穢れた、記憶の消去者

木立 花音

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第一章「仁平薫」

第五話【答え合わせを、しようじゃないか(1)】

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 病院の空気とか匂いは、正直あまり好きではない。
 人がいるはずなのに気配を感じない静まり返った廊下とか、控え目な照明でわずかに艶めいて見えるリノリウムの床を見ていると、否が応でも陽子が死んだ日のことを思い出してしまうから。
 あの日の霊安室の記憶があるということは――俺が消した記憶とはいったいなんだったんだろう、と改めてあの日のことを想起しながら談話室に入った。
 自動販売機で各々飲み物を買い、松橋さんと二人並んでテーブルに腰かけた。彼女は暖かいお茶。俺が買ったのはホットのブラックコーヒーだ。
 プルタブを開けて乾いた喉を潤す。

「お疲れ様」

 松橋さんが俺に労いの言葉をかけた。

「俺は沙耶とは同期であり友人ですしね。当たり前のことをしたまでですよ」

 俺と松橋さんはあのあと救急車に乗って、沙耶の搬送先である病院に向かった。沙耶は意識が朦朧もうろうとしており、呼びかけに満足に応えられない状態だった。そのため、車内で酸素吸入を行い、病院に着くとただちに処置室に運ばれた。緊急連絡先を車内で訊かれたあと、俺と松橋さんは病院の事務室に案内されて、沙耶の最近の様子などを聴取された。そうして先ほど、ようやく解放されたのだ。
 結論から言うと、沙耶は一命を取り留めた。
 沙耶の部屋には、精神科で処方された睡眠薬と、(沙耶が精神科医にかかっていたことを、このとき初めて知った)薬を飲む際に使ったと思しき水と、トイレ用洗剤と台所洗剤があった。睡眠薬を大量に接種したあとで、二つの洗剤を水に混ぜたことで発生した塩素ガスを吸引し、自殺を図ったらしい。
 部屋から刺激臭がもれていることに気づいたマンションの住人が、ただちに管理人に連絡をした。発見が早くて良かった。あと数時間発見が遅れていたら、危なかったかもしれない。

「一命を取り留めたのは良かったけれど、これですべてが解決したと考えるのは、いささか早計かもしれないわね」
「そうですね」

 松橋さんの言葉に頷いた。
 自殺未遂をしたということは、彼女にそう決心させるだけの大きな問題が何かあるということだ。それを取り除いて、心身共に回復しなければ根本的な解決には至らないだろう。
 ごくごくとお茶を勢いよく胃に流し込み、松橋さんが天井を仰いだ。椅子がぎっと軋みを上げる。

「きっと、心を病んでしまったのね。理由はよくわからないけれど」

 黒目がちな瞳がこっちに向いた。何か知っている? と暗に問われている気がした。

「沙耶は、実際病んでいたんですよ」
「病んでいた?」

 言葉尻をうまく捕まえた松橋さんが、身を乗り出してくる。

「そう、過去形です。病んではいましたが、今は問題なくなっていた……はずだったんです」
「はずだった?」
「ええ。話すと少し長くなるのですが」

 先日振られた男の話ではない。沙耶が記憶を消すきっかけとなった、不倫の話だ。

 もう二年ほど前の話になる。沙耶はとある男と交際をしていた。大学時代にアルバイト先で出会った男で、当時三十歳。趣味や話が合ったことで意気投合し、二人は交際に至った。
 しかし、彼には妻子がいたのだ。そのことに沙耶が気づいたのは、交際が半年続いたあとだった。
 妻とはあまりうまくいっていない。いずれ別れるつもりだ。そういった彼の甘言に騙されて、いけないことだと理解しつつも沙耶は交際を続けた。そうしているうちに、関係が泥沼化してしまったのだ。

「妊娠したんですよ」

 がちゃん。
 動揺したのか、松橋さんが、片手で弄っていたスマホをテーブルの上に落とした。

「それは本当なの? 沙耶のお腹が大きくなっているところなんて見たことがないけど」
「でしょうね。妊娠しているとわかってから、すぐにおろしましたから」
「なるほど、それでか」
「一年半ほど前に、沙耶が二日ほど休んだことがあったでしょう? あのときです」

 ああ、と松橋さんが頷いた。沙耶は基本的に真面目なので滅多に休まない。いつの話か、すぐ思い至ったのだろう。

「本当はね、産むつもりだったんですよ。沙耶の奴」

 口先だけで、いつまで経っても離婚してくれない彼に業を煮やしていた最中に発覚した妊娠だ。ある意味、沙耶にとっては望外の出来事だった。これで彼は重い腰を上げるはず。沙耶はそう思ったはずだ。喜び勇んで報告すると、しかし、男は態度を硬化させた。困る。頼むからおろしてくれ、と泣きつかれ、そこでようやく沙耶は悟った。
 自分が、二番目の女であったことを。彼に、離婚する意思がまったくないことを。

「それを悲観して、自殺未遂をおこしたと?」

 松橋さんが神妙な顔になる。どんな事情がそこにあろうと、尊い命を無にしたことに変わりはない。失恋と、罪の意識と。自殺を決意する筋書きとしてはあり得るものだ。
 だが、それはないだろう。「どうですかね」と俺は首をかしげた。

「違うの? だって、状況的にどう見ても」
「沙耶は、その男と過ごした日々の記憶を、すべて消しているんですよ」

 その男に紐づいている記憶のすべてを消去しているのだ。失恋をした事実くらいは覚えているようだが、せいぜいそれだけだ。痛みをともなう記憶は残っていない。

「だから、失恋を苦にしての自殺は考えにくいんです」

 だからこそわからない。一度目の大失恋の記憶は消している。二度目の失恋は、そこまで引きずっていなかったはずだ。先日会ったときの沙耶の口調は軽かったのだし。わからない、何が引き金になったのか。
 思案するように、松橋さんが再び間を置いた。

「じゃあ……未遂に終わったとはいえ、記憶を消した者による自殺案件なのね。ここ最近、マスコミが騒いでいるのと同じじゃないの」

 そうですね、と呟き、コーヒーを全部飲み干した。喉の奥にブラックコーヒーの苦みが残る。この後味の悪さが、今の状況とどこか重なる。

「この一件が、マスコミに嗅ぎ付けられなければいいんですがね」

 職場にマスコミから何度も電話がかかってくることにでもなったら。想像するだけでもうんざりした。

「まあ、未遂に終わったのだから大丈夫でしょ。話に変な尾ひれが付いたかたちで拡散されたなら、ちょっとわからないけど」

 一拍おいて、「ねえ」と松橋さんがひどく真面目な声を出した。

「亡くなった君の婚約者は、記憶消去方を研究しているエンジニアだったんだよね?」

 気遣うような、顔と声音だった。

「そうですけども……。それが何か?」
「君の婚約者は、何か知っていたんじゃないの? こういった事故が起こる可能性ってやつをさ」

 まさかそんな、と言いかけて、だが、確実に何かが喉の奥につかえた。偶然にしてはできすぎじゃないのかと。記憶消去方を利用した者たちに、何か異変が起きているのだとしたら? いや、だがやはりおおかしい。記憶消去方の安全性は立証されているはずじゃないか。俺だって記憶を消しているのに、なんの問題もないじゃないか。

「葉子は、記憶消去方を推進していた人間ですよ? もし、何か問題があると知っていたなら」

 待てよ。
 柚乃が言うように、きな臭い何かがあったとしたら。それを知ったことで、葉子が研究から外れたのだとしたら。ストーリーはつながる。
 とはいえすべてが憶測だ。

「いや。そんなはずないです。彼女に、妙な素振りなんてなかったですから」
「そうだね。すまない」

 ストレッチャーか何かだろうか。からからと、廊下を何かが走っていく音がした。「そろそろ帰ろうか」と松橋さんが立ち上がった。

「そうですね」
「人生で起こることのすべてに意味がある。人生で出会う人すべてに縁がある、とよく言うじゃないか。偶然、たまたまに見えても、実は根底に何かの意思が動いているのかもしれない。そう考えると、記憶を安易に消してしまうのも良し悪しかもしれないな。悪い記憶であったとしても、それは今の自分を構成している一部なのだから」
「そうですね。消した記憶は戻ってきません。簡単に消してしまうのも、考え物かもしれません。それはある意味、人との縁を消す、ということなのですからね」

 消した記憶は戻ってこない。消すことによって、今が根底から崩れてしまったのでは本末転倒だ。
 葉子は、そのことを危惧していたのだろうか。
 消した記憶は戻ってこない。
 消えた記憶は戻ってこない。
 待てよ。そのとき、天啓のごとく頭の中で閃きがあった。
 そうだよ。どうしてこんな簡単なことに今まで気づかなかったんだ?
 これが事実なら、柚乃の話は辻褄が合っていない。
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