこと? 楓という人物は、最初からいなかったってこと?」

 わけがわからない。そんな顔で、柚乃が頭を左右に振っている。

「いや、いるんじゃないの? あなたの記憶の中には、間違いなく高辻楓という女性の情報があったし。記憶の中にある高辻楓の外見情報を、私のものに寄せたの。私と初めて会ったとき、昔の知り合いの高辻楓だと信じて疑わなかったでしょ?」

 柚乃が呆然とした表情をしている。詐欺にでもあったような心持ちなのだろう。

「記憶を書き換えたんだな?」

 俺の問いに、「ご名答」と浅野が答える。

「どういうこと?」
「記憶消去方には、副産物的に生まれたもうひとつの使い方がある。それが、他人の記憶を書き換えられることなんだ。どのタイミングでやったのかはわからないが、柚乃の記憶を操作して、知り合いの顔を松橋さんの外見情報に寄せたのだろう」

 セミロングヘアに偽装し、高辻楓の名を語って柚乃に接近する一方で、ウイッグを外した素の姿で俺の前では松橋涼子として振る舞っていた。もしかしたらあれは伊達眼鏡だったのかもしれないが。さて。
 一人二役か。見事にしてやられた。
 俺も柚乃も、最初から浅野たちの手のひらの上で踊らされていたわけだ。

「その通り。こういった使い方ができると気づいていたのは、葉子だけじゃなかったってことさ」
「そういうことなんだ。すごいショックだけど、騙されていた私が悪いんだからそれはいいや。……けれど、どうしてそんなことをしたの? 欺いてまで私に接近する理由が何かあったの?」

 柚乃が険しい顔で松橋さんを睨んだ。万全の信頼を寄せていた相手からの裏切りだ。柚乃が憤るのは察するに余りある。
 そして、俺も同じ気持ちだった。

「むろん、あった」

 浅野がパイプ椅子を持ってきて座った。畳に座っている俺と柚乃を、浅野と松橋さんが囲む配置になる。

「柚乃に涼子を接近させたのにも、僕が薫に接近したのにもね。話は、薫が俺の店に記憶を消しにきたことに端を発した」

 俺が、浅野の店で記憶を消したのは昨年の十月のことだ。その日の業務を終えて、消した記憶の仕分け作業をしているときに、浅野はそれに気づいたのだという。
 顧客、仁平薫――すなわち俺だ――の消した記憶の中に、自分が映っていることに。そこで、俺が消した記憶を詳細に調べることにした。

「違法じゃないか……!」
「そうだな。もしバレたら僕の首が飛ぶ」

 記憶の映像は、とあるコンビニエンスストアの周辺から始まる。俺は、暗い夜道を単身歩いていく。人通りはほとんどない。道中で一人の男とすれ違っただけだ。片手に小さな鞄を抱えていて、ひと目を気にしながら時々鞄の中身を確認する。中に入っていたのは、刃渡り五センチほどのジャックナイフだ。
 滔々と続く浅野の説明を聞きながら、既視感のある話だと思った。
 確認するまでもなく、それは柚乃の頭の中に癒着している記憶だ。そうか、あれは俺の記憶だったのか。

「俺が記憶を消した日、柚乃もお前の店で記憶を消していた。そうだったよな? 俺が消したその記憶は、柚乃の頭の中に癒着しているものと酷似しているんだ」

 へえ、と浅野が面白そうに笑う。
 一方で柚乃はあまり驚かない。まるで知っていたみたいな反応だ。
 もし、俺の頭の中にある記憶が柚乃のものだとしたら――俺と、柚乃と、それぞれが心の欠損部分を埋めてくれる何かを求めて、その結果、交換される形で記憶の癒着が起きていたことになる。
 もしそうだとしたら――。
 葉子が研究していた『記憶消去方』が、葉子が望んだ通りに俺と柚乃とを結び付けたことになるんだ。
 なんという運命の悪戯だろうか。
 そうか。俺はあの日、教授の家に向かっていたのか。
 そして、その日の記憶を消した。葉子が死んだ日の記憶よりも、こちらが消すべき記憶だと判断して。
 ではなぜ、そんな判断に至ったのかだが。

「たぶん俺は、我妻教授を殺そうとしていたんだろうな」

 葉子が死んだことで、俺は確かに我妻教授を恨んでいた。絶望の淵にいた俺が、ナイフを忍ばせて教授の家に向かう理由なんて、それ以外に考えられない。
 教授に怪我を負わせたあとで、俺は家に火を点けたのだろう。それが段々とトラウマになって、耐えられずに記憶を消したのだとしたら、話は綺麗につながる。

「俺は――」
「そんなのありえない」

 俺の言説を、鋭く柚乃がさえぎった。

「柚乃?」
「薫さんは、確かにあの日、教授の家の周辺をうろついていた。鞄にはナイフだって入っていた。もしかしたら……殺意だってあったのかも。私だって、姉が死んだことで薫さんと葉子さんを恨んでいたから、その気持ちはよくわかる。でも、それはありえないんだよ。あの日、薫さんが教授の家に着いたとき、家はすでに燃えていたのだから」

 そうだった。それを柚乃から聞かされて知っていたはずなのに、すっかり失念してしまっていた。

「それに、あの日教授の家に向かっていたのは、薫さんだけじゃないのですから」
「え?」

 予想外の柚乃の声に間抜けな声がもれる。だが、よく考えたらこれは必然だ。教授の家に火を点けたのが俺じゃないなら、真犯人は別にいるということだ。
「阿相か?」と俺が問うと、「いいえ」と柚乃が否定した。

「あの日、教授の家に私もいたんです」
「柚乃が? どうして……?」

 予期せぬ名前が出てきて目を瞠る。俺と目をしっかり合わせ、柚乃が首肯した。

「お姉ちゃんが自殺をしたことに、何か裏があるんじゃないのかと。隠している真実があるんじゃないのかと、教授を問いただしに行ったんです。ですが、彼は知らぬ存ぜぬの一点張りで、あまつさえ、私に乱暴をしようとした。お姉ちゃんにも同じことをしたのか? と思うととたんに頭に血が昇った。勢いで彼を突き飛ばして、怪我を負わせてしまったの」

 じゃあ、間接的にとはいえ、柚乃が教授を殺したことになるのか? それも衝撃だったが、教授の行動のおぞましさに虫唾が走った。血縁のことを知らなかったとはいえ、実の娘に手を出そうとするなんて。

「頭から血を流して、教授は意識を失ってしまった。でも、そのときは間違いなく息があったの。それに、私は教授の家に火を放ってなんかいない!」
「柚乃が教授を殺したんじゃないのか? じゃあ、いったい誰が……」

 俺の疑問に、「ははは」という浅野の高笑いが重なった。

「なるほど、そういうことか。これで全部謎が解けた。あの日、教授の家に向かっていたのはお前たちだけじゃない。僕もなんだよ」

「え?」と俺と柚乃が同時に声を上げた。

「どうしても、教授に聞いておかなければならないことがあったからな。しかし、俺が教授の家に着くと、教授はリビングで頭から血を流して倒れていた。まだ息はあったが、これはチャンスだと思った。手間が省けてちょうどいいとも」
「まさか」

 そのまさかだ、と柚乃の言葉を浅野が引き継いだ。

「教授の家に火を点けたのは僕だ。阿相容疑者が、この日教授の家に火を放つであろうと当たりを付けたうえで、僕が火を点けたんだ。なあに、どのみち、放っておいても教授は焼死する運命だったんだ。手間がはぶけてちょうど良かっただろうさ」
「何がちょうど良いだ。人の命は、そんな、もののついでみたいに失われて良いものじゃないんだ」

 たとえ、教授がどれほどの人でなしであったとしてもな。そんな人でなしでも、葉子と柚乃の父親でもあったんだぞ。

「だが、わからない。ここまでの話の中に、俺の記憶を操作してまでお前が俺に接近してくる理由があるとは思えないんだが? 葉子が残したデータが欲しかったからか?」

 そういや、持ってきたメモリースティックはどこにいったのだろう。荷物が全部なくなっているのだから、たぶん浅野の手の内なのだろうが。

「きっかけはそこじゃなかった。あの日薫が消した記憶の中に、教授の家から引き揚げてくる俺の姿が映っていたんだよ」
「なるほど。俺が目撃者だったわけか」
「その通り。こいつはさすがにまずいと思った。僕を目撃したのはこの瞬間だけか。他にも何か知っているんじゃないのか、と探りを入れていく必要があった。そこで、お前の大学時代の友人の情報を、僕の物に置き換えた。そうして、お前に接近したんだ」
「記憶消去方にリコールが出た、あのときにやったんだな?」

 ご名答、と浅野が満足げに顎のあたりを触った。

「ついでに言うと、お前はあの筧葉子の婚約者だ。彼女が、研究から自主的に退いた背景に、何があったのかを知るためにも好都合だった」
「そこで、私の記憶にも手を加えたのね?」

 柚乃の質問にも、浅野が頷きで応じる。
 記憶消去方のリコール対応をしたときに、柚乃の記憶の中にある高辻楓の情報を、松橋さんのものと置き換えた。素知らぬ顔で接近した松橋さんは、柚乃の協力者というポジンションを労せずにして手に入れた。
 葉子が執心していた神崎美優の妹を、浅野は元々マークしていた。
 浅野が俺に接近して、松橋さんが柚乃に接近する。さらに、柚乃を支援して俺に接近させる。
 こうしておけば、どこから手に入った情報でも、最終的に浅野の元に集まるから。
 俺の周辺は、見事に敵だらけだったわけだ。それだけ、葉子が持っていたデータに価値があったということになるのだろう。
 葉子が持っているデータは、おそらく記憶消去方の今後にダメージを与えうるものだ。記憶消去方の問題点がマスコミにもしもれたら、浅野や我妻教授は多大な損害を被ることになる。この点において、二人の利害は一致していたはずなんだ。
 それだけに解せない。

「葉子が持っていたデータが欲しいという点において、お前と教授の利害関係は一致していたはずだ。なぜ、放火をする必要があった? なぜ、教授を殺す必要があった?」

 浅野がスッと息を呑んだ。瞳から光が消えてなくなる。

「今から四年前のことだ。当時二十一歳だった女子大生が、自殺した事件を覚えているか?」
「我妻教授が講師をしている大学で起きた、自殺騒動のことか?」
「そうだ。あのとき死んだのが、僕の恋人だったんだよ」

 そういうことだったのか。
 それならば、浅野が葉子や教授に対して恨みを持っていたとしても不思議じゃない。あの当時、教授に対する黒い噂が、いくつもいくつもネット上に上がっていたから。
 表では報道されないが、知る人ぞ知るって感じでな。

「雪奈はな、記憶技工士になるのが夢だったんだ」
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