穢れた、記憶の消去者

木立 花音

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第一章「仁平薫」

第四話【連鎖する悲劇(4)】

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「ふーん、この子かあ」と開口一番沙耶は言った。

 彼女が待ち合わせ場所に指定したのは、ややレトロな雰囲気があるこじゃれた喫茶店だった。
 落ち着いた色の内装。流れているのはクラシック音楽。地味めな雰囲気のわりに客が多い。そこそこ繁盛していそうだ。所々に観葉植物が配置されていて、それを興味深そうに柚乃が眺めている。
 なるほど。なるほど。壊れたレコードみたいに沙耶が復唱する。値踏みするような沙耶の視線に、心もち柚乃が萎縮する。

「私の顔に、何か付いていますでしょうか?」

 ふふ、と沙耶が微笑した。

「怖がらなくても大丈夫よ。別に取って食いはしないから」

 四人掛けボックス席に俺と柚乃が並んで座り、柚乃の対面に沙耶が席を取った。沙耶が身を乗り出すと、柚乃との距離はだいぶ近くなる。
 柚乃が背を丸め、所在なげにコーヒーカップに口を付けた。

「彼女は、大学時代に同期だった熊谷沙耶。つい最近、年上の彼氏ができたばかりのリア充だ」

 場を和ませようとお道化た調子で紹介したのだが、なぜか沙耶の反応は渋い。あれ、と思っていると、神妙な面持ちで沙耶が言った。

「誠に残念ながら、その噂の彼氏とは先日別れまして」
「え?」

 いきなり地雷を踏みぬいた。
 付き合い始めてまだ数ヶ月じゃん、と言いかけて口を噤む。下手な慰めなんかでは、傷口に塩を塗る結果になりそうだ。

「いや、なんかね。いろいろと怪しいなあ、とは思っていたんだよ」

 らしくもない敬語で呟き、そこからぽつぽつと沙耶の愚痴が始まった。
 付き合い始めた当初は、よく奢ってくれたし優しくて頼りがいのある男性だったのだと。
 ところが、二週間したあたりで彼が本性を現した。休日になかなか会ってくれないのは元からだったが、平日の仕事終わりに突然連絡があったり、休日でも夜半近くになってから突然会えないか? と電話がきたりと不自然な対応が続いた。

「会う場所は、私のアパートかホテル。絶対に自分の家に招いてくれないし、住所だって教えてくれない」
「それって……」
「やっぱりおかしいでしょ? だからさ、悪いと思ったけど、ある日彼のスマホを盗み見たんだ。そしたら――」

 ここで一度沙耶が言葉を切る。苦い顔になってこう続けた。

「彼は浮気をしていたの。いや、正しくは、私のほうが浮気相手だったのか」

 沙耶が自虐的に笑い、柚乃が愛想笑いを浮かべた。

「知らない女の連絡先とか通話歴があってさ。なんのことはない、そっちが本命だったという話。この女誰よ? と追及したら、いっさいの弁解をすることなく、何が悪いんだとか開き直りやがってさ。悲しいを通り越してなんだか呆れてしまって。その場で絶縁宣言をしてアパートから叩き出してやった。はあ……。あんな男に騙されていた自分が惨めだよ」

 顔と年収だけを見て男を選ぶなよ? と柚乃にアドバイスを送り、沙耶は話を締めくくった。

「人生ってうまくいかないね。でも、もう記憶を消すことはしないよ。今抱えているこの痛みを忘れてしまったら、きっと私はまた同じ過ちを繰り返すから」

「苦しくても、どこかで折り合いをつけていかなくちゃいけないからな」

 つけられていない俺が言うのはどうかと思うが。
 沙耶は、今から一年半前にも大失恋をしている。高校時代から交際を続けていたひとつ年上の恋人がいたのだが、結婚まで秒読みか、という段階になって突然フラれたのだ。
 このときの男は妻子持ちだった。沙耶との関係が、いわゆる不倫だった。
 あのときの沙耶はこの世の終わりみたいな顔をしていて、声をかけるのをためらうほどだった。
 だから沙耶は、彼と過ごした日々の記憶を消した。そこから本来の明るさを取り戻した。運気が上昇してきたところで再びの失恋なので、正直いたたまれない。
 まあね、と同調したみたいに沙耶が呟く。

「あーもう、やめやめ。私の話は今はいいのよ。私は、その子の話を聞きにきたんだから。で? 本当に何も覚えていないの? 昔のこと」

 話の水を向けられて、柚乃が視線を泳がせた。いったん落とした視線を持ち上げて、沙耶と真っすぐ目を合わせた。

「はい。何ひとつ覚えていません。何か、ひとつでもいいから覚えている事柄があれば、それを足がかりにして何かわかりそうなものですが。今は、良い情報が舞い込んでくるのを祈るばかりです」

 正しく言えば、俺の名前だけは覚えていたのだが。なぜ覚えていたのかも俺との接点もわかっていない。
 これでは何もないのと同じだ。
 そう、と沙耶が呟く。ポケットからスマホを出して操作して、画面を柚乃に見せた。

「それで? この制服は間違いなく君のもの?」

 画面に映っていたのは、俺がSNSに投稿した柚乃が着ていた制服の画像だ。「そうですけれども」と柚乃が答える。

「これ、私が通っていた高校の制服なんだよね」
「本当か!?」

 衝撃が強すぎて、思わず立ち上がってしまった。ガタンと大きな音が出て、周りの注目が集まってしまい低頭する羽目になった。

「本当だよ。私は吉祥寺に引っ越してくる前は千葉にいて、そこの公立高校に通っていたからね。母校の制服だしさ、さすがに見間違えはしないよ」
「ということは、葉子もかつてこの制服を着ていたということか」
「そうなるわね」

 沙耶と葉子は高校時代からの顔なじみであり同級生だ。まさに灯台下暗し。そんなところに接点があったとは。
 俺と沙耶の視線が柚乃に向く。注目が集まって、居心地悪そうに柚乃が苦笑いをした。

「……ということは、私は千葉に住んでいた、ということになるのでしょうか?」
「今がどうかはともかくとして、高校時代はそうだったということになるんじゃないかな。この制服が、誰かからのもらいものでなければ」

 柚乃がスマホの画面を凝視した。過去を記憶の底から引きずり出すように眉間にしわを寄せる。だがそれは数秒のことで、すぐに首を振った。

「やっぱり何も思い出せません」

 ふうむ、と沙耶が唸った。何かを考えるようにスマホの画面を指先でタップする。そのまましばらく考えてから、静かに口を開いた。

「まあ、しょうがないか。あいにく、私も君のことは何も知らないしね。歳だって、見た感じ五つくらい離れていそうだし」
「でも、助かったよ。少しだけとはいえ、わかったことがあるのは収穫だ。行方不明者の情報を、千葉を中心にして探していけばさらに何かわかるかもしれない」

 そうだね、と満足げに頷き、沙耶はポケットから煙草を取り出した。火を点けようとして、柚乃と俺の顔を交互に見た。

「煙草吸っても大丈夫?」

 柚乃がこくんと頷いた。続いて俺も。

「あれ? そういえば、薫って煙草吸わないんだっけ?」

 不思議そうな顔で沙耶が首をかしげる。

「ああ。大学時代は吸っていたんだけれどね。体に良くないと葉子に咎められてから禁煙したんだ」
「偉いねえ。そっか。……ん、じゃあ、やっぱりやめておこうか?」

 火を消しかけた沙耶を止めた。「いいよ。消さなくて」と。

「柚乃もいいよな? 部屋にきたとき、浅野の奴も散々吸っているし」
「そうですね。浅野さんには、むしろもうちょっと気を遣っていただきたいくらいですが」

 つん、と唇を尖らした柚乃に、沙耶が微笑を向けた。

「なるほど。身近にヘビースモーカーがいるわけね。そいつもひどい男だね。他人家にきたときくらいは気を遣わないと。煙草の匂いって、結構部屋の中に残るものだからさ」
「そうだな。今度きたときにでもやんわりと言うわ。……今、浅野の奴にも、柚乃の件で色々と調べてもらっているんだ。失った記憶を取り戻す方法が何かないのかってね」

 浅野には、それ以外にも調べてもらっていることがある。柚乃には内緒で嗅ぎ回っている内容もあるので、ここでは言わずにおくが。

「ふーん。その浅野って奴は有能な人なんだね」
「ああ。なんたって、記憶技工士だしな。……というか、沙耶だって知っているだろう? 浅野貴のことだよ」
「あさの、たかし?」

 覚えたての言葉を紡ぐ、子どもみたいな片言だった。

「ほら、大学のとき、俺らと同じ工学部にいただろ?」

 記憶の糸を手繰るように、天井を見上げてしばらく沙耶が沈黙した。

「ごめん、覚えてないや。薫の友達なんだっけ?」

 覚えていない?

「そうだよ。大学時代、俺と葉子と浅野でよくつるんでいただろう?」
「そうだっけ? おかしいなあ、全然思い出せないや」
「なんでだよ」

 だが、思えば沙耶と浅野は学部が違う。俺や葉子と比べたら確かに浅野との接点は薄い。だから印象に残っていないのかもしれない。そういや浅野って、何県の出身だったかな? 聞いた気がするのだが、ど忘れしたのか思い出せない。

「いろいろと、手は尽くしているんだけどな。なかなか情報が入ってきてくれないんだ。そうこうしているうちに、柚乃の記憶が戻ってくれれば本当は一番いいんだがな」

 コーヒーカップが空になった。「お代わりを頼むついでに、トイレに行ってくるわ」と二人に告げて俺は席を立つ。
 トイレがある場所は、角をひとつ曲がった先にあった。
 用を足した俺がトイレから出ると、待ち構えていたみたいに、目の前に沙耶がいた。トイレの前の壁にもたれてうつむかせていた顔を、ついと上げた。

「なんだ。お前もトイレか?」

 半分冗談のつもりだったが、沙耶はちっとも笑わなかった。ひどく真剣な顔と声音で、「薫」と俺の名を呼んだ。

「……ん、どうした?」
「お前さ、あの女の子のこと、どう思ってんのよ。実際」
「と言うと?」

 女として見ているのか。そういう意味なんだとすぐわかったが、あえてお茶を濁してみた。

「好きなのかって聞いているんだよ」
「ああ」と今わかった体で答える。

 俺と柚乃の関係はなんなのか。昨日、途中まで考えて、しかし、結論を先送りするみたいに思考の海に沈めた問いが、沙耶の声で完全に浮き彫りになった。
 好きとはなんだ。恋愛感情を抱くことか。なら、それはないなと否定する。ここまでは間違いないのだ。

「俺はまだ、葉子のことを愛しているから」

 同時に、これも真実。

「とはいえ。いつまでも、いない人のことを引きずってもいられないんだけどな」

 そして、これもまた事実なんだ。わかってはいるが、もう少し気持ちを整理する時間がほしいんだ。もう少し、がどれくらいなのかはさっぱりわからないが。

「つまり、今特定の相手はいないってことでいいんだよね?」
「まあね」
「じゃあさ。薫が良かったらなんだけど、女の子と会ってみない?」

 沙耶の声音が弾んだのを聞きながら、そうか、こっちが今日の本題だったのだろうか、と思う。

「女の子といっても、そんなに若くないんだけどね。私より二つ年上の二十八歳で、大学時代に所属していたテニスサークルの先輩なんだ。話していても面白いし、すごく明るくていい人なの。どう……かな?」

 プロフィールを聞いた限りでは優良物件だ。なぜ、決まった相手がいないのだろう。もしかして、訳アリ物件なのだろうか。そこまで考えてから、それは自分だろ、と苦笑いをした。

「一度会ってみない?」

 話が具体的になる前に、「いや、いいよ」と断ち切った。不意をつかれたみたいに沙耶が目を丸くして、それから小さく息を吐いた。
「そっか……。いや、いいんだけどさ。余計なお世話だったね」

 でも、とそこで一度言葉を切る。

「いい加減に吹っ切らないと、新しい恋ができないよ?」
「わかってる」

 心配そうにこちらを見つめる沙耶から目をそらす。そうは言ってみたものの――本当は、何もわかっていない。

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