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第一章「仁平薫」
第三話【マルウェア(2)】
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というわけで、翌日から調査を開始した。正月休みはあと一日しかなくなっていた。今日中に、なるべく調べてしまいたい。
柚乃と一緒に町の図書館へと向かう。図書館のデータベースを利用しての新聞記事検索と、インターネットとを併用しての調査だ。
検索条件は、過去一年間に起こった民家火災だ。読んでいるだけで胸が痛くなるような残酷な内容もその中には多く、時々精神を休めながら行う必要があった。
「しんどいな」と俺が本音を吐露すると、「そうですね」と憔悴した顔で柚乃が同意した。
建物火災の件数は、年間二万件にも及ぶ。一般住宅にしぼっても七千件だ。火災ってこんなにあるんだな、と初見で驚いた。これではさすがに調べきれない。そこで、条件を都内のみにしてみた。それでもなお二千件あった。さらに全焼火災にまで条件をしぼることで、八十一件になる。よし。これならどうにかなりそうだ。
この八十一件の情報をすべてプリントアウトしたところで、本日は時間切れとなった。
「お腹空きましたねえ」と柚乃。
「最近、そういう話しかしてないよな」
「しょうがないでしょう。お腹が空くのは生理現象なんですから」
「まあ、そうだな。……セブンスマートで弁当でも買っていくか」
「うわーケチだ。セブンスマート絡みで調べものをしていたからといって、夕食までコンビニ弁当にしますか? ほんとにケチだ」
「ケチケチうるさいな。お前は知らないかもしれないが、最近はコンビニ弁当だって高いんだぞ? つべこべ言うなら買ってやらん」
立ち上がって歩き始めた俺を、急ぎ足で柚乃が追いかけてくる。
「うわあ。嘘ですってばあ。待ってくださいよ薫さーん!」
図書館の外は、すでに夜の帳が降りていた。街灯の灯が届かない場所は、墨でもぶちまけたみたいな暗闇だ。今日はあまり星が出ていない。
売り言葉に買い言葉であんなことを言ったが、さすがにコンビニ弁当は忍びない。近くのイタリアンレストランに入ることにした。柚乃に訊いたらパスタが食べたいって言うし。
くるくると器用に麺を巻いていく柚乃に、「パスタ好きか?」と訊いてみる。
「トマトが好きなんですよねー」
多幸感あふれる顔で、トマトとバジルのボロネーゼを頬張っている。
「んー。頬っぺたが落ちるほどうまい」
「朝昼晩、全部麺類でも大丈夫なタイプ?」
「うどんもラーメンも好きですよ! って、それどんなタイプなんですか? 炭水化物ばかりを摂取するのは、体に良くないんですよ」
「時々思うんだけど、妙な雑学は知っているんだよな」
「うん。……なんででしょうね? ほんと、どうでもいいことは覚えているのになあ……。炭水化物を摂りすぎると、太るってことも知っていますよ」
そこで麺を巻く柚乃の手が止まった。
「なんですか。もしかして、太っているとでも言いたいんですか?」
「俺はそんなことは一言も言っていないのに勝手に話を飛躍させないで。そもそも、それで太っているなんて言ったら、世の中のダイエット女子に睨まれるぞ。暗い夜道の一人歩きに気をつけろ?」
「急に褒めてきましたね。下げてから上げる手法ですか。そういうの、なんて言うんでしたっけ?」
「ゲインロス効果、だったかな?」
マイナスの印象からプラスの印象に変化させる度合いが大きいほど、相手に与える影響が大きくなる心理的効果のことだ。
「第一印象で、『冴えない男だな』と思ったのですが、話してみるとやはり冴えない男でした。こうですね?」
「上がってないんだけど」
「どうして、私にここまで良くしてくれるのですか」
苦笑いをした直後に柚乃の話が飛躍した。突然声のトーンが下がってびっくりする。
「どうして?」
ずいぶんと、今さらな質問だな、と思う。
「どうしてなんだろうな。困っている人間がいたら、手を差し伸べるのは普通のことだろ? と言いたいが、あいにく俺はそこまで善人じゃない。もしかしたら、葉子の影響なのかもしれないな」
「葉子さんの?」
「ああ。あいつは、俺と違ってお節介焼きだったからな」
神崎さんのことを、彼女が自殺する前から葉子はとても気にかけていた。なぜかはわからない。それだけ、人間ができていたということなのだろうが。
「葉子さんと薫さんは、同じ分野の仕事をしていたのですか?」
「いや、違う。葉子はメンタル・エンジニアという精神看護学に近い仕事をしていたが、俺はシステム・エンジニアだ。端的に言えば、ソフトウェアを開発する仕事だ」
「アンチウィルスソフトとか、ですか?」
「ずいぶんと幅が狭いな。いや、それも作るけどさ」
「じゃあ、作るのはウィルスのほう?」
「元凶と対抗策の両方を作るなんて合理的だな。研究がはかどる。まあ実際、コンピューターウィルスを作ったことはあるけどな」
「うわっ、悪い人だ。大丈夫なんですか? そんなことして」
「趣味の一環で作っただけだよ。別にばらまいたわけじゃない」
ジト目でこっちを睨んでいる柚乃に説明をしていく。
コンピューターウィルスとよく呼称されるが、ウィルスはマルウェアの下位概念にすぎない。よって、マルウェアを生成した、と表現するのがより正しい。
マルウェアは、「ウィルス」「ワーム」「トロイの木馬」とみっつに分類される。自己伝染機能や自己増殖機能を持ち合わせているか、他のプログラムに寄生しないと存在できないか、といった点でこれらは区別される。俺が作ったマルウェアはプログラムに寄生するタイプなので、「ウィルス」と呼ぶのが適切だろう。
「Starfestival(スターフェスティバル)」と名付けたこのウィルスは、特定の日時に発症するという特徴をもつ。Starfestivalとは、和訳すると『七夕』のこと。七月七日の夜に発症し、そこから二十四時間の間、感染端末に特定の動作を促す。そのときだけ、特定のプログラムを起動させたり、勝手にメールを送信したり、あるいは性能をダウンさせたりする。
さながら、七夕の夜だけ出会える、織姫と彦星のように。
「へえ~。七夕の夜ですか」
半笑いで柚乃が言う。
「似合わない、と思っているんだろ?」
「いえいえ。でもね、どうして七夕なのかな、とは思いました」
「七月七日は、俺の誕生日なんだよ」
「なるほど、そういう」
それからぷっとふき出して、「あっはっは」と柚乃が笑い始める。うるせー。人を馬鹿にするみたいに笑っているが、そういうお前だって口元にトマトソースが付いてんぞ。
「ロマンチックじゃないですか。そんなウィルスだったら、感染したとしても面白そうですね」
「どうだかな。結局、自分の端末で動作を確認してお終いにした。ばらまいちゃダメだよって、葉子にも止められたしな。もっとも、止められなくてもばらまくつもりなんてなかったが」
ウイルスは、今でも俺のパソコンの中で眠っている。誰の目にも触れることなく。
葉子の名前が出ると、「そうですね」としんみりとした声で柚乃が呟く。窓の外に月が浮かんでいた。この間半分だった月は、さらに欠けて三日月に近づいていた。
*
正月休み明けのオフィスは、穏やかな仕事の立ち上がり……とはいかず、さながら戦場のようだった。
原因は、幸いとも言うべきか俺たちのチームではない。「全然ダメ! あなた、何がダメかその理由すらもわからないの!」と上司の叱責が飛び、同期入社の熊谷沙耶がうなだれるのが見えた。
「すみません」
謝罪の声はか細く、直後に鳴った電話の音にかき消される。上司が電話に出る。もういいわ、とゼスチャーされて沙耶がこっちに戻ってきた。
「何をやったの?」
肩を落としている沙耶に囁いた。彼女のデスクは俺の隣なのだ。
「先方への連絡を忘れちゃっていたの。報告の期限が今日の午前中一杯だったんだけど、ついうっかりね。それで、先方から催促のメールがきていたんだけど、これを運悪く松橋さんに見つかっちゃって」
眼鏡のブリッジを指で押さえたまま、沙耶は頭を左右に振った。ふたつ結いにした長い髪が一緒にゆれた。
柔和な顔立ちの沙耶に丸いフレームの眼鏡はよく似合う。
「肝心の資料はできていたの?」
「それはもう、完璧に」
「じゃあ、問題があるのは君の記憶力だけだ」
「そういうこと」
胸を張った沙耶に笑ってしまう。
「そこ、ドヤるとこじゃないよ」
「そうだけど……。手厳しいな。いえ、今度から気をつけるよ」
「どんまい。なあに、よくないことは、きれいさっぱり忘れてしまうに限る」
すると、沙耶の顔が真面目なものに変わる。「たとえば記憶消去方とか?」と続ける。
「ああ、ごめん。辛いことを思い出させちゃうね」
「いや、いいよ。俺も少し前に記憶を消したことで、心の傷は多少は癒えているからさ」
「へえ、そうなんだ。知らなかった」
「何を消したのかは覚えていないんだけどね。それでも、明らかに心が軽くなった」
「そっかあ……。私も嫌な記憶を消しちゃおうかなあ」
ため息混じりに彼女が天井を見上げたタイミングで、「おーい熊谷」と呼ぶ声がした。
「へいへい。いま行きますよ」
立ち去りかけて、いったん沙耶が立ち止まる。
「いつまでも葉子のことを引きずってないで、新しい恋人を探したほうがいいよ。余計なお世話かもしんないけど」
ウインクをひとつして、今度こそ彼女は去っていった。
沙耶が葉子の名を口にしたことからもわかるように、俺と葉子と沙耶の三人は、大学時代からの顔なじみだ。なんなら、葉子と沙耶は高校時代から一緒なので、俺以上に葉子との親交が深い。
それだけに、沙耶の複雑な心情はよくわかる。その上で、俺に新しい恋人を探せと告げたことの意味も。
俺は葉子との思い出を大切に思っているし、この先もずっと忘れることはないだろう。
しかしだからといって、いつまでもくよくよしてはいられない。
沙耶の言う通りだ。人はみな、前を向いて生きていくしかないのだ。
「新しい恋人、か」
柚乃の姿が一瞬頭に浮かび、かぶりを振って打ち消した。
そんなに、器用には割り切れない。
柚乃と一緒に町の図書館へと向かう。図書館のデータベースを利用しての新聞記事検索と、インターネットとを併用しての調査だ。
検索条件は、過去一年間に起こった民家火災だ。読んでいるだけで胸が痛くなるような残酷な内容もその中には多く、時々精神を休めながら行う必要があった。
「しんどいな」と俺が本音を吐露すると、「そうですね」と憔悴した顔で柚乃が同意した。
建物火災の件数は、年間二万件にも及ぶ。一般住宅にしぼっても七千件だ。火災ってこんなにあるんだな、と初見で驚いた。これではさすがに調べきれない。そこで、条件を都内のみにしてみた。それでもなお二千件あった。さらに全焼火災にまで条件をしぼることで、八十一件になる。よし。これならどうにかなりそうだ。
この八十一件の情報をすべてプリントアウトしたところで、本日は時間切れとなった。
「お腹空きましたねえ」と柚乃。
「最近、そういう話しかしてないよな」
「しょうがないでしょう。お腹が空くのは生理現象なんですから」
「まあ、そうだな。……セブンスマートで弁当でも買っていくか」
「うわーケチだ。セブンスマート絡みで調べものをしていたからといって、夕食までコンビニ弁当にしますか? ほんとにケチだ」
「ケチケチうるさいな。お前は知らないかもしれないが、最近はコンビニ弁当だって高いんだぞ? つべこべ言うなら買ってやらん」
立ち上がって歩き始めた俺を、急ぎ足で柚乃が追いかけてくる。
「うわあ。嘘ですってばあ。待ってくださいよ薫さーん!」
図書館の外は、すでに夜の帳が降りていた。街灯の灯が届かない場所は、墨でもぶちまけたみたいな暗闇だ。今日はあまり星が出ていない。
売り言葉に買い言葉であんなことを言ったが、さすがにコンビニ弁当は忍びない。近くのイタリアンレストランに入ることにした。柚乃に訊いたらパスタが食べたいって言うし。
くるくると器用に麺を巻いていく柚乃に、「パスタ好きか?」と訊いてみる。
「トマトが好きなんですよねー」
多幸感あふれる顔で、トマトとバジルのボロネーゼを頬張っている。
「んー。頬っぺたが落ちるほどうまい」
「朝昼晩、全部麺類でも大丈夫なタイプ?」
「うどんもラーメンも好きですよ! って、それどんなタイプなんですか? 炭水化物ばかりを摂取するのは、体に良くないんですよ」
「時々思うんだけど、妙な雑学は知っているんだよな」
「うん。……なんででしょうね? ほんと、どうでもいいことは覚えているのになあ……。炭水化物を摂りすぎると、太るってことも知っていますよ」
そこで麺を巻く柚乃の手が止まった。
「なんですか。もしかして、太っているとでも言いたいんですか?」
「俺はそんなことは一言も言っていないのに勝手に話を飛躍させないで。そもそも、それで太っているなんて言ったら、世の中のダイエット女子に睨まれるぞ。暗い夜道の一人歩きに気をつけろ?」
「急に褒めてきましたね。下げてから上げる手法ですか。そういうの、なんて言うんでしたっけ?」
「ゲインロス効果、だったかな?」
マイナスの印象からプラスの印象に変化させる度合いが大きいほど、相手に与える影響が大きくなる心理的効果のことだ。
「第一印象で、『冴えない男だな』と思ったのですが、話してみるとやはり冴えない男でした。こうですね?」
「上がってないんだけど」
「どうして、私にここまで良くしてくれるのですか」
苦笑いをした直後に柚乃の話が飛躍した。突然声のトーンが下がってびっくりする。
「どうして?」
ずいぶんと、今さらな質問だな、と思う。
「どうしてなんだろうな。困っている人間がいたら、手を差し伸べるのは普通のことだろ? と言いたいが、あいにく俺はそこまで善人じゃない。もしかしたら、葉子の影響なのかもしれないな」
「葉子さんの?」
「ああ。あいつは、俺と違ってお節介焼きだったからな」
神崎さんのことを、彼女が自殺する前から葉子はとても気にかけていた。なぜかはわからない。それだけ、人間ができていたということなのだろうが。
「葉子さんと薫さんは、同じ分野の仕事をしていたのですか?」
「いや、違う。葉子はメンタル・エンジニアという精神看護学に近い仕事をしていたが、俺はシステム・エンジニアだ。端的に言えば、ソフトウェアを開発する仕事だ」
「アンチウィルスソフトとか、ですか?」
「ずいぶんと幅が狭いな。いや、それも作るけどさ」
「じゃあ、作るのはウィルスのほう?」
「元凶と対抗策の両方を作るなんて合理的だな。研究がはかどる。まあ実際、コンピューターウィルスを作ったことはあるけどな」
「うわっ、悪い人だ。大丈夫なんですか? そんなことして」
「趣味の一環で作っただけだよ。別にばらまいたわけじゃない」
ジト目でこっちを睨んでいる柚乃に説明をしていく。
コンピューターウィルスとよく呼称されるが、ウィルスはマルウェアの下位概念にすぎない。よって、マルウェアを生成した、と表現するのがより正しい。
マルウェアは、「ウィルス」「ワーム」「トロイの木馬」とみっつに分類される。自己伝染機能や自己増殖機能を持ち合わせているか、他のプログラムに寄生しないと存在できないか、といった点でこれらは区別される。俺が作ったマルウェアはプログラムに寄生するタイプなので、「ウィルス」と呼ぶのが適切だろう。
「Starfestival(スターフェスティバル)」と名付けたこのウィルスは、特定の日時に発症するという特徴をもつ。Starfestivalとは、和訳すると『七夕』のこと。七月七日の夜に発症し、そこから二十四時間の間、感染端末に特定の動作を促す。そのときだけ、特定のプログラムを起動させたり、勝手にメールを送信したり、あるいは性能をダウンさせたりする。
さながら、七夕の夜だけ出会える、織姫と彦星のように。
「へえ~。七夕の夜ですか」
半笑いで柚乃が言う。
「似合わない、と思っているんだろ?」
「いえいえ。でもね、どうして七夕なのかな、とは思いました」
「七月七日は、俺の誕生日なんだよ」
「なるほど、そういう」
それからぷっとふき出して、「あっはっは」と柚乃が笑い始める。うるせー。人を馬鹿にするみたいに笑っているが、そういうお前だって口元にトマトソースが付いてんぞ。
「ロマンチックじゃないですか。そんなウィルスだったら、感染したとしても面白そうですね」
「どうだかな。結局、自分の端末で動作を確認してお終いにした。ばらまいちゃダメだよって、葉子にも止められたしな。もっとも、止められなくてもばらまくつもりなんてなかったが」
ウイルスは、今でも俺のパソコンの中で眠っている。誰の目にも触れることなく。
葉子の名前が出ると、「そうですね」としんみりとした声で柚乃が呟く。窓の外に月が浮かんでいた。この間半分だった月は、さらに欠けて三日月に近づいていた。
*
正月休み明けのオフィスは、穏やかな仕事の立ち上がり……とはいかず、さながら戦場のようだった。
原因は、幸いとも言うべきか俺たちのチームではない。「全然ダメ! あなた、何がダメかその理由すらもわからないの!」と上司の叱責が飛び、同期入社の熊谷沙耶がうなだれるのが見えた。
「すみません」
謝罪の声はか細く、直後に鳴った電話の音にかき消される。上司が電話に出る。もういいわ、とゼスチャーされて沙耶がこっちに戻ってきた。
「何をやったの?」
肩を落としている沙耶に囁いた。彼女のデスクは俺の隣なのだ。
「先方への連絡を忘れちゃっていたの。報告の期限が今日の午前中一杯だったんだけど、ついうっかりね。それで、先方から催促のメールがきていたんだけど、これを運悪く松橋さんに見つかっちゃって」
眼鏡のブリッジを指で押さえたまま、沙耶は頭を左右に振った。ふたつ結いにした長い髪が一緒にゆれた。
柔和な顔立ちの沙耶に丸いフレームの眼鏡はよく似合う。
「肝心の資料はできていたの?」
「それはもう、完璧に」
「じゃあ、問題があるのは君の記憶力だけだ」
「そういうこと」
胸を張った沙耶に笑ってしまう。
「そこ、ドヤるとこじゃないよ」
「そうだけど……。手厳しいな。いえ、今度から気をつけるよ」
「どんまい。なあに、よくないことは、きれいさっぱり忘れてしまうに限る」
すると、沙耶の顔が真面目なものに変わる。「たとえば記憶消去方とか?」と続ける。
「ああ、ごめん。辛いことを思い出させちゃうね」
「いや、いいよ。俺も少し前に記憶を消したことで、心の傷は多少は癒えているからさ」
「へえ、そうなんだ。知らなかった」
「何を消したのかは覚えていないんだけどね。それでも、明らかに心が軽くなった」
「そっかあ……。私も嫌な記憶を消しちゃおうかなあ」
ため息混じりに彼女が天井を見上げたタイミングで、「おーい熊谷」と呼ぶ声がした。
「へいへい。いま行きますよ」
立ち去りかけて、いったん沙耶が立ち止まる。
「いつまでも葉子のことを引きずってないで、新しい恋人を探したほうがいいよ。余計なお世話かもしんないけど」
ウインクをひとつして、今度こそ彼女は去っていった。
沙耶が葉子の名を口にしたことからもわかるように、俺と葉子と沙耶の三人は、大学時代からの顔なじみだ。なんなら、葉子と沙耶は高校時代から一緒なので、俺以上に葉子との親交が深い。
それだけに、沙耶の複雑な心情はよくわかる。その上で、俺に新しい恋人を探せと告げたことの意味も。
俺は葉子との思い出を大切に思っているし、この先もずっと忘れることはないだろう。
しかしだからといって、いつまでもくよくよしてはいられない。
沙耶の言う通りだ。人はみな、前を向いて生きていくしかないのだ。
「新しい恋人、か」
柚乃の姿が一瞬頭に浮かび、かぶりを振って打ち消した。
そんなに、器用には割り切れない。
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