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最終章「七月七日夜七時」
第一話【Starfestival(2)】
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仕事の引き継ぎは、予定通り七月の頭に終わった。
データ管理用ソフトの使い方を後任の同僚に教え、顧客情報や、これまで作ってきた報告書と事業記録をまとめて、ひとつのフォルダに収めた。その中には、俺が独自に作ったソフトもあったため、運用できるか不安だったのだろう。引き継ぎをした後輩はずっと眉間にしわを寄せて聞いていたが、最後に行った質疑応答にも滞りなく対応できていたし、慣れれば問題ないだろう。
十七時。最終日くらいは定時退社だ。
「お世話になりました」と上司に頭を上げる。
本当に惜しい人材を失った、と上司と同僚が労ってくれた。未練はないつもりだったが、こうして声をかけられると目頭が熱くなる。
オフィスを出る間際に、松橋さんが一瞥を送ってきた。
彼女と交際をしている事実は、結局最後まで誰にも話さなかった。
いや……俺たちがしているこれは、本当に男女の交際なのだろうか。
そんな自問をしながらエレベーターに乗る。うまい答えが自分の中に見つからない。
松橋さんは魅力的な女性だと思う。短くそろえた清潔感のある髪。切れ長な瞳。理知的な見た目通りに彼女は真面目だ。多少真面目すぎるきらいはあるが、その分礼儀正しい。そのくせ、プライベートでは子供っぽい一面を見せるのは、たぶん俺しか知らない彼女の魅力だ。
付き合い始めた頃は主に俺のせいでぎこちなかったが、ここ最近は二人で過ごす時間が増えた。週末は、時々どちらかの部屋に泊まった。
彼女は週に一度茶道の習い事をしている。どうしても都合が合わない日もあった。それでも、時間が許すときは二人で朝まで過ごした。
肌を重ねた回数はこれまで数回だけだが、背中から彼女の体を抱きしめて眠った夜は、俺の心に確かな平穏をもたらしていた。
ここまでしておいて、交際していたつもりはないなんて言ったら、罰が当たるだろうか。
エレベーターが開いた。
俺は、自由になった。
*
何をしても夢中になれない。
欲しい物は何もない。
一人の女を愛することもできない。
マンションに帰っても、俺ただ一人。
夜がきて眠る。
朝がくる。
また夜がきて朝がくる。
夜が。
朝が。
夜が。
朝が。
世界はただ、どうしようもなく回っていく。俺だけを、置き去りにして。
*
目的地である墓地は、住宅街から少し外れた、小高い丘の上にあった。
墓前に手を合わせる。真新しい御影石に掘られた文字を、葉子の母親が感慨深げに指でなぞった。
「私よりも先に、娘が死んでしまうなんてね」
「本当ですね」
七月七日は、俺の誕生日であると同時に、葉子の命日でもあった。
「もしかすると葉子は、自分が死ぬことを、心のどこかで悟っていたのかもしれません」
「悟っていた?」
母親の声が、いぶかしんだものになる。それはまあ、ごく自然な反応だ。
「俺は本来出不精なもので、日用品の買い出しをあまりしていませんでした。なくなってから慌てて買いに走ったり、なんてことが今でも結構ありますし、身の回りの整理整頓が苦手です。それだけに、違和感があったんです」
葉子が死んだあの日のことを追憶する。
各所に連絡をして病院へ行って、警察から事情聴取をされてと目まぐるしく時間だけが過ぎていった。嵐のような多忙から解放されてマンションに戻ったのは、翌日の朝だった。
手つかずになっていた料理を片付けていると、キッチンの周りがいつもと違うことに気がついた。
片付いているのはいつも通りだ。葉子はいつもキッチンを綺麗に使ってくれていたから。
違和感の正体は、むしろ物が多いことにあった。
各種調味料が。米、乳製品、冷凍食品などの日持ちする食材が。野菜やその他の食材も、数日間買い物をしなくて良いだけの買い置きがあった。違和感はキッチンの中だけに留まらない。トイレットペーパーや洗剤などといった日用品までが、一ヶ月分くらいの買いだめがされてあったのだ。
冷蔵庫の中にはタッパーに入ったご飯と味噌汁があって、温めればすぐ食べられる状態だった。
これが最期になるであろう葉子の味をかみしめながら、俺は一人でわびしく泣いた。
昨日から気持ちが張っていて、そういえばあまり泣いていなかったな、なんて、どうでもいいことを思いながら。
「だから、俺は今でも思うんです。あの日、自分の身に何かが起こることを、葉子は察していたのかなあと。残される俺を案じて、色々手を尽くしてくれたのかなあと」
そうだったんですね。
不思議なものですね。
言葉をふたつ落としたあとで、葉子の母親は静かに涙を流した。
「それだけ、葉子は薫さんのことを愛していたのでしょうね」
「突き止めますよ」と俺は宣言した。
「葉子は自殺なのだろうと、これまで、俺は無理やり自分を納得させようとしてきました。ですが、ある人の行動を見て考えが変わったんです。完全に自分が納得できるまで、俺は真相を追いかけますよ。たとえ、何年かかるとしても」
「……ありがとう。でも、あまり無理はしないでね。いつまでもあの子の亡霊に縛られたままでいるのは、薫さんのためにならないから」
「はい」
いつか、忘れる日もくるのだろうと思う。そのいつかが、いつになるのかまだわからないが。
クローバーが茂った丘の斜面を抜け抜けていく風が、ぴゅうと鳴った。それはまるで、誰かの慟哭みたいでもあった。
*
七月七日。時刻は十八時五十分。
この時間でも、外はまだ明るい。
今日は、俺の誕生日であると同時に葉子の命日だ。「誕生日、祝ってあげるよ」と松橋さんが言っていたが、仕事で遅くなるらしい。彼女の家は阿佐ヶ谷にあるので、一度帰宅してから車でくるのだろう。
バルコニーに出て、何年かぶりに煙草に火を点けた。手すりに肘を乗せて街を見下ろす。夜の帳が静かに降りてきている。車が、ひっきりなしに走っていた。
暖色の光が、ビルの谷間から緩やかに差していた。窓辺に吊るしていた風鈴が、ちりん、と涼し気な音を奏でた。
葉子の母親に威勢よく言ったがいいが、葉子が死んだ日のことについて、何も調べないまま一週間がすぎた。何かしなくてはと思うのだが、気力がわかなかった。
あれから、もう一年か。
一年前の今日。葉子は何を思いながら、ここからの景色を眺めていたのだろうか。
あの日、俺がコンビニに立ち寄らなければ。あと三十分、あるいは一時間早く帰宅していたら、未来は変わっただろうか。ありもしない、『葉子が生きていたら』の世界線に思いを馳せる。
――最初は、気のせいだと思った。
ふう、と落ちたため息に、別の音が重なる。七夕の夜では定番の、たなばたさまのメロディーだ。
音は小さい。どこから、とぐるりと街の景観を見渡してから、音が背中側からしているのに遅れて気がつく。
家の中か?
バルコニーから室内に戻ると、パソコンの電源が点いていた。そこから電子音のメロディーが流れていて、画面を見ると、ディスプレイの真ん中に見覚えのないフォルダがひとつあった。時刻はちょうど十九時だった。
これがなんなのか、俺にはすぐにわかった。これは、自分が作ったマルウェアの仕業なのだから。これは――。
Starfestivalによる自動起動だ。
どうして、と思い。
次に誰がこれを、と思った。
震える手で展開したフォルダの中にはファイルがふたつ入っていて、そのうちのひとつ、『かっくんへ』と名前がある側を開く。
――葉子からのメッセージがそこにあった。
心臓が、どくんと跳ねた。止まっていた時が、動き始めた気がした。
*
データ管理用ソフトの使い方を後任の同僚に教え、顧客情報や、これまで作ってきた報告書と事業記録をまとめて、ひとつのフォルダに収めた。その中には、俺が独自に作ったソフトもあったため、運用できるか不安だったのだろう。引き継ぎをした後輩はずっと眉間にしわを寄せて聞いていたが、最後に行った質疑応答にも滞りなく対応できていたし、慣れれば問題ないだろう。
十七時。最終日くらいは定時退社だ。
「お世話になりました」と上司に頭を上げる。
本当に惜しい人材を失った、と上司と同僚が労ってくれた。未練はないつもりだったが、こうして声をかけられると目頭が熱くなる。
オフィスを出る間際に、松橋さんが一瞥を送ってきた。
彼女と交際をしている事実は、結局最後まで誰にも話さなかった。
いや……俺たちがしているこれは、本当に男女の交際なのだろうか。
そんな自問をしながらエレベーターに乗る。うまい答えが自分の中に見つからない。
松橋さんは魅力的な女性だと思う。短くそろえた清潔感のある髪。切れ長な瞳。理知的な見た目通りに彼女は真面目だ。多少真面目すぎるきらいはあるが、その分礼儀正しい。そのくせ、プライベートでは子供っぽい一面を見せるのは、たぶん俺しか知らない彼女の魅力だ。
付き合い始めた頃は主に俺のせいでぎこちなかったが、ここ最近は二人で過ごす時間が増えた。週末は、時々どちらかの部屋に泊まった。
彼女は週に一度茶道の習い事をしている。どうしても都合が合わない日もあった。それでも、時間が許すときは二人で朝まで過ごした。
肌を重ねた回数はこれまで数回だけだが、背中から彼女の体を抱きしめて眠った夜は、俺の心に確かな平穏をもたらしていた。
ここまでしておいて、交際していたつもりはないなんて言ったら、罰が当たるだろうか。
エレベーターが開いた。
俺は、自由になった。
*
何をしても夢中になれない。
欲しい物は何もない。
一人の女を愛することもできない。
マンションに帰っても、俺ただ一人。
夜がきて眠る。
朝がくる。
また夜がきて朝がくる。
夜が。
朝が。
夜が。
朝が。
世界はただ、どうしようもなく回っていく。俺だけを、置き去りにして。
*
目的地である墓地は、住宅街から少し外れた、小高い丘の上にあった。
墓前に手を合わせる。真新しい御影石に掘られた文字を、葉子の母親が感慨深げに指でなぞった。
「私よりも先に、娘が死んでしまうなんてね」
「本当ですね」
七月七日は、俺の誕生日であると同時に、葉子の命日でもあった。
「もしかすると葉子は、自分が死ぬことを、心のどこかで悟っていたのかもしれません」
「悟っていた?」
母親の声が、いぶかしんだものになる。それはまあ、ごく自然な反応だ。
「俺は本来出不精なもので、日用品の買い出しをあまりしていませんでした。なくなってから慌てて買いに走ったり、なんてことが今でも結構ありますし、身の回りの整理整頓が苦手です。それだけに、違和感があったんです」
葉子が死んだあの日のことを追憶する。
各所に連絡をして病院へ行って、警察から事情聴取をされてと目まぐるしく時間だけが過ぎていった。嵐のような多忙から解放されてマンションに戻ったのは、翌日の朝だった。
手つかずになっていた料理を片付けていると、キッチンの周りがいつもと違うことに気がついた。
片付いているのはいつも通りだ。葉子はいつもキッチンを綺麗に使ってくれていたから。
違和感の正体は、むしろ物が多いことにあった。
各種調味料が。米、乳製品、冷凍食品などの日持ちする食材が。野菜やその他の食材も、数日間買い物をしなくて良いだけの買い置きがあった。違和感はキッチンの中だけに留まらない。トイレットペーパーや洗剤などといった日用品までが、一ヶ月分くらいの買いだめがされてあったのだ。
冷蔵庫の中にはタッパーに入ったご飯と味噌汁があって、温めればすぐ食べられる状態だった。
これが最期になるであろう葉子の味をかみしめながら、俺は一人でわびしく泣いた。
昨日から気持ちが張っていて、そういえばあまり泣いていなかったな、なんて、どうでもいいことを思いながら。
「だから、俺は今でも思うんです。あの日、自分の身に何かが起こることを、葉子は察していたのかなあと。残される俺を案じて、色々手を尽くしてくれたのかなあと」
そうだったんですね。
不思議なものですね。
言葉をふたつ落としたあとで、葉子の母親は静かに涙を流した。
「それだけ、葉子は薫さんのことを愛していたのでしょうね」
「突き止めますよ」と俺は宣言した。
「葉子は自殺なのだろうと、これまで、俺は無理やり自分を納得させようとしてきました。ですが、ある人の行動を見て考えが変わったんです。完全に自分が納得できるまで、俺は真相を追いかけますよ。たとえ、何年かかるとしても」
「……ありがとう。でも、あまり無理はしないでね。いつまでもあの子の亡霊に縛られたままでいるのは、薫さんのためにならないから」
「はい」
いつか、忘れる日もくるのだろうと思う。そのいつかが、いつになるのかまだわからないが。
クローバーが茂った丘の斜面を抜け抜けていく風が、ぴゅうと鳴った。それはまるで、誰かの慟哭みたいでもあった。
*
七月七日。時刻は十八時五十分。
この時間でも、外はまだ明るい。
今日は、俺の誕生日であると同時に葉子の命日だ。「誕生日、祝ってあげるよ」と松橋さんが言っていたが、仕事で遅くなるらしい。彼女の家は阿佐ヶ谷にあるので、一度帰宅してから車でくるのだろう。
バルコニーに出て、何年かぶりに煙草に火を点けた。手すりに肘を乗せて街を見下ろす。夜の帳が静かに降りてきている。車が、ひっきりなしに走っていた。
暖色の光が、ビルの谷間から緩やかに差していた。窓辺に吊るしていた風鈴が、ちりん、と涼し気な音を奏でた。
葉子の母親に威勢よく言ったがいいが、葉子が死んだ日のことについて、何も調べないまま一週間がすぎた。何かしなくてはと思うのだが、気力がわかなかった。
あれから、もう一年か。
一年前の今日。葉子は何を思いながら、ここからの景色を眺めていたのだろうか。
あの日、俺がコンビニに立ち寄らなければ。あと三十分、あるいは一時間早く帰宅していたら、未来は変わっただろうか。ありもしない、『葉子が生きていたら』の世界線に思いを馳せる。
――最初は、気のせいだと思った。
ふう、と落ちたため息に、別の音が重なる。七夕の夜では定番の、たなばたさまのメロディーだ。
音は小さい。どこから、とぐるりと街の景観を見渡してから、音が背中側からしているのに遅れて気がつく。
家の中か?
バルコニーから室内に戻ると、パソコンの電源が点いていた。そこから電子音のメロディーが流れていて、画面を見ると、ディスプレイの真ん中に見覚えのないフォルダがひとつあった。時刻はちょうど十九時だった。
これがなんなのか、俺にはすぐにわかった。これは、自分が作ったマルウェアの仕業なのだから。これは――。
Starfestivalによる自動起動だ。
どうして、と思い。
次に誰がこれを、と思った。
震える手で展開したフォルダの中にはファイルがふたつ入っていて、そのうちのひとつ、『かっくんへ』と名前がある側を開く。
――葉子からのメッセージがそこにあった。
心臓が、どくんと跳ねた。止まっていた時が、動き始めた気がした。
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