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第一章「仁平薫」
第四話【連鎖する悲劇(2)】
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車を三十分ほど走らせて、県境の町に入った。人口数千人ののどかな地方都市で、民家と田園風景とが多くなってきたことからもわかるように、農業が盛んな場所らしい。
目的地であるセブンスマートの前までくると、「あー」と柚乃が大声を上げた。
「ここ……記憶の中にでてくる光景と似ている気がします」
「本当か? なら、ビンゴかもしれないな」
長時間の駐車になるので迷惑をかけてしまう。罪滅ぼしに多少なりとも利益を落とそうと、店内で肉まんを二個買ってから歩き始めた。
「薫さんは、肉まんとあんまんとどっち派ですか?」
「いちごまん派だな。あそこのセブンスマートは、いちごまんを置いていないから二流だ」
「あんまんとの二択で訊いているのに、三つ目の回答をするあたりがひねくれ者ですよね」
「ああ、ひねくれ者で結構。好きな物は好きだ。それは譲れない一線だ」
猫舌なのだろうか。両手で持った肉まんにふーふーと息を吐きかけながら、柚乃がかじりつく。んーと声を上げ目尻が下がった。
「私はピザまん派ですよ」
「お前も三つ目を言うのかよ……。そっか、ピザまんが好きか。そう言ってくれればピザまんにしたのに」
「いいんですよ。奢ってもらえるなら、なんでも美味しいです」
くすりと軽く笑んでそれから。
「こうして並んで歩いていると、恋人同士みたいに見えるんですかね?」
辺りに目を配りながら、柚乃がぽつりと呟いた。この辺は裕福な家庭が多いのだろうか。塀を備えた、綺麗な外壁をした二階建て住居が多い。
「そう見られたいのか?」
「んー……どうなんでしょうね? 自分が恋をしたことがあるかどうかもよくわかりませんし。恋をするって、どういう感じなんですかね。この肉まんみたいに、あったかい気持ちになります?」
面白いたとえだなって思う。
「そうだなあ」
葉子と肩を並べて歩いた、あの日々のことを追想していく。
「会話がなくても、息苦しくは感じなかった。一緒にいるだけで、幸せだとそう思えた。そういうのは、温かい気持ちっていうのかな」
「そうなんですか。いいなあ……。葉子さんは、愛されていたんですね」
柚乃が羨ましそうに言う。愛か。確かにあの頃は楽しかった。あの楽しい時間が、ずっと続くと信じて疑わなかった。
しばらく無言で歩いていたけれど、やがて柚乃がきょろきょろし始める。そわそわとして落ち着かなくなる。
「どうした?」
「ん……。やっぱり、この道知っているんですよ」
「そうか。それじゃあ、この先はどっちだ?」
「そこの、ふたつめの角を左ですね」
「ああ、合っている」
やはりここで合っているのか。俄然気が引き締まってくる。あまり直視したくない記憶ではあったが、どうやらそうもいかないらしい。俺は、あの人の影から逃れることができないのだろうか。
角を左に曲がってしばらく歩くと、眼前に更地となった一角が見えた。俺が足を止めるのとまったく同じタイミングで柚乃が立ち止まる。
「ここですね」
「記憶の中にある光景と、一致しているか?」
「そうですね。建物はもうありませんし、記憶の中にある光景は夜のものなので印象が多少違って見えますが、ここまでの道中も、周辺にある家々の形も、記憶にあるものと一緒ですのでここで間違いないと思います」
「そうか」
気持ちを落ち着かせるため、滅多に吸わない煙草に火を点ける。一度大きく紫煙を吐き出してから、ゆっくりと俺は語り始める。
「この場所にあったのは、我妻教授の家だ。我妻忠。知る人ぞ知る、記憶消去方を実用化までこぎつけた、偉大なるエンジニアの名だよ。彼が亡くなったのは、今から三ヶ月ほど前のことだ」
つまり、柚乃の頭の中にある記憶の元の持ち主は、我妻教授のことを知っていたことになる。では、柚乃が俺の名前を覚えていたのも、この人物の記憶が癒着していたせいかと言うと、そこまではわからない。
いずれにしても言えること。その人物は、教授の死にはからんでいない。
記憶消去方の研究が始まったのは、十年ほど前のことだった。我妻教授は、ある事故をきっかけに、人が記憶を失った際に脳の特定部位が活性化することを発見した。それを元にして、人の記憶を消す方法の研究を始めたのだという。
しかし、実現のためには多くの障害があった。脳神経細胞からの信号を情報化して展開するところまではできていたものの、そこから、望んだ記憶だけを抽出して消すことができずにいた。そこで一時研究は頓挫しかけたのだが、とある研究者に我妻教授は目を付ける。
メンタル・エンジニアとして、天才の名を欲しいままにしていた葉子だ。
記憶を定着させることに関わる神経細胞の構造について発表した葉子の論文に目を付けた我妻教授は、共同研究をしないか、と彼女に持ちかけた。
葉子が参加することによって、研究は壁を打ち破って大いに進んだ。
ある意味、筧葉子というエンジニアの手によって、記憶消去方は完成したと言い換えても良い。
「それなのに、記憶消去方の開発者の連名の中に、葉子の名前はない。彼女は途中で研究チームを外れたのだから、当然のことなのかもしれないが」
葉子ばかりではない。研究を支えてきた多くの被験者の名前も、公にはなっていない。脚光を浴びるのは、いつも一握りの人間なのだ。支えてきた裾野の人間にはスポットライトは当たらない。物事とは、得てしてそういうものだ。
葉子だけが、不憫だったわけではない。そうして、溜飲を下げていくしかないのだろう。
「意図的に、我妻教授が葉子さんの名前を抹消していたとしたら、どうでしょう?」
「え?」
出し抜けに放たれた問いに、虚を突かれて呆けた声が出る。
「それは、葉子さんが自殺であった、という前提に基づいての結論ですよね? もし、本当に何か裏があったとして、それに気づいたことで葉子さんが殺されたのだとしたら?」
「殺された? 葉子が……?」
そんなことは考えたことがなかった。いや、正しくは、考えないようにしてきた、かもしれないが。
もちろん初動捜査においては、事件と事故の両面から捜査されていたはずだ。だが、事件性を疑うような証拠はいっさいなく、警察は自殺か事故として処理した。
彼らは自殺の可能性がある場合、よほどのことがない限りそれで処理したがる。他殺の場合、捜査量が何倍にも膨らむのだから。無駄な労力を使おうとはしない。
それがわかっていたからこそ、俺もいろいろと情報を集めたんだ。しかし、やはり他殺である可能性を見つけることはできなかった。だから、自殺なのだと自分を納得させてきた。
「たとえばの話です。葉子さんが亡くなることで、利益を得る人物がもしいたとしたら、どうですか?」
「葉子が死ぬことで得をする人物……?」
もし、そんな人物がいるとしたら、そいつに葉子が殺されたという可能性は拭えない。しかし。
「考えられるとしたら、それは我妻教授しかいない。研究者にとって一番旨味があるものと言えば金だ。自分の才能を世に認めさせるには、研究成果が最も手っ取り早い広告になるのだから。だが……葉子は自分から研究チームを降りたんだ。教授が手を下すまでもなかった。この時点でそのストーリーは成り立たない。第一、我妻教授はもうこの世界にいないんだ」
「確かに。話として成立しませんね」
「そうだな。さらに言うと、我妻教授の死にはひとつ不可解な点がある」
「不可解な点?」
「ああ」
我妻邸が全焼したあの日、焼け跡から我妻教授の焼死体が見つかった。死因は火傷。それはいい。問題なのは――。
「放火?」
柚乃の声に、俺は無言で頷いた。
出火場所に火の気がいっさいなかった。そこで警察は、当初から放火の線で捜査を行っていた。
その結果、放火の容疑で逮捕されたのは、住所不定無職の阿相孝之容疑者、二十九歳。我妻教授が在籍していた大学で、当時いじめ事件があったのだが、その事件で自殺した女性の兄だった。
近年、学校によるいじめの隠蔽体質がしばしば問題になるが、阿相容疑者の妹も、同様の事件の被害者だった。
阿相容疑者の妹は、自分の部屋で手首を切って自殺していた。いじめの事実は認められない、と当初大学側は否定していたのだが、第三者委員会の調査でいじめがあった事実が出てくると、学校側の対応は百八十度変わる。一転していじめがあったのを認めたのだ。
その一方で、いじめと自殺の関連性については大学側が否定した。これをくつがえすまでの証拠も出てこなかった。こうして、大学側の対応に問題はなかったと、結論が出た。
「SNSでは結構騒ぎになったな。大学側が隠ぺい工作をしているんじゃないかと。だが、遺書はなかったし、いじめの内容についても情報が少なすぎて、自殺との関連性を立証するまでには至らなかったんだ。そして、このとき大学側のハラスメント委員会で会長をしていたのが、我妻教授だったんだよ」
「となると……。大学側の対応に不満を持っていた容疑者が、怨恨によって放火したと、そういうことですか?」
「ああ。事件そのものは、それで一応の決着を見た。しかし、不可解な点もある。我妻教授の遺体頭部に傷があったんだよ。その傷は直接の死因でこそないが、傷が元で気絶をしていた可能性はある。阿相容疑者は、我妻教授を気絶させた上で家に火を放ったのだろう、というのが警察の出した結論だ」
「逃げられないようにしておけば、確実に殺せますからね。ということは……。私の頭の中にあるこの記憶が、阿相容疑者のもの?」
どうだろうな、と俺は首をひねった。
「記憶の中の人物が教授の家に着いた時点で、家はもう燃えているじゃないか。だから、その記憶がたとえ誰のものであったとしても、教授殺しの犯人ではないんだ」
「ああ、そうか。それは確かにそうですね」
「それに、阿相容疑者は、教授を殴ったことも、火を放ったことも認めていないんだ」
話が反転したことで、柚乃が瞳を白黒させる。
「ええ? では、誤認逮捕じゃないんですか?」
「いや、そうとは言い切れない。その日、阿相容疑者は別の場所でも放火事件を起こしており、そちらは罪を認めているのだから」
それだけではない。阿相容疑者は、他にも何件か放火の余罪があった。ついでに言うと、火災があったその日、教授の家の周辺をうろついていたところを近隣の住民によって目撃されているのだ。
「だから警察は、彼が犯人で間違いないと見ている。余罪の部分も確定している。言い逃れは難しい状況だ」
情報を整理するみたいに、目を閉じて柚乃が沈黙した。証拠不十分ではないのかと、思案しているような顔だ。
正直、俺も同感だ。阿相容疑者が現状もっとも疑わしいのは確かだが、逆に言えばそれだけだ。他に真犯人がいる可能性は拭えない。だが、警察が出した結論を覆すだけの情報がない。ならば、これで納得するほかないんだ。
そこで会話は終わりになった。もし、我妻教授が葉子を殺した犯人であるなら、俺も怒りの矛先を向ける場所があるんだがな。
結局、柚乃に癒着している記憶が誰のものかも、柚乃の正体もわからなかった。
『葉子さんが殺されたのだとしたら』という柚乃の声が、俺の頭の中でリフレインしていた。
*
目的地であるセブンスマートの前までくると、「あー」と柚乃が大声を上げた。
「ここ……記憶の中にでてくる光景と似ている気がします」
「本当か? なら、ビンゴかもしれないな」
長時間の駐車になるので迷惑をかけてしまう。罪滅ぼしに多少なりとも利益を落とそうと、店内で肉まんを二個買ってから歩き始めた。
「薫さんは、肉まんとあんまんとどっち派ですか?」
「いちごまん派だな。あそこのセブンスマートは、いちごまんを置いていないから二流だ」
「あんまんとの二択で訊いているのに、三つ目の回答をするあたりがひねくれ者ですよね」
「ああ、ひねくれ者で結構。好きな物は好きだ。それは譲れない一線だ」
猫舌なのだろうか。両手で持った肉まんにふーふーと息を吐きかけながら、柚乃がかじりつく。んーと声を上げ目尻が下がった。
「私はピザまん派ですよ」
「お前も三つ目を言うのかよ……。そっか、ピザまんが好きか。そう言ってくれればピザまんにしたのに」
「いいんですよ。奢ってもらえるなら、なんでも美味しいです」
くすりと軽く笑んでそれから。
「こうして並んで歩いていると、恋人同士みたいに見えるんですかね?」
辺りに目を配りながら、柚乃がぽつりと呟いた。この辺は裕福な家庭が多いのだろうか。塀を備えた、綺麗な外壁をした二階建て住居が多い。
「そう見られたいのか?」
「んー……どうなんでしょうね? 自分が恋をしたことがあるかどうかもよくわかりませんし。恋をするって、どういう感じなんですかね。この肉まんみたいに、あったかい気持ちになります?」
面白いたとえだなって思う。
「そうだなあ」
葉子と肩を並べて歩いた、あの日々のことを追想していく。
「会話がなくても、息苦しくは感じなかった。一緒にいるだけで、幸せだとそう思えた。そういうのは、温かい気持ちっていうのかな」
「そうなんですか。いいなあ……。葉子さんは、愛されていたんですね」
柚乃が羨ましそうに言う。愛か。確かにあの頃は楽しかった。あの楽しい時間が、ずっと続くと信じて疑わなかった。
しばらく無言で歩いていたけれど、やがて柚乃がきょろきょろし始める。そわそわとして落ち着かなくなる。
「どうした?」
「ん……。やっぱり、この道知っているんですよ」
「そうか。それじゃあ、この先はどっちだ?」
「そこの、ふたつめの角を左ですね」
「ああ、合っている」
やはりここで合っているのか。俄然気が引き締まってくる。あまり直視したくない記憶ではあったが、どうやらそうもいかないらしい。俺は、あの人の影から逃れることができないのだろうか。
角を左に曲がってしばらく歩くと、眼前に更地となった一角が見えた。俺が足を止めるのとまったく同じタイミングで柚乃が立ち止まる。
「ここですね」
「記憶の中にある光景と、一致しているか?」
「そうですね。建物はもうありませんし、記憶の中にある光景は夜のものなので印象が多少違って見えますが、ここまでの道中も、周辺にある家々の形も、記憶にあるものと一緒ですのでここで間違いないと思います」
「そうか」
気持ちを落ち着かせるため、滅多に吸わない煙草に火を点ける。一度大きく紫煙を吐き出してから、ゆっくりと俺は語り始める。
「この場所にあったのは、我妻教授の家だ。我妻忠。知る人ぞ知る、記憶消去方を実用化までこぎつけた、偉大なるエンジニアの名だよ。彼が亡くなったのは、今から三ヶ月ほど前のことだ」
つまり、柚乃の頭の中にある記憶の元の持ち主は、我妻教授のことを知っていたことになる。では、柚乃が俺の名前を覚えていたのも、この人物の記憶が癒着していたせいかと言うと、そこまではわからない。
いずれにしても言えること。その人物は、教授の死にはからんでいない。
記憶消去方の研究が始まったのは、十年ほど前のことだった。我妻教授は、ある事故をきっかけに、人が記憶を失った際に脳の特定部位が活性化することを発見した。それを元にして、人の記憶を消す方法の研究を始めたのだという。
しかし、実現のためには多くの障害があった。脳神経細胞からの信号を情報化して展開するところまではできていたものの、そこから、望んだ記憶だけを抽出して消すことができずにいた。そこで一時研究は頓挫しかけたのだが、とある研究者に我妻教授は目を付ける。
メンタル・エンジニアとして、天才の名を欲しいままにしていた葉子だ。
記憶を定着させることに関わる神経細胞の構造について発表した葉子の論文に目を付けた我妻教授は、共同研究をしないか、と彼女に持ちかけた。
葉子が参加することによって、研究は壁を打ち破って大いに進んだ。
ある意味、筧葉子というエンジニアの手によって、記憶消去方は完成したと言い換えても良い。
「それなのに、記憶消去方の開発者の連名の中に、葉子の名前はない。彼女は途中で研究チームを外れたのだから、当然のことなのかもしれないが」
葉子ばかりではない。研究を支えてきた多くの被験者の名前も、公にはなっていない。脚光を浴びるのは、いつも一握りの人間なのだ。支えてきた裾野の人間にはスポットライトは当たらない。物事とは、得てしてそういうものだ。
葉子だけが、不憫だったわけではない。そうして、溜飲を下げていくしかないのだろう。
「意図的に、我妻教授が葉子さんの名前を抹消していたとしたら、どうでしょう?」
「え?」
出し抜けに放たれた問いに、虚を突かれて呆けた声が出る。
「それは、葉子さんが自殺であった、という前提に基づいての結論ですよね? もし、本当に何か裏があったとして、それに気づいたことで葉子さんが殺されたのだとしたら?」
「殺された? 葉子が……?」
そんなことは考えたことがなかった。いや、正しくは、考えないようにしてきた、かもしれないが。
もちろん初動捜査においては、事件と事故の両面から捜査されていたはずだ。だが、事件性を疑うような証拠はいっさいなく、警察は自殺か事故として処理した。
彼らは自殺の可能性がある場合、よほどのことがない限りそれで処理したがる。他殺の場合、捜査量が何倍にも膨らむのだから。無駄な労力を使おうとはしない。
それがわかっていたからこそ、俺もいろいろと情報を集めたんだ。しかし、やはり他殺である可能性を見つけることはできなかった。だから、自殺なのだと自分を納得させてきた。
「たとえばの話です。葉子さんが亡くなることで、利益を得る人物がもしいたとしたら、どうですか?」
「葉子が死ぬことで得をする人物……?」
もし、そんな人物がいるとしたら、そいつに葉子が殺されたという可能性は拭えない。しかし。
「考えられるとしたら、それは我妻教授しかいない。研究者にとって一番旨味があるものと言えば金だ。自分の才能を世に認めさせるには、研究成果が最も手っ取り早い広告になるのだから。だが……葉子は自分から研究チームを降りたんだ。教授が手を下すまでもなかった。この時点でそのストーリーは成り立たない。第一、我妻教授はもうこの世界にいないんだ」
「確かに。話として成立しませんね」
「そうだな。さらに言うと、我妻教授の死にはひとつ不可解な点がある」
「不可解な点?」
「ああ」
我妻邸が全焼したあの日、焼け跡から我妻教授の焼死体が見つかった。死因は火傷。それはいい。問題なのは――。
「放火?」
柚乃の声に、俺は無言で頷いた。
出火場所に火の気がいっさいなかった。そこで警察は、当初から放火の線で捜査を行っていた。
その結果、放火の容疑で逮捕されたのは、住所不定無職の阿相孝之容疑者、二十九歳。我妻教授が在籍していた大学で、当時いじめ事件があったのだが、その事件で自殺した女性の兄だった。
近年、学校によるいじめの隠蔽体質がしばしば問題になるが、阿相容疑者の妹も、同様の事件の被害者だった。
阿相容疑者の妹は、自分の部屋で手首を切って自殺していた。いじめの事実は認められない、と当初大学側は否定していたのだが、第三者委員会の調査でいじめがあった事実が出てくると、学校側の対応は百八十度変わる。一転していじめがあったのを認めたのだ。
その一方で、いじめと自殺の関連性については大学側が否定した。これをくつがえすまでの証拠も出てこなかった。こうして、大学側の対応に問題はなかったと、結論が出た。
「SNSでは結構騒ぎになったな。大学側が隠ぺい工作をしているんじゃないかと。だが、遺書はなかったし、いじめの内容についても情報が少なすぎて、自殺との関連性を立証するまでには至らなかったんだ。そして、このとき大学側のハラスメント委員会で会長をしていたのが、我妻教授だったんだよ」
「となると……。大学側の対応に不満を持っていた容疑者が、怨恨によって放火したと、そういうことですか?」
「ああ。事件そのものは、それで一応の決着を見た。しかし、不可解な点もある。我妻教授の遺体頭部に傷があったんだよ。その傷は直接の死因でこそないが、傷が元で気絶をしていた可能性はある。阿相容疑者は、我妻教授を気絶させた上で家に火を放ったのだろう、というのが警察の出した結論だ」
「逃げられないようにしておけば、確実に殺せますからね。ということは……。私の頭の中にあるこの記憶が、阿相容疑者のもの?」
どうだろうな、と俺は首をひねった。
「記憶の中の人物が教授の家に着いた時点で、家はもう燃えているじゃないか。だから、その記憶がたとえ誰のものであったとしても、教授殺しの犯人ではないんだ」
「ああ、そうか。それは確かにそうですね」
「それに、阿相容疑者は、教授を殴ったことも、火を放ったことも認めていないんだ」
話が反転したことで、柚乃が瞳を白黒させる。
「ええ? では、誤認逮捕じゃないんですか?」
「いや、そうとは言い切れない。その日、阿相容疑者は別の場所でも放火事件を起こしており、そちらは罪を認めているのだから」
それだけではない。阿相容疑者は、他にも何件か放火の余罪があった。ついでに言うと、火災があったその日、教授の家の周辺をうろついていたところを近隣の住民によって目撃されているのだ。
「だから警察は、彼が犯人で間違いないと見ている。余罪の部分も確定している。言い逃れは難しい状況だ」
情報を整理するみたいに、目を閉じて柚乃が沈黙した。証拠不十分ではないのかと、思案しているような顔だ。
正直、俺も同感だ。阿相容疑者が現状もっとも疑わしいのは確かだが、逆に言えばそれだけだ。他に真犯人がいる可能性は拭えない。だが、警察が出した結論を覆すだけの情報がない。ならば、これで納得するほかないんだ。
そこで会話は終わりになった。もし、我妻教授が葉子を殺した犯人であるなら、俺も怒りの矛先を向ける場所があるんだがな。
結局、柚乃に癒着している記憶が誰のものかも、柚乃の正体もわからなかった。
『葉子さんが殺されたのだとしたら』という柚乃の声が、俺の頭の中でリフレインしていた。
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