穢れた、記憶の消去者

木立 花音

文字の大きさ
上 下
13 / 40
第一章「仁平薫」

第四話【連鎖する悲劇(4)】

しおりを挟む
「ふーん、この子かあ」と開口一番沙耶は言った。

 彼女が待ち合わせ場所に指定したのは、ややレトロな雰囲気があるこじゃれた喫茶店だった。
 落ち着いた色の内装。流れているのはクラシック音楽。地味めな雰囲気のわりに客が多い。そこそこ繁盛していそうだ。所々に観葉植物が配置されていて、それを興味深そうに柚乃が眺めている。
 なるほど。なるほど。壊れたレコードみたいに沙耶が復唱する。値踏みするような沙耶の視線に、心もち柚乃が萎縮する。

「私の顔に、何か付いていますでしょうか?」

 ふふ、と沙耶が微笑した。

「怖がらなくても大丈夫よ。別に取って食いはしないから」

 四人掛けボックス席に俺と柚乃が並んで座り、柚乃の対面に沙耶が席を取った。沙耶が身を乗り出すと、柚乃との距離はだいぶ近くなる。
 柚乃が背を丸め、所在なげにコーヒーカップに口を付けた。

「彼女は、大学時代に同期だった熊谷沙耶。つい最近、年上の彼氏ができたばかりのリア充だ」

 場を和ませようとお道化た調子で紹介したのだが、なぜか沙耶の反応は渋い。あれ、と思っていると、神妙な面持ちで沙耶が言った。

「誠に残念ながら、その噂の彼氏とは先日別れまして」
「え?」

 いきなり地雷を踏みぬいた。
 付き合い始めてまだ数ヶ月じゃん、と言いかけて口を噤む。下手な慰めなんかでは、傷口に塩を塗る結果になりそうだ。

「いや、なんかね。いろいろと怪しいなあ、とは思っていたんだよ」

 らしくもない敬語で呟き、そこからぽつぽつと沙耶の愚痴が始まった。
 付き合い始めた当初は、よく奢ってくれたし優しくて頼りがいのある男性だったのだと。
 ところが、二週間したあたりで彼が本性を現した。休日になかなか会ってくれないのは元からだったが、平日の仕事終わりに突然連絡があったり、休日でも夜半近くになってから突然会えないか? と電話がきたりと不自然な対応が続いた。

「会う場所は、私のアパートかホテル。絶対に自分の家に招いてくれないし、住所だって教えてくれない」
「それって……」
「ね、おかしいでしょ? だからさ、悪いと思ったけれど、彼のスマホをこっそり見てみたの。そしたら――」

 ここで一度沙耶が言葉を切る。苦い顔になってこう続けた。

「彼は浮気をしていたの。いや、正しくは、私のほうが浮気相手だったのか」

 沙耶が自虐的に笑い、柚乃が愛想笑いを浮かべた。

「知らない女の連絡先とか通話歴があってさ。なんのことはない、そっちが本命だったという話。この女誰よ? と追及したら、いっさいの弁解をすることなく、何が悪いんだとか開き直りやがってさ。悲しいを通り越してなんだか呆れてしまって。その場で絶縁宣言をしてアパートから叩き出してやった。はあ……。あんな男に騙されていた自分が惨めだよ」

 顔と年収だけを見て男を選ぶなよ? と柚乃にアドバイスを送り、沙耶は話を締めくくった。

「人生ってうまくいかないね。でも、もう記憶を消すことはしないよ。今抱えているこの痛みを忘れてしまったら、きっと私はまた同じ過ちを繰り返すから」

「苦しくても、どこかで折り合いをつけていかなくちゃいけないからな」

 つけられていない俺が言うのはどうかと思うが。
 沙耶は、今から一年半前にも大失恋をしている。高校時代から交際を続けていたひとつ年上の恋人がいたのだが、結婚まで秒読みか、という段階になって突然フラれたのだ。
 このときの男は妻子持ちだった。沙耶との関係が、いわゆる不倫だった。
 あのときの沙耶はこの世の終わりみたいな顔をしていて、声をかけるのをためらうほどだった。
 だから沙耶は、彼と過ごした日々の記憶を消した。そこから本来の明るさを取り戻した。運気が上昇してきたところで再びの失恋なので、正直いたたまれない。
 まあね、と同調したみたいに沙耶が呟く。

「あーもう、やめやめ。私の話は今はいいのよ。私は、その子の話を聞きにきたんだから。で? 本当に何も覚えていないの? 昔のこと」

 話の水を向けられて、柚乃が視線を泳がせた。いったん落とした視線を持ち上げて、沙耶と真っすぐ目を合わせた。

「はい。何ひとつ覚えていません。何か、ひとつでもいいから覚えている事柄があれば、それを足がかりにして何かわかりそうなものですが。今は、良い情報が舞い込んでくるのを祈るばかりです」

 正しく言えば、俺の名前だけは覚えていたのだが。なぜ覚えていたのかも俺との接点もわかっていない。
 これでは何もないのと同じだ。
 そう、と沙耶が呟く。ポケットからスマホを出して操作して、画面を柚乃に見せた。

「それで? この制服は間違いなく君のもの?」

 画面に映っていたのは、俺がSNSに投稿した柚乃が着ていた制服の画像だ。「そうですけれども」と柚乃が答える。

「これ、私が通っていた高校の制服なんだよね」
「本当か!?」

 衝撃が強すぎて、思わず立ち上がってしまった。ガタンと大きな音が出て、周りの注目が集まってしまい低頭する羽目になった。

「本当だよ。私は吉祥寺に引っ越してくる前は千葉にいて、そこの公立高校に通っていたからね。母校の制服だしさ、さすがに見間違えはしないよ」
「ということは、葉子もかつてこの制服を着ていたということか」
「そうなるわね」

 沙耶と葉子は高校時代からの顔なじみであり同級生だ。まさに灯台下暗し。そんなところに接点があったとは。
 俺と沙耶の視線が柚乃に向く。注目が集まって、居心地悪そうに柚乃が苦笑いをした。

「……ということは、私は千葉に住んでいた、ということになるのでしょうか?」
「今がどうかはともかくとして、高校時代はそうだったということになるんじゃないかな。この制服が、誰かからのもらいものでなければ」

 柚乃がスマホの画面を凝視した。過去を記憶の底から引きずり出すように眉間にしわを寄せる。だがそれは数秒のことで、すぐに首を振った。

「やっぱり何も思い出せません」

 ふうむ、と沙耶が唸った。何かを考えるようにスマホの画面を指先でタップする。そのまましばらく考えてから、静かに口を開いた。

「まあ、しょうがないか。あいにく、私も君のことは何も知らないしね。歳だって、見た感じ五つくらい離れていそうだし」
「でも、助かったよ。少しだけとはいえ、わかったことがあるのは収穫だ。行方不明者の情報を、千葉を中心にして探していけばさらに何かわかるかもしれない」

 そうだね、と満足げに頷き、沙耶はポケットから煙草を取り出した。火を点けようとして、柚乃と俺の顔を交互に見た。

「煙草吸っても大丈夫?」

 柚乃がこくんと頷いた。続いて俺も。

「あれ? そういえば、薫って煙草吸わないんだっけ?」

 不思議そうな顔で沙耶が首をかしげる。

「ああ。大学時代は吸っていたんだけれどね。体に良くないと葉子に咎められてから禁煙したんだ」
「偉いねえ。そっか。……ん、じゃあ、やっぱりやめておこうか?」

 火を消しかけた沙耶を止めた。「いいよ。消さなくて」と。

「柚乃もいいよな? 部屋にきたとき、浅野の奴も散々吸っているし」
「そうですね。浅野さんには、むしろもうちょっと気を遣っていただきたいくらいですが」

 つん、と唇を尖らした柚乃に、沙耶が微笑を向けた。

「なるほど。身近にヘビースモーカーがいるわけね。そいつもひどい男だね。他人家にきたときくらいは気を遣わないと。煙草の匂いって、結構部屋の中に残るものだからさ」
「そうだな。今度きたときにでもやんわりと言うわ。……今、浅野の奴にも、柚乃の件で色々と調べてもらっているんだ。失った記憶を取り戻す方法が何かないのかってね」

 浅野には、それ以外にも調べてもらっていることがある。柚乃には内緒で嗅ぎ回っている内容もあるので、ここでは言わずにおくが。

「ふーん。その浅野って奴は有能な人なんだね」
「ああ。なんたって、記憶技工士だしな。……というか、沙耶だって知っているだろう? 浅野貴のことだよ」
「あさの、たかし?」

 覚えたての言葉を紡ぐ、子どもみたいな片言だった。

「ほら、大学のとき、俺らと同じ工学部にいただろ?」

 記憶の糸を手繰るように、天井を見上げてしばらく沙耶が沈黙した。

「ごめん、覚えてないや。薫の友達なんだっけ?」

 覚えていない?

「そうだよ。大学時代、俺と葉子と浅野でよくつるんでいただろう?」
「そうだっけ? おかしいなあ、全然思い出せないや」
「なんでだよ」

 だが、思えば沙耶と浅野は学部が違う。俺や葉子と比べたら確かに浅野との接点は薄い。だから印象に残っていないのかもしれない。そういや浅野って、何県の出身だったかな? 聞いた気がするのだが、ど忘れしたのか思い出せない。

「いろいろと、手は尽くしているんだけどな。なかなか情報が入ってきてくれないんだ。そうこうしているうちに、柚乃の記憶が戻ってくれれば本当は一番いいんだがな」

 コーヒーカップが空になった。「お代わりを頼むついでに、トイレに行ってくるわ」と二人に告げて俺は席を立つ。
 トイレがある場所は、角をひとつ曲がった先にあった。
 用を足した俺がトイレから出ると、待ち構えていたみたいに、目の前に沙耶がいた。トイレの前の壁にもたれてうつむかせていた顔を、ついと上げた。

「なんだ。お前もトイレか?」

 半分冗談のつもりだったが、沙耶はちっとも笑わなかった。ひどく真剣な顔と声音で、「薫」と俺の名を呼んだ。

「……ん、どうした?」
「お前さ、あの女の子のこと、どう思ってんのよ。実際」
「と言うと?」

 異性として見ているのか。そういう意味なのだとすぐわかったが、あえてお茶を濁した。

「好きなのかって聞いているのよ」
「ああ」と今わかった体で答える。

 俺と柚乃の関係はなんなのか。昨日、途中まで考えて、しかし、結論を先送りするみたいに思考の海に沈めた問いが、沙耶の声で完全に浮き彫りになった。
 好きとはなんだ。恋愛感情を抱くことか。なら、それはないなと否定する。ここまでは間違いないのだ。

「俺はまだ、葉子のことを愛しているから」

 同時に、これも真実。

「とはいえ。いつまでも、いない人のことを引きずってもいられないんだけどな」

 そして、これもまた事実なんだ。わかってはいるが、もう少し気持ちを整理する時間がほしいんだ。もう少し、がどれくらいなのかはさっぱりわからないが。

「つまり、今特定の相手はいないってことでいいんだよね?」
「まあね」
「じゃあさ。薫が良かったらなんだけど、女の子と会ってみない?」

 沙耶の声音が弾んだのを聞きながら、そうか、こっちが今日の本題だったのだろうか、と思う。

「女の子といっても、そんなに若くないんだけどね。私より二つ年上の二十八歳で、大学時代に所属していたテニスサークルの先輩なんだ。話していても面白いし、すごく明るくていい人なの。どう……かな?」

 プロフィールを聞いた限りでは優良物件だ。なぜ、決まった相手がいないのだろう。もしかして、訳アリ物件なのだろうか。そこまで考えてから、それは自分だろ、と苦笑いをした。

「一度会ってみない?」

 話が具体的になる前に、「いや、いいよ」と断ち切った。不意をつかれたみたいに沙耶が目を丸くして、それから小さく息を吐いた。
「そっか……。いや、いいんだけどさ。余計なお世話だったね」

 でも、とそこで一度言葉を切る。

「いい加減に吹っ切らないと、新しい恋ができないよ?」
「わかってる」

 心配そうにこちらを見つめる沙耶から目をそらす。そうは言ってみたものの――本当は、何もわかっていない。

   *
しおりを挟む
感想 4

あなたにおすすめの小説

パラダイス・ロスト

真波馨
ミステリー
架空都市K県でスーツケースに詰められた男の遺体が発見される。殺された男は、県警公安課のエスだった――K県警公安第三課に所属する公安警察官・新宮時也を主人公とした警察小説の第一作目。 ※旧作『パラダイス・ロスト』を加筆修正した作品です。大幅な内容の変更はなく、一部設定が変更されています。旧作版は〈小説家になろう〉〈カクヨム〉にのみ掲載しています。

ヘリオポリスー九柱の神々ー

soltydog369
ミステリー
古代エジプト 名君オシリスが治めるその国は長らく平和な日々が続いていた——。 しかし「ある事件」によってその均衡は突如崩れた。 突如奪われた王の命。 取り残された兄弟は父の無念を晴らすべく熾烈な争いに身を投じていく。 それぞれの思いが交錯する中、2人が選ぶ未来とは——。 バトル×ミステリー 新感覚叙事詩、2人の復讐劇が幕を開ける。

「蒼緋蔵家の番犬 1~エージェントナンバーフォー~」

百門一新
ミステリー
 雪弥は、自身も知らない「蒼緋蔵家」の特殊性により、驚異的な戦闘能力を持っていた。正妻の子ではない彼は家族とは距離を置き、国家特殊機動部隊総本部のエージェント【ナンバー4】として活動している。  彼はある日「高校三年生として」学園への潜入調査を命令される。24歳の自分が未成年に……頭を抱える彼に追い打ちをかけるように、美貌の仏頂面な兄が「副当主」にすると案を出したと新たな実家問題も浮上し――!? 日本人なのに、青い目。灰色かかった髪――彼の「爪」はあらゆるもの、そして怪異さえも切り裂いた。 『蒼緋蔵家の番犬』 彼の知らないところで『エージェントナンバー4』ではなく、その実家の奇妙なキーワードが、彼自身の秘密と共に、雪弥と、雪弥の大切な家族も巻き込んでいく――。 ※「小説家になろう」「ノベマ!」「カクヨム」にも掲載しています。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

かれん

青木ぬかり
ミステリー
 「これ……いったい何が目的なの?」  18歳の女の子が大学の危機に立ち向かう物語です。 ※とても長いため、本編とは別に前半のあらすじ「忙しい人のためのかれん」を公開してますので、ぜひ。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

セレナの居場所 ~下賜された側妃~

緑谷めい
恋愛
 後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。

アザー・ハーフ

新菜いに/丹㑚仁戻
ミステリー
『ファンタジー×サスペンス。信頼と裏切り、謎と異能――嘘を吐いているのは誰?』 ある年の冬、北海道沖に浮かぶ小さな離島が一晩で無人島と化した。 この出来事に関する情報は一切伏せられ、半年以上経っても何が起こったのか明かされていない――。 ごく普通の生活を送ってきた女性――小鳥遊蒼《たかなし あお》は、ある時この事件に興味を持つ。 事件を調べているうちに出会った庵朔《いおり さく》と名乗る島の生き残り。 この男、死にかけた蒼の傷をその場で治し、更には壁まで通り抜けてしまい全く得体が知れない。 それなのに命を助けてもらった見返りで、居候として蒼の家に住まわせることが決まってしまう。 蒼と朔、二人は協力して事件の真相を追い始める。 正気を失った男、赤い髪の美女、蒼に近寄る好青年――彼らの前に次々と現れるのは敵か味方か。 調査を進めるうちに二人の間には絆が芽生えるが、周りの嘘に翻弄された蒼は遂には朔にまで疑惑を抱き……。 誰が誰に嘘を吐いているのか――騙されているのが主人公だけとは限らない、ファンタジーサスペンス。 ※ミステリーにしていますがサスペンス色強めです。 ※作中に登場する地名には架空のものも含まれています。 ※痛グロい表現もあるので、苦手な方はお気をつけください。 本作はカクヨム・なろうにも掲載しています。(カクヨムのみ番外編含め全て公開) ©2019 新菜いに

処理中です...