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第二章「神崎柚乃」
第四話【決戦の日は七月七日(2)】
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姉の死に彼が絡んでいるのか、真相を突き止めるつもりだった。
それなのに、気づけば私は、彼に恋をしていた。
生まれつき、早起きは得意じゃなかった。
体内時計が夜型になっている。睡眠の質が良くない。日常生活でストレスが多い。朝が苦手な人にはさまざまな理由があるのだというが、自分の場合はおそらくストレスが原因だった。
それなのに、いつの間にか早起きできるようになっていた。
ストレスがなくなって、生活習慣が良い方向に改善されていたのだろう。
山の稜線から、陽が顔を出すのと同時に目が覚める。
健康的で文化的な最低限度の生活。それが精一杯だったはずの自分が、こんな時間に目覚めるなんて。苦笑いをしながら布団から這い出していく。
キッチンに向かう途中で薫さんの寝室の前を通りがかる。彼はまだ寝ているようだ。
何時に起こしたらいいかな? としばし考え、今日が日曜だと気づきその考えを棄却した。
これだから無職は。
エプロンを腰に巻きキッチンに立つ。
鍋で水を沸かし、出汁を加える。ワカメなどの具材を加え、煮込んでいく。いったん火を止めて、お玉に入れた味噌を少量の煮汁で溶かしていく。豆腐を鍋に入れ、弱火で沸騰寸前まで煮込んでいく。鍋の縁の汁が沸々としてきたら完成。少し味見して、出汁がしっかり効いていることを確認した。
早朝に炊き上がるように予約しておいたご飯も、粒立ちの良い仕上がりだ。うんうん、美味しそう。
あとはそうだな。薫さんは卵が好きだから、ハムエッグでも焼こうかな。
フライパンに油をひき、熱しながら私は思う。不器用ながら、こうして料理ができるようになったのは母のおかげだ。料理の基礎を叩き込んでくれたのは母だった。
まだ小学生だった私たちに、「花嫁修業に、早すぎるということはないからね」と言って、毎朝色んなことを教えてくれたものだった。
今さらながらに、母は寂しい人だったのだろうと思う。
父の話をすることはほとんどなかった。実家の話も、自分の姉妹の話をすることもやはり。苦しい胸の内を誰にも明かすことなく、日々懸命に母は生きていた。家計を支えるため正社員として働きに出て、それでも、休みの日は私たちと一緒に出かけてくれた。仕事の合間を縫って授業参観にも必ずきてくれたし、私がクラスでイジメにあったときも、「よう耐えたな」と言って、優しく頭を撫でてくれたものだった。
母子家庭で子ども二人を育てるのは、金銭的にも体力的にもとても大変だったのだろう。
日々増えていく母の煙草の量だけが、私の気がかりではあった。
「お母さん、いつもありがとう」と感謝を伝えたことがあっただろうか? 今ではよく覚えていない。
「煙草は体に良くないよ」と、一言私が言えていれば。
「無理はしないでね」と一言声をかけていれば。世界は変わったかもしれないのに。
あとで悔いるから後悔。
――後悔は、やっぱりある。
それでも、母と暮らした日々の記憶は私にとって宝物なのだ。たったの十二年で終わってしまったけれど、それでも私が死ぬまで色褪せることのない記憶なのだ。
ふあぁ、という薫さんの声が背中から聞こえたことで我に返る。
「うわ、しまった……」
フライパンに目を落とすと、卵は少し焦げてしまっていた。真横にやってきた薫さんが、私の手元を見る。
「いい匂い、と思ったら、目玉焼きを焼いていたのか」
「うん。でも、ぼーっとしているうちに焦げ目がついちゃって……」
「いいじゃん。ちょっと焦げ目があるほうが、香ばしくて美味しいってね」
楽しみだなーなんて言いながら、彼はキッチンを出ていった。
ごめんね、と心の中で舌を出す。自炊をする習慣なんてなかったのに、気づけばこれが日課になっていた。居候している身だから、引け目を感じていた部分は確かにある。でも、それだけじゃない気もする。こうして朝食を作るのが、彼が喜んでくれる顔を見るのが、今は楽しくてしょうがないのだから。
胸に宿った温かいこの感情の名前を、私はまだ心のどこかで認めたくない。
物心ついたときから父はいなかった。だから私は、年上の男性に父性を感じてしまうことが多々ある。それだけのことなんだ、と私は今日も自分に言い聞かせる。
*
「ピザ店のオーナーの名前わかった?」
流れていく車窓に目を向けながら、運転している隣の楓に話しかける。
「もちろん。結論から言うと、我妻教授の事件で、容疑者として逮捕されている阿相孝之の義兄だった」
「義兄」と問い返す。
「うん。阿相孝之には姉が一人いて、その姉の結婚相手」
「ああ、なるほどね……」
ピザ店のオーナー、阿相容疑者、阿相容疑者の妹である、雪菜さんの命日を知る者。ここまでが一本の線でつながったわけだ。動機は完璧。あとは協力者さえ見つけられれば、あの人のアイバイは崩せる。
いま私と楓は、楓の車に乗って都内の焼肉店に向かっているところだ。これから大勝負が待っているのだ。その前に英気を養っておくべきだろう。
「映像解析のほうは?」
「ピザの宅配員に変装している人物は、十中八九女性で間違いない。昼過ぎにマンションに出入りした女性と身長が完全一に致した」
「そっか」
身長が一致しただけでしかないのだが、AIによる画像解析で一致なら、同一人物である証拠には十分なりうる。
あとは、この事実とあの人とがつながってくるかどうかね。
「で? いつガサ入れすんの?」
仰々しい楓の物言いに笑ってしまう。
「表現が大袈裟。……そうね。七月七日にしようかな」
全員のスケジュールの都合が良い日を選んでみたら、奇しくも葉子さんの命日になった。これもまた、私の運命なのだろうか。
「……七夕決行ね。了解、覚えておくよ」
七夕の物語を思い出した。どこからともなく飛んできたカササギの群れが、翼を広げて天の川に橋を作ってくれるのだという。織姫と彦星が、一年に一度のデートを楽しむロマンチックなこの日に、私も最後の一歩を踏み出そうと思う。
犯人の目星はついた。
姉の未練を晴らすため。
自分の気持ちにけりをつけるため。
決戦の日は、七月七日。
*
それなのに、気づけば私は、彼に恋をしていた。
生まれつき、早起きは得意じゃなかった。
体内時計が夜型になっている。睡眠の質が良くない。日常生活でストレスが多い。朝が苦手な人にはさまざまな理由があるのだというが、自分の場合はおそらくストレスが原因だった。
それなのに、いつの間にか早起きできるようになっていた。
ストレスがなくなって、生活習慣が良い方向に改善されていたのだろう。
山の稜線から、陽が顔を出すのと同時に目が覚める。
健康的で文化的な最低限度の生活。それが精一杯だったはずの自分が、こんな時間に目覚めるなんて。苦笑いをしながら布団から這い出していく。
キッチンに向かう途中で薫さんの寝室の前を通りがかる。彼はまだ寝ているようだ。
何時に起こしたらいいかな? としばし考え、今日が日曜だと気づきその考えを棄却した。
これだから無職は。
エプロンを腰に巻きキッチンに立つ。
鍋で水を沸かし、出汁を加える。ワカメなどの具材を加え、煮込んでいく。いったん火を止めて、お玉に入れた味噌を少量の煮汁で溶かしていく。豆腐を鍋に入れ、弱火で沸騰寸前まで煮込んでいく。鍋の縁の汁が沸々としてきたら完成。少し味見して、出汁がしっかり効いていることを確認した。
早朝に炊き上がるように予約しておいたご飯も、粒立ちの良い仕上がりだ。うんうん、美味しそう。
あとはそうだな。薫さんは卵が好きだから、ハムエッグでも焼こうかな。
フライパンに油をひき、熱しながら私は思う。不器用ながら、こうして料理ができるようになったのは母のおかげだ。料理の基礎を叩き込んでくれたのは母だった。
まだ小学生だった私たちに、「花嫁修業に、早すぎるということはないからね」と言って、毎朝色んなことを教えてくれたものだった。
今さらながらに、母は寂しい人だったのだろうと思う。
父の話をすることはほとんどなかった。実家の話も、自分の姉妹の話をすることもやはり。苦しい胸の内を誰にも明かすことなく、日々懸命に母は生きていた。家計を支えるため正社員として働きに出て、それでも、休みの日は私たちと一緒に出かけてくれた。仕事の合間を縫って授業参観にも必ずきてくれたし、私がクラスでイジメにあったときも、「よう耐えたな」と言って、優しく頭を撫でてくれたものだった。
母子家庭で子ども二人を育てるのは、金銭的にも体力的にもとても大変だったのだろう。
日々増えていく母の煙草の量だけが、私の気がかりではあった。
「お母さん、いつもありがとう」と感謝を伝えたことがあっただろうか? 今ではよく覚えていない。
「煙草は体に良くないよ」と、一言私が言えていれば。
「無理はしないでね」と一言声をかけていれば。世界は変わったかもしれないのに。
あとで悔いるから後悔。
――後悔は、やっぱりある。
それでも、母と暮らした日々の記憶は私にとって宝物なのだ。たったの十二年で終わってしまったけれど、それでも私が死ぬまで色褪せることのない記憶なのだ。
ふあぁ、という薫さんの声が背中から聞こえたことで我に返る。
「うわ、しまった……」
フライパンに目を落とすと、卵は少し焦げてしまっていた。真横にやってきた薫さんが、私の手元を見る。
「いい匂い、と思ったら、目玉焼きを焼いていたのか」
「うん。でも、ぼーっとしているうちに焦げ目がついちゃって……」
「いいじゃん。ちょっと焦げ目があるほうが、香ばしくて美味しいってね」
楽しみだなーなんて言いながら、彼はキッチンを出ていった。
ごめんね、と心の中で舌を出す。自炊をする習慣なんてなかったのに、気づけばこれが日課になっていた。居候している身だから、引け目を感じていた部分は確かにある。でも、それだけじゃない気もする。こうして朝食を作るのが、彼が喜んでくれる顔を見るのが、今は楽しくてしょうがないのだから。
胸に宿った温かいこの感情の名前を、私はまだ心のどこかで認めたくない。
物心ついたときから父はいなかった。だから私は、年上の男性に父性を感じてしまうことが多々ある。それだけのことなんだ、と私は今日も自分に言い聞かせる。
*
「ピザ店のオーナーの名前わかった?」
流れていく車窓に目を向けながら、運転している隣の楓に話しかける。
「もちろん。結論から言うと、我妻教授の事件で、容疑者として逮捕されている阿相孝之の義兄だった」
「義兄」と問い返す。
「うん。阿相孝之には姉が一人いて、その姉の結婚相手」
「ああ、なるほどね……」
ピザ店のオーナー、阿相容疑者、阿相容疑者の妹である、雪菜さんの命日を知る者。ここまでが一本の線でつながったわけだ。動機は完璧。あとは協力者さえ見つけられれば、あの人のアイバイは崩せる。
いま私と楓は、楓の車に乗って都内の焼肉店に向かっているところだ。これから大勝負が待っているのだ。その前に英気を養っておくべきだろう。
「映像解析のほうは?」
「ピザの宅配員に変装している人物は、十中八九女性で間違いない。昼過ぎにマンションに出入りした女性と身長が完全一に致した」
「そっか」
身長が一致しただけでしかないのだが、AIによる画像解析で一致なら、同一人物である証拠には十分なりうる。
あとは、この事実とあの人とがつながってくるかどうかね。
「で? いつガサ入れすんの?」
仰々しい楓の物言いに笑ってしまう。
「表現が大袈裟。……そうね。七月七日にしようかな」
全員のスケジュールの都合が良い日を選んでみたら、奇しくも葉子さんの命日になった。これもまた、私の運命なのだろうか。
「……七夕決行ね。了解、覚えておくよ」
七夕の物語を思い出した。どこからともなく飛んできたカササギの群れが、翼を広げて天の川に橋を作ってくれるのだという。織姫と彦星が、一年に一度のデートを楽しむロマンチックなこの日に、私も最後の一歩を踏み出そうと思う。
犯人の目星はついた。
姉の未練を晴らすため。
自分の気持ちにけりをつけるため。
決戦の日は、七月七日。
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