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第二章「神崎柚乃」
第三話【違っているのは人か? 記憶か?(1)】
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三鷹駅を出て徒歩五分の場所に、浅野さんが勤務している施療院がある。
スタッフは総勢十名。施療できる個室が全部で六つ準備されている。施術は完全予約制で、営業終了時刻は十八時だ。
現在の時刻は十七時。時間はまだ少し早いが、浅野さんとすれ違いになっては本末転倒なのでこのまま待つことにする。駅前のバス停横にあるベンチに腰掛け、眼前の賃貸ビルを見上げた。このビルの八階が、施療院だ。
ビルの隙間を拭いてくる風が少し冷たい。六月下旬とはいえ、生憎の曇天なので夕刻になると肌寒い。持ってきた薄手のカーディガンを羽織った。
実のところ、この場所にくるのは初めてじゃない。
昨年、我妻教授の家に行った日から一ヶ月半あとに、私はここで記憶消去方の施術を受けたのだ。本当は、受けるつもりはなかった。しかし、雨風によって硬い地層が削られていくみたいに、私の心は少しずつ抉れていたのだ。姉を失ったことからくる喪失感と、教授が亡くなったのは、自分のせいかもしれないと思う罪悪感とによって。
集中力がなくなる。落ち込みやすくなる。不眠と食欲不振の症状が出始めたあたりで病院を受診すると、躁鬱の症状があると診断された。
薬を飲み始めた頃は調子が良かった。だが、集中力の欠如と、慢性的な寝不足は解消に至らず、仕事でのミスが多くなって私はアルバイトをやめた。
自己都合による退職だ。即座に失業手当をもらうことはできない。
次の仕事を探さなければ――と焦りだけが募っていく。しかし、職探しをする意欲はまったくわかない。一人暮らしのアパートの部屋で、一日中ベッドに横になっていた。姉が残してくれた貯蓄は底をつきかけていた。姉がもし生きていたならと、ありもしない妄想ばかりを膨らませていた。
仕事をしないから、貧乏なのだ。
姉がいてくれたら、貧乏にはならなかった。
姉がいなくなったから、貧乏になったのだ。
姉がいなくなったから。
姉がいなくなったのはなぜだ?
姉は殺されたのだ。誰かに。きっと。おそらく。
負の思考ばかりがぐるぐると回る。
そんなはずはない、と頭では理解できているのに、心がついてこなかった。醜い他責思考が、頭の中で渦巻いていた。
薬が段々効かなくなって、躁鬱の症状が悪化していく。
そうして私は記憶を消した。
なけなしのお金を使うことに抵抗はあったが、このままでは死んでしまうとそう思った。ストレスの種をいくつか間引くしかなかったのだ。
消したのは、おそらく母が火事で亡くなったあの日の記憶だ。
姉の死の記憶と、教授の家に行った日の記憶だけは消すわけにいかなかったから。必然的に、間引ける記憶はそれくらいだった。記憶を消すだけでストレスが解消されるものなの? と記憶消去方の効果には懐疑的だったのだが、記憶を消したあとから嘘みたいに鬱症状が出なくなった。
記憶を消したのは間違いではなかった。記憶を消すだけで、本当に効果があるんだ。
この日私はそう知ったのだ。
楓と再会したのが、ちょうどその頃だった。
『美優の死の裏には絶対に何かあるよ』
真相を突きとめるべき、と助言をくれたのが楓だった。そればかりではない。薫さんに接触するための策をいろいろ講じてくれて、経済的な支援もしてくれたのだ。姉が死んだ日から止まっていた時計の針が、楓の後押しによって再び動き出す。
約六年ぶりに現れた楓は、私にとって変わることなく救世主だったのだ。
なんとしてでも、姉が死んだ本当の理由を突き止めたい。
姉のためにも。ここまで私を支えてくれた、楓のためにも。
「復讐戦、なんだよね」
決意の呟きが落ちる。顔を上げると、ビルの正面玄関から出てくる浅野さんが見えた。シックな黒のスーツ姿だ。
さて、と。気づかれないようにしなくちゃなりませんね。
人混みの中にスッと紛れて、つかず離れずの距離を保って彼の背中を追いかけた。
三鷹駅に入る。浅野さんが乗ったのは、自宅とは逆方向に向かう電車だった。十分ほど電車に揺られ、阿佐ヶ谷駅で彼は降りた。薫さんの勤務先がある場所の最寄り駅なので、ばったり彼と出くわすのでは、と心配になって帽子を目深にかぶり直した。
もっとも、眼鏡とマスクで顔を隠しているので、すれ違ったところで気づかれないだろうが。
それはそれで寂しいな、と感じてしまい、そう思った自分に愕然となる。
何を考えているのだろう。
復讐のために。――いや、復讐と呼ぶほど大それた感情ではなかった。ただ、知りたかっただけだ。なぜ、姉は死んだのかを。それに彼が一枚かんでいるのかを。――いずれにしても、私が彼に近づいた動機は、打算的なものでしかなかった。
それなのに、寂しいと感じているなんて。それなりに長い時間一緒に過ごしたことで、ほだされてしまったのか。
ばかみたい。
かぶりを振って気持ちを切り替える。
改札を通るまで、薫さんと遭遇することは結局なかった。取り越し苦労だ。
日没がすぎて辺りはすっかり暗い。家路を急ぐ人が多いのか、それともこれが都会の人の性なのか、道行く人はみな足早だ。見失わないよう、浅野さんの背中だけを注視して進んだ。
どこに向かっているのだろう。
そんな疑問が首をもたげたとき、彼が唐突に小路を曲がった。
まずい、見失う。小走りで彼が消えた角まで向かう。
「あれ?」
建物の陰から顔を覗かせると、浅野さんの姿はどこにもなかった。きょろきょろと辺りを見回すが、影も形もない。まだほんの十数秒しか経っていないのに。
通りの先に、居酒屋の暖簾が見えた。そこに入ったのだろうか。だとしても、姿が消えるまで早すぎないか?
意を決して足を数歩踏み出したとき、「こんばんは」と真横から声がした。
「柚乃ちゃん。誰かを探しているのかい?」
知らない男の声ではない。
立ち止まって声がしたほうを見ると、建物と建物の隙間に立ち、腕を組んでいる浅野さんがいた。
「なんてね。普通に考えたら、探していたのは僕なのかな?」
お道化た口調ながら、向けられた眼光は鋭い。
「いつから気づいていたんですか?」
「さて、いつからかなあ……。職業柄なのか、自分の記憶には頓着しないほうなものでね」
答えるつもりはないと、暗にそう示していた。
「まあ、それは冗談なんだけど。それで? 僕に何か用かい?」
「ごめんなさい。尾行をするみたいな真似をして。……そうですね。用がなければ追いかけたりはしません」
本当は、浅野さんの周辺についてこっそりと調べたかったのだがしょうがない。予定変更。この件は楓に任せることにして、気になっていたことをまとめて訊いてみよう。
「本当は、私の正体に最初から気づいていたんじゃないですか?」
少し考える間があった。
「君が、うちの店の客だったからかい? ……残念だけどそれはない。一日で十数人も客が来るんだ。一人ひとりの顔を覚えているほど僕は記憶力がいいほうじゃない」
「職業柄、ですか?」
ははは、と浅野さんが笑う。
「手厳しいな。さっきははぐらかすような言い方をして悪かった。謝るよ」
「いえ。まあ、それはどっちでもいいんです。嘘をついていたのは私ですし。非があるのも、全面的に私のほう。今訊きたいのは、そのことではありません」
「ふむ?」
不思議そうに首をかしげて、浅野さんがポケットから煙草を取り出した。
火を点けて、紫煙をくゆらせる。
「そのことではない、ね。じゃあ、何について訊きたいんだい?」
さて、ここからが勝負だ。パズルのピースを端からひとつずつ埋めていくみたいに、適切な問いを投げなければ。
「葉子さんが亡くなったあの日、浅野さんは自分の店にいた。それで合っていますか?」
なぜ今さらそれを? と言わんばかりの目がこちらに向いた。
「ふふ。何度も警察にされた質問だな。その時間帯なら、自分の店にいたよ。店の従業員に聞けば言質だって取れる」
「店の従業員が嘘をついている可能性は?」
「ないな。なんだったら、店のタイムカードを調べたらすぐわかることだ。……なんだい? 僕が葉子を殺したとでも思っているのかい?」
即答か。アリバイはやはり完璧なのかな。
「いえいえ。殺した、などとは思ってはいません。けれど、葉子さんに自殺する理由があったとは思えないので、そこに疑問は感じています」
「そうだな。あれは不幸な出来事だった。叶うなら、俺だって真相を知りたいさ」
無関心を顔に装っている、といった風でもなかった。本心からそう思っているのか。それとも嘘をつき慣れているのか。
「他殺だったのでは? と疑っているのですが、浅野さんはどう思いますか?」
「はは、他殺か。物騒な話だね」
「だって、おかしいと思いませんか? 薫さんのために、料理を準備して、ピザの配達まで頼んでいた人が、どうして自殺しなくてはならないのですか」
「確かに不自然ではある。だが、葉子がいた部屋は密室だった。他に彼女が転落するような場所はマンションの中になかった。……じゃあ、どうしようもないじゃないか。いずれにしても、それを調べるのは警察の仕事だ」
発言がブレた? 真相を知りたいと言った直後にそれはおかしくないか?
「確かにそうですね。わかりました」
ここでわざと一拍間を置いた。
「最後に、もうひとつだけ質問いいですか?」
「すいぶんと質問が多いんだね? いい加減に黙秘権を行使したいところだけど、いいよ。約束通り、これが最後ね」
「熊谷沙耶さん、という女性を知っていますか?」
「いや、知らないな。聞いたことがない名前だ」
即答だった。
「本当ですか? 彼女の名前を忘れている、という間違った記憶をしている可能性はありませんか?」
少し、考える間ができた。
「どういう意味だい? ずいぶんとまわりくどい言い方だけど、忘れている可能性はないですか? という質問だと受け取っていいのかい?」
「ああ、そうですね。それで構いません」
これ以上情報は与えない。じっと彼の目を見た。
「んー……。やはり思い出せないね。会ったことはあるが忘れてしまっているのか、そもそも会ったことがないのかはわからないが、とにかく僕はその人のことは知らない。それが答えだよ」
「ええ、わかりました」
「嘘を見抜くにはシンプルな質問で十分、か」
「なんの話ですか?」
「相手の嘘を見抜くには、『はい』か『いいえ』で答えられるシンプルな質問を投げかけるのが効果的なんだよ。何も後ろめたいことがなければ、相手はシンプルに『はい』と答える。しかし、何か後ろめたいことがある場合、聞かれてもいないことまで冗長に語り始める。真相から、話をそらすためにね」
「気づいていたんですか」
指摘された通りだった。相手の嘘を見抜く核心的な質問という奴だ。
「ずいぶんとみくびられたものだな。なあに、心配するな。僕が言っていることはすべて真実だよ。……質問はこれだけ?」
「はい」
「そうかい? じゃあ、これで失礼してもいいよね? 人を待たせているもので」
「はい。疑ったりしてすみませんでした。ありがとうございました」
ぺこりと頭を下げる。
肩をすくめ、ホッとした表情を浮かべ、彼は無言で立ち去っていった。
質問に対して後ろめたい事情がある場合、聞いてもいないことを冗長に語ったり、逆に質問で返してきたりなど不自然な対応が出る。
つまり、即答しなかった質問に対しては嘘をついている可能性がある……と本当は持っていきたかったのだが、意図に気づかれていたことで台無しになってしまった。
これでは、素の反応として長々と語ったのか、こちらを攪乱するためにわざとそうしたのか判断できなくなってしまう。
「やっぱり、食えない男だよ」
それでもわかったことはある。疑っていたことを謝罪したとき、彼は安堵の表情をみせた。つまり、訊かれた内容の中にやましい事柄がおそらくあった。
それがどれなのかはわからないが。
それと、最後に可能性質問(~している可能性はありませんか? と問われると、心当たりのある者だけが反応する)を混ぜたが、彼はいっさい動じなかった。彼が沙耶さんのことを知らないのは本当っぽい。これはいったいどういうことなのか。浅野さんが忘れてしまっているだけなのか。それとも、薫さんが思い違いをしているのか。
わからない。
見上げた夜空には、東京ではなかなか見れない夏の大三角が輝いていた。
*
スタッフは総勢十名。施療できる個室が全部で六つ準備されている。施術は完全予約制で、営業終了時刻は十八時だ。
現在の時刻は十七時。時間はまだ少し早いが、浅野さんとすれ違いになっては本末転倒なのでこのまま待つことにする。駅前のバス停横にあるベンチに腰掛け、眼前の賃貸ビルを見上げた。このビルの八階が、施療院だ。
ビルの隙間を拭いてくる風が少し冷たい。六月下旬とはいえ、生憎の曇天なので夕刻になると肌寒い。持ってきた薄手のカーディガンを羽織った。
実のところ、この場所にくるのは初めてじゃない。
昨年、我妻教授の家に行った日から一ヶ月半あとに、私はここで記憶消去方の施術を受けたのだ。本当は、受けるつもりはなかった。しかし、雨風によって硬い地層が削られていくみたいに、私の心は少しずつ抉れていたのだ。姉を失ったことからくる喪失感と、教授が亡くなったのは、自分のせいかもしれないと思う罪悪感とによって。
集中力がなくなる。落ち込みやすくなる。不眠と食欲不振の症状が出始めたあたりで病院を受診すると、躁鬱の症状があると診断された。
薬を飲み始めた頃は調子が良かった。だが、集中力の欠如と、慢性的な寝不足は解消に至らず、仕事でのミスが多くなって私はアルバイトをやめた。
自己都合による退職だ。即座に失業手当をもらうことはできない。
次の仕事を探さなければ――と焦りだけが募っていく。しかし、職探しをする意欲はまったくわかない。一人暮らしのアパートの部屋で、一日中ベッドに横になっていた。姉が残してくれた貯蓄は底をつきかけていた。姉がもし生きていたならと、ありもしない妄想ばかりを膨らませていた。
仕事をしないから、貧乏なのだ。
姉がいてくれたら、貧乏にはならなかった。
姉がいなくなったから、貧乏になったのだ。
姉がいなくなったから。
姉がいなくなったのはなぜだ?
姉は殺されたのだ。誰かに。きっと。おそらく。
負の思考ばかりがぐるぐると回る。
そんなはずはない、と頭では理解できているのに、心がついてこなかった。醜い他責思考が、頭の中で渦巻いていた。
薬が段々効かなくなって、躁鬱の症状が悪化していく。
そうして私は記憶を消した。
なけなしのお金を使うことに抵抗はあったが、このままでは死んでしまうとそう思った。ストレスの種をいくつか間引くしかなかったのだ。
消したのは、おそらく母が火事で亡くなったあの日の記憶だ。
姉の死の記憶と、教授の家に行った日の記憶だけは消すわけにいかなかったから。必然的に、間引ける記憶はそれくらいだった。記憶を消すだけでストレスが解消されるものなの? と記憶消去方の効果には懐疑的だったのだが、記憶を消したあとから嘘みたいに鬱症状が出なくなった。
記憶を消したのは間違いではなかった。記憶を消すだけで、本当に効果があるんだ。
この日私はそう知ったのだ。
楓と再会したのが、ちょうどその頃だった。
『美優の死の裏には絶対に何かあるよ』
真相を突きとめるべき、と助言をくれたのが楓だった。そればかりではない。薫さんに接触するための策をいろいろ講じてくれて、経済的な支援もしてくれたのだ。姉が死んだ日から止まっていた時計の針が、楓の後押しによって再び動き出す。
約六年ぶりに現れた楓は、私にとって変わることなく救世主だったのだ。
なんとしてでも、姉が死んだ本当の理由を突き止めたい。
姉のためにも。ここまで私を支えてくれた、楓のためにも。
「復讐戦、なんだよね」
決意の呟きが落ちる。顔を上げると、ビルの正面玄関から出てくる浅野さんが見えた。シックな黒のスーツ姿だ。
さて、と。気づかれないようにしなくちゃなりませんね。
人混みの中にスッと紛れて、つかず離れずの距離を保って彼の背中を追いかけた。
三鷹駅に入る。浅野さんが乗ったのは、自宅とは逆方向に向かう電車だった。十分ほど電車に揺られ、阿佐ヶ谷駅で彼は降りた。薫さんの勤務先がある場所の最寄り駅なので、ばったり彼と出くわすのでは、と心配になって帽子を目深にかぶり直した。
もっとも、眼鏡とマスクで顔を隠しているので、すれ違ったところで気づかれないだろうが。
それはそれで寂しいな、と感じてしまい、そう思った自分に愕然となる。
何を考えているのだろう。
復讐のために。――いや、復讐と呼ぶほど大それた感情ではなかった。ただ、知りたかっただけだ。なぜ、姉は死んだのかを。それに彼が一枚かんでいるのかを。――いずれにしても、私が彼に近づいた動機は、打算的なものでしかなかった。
それなのに、寂しいと感じているなんて。それなりに長い時間一緒に過ごしたことで、ほだされてしまったのか。
ばかみたい。
かぶりを振って気持ちを切り替える。
改札を通るまで、薫さんと遭遇することは結局なかった。取り越し苦労だ。
日没がすぎて辺りはすっかり暗い。家路を急ぐ人が多いのか、それともこれが都会の人の性なのか、道行く人はみな足早だ。見失わないよう、浅野さんの背中だけを注視して進んだ。
どこに向かっているのだろう。
そんな疑問が首をもたげたとき、彼が唐突に小路を曲がった。
まずい、見失う。小走りで彼が消えた角まで向かう。
「あれ?」
建物の陰から顔を覗かせると、浅野さんの姿はどこにもなかった。きょろきょろと辺りを見回すが、影も形もない。まだほんの十数秒しか経っていないのに。
通りの先に、居酒屋の暖簾が見えた。そこに入ったのだろうか。だとしても、姿が消えるまで早すぎないか?
意を決して足を数歩踏み出したとき、「こんばんは」と真横から声がした。
「柚乃ちゃん。誰かを探しているのかい?」
知らない男の声ではない。
立ち止まって声がしたほうを見ると、建物と建物の隙間に立ち、腕を組んでいる浅野さんがいた。
「なんてね。普通に考えたら、探していたのは僕なのかな?」
お道化た口調ながら、向けられた眼光は鋭い。
「いつから気づいていたんですか?」
「さて、いつからかなあ……。職業柄なのか、自分の記憶には頓着しないほうなものでね」
答えるつもりはないと、暗にそう示していた。
「まあ、それは冗談なんだけど。それで? 僕に何か用かい?」
「ごめんなさい。尾行をするみたいな真似をして。……そうですね。用がなければ追いかけたりはしません」
本当は、浅野さんの周辺についてこっそりと調べたかったのだがしょうがない。予定変更。この件は楓に任せることにして、気になっていたことをまとめて訊いてみよう。
「本当は、私の正体に最初から気づいていたんじゃないですか?」
少し考える間があった。
「君が、うちの店の客だったからかい? ……残念だけどそれはない。一日で十数人も客が来るんだ。一人ひとりの顔を覚えているほど僕は記憶力がいいほうじゃない」
「職業柄、ですか?」
ははは、と浅野さんが笑う。
「手厳しいな。さっきははぐらかすような言い方をして悪かった。謝るよ」
「いえ。まあ、それはどっちでもいいんです。嘘をついていたのは私ですし。非があるのも、全面的に私のほう。今訊きたいのは、そのことではありません」
「ふむ?」
不思議そうに首をかしげて、浅野さんがポケットから煙草を取り出した。
火を点けて、紫煙をくゆらせる。
「そのことではない、ね。じゃあ、何について訊きたいんだい?」
さて、ここからが勝負だ。パズルのピースを端からひとつずつ埋めていくみたいに、適切な問いを投げなければ。
「葉子さんが亡くなったあの日、浅野さんは自分の店にいた。それで合っていますか?」
なぜ今さらそれを? と言わんばかりの目がこちらに向いた。
「ふふ。何度も警察にされた質問だな。その時間帯なら、自分の店にいたよ。店の従業員に聞けば言質だって取れる」
「店の従業員が嘘をついている可能性は?」
「ないな。なんだったら、店のタイムカードを調べたらすぐわかることだ。……なんだい? 僕が葉子を殺したとでも思っているのかい?」
即答か。アリバイはやはり完璧なのかな。
「いえいえ。殺した、などとは思ってはいません。けれど、葉子さんに自殺する理由があったとは思えないので、そこに疑問は感じています」
「そうだな。あれは不幸な出来事だった。叶うなら、俺だって真相を知りたいさ」
無関心を顔に装っている、といった風でもなかった。本心からそう思っているのか。それとも嘘をつき慣れているのか。
「他殺だったのでは? と疑っているのですが、浅野さんはどう思いますか?」
「はは、他殺か。物騒な話だね」
「だって、おかしいと思いませんか? 薫さんのために、料理を準備して、ピザの配達まで頼んでいた人が、どうして自殺しなくてはならないのですか」
「確かに不自然ではある。だが、葉子がいた部屋は密室だった。他に彼女が転落するような場所はマンションの中になかった。……じゃあ、どうしようもないじゃないか。いずれにしても、それを調べるのは警察の仕事だ」
発言がブレた? 真相を知りたいと言った直後にそれはおかしくないか?
「確かにそうですね。わかりました」
ここでわざと一拍間を置いた。
「最後に、もうひとつだけ質問いいですか?」
「すいぶんと質問が多いんだね? いい加減に黙秘権を行使したいところだけど、いいよ。約束通り、これが最後ね」
「熊谷沙耶さん、という女性を知っていますか?」
「いや、知らないな。聞いたことがない名前だ」
即答だった。
「本当ですか? 彼女の名前を忘れている、という間違った記憶をしている可能性はありませんか?」
少し、考える間ができた。
「どういう意味だい? ずいぶんとまわりくどい言い方だけど、忘れている可能性はないですか? という質問だと受け取っていいのかい?」
「ああ、そうですね。それで構いません」
これ以上情報は与えない。じっと彼の目を見た。
「んー……。やはり思い出せないね。会ったことはあるが忘れてしまっているのか、そもそも会ったことがないのかはわからないが、とにかく僕はその人のことは知らない。それが答えだよ」
「ええ、わかりました」
「嘘を見抜くにはシンプルな質問で十分、か」
「なんの話ですか?」
「相手の嘘を見抜くには、『はい』か『いいえ』で答えられるシンプルな質問を投げかけるのが効果的なんだよ。何も後ろめたいことがなければ、相手はシンプルに『はい』と答える。しかし、何か後ろめたいことがある場合、聞かれてもいないことまで冗長に語り始める。真相から、話をそらすためにね」
「気づいていたんですか」
指摘された通りだった。相手の嘘を見抜く核心的な質問という奴だ。
「ずいぶんとみくびられたものだな。なあに、心配するな。僕が言っていることはすべて真実だよ。……質問はこれだけ?」
「はい」
「そうかい? じゃあ、これで失礼してもいいよね? 人を待たせているもので」
「はい。疑ったりしてすみませんでした。ありがとうございました」
ぺこりと頭を下げる。
肩をすくめ、ホッとした表情を浮かべ、彼は無言で立ち去っていった。
質問に対して後ろめたい事情がある場合、聞いてもいないことを冗長に語ったり、逆に質問で返してきたりなど不自然な対応が出る。
つまり、即答しなかった質問に対しては嘘をついている可能性がある……と本当は持っていきたかったのだが、意図に気づかれていたことで台無しになってしまった。
これでは、素の反応として長々と語ったのか、こちらを攪乱するためにわざとそうしたのか判断できなくなってしまう。
「やっぱり、食えない男だよ」
それでもわかったことはある。疑っていたことを謝罪したとき、彼は安堵の表情をみせた。つまり、訊かれた内容の中にやましい事柄がおそらくあった。
それがどれなのかはわからないが。
それと、最後に可能性質問(~している可能性はありませんか? と問われると、心当たりのある者だけが反応する)を混ぜたが、彼はいっさい動じなかった。彼が沙耶さんのことを知らないのは本当っぽい。これはいったいどういうことなのか。浅野さんが忘れてしまっているだけなのか。それとも、薫さんが思い違いをしているのか。
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