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最終章:そして別れの春が来る
『そして別れの春が来る』
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暑さ寒さも彼岸まで、とはよく言ったもので、三月になると暖かな陽射しが覗く日も増え、三寒四温を繰り返しながらも、確実に春の気配が近づいていた。
同時に、三月は別れの季節でもある。卒業、転勤、転職、引越し。様々な事情により、折角仲良くなった友人に、サヨナラを告げなくてはならぬ人も多いことだろう。三月は離婚の多い月であり、同時に、恋が終わることも多い月なのだという。
それは、三月から姓の変わった私、菊地悠里にとっても例外ではなかった。
カーテンに遮られ薄闇が漂う自室。窓から入り込んでくる朝日の眩しさに目を眇め、私はゆっくりと目覚めた。
ベッドの上に身体を横たえたまま、いまだ重い瞼を擦り視線を巡らしていく。ヘッドボードの脇に置かれている目覚まし時計を見やると、既に八時を回っていた。
寝過ごしてしまったな、と私は、夢現の中考える。ふう、とひとつ大きく息を吐き、布団を捲って這い出していった。
カーテンを開き窓の外に目を移すと、眼下では今日も道路工事が行われていた。遠く見える桜の木は淡い桃色の蕾を膨らませ、花を咲かせる為の準備をしている。往来を行き交う人々は分厚いコートを脱いでジャケット一枚になり、久しぶりの解放感に浸っていた。
移り変わっていく季節と共に、街全体も、あたかも生まれ変わろうとしているようだ。
それなのに、私は――
目を閉じると、瞼の裏に彼の姿を思い浮かべてみる。いつに間にか、彼の笑顔だけ上手くイメージ出来なくなってることに気が付き、苛々した。そして苛々している自分に、また苛々する。悪循環が止まらない。
そんな自分に、また辟易する。最近はずっとこうだ。同じ事の繰り返し。
高校三年生の春休み。この期間は短いようで案外と長い。ただ単に、私が自堕落な生活を繰り返しているから、そう感じるだけなのかもしれないが。
最近はもう、ただ生きているだけに等しい。午前中一杯かけて布団から這い出し、腹を満たすためだけの食事を摂り、日が暮れるまでぼんやりとカレンダーを眺める。夜半になっても上手く睡魔は訪れず、布団の中で寝苦しい夜を過ごす。
死んでいるのと同じだな。非生産的な人生だな。
そんなことばかり考えながら、幾つもの夜を越えていた。
カーテンを閉じると、もう一度ベッドの上に寝転んだ。
ここは、宇都宮市から南に三十キロメートル程離れた、小山市にある新築マンションの六階。そこにある、私の自室。
文化祭以降、度々家を訪れるようになったパパとママの関係は急速に修復され、そして深まっていき、三月の頭に入籍。築ウン十年のオンボロ借家を離れて、この場所に引っ越しをしたのだ。
いわゆる元サヤ。
前述の通り離婚の多い三月に、自分の両親が再婚をしたという事実は、結構どころか大分意外だった。しかも今年の年末頃には、私に弟か妹ができるらしい。
『十八歳になってから、兄弟が出来るなんて想定外』とママに言ったら、苦笑いしてた。仲が良いのは結構だけど、こんなに器用な事ができる両親だとは、思ってもみなかった。
それに引き換え、私ときたら――
結局思考が堂々巡りになって、また苛々する。
壁に貼ってあるカレンダーに視線を移してみる。
三月二十三日に○印がされ、その上から×印がされてあるカレンダー。今日が三月二十二日なので、明日、”大好きだった”阿久津斗哉君は、四月から通う大学のある、大阪に向けて出発する。
みんな新しい生活に胸を膨らませて、忙しくしているのだろうか?
警察官になった上田律は、一足先に宇都宮市を離れ、全寮制の警察学校に入る為の準備を始めたと聞いている。福浦晃君は、宇都宮市に拠点を置く、商社への内定が決まったらしい。
楠恭子はつくば大学に通うため、もう間もなく茨城県のつくば市に引っ越しをする。彼女の見送りには是非行かなくちゃな、と私は思う。
広瀬慎吾君は埼玉の四年制大学へ、渡辺美也ちゃんは、スポーツ推薦で東京にある体育大学への進学が決まった。二人は遠距離恋愛になってしまうけれど、関係を解消せずに頑張るらしい。
もう一組のカップル、二階堂君と佐薙果恋ちゃん――もっとも、二人が交際している事実に、私は暫く気が付いていなかった――は、二人とも地元栃木の大学なので、多分、問題なく交際が続くと思う。
ばらばらになってしまう私たち。それでも皆しっかり自分の夢を抱いて、それぞれ前を向いて生きている。それなのに、私ときたら……
そう、あの日私たちは……
それは、卒業式が終わった後の教室での出来事だった。
三年間終わったなあ、という安堵の溜め息が、ああ、俺ら、もう二度と会えなくなるのかな、という悲しみの色に染まり、「また連絡するね」「じゃあ、みんな元気でね」という別れの言葉と再会の約束が交わされる中、斗哉君は私に別れを切り出した。
シンプルに一言。『もう、会うの止めよう』
最初は冗談だと思っていた。だから私は笑っていた。
でも、彼の顔は全然笑っていなかった。
『なんで? まだ大阪に出発するまで日数ある――』
『辛いんだよ、悠里の事を見ていると』
『何それ……全然意味わかんないよ』
『もう、放っておいてくれよ。これ以上、顔も見たくないんだよ』
『……嫌われようとして言ってるの?』
『そうだよ。オレ、気付いたんだ。お前のこと、元々そんなに好きじゃなかったって』
ちょっと待ってよ、と立ち上がった斗哉君の手を掴んでゾッとした。まるで氷みたいに酷く冷たかった。手のひらも、指先も、そして彼の心も。
驚いた直後、酷く乱暴に振り払われた。はっきりとした拒絶の意思に私の心が萎縮する中、「じゃあ」とそれだけを告げると、目を合わせることなく教室を出て行った。
完全に足が竦んでしまい、彼の背中を追いかける事は、出来そうになかった。
だって、彼の心の扉、完全に”閉ざされていた”から。
斗哉君の姿が見えなくなっても、私はしばらく椅子に座ったままぼおっとしてた。どうしたら良いのか全然わかんなくて、体の奥底から心臓の音が重低音で響いて、手足は鉛みたいに重いし、唇はやけにかさかさしていて、涙が自然と頬を伝い落ちた。
卒業式のことを思い出すと、また視界が滲む。
あれから斗哉君とは、一度も連絡を取り合ってない。
もちろん何度もメッセージを送ろうとして、書いては消してを繰り返していた。なんの事はない。私は恐れていた。もう一度拒絶される事を。立ち直れなくなるほどの傷を心に負う事を、恐れていた。
けど最近私は、それで良いとすら思っている。男女間の友情なんて、所詮フィクションだと思うから。恋人になれないなら、もう、連絡する意味なんてないもん。
ベッドの上で仰向けになり窓の外へ視線を移すと、青空を横切っている飛行機雲が見えた。どんなに離れていても、空は繋がっているのに。もし空を飛ぶことが出来たなら、何時でもあなたの所に飛んで行けるのに。
一度視界が滲んだら、嗚咽が止まらなくなってしまった。
会いたいよ――
蓋をして押さえ込んでいた気持ちが、決壊したように溢れ出してくると、もう、とめることは出来なくなった。
俯せになり枕に顔を埋めると、日が暮れるまで泣き続けた。
翌日も私は、物憂げに過ごしていた。
キッチンのテーブルの上にはマグカップが二つ並んで、ゆらゆらと湯気をたてているのが見える。キッチンの奥からは良く焼けたトーストとこんがりと炙られたベーコンの香ばしい匂いが漂っていた。
そんな朝だった。
私は読みさしの小説から栞を抜くと、キッチンに立つパパの背中を見つめていた。いつの間に彼は、こんなに料理が上手くなったんだろう?
自立するって、凄い労力なんだろうな、と感心しつつ、未だに何一つ自立できていない自分の事が情けなくて、思わず失笑した。
その時だ。手元に置いてあったスマホが振動した。タップして画面に視線を落とすと、広瀬君からメッセージが入っていた。
『今日、斗哉が出発すんのって、何処の駅から何時?』
リビングダイニングの壁に掛かった時計を見やり、時刻を確認する。六時五十分だった。
『確か、宇都宮駅から八時に出る新幹線だよ』とメッセージを返した。
『なんでそんな不確かなの? ああ、でも八時か。僕は引越しの手続きが残ってるから行けそうにないな。宜しく伝えておいてよ』
私は思わず眉根を寄せた。そうか、広瀬君は私たちの事情を知らないのか。
『私も行かないよ』
『は? なんで?』
『私たち、卒業式が終わった後で別れた。斗哉君は私のこと、そんなに好きじゃなくなったって』
直ぐに既読は付いたものの、暫くメッセージの返信が無かった。用件は済んだかな、と判断した私は、再び小説の世界に意識を投じる。
けれど、再び振動したスマホが、私を現実世界に呼び戻す。
『お前、マジでそう思ってんの?』
なんだか、不機嫌そうなメッセージ。
『大マジだよ。私は斗哉君のこと今でも好きだけど、彼は違うって言うんだからしょうがないじゃん』
『だからか』
会話を繋ぐように、短いメッセージが紡がれる。
『アイツ最近すげー元気ないんだよ。何を言っても上の空だし、どんなメッセージ送っても、ああ、とか、うん、とか短文でしか返ってこない。幼馴染だからさ、分かるんだよアイツがどういう奴か。……なあ、喧嘩したわけじゃないんだろ?』
『別にしてないよ……でも、嫌われてるんだから、しょうがないじゃん』
自分でも卑屈だな、とは正直思う。けれど、拒絶されてるんだからしょうがない。
会話。今度こそ終わりかな? とスマホを置きかけた私の手を、再び広瀬君が繋ぎとめる。『斗哉はさ』
『何時もそうやって自分を偽るんだよ。思えば昔からそうだった。中学の時、お互いに美也を好きだった頃もそうだ。なるべく自分の意思を殺して、チャンスをことごとく僕に譲って。だから今、アイツが何を考えてるかまでは分かんないけれど、これだけは言っておく。アイツ今でも、きっと桐原さんの事好きだから。関係を解消するために、嘘ついてるだけだと思うから』
それじゃ。僕はもう出かけるけど、絶対に後悔だけはするなよ? このメッセージを最後に、通信は途絶えた。
『でも──私は言わない。気持ちを伝えてはいけない。私はあと半年もすれば、この街から存在が無くなってしまう人間。この切ない感情は、墓場の中まで持っていかなければならない物だから』
不意に、立花玲に伝えられた言葉を思い出した。
頭の中で警鐘が鳴り響く。
別れを告げたあの日。斗哉君は何故私の目を見なかったの?
どうしてあんなにも、乱暴に、手を払い除けたの?
もし広瀬君の言う通り、彼が自分の気持ちに嘘をつき、切ない感情を押し殺しているとしたら? もし、”意図的に心の扉を閉ざしていた”としたら? 私は他人の心の開き具合ばかり気にして、勝手に諦めてた。自分の気持ちを見失ってた。相変わらずだ。他人に流されるばかりで、なんにも成長していない。
立花さんのぶんまで頑張ると誓ったはずなのに……何をやってるんだ私は!?
途端に鼓動が走り出した。聞こえないはずの心音がハッキリと聞こえてくるようで、そんなの勘違いだって分かっているけれど、自分が酷く動揺しているのが勘違いじゃない、ってことも同時にわかった。
ガタンと音が立つほどに椅子を引いて立ち上がる。
『パパ。ごめん、車借りても良いかな?』
彼は驚いた表情を浮かべ暫し固まった後、こう手話で返してきた。『大切な人の元へ、行かなくちゃならないんだね?』
『うん』私は強く肯いた。
パパから車のキーを受け取ると、財布と二月に取得したばかりの運転免許証を持って玄関口を飛び出した。
エレベーターで一階まで下り、駐車場でパパの愛車であるフォルクスワーゲンに乗ると、特定後写鏡と聴覚障碍者標識を取り付けた。これが無いと、聴覚障害を持つ人間は自動車の運転が出来ないからだ。
運転をするのは今日が初めてではないのだが、緊張からハンドルを握る手が震える。高揚感と急いた気持ちがない交ぜになる中、宇都宮駅を目指して慎重に車を発進させた。
自宅から駅までの距離は約三十五キロ。時間は……あと、五十分だ。間に合うだろうか? 冷たい汗が、背中を伝い落ちた。
それにしても……パパは随分すんなりと車を貸してくれたな、とも思う。恐らくはここ数週間、私がずっと塞ぎこんでいる様子を見て、胸の内に秘めていた感情を、察してくれていたのかもしれない。
(有難う、パパ)
私は車を走らせながら、両親の馴れ初めの話を思い出していた。
同い年である両親は、元々高校の同級生だったらしい。高二の秋頃にママの方から気持ちを伝えて、交際がスタートする。けれど卒業を迎え、地元に残るママと四年制大学に進学するため東京に出るパパは、互いの進路の違いから一度交際を解消。
それでも、数年後に同期会の席で再会して意気投合。やがて結婚に至る。私達とよく似た馴れ初めから、何度も出会いと別れを繰り返してきた人生――という事になる。
だからこそ、なのだろう。パパの口癖は、これだった。『人生で一番しちゃいけないことは、後悔することだ』
知っていたはずなのに……どうして。血が滲むほどに、唇を噛み締めた。
しかしここから、私の不幸は加速する。小山駅を過ぎてから間もなくの国道で酷い渋滞に巻き込まれると、赤信号を二回ずつ待たないと越えられない状況が続いた。
どうしてこんな時に……
やがて前方に、赤色灯を点けたパトカーの姿が見えてくる。どうやら、事故渋滞のようだ。
この瞬間、痛感した。
私たち二人の前には未だ巨大すぎる壁が。茫漠とした時間が。埋めようの無い距離が横たわっているんだ。私がどんなに彼の傍らに居たいと願っても、これから先一緒に過ごすことは出来ないんだと、はっきりわかった。
間に合わないと判断した私は、まったく動かなくなった車の中で、斗哉君にメッセージを打ち始める。
時々信号に目を向けながら、たどたどしくメッセージを紡ぎ、途切れ途切れに送信した。
『今、そっちに向かっています。
けれども、酷い渋滞に巻き込まれていて、とても間に合いそうにありません。
だから、私の本当の気持ちを、斗哉君に伝えておきます。
私は今でも、斗哉君のことが好きです。
とても、忘れることは出来そうにありません。
私は何時も逃げてばかりでした。私は世界で一番不幸で、一番惨めで、どうしようもない人生。そう思ってました。
広瀬君に失恋をして。乱暴されそうになって。人生から逃げる癖のついていた私は、自殺をしようと考えます。
自殺という考えられうる最大の痛みを伴う自傷行為によって、相応のリターンがあるという考えにとり憑かれてしまってた。死ぬことによって、自分が抱えている諸々の問題から解放されて、私の存在が悲劇のヒロインとして昇華する。そして、誰も傷つく人は居ない。
そんな甘えた考えに、とり憑かれてしまっていたの。
自分が犠牲になること。それが何事にも代えがたい正解なのだと、そう信じて生きてきました。
実に馬鹿げた考え。
全部間違いだった。残される人の事を、私は何も考えてなかった。
私に間違いだと気付かせてくれたのが、あなた。
斗哉君がずっと私の心の扉をノックし続けてくれたから、私の心が開いた。間違いに気付けた。
だから今度は、私があなたの心の扉、ノックする。
私は斗哉君のこと、愛してる。
あなたは、どうなの?
私のこと、嫌いになったの?
ちゃんと聞かせて、あなたの気持ち。もう一度聞かせて、本当の気持ち。
逃げるな、阿久津斗哉!』
一方、彼からの返信は短く『ゴメン』そして『待ってる』これだけだった。
それじゃ気持ち伝わんないよ、と思ってから、元々彼は、こんなメッセージしか送ってこなかったなと少し笑った。
結局。宇都宮駅に着いたのは、八時を二十分も過ぎてからとなった。一応入場券を買って改札口の中まで行ってはみたものの、それが無駄な努力だと次第に気が付くと、人波を避けるようにして壁際に寄った。
背中を壁にもたれさせて座り込むと、膝の間に顔を埋めて目を閉じる。瞼の奥が、じんわりとした熱と潤いを湛えていた。
こんなに多くの人が歩いているのに、誰の足音も聞こえない。
こんなに涙を流しているのに、自分の嗚咽すら聞こえない。
頭の中に響くのは、後悔を繰り返す心の声と雑念だけ。
たぶん周りの人達が、私のことを指差して笑っている。彼らの嘲笑が聞こえてこないのだけは、有難いのかな。
最後に、一目だけでも良いから会いたかった。
はあ……、なんなんだろ、私。
結局最後もこんな感じに、中途半端で終わっちゃうんだ。
その時、誰かが私の肩を叩く。
驚きの中に僅かな期待をこめて顔を上げると、駅員さんが心配そうな顔で覗き込んでいた。たぶん体調不調をうったえて、蹲ってると勘違いされたんだろう。
だから私は、手話で『大丈夫です』と答えた。たとえ意味が伝わらなかったとしても、大抵の人はこれで、私が障害者だと理解してくれるから。
平気です、の意味をこめて、薄く笑みを湛えてみせる。
すると駅員さんは、相変わらず困ったような顔をしながらも、二言、三言気遣う言葉を落として立ち去って行った。
まあ確かに、いつまでもこうしている場合じゃない。理解は出来ているのに上がらない頭を、再び膝の間に埋めた。
その時また、私の肩が叩かれる。
もう、何なんですか、と顔を上げて、私は驚いた。目をまん丸くして驚いた。
心配そうな顔で私の顔色を窺っていたのは、ずっと逢いたいと願い続けた、彼だったから。
『えっ……斗哉君、どうして居るの……?』
彼は引いていたキャリーバッグを傍らに置くと、私の隣に膝を抱えて座った。
『ギリギリのタイミングで連絡寄越すなよな。新幹線のチケット払い戻しすんの間に合わなくなる所だったぞ。まあ、なんとかセーフだったけど』
『あれ……大阪は?』
『もちろん、ちゃんと行くよ。但し、二時間後の新幹線でね。チケット、もう一度取り直した』
『何で、そんな事したのよ』
『何で?』と彼は目を見開いた。『俺さ、待ってるって連絡したでしょ? それに……あんだけの気持ちぶつけられて、悠里の事、このまま置いていける訳ないじゃん……』
「とーやぁ……」
これだけ、私の肉声。何度か呼んでるうちに覚えた、数少ない発声できる単語。
『もしかして……結構、泣いた?』
『毎日、泣いたよう……』
『そっか……。オレのせいだな。ゴメン』
『気持ち、聞かせてよ。斗哉の気持ち、聞いてない』
『うん』と彼は頷いた。『オレ、栃木に居なくなる人間だしさ、これ以上悠里のこと束縛しちゃダメだと思ったんだ。互いに忘れないと、ダメだと思ったんだ』その後彼は、すうっと一度息を吸った。『でも……無理だった』
次の瞬間、彼は私の顎を少し上げさせると、素早く唇を重ねた。
『悠里、好きだ。ずっと愛してる』
瞼の奥がめっちゃ熱くなって、鼻水が止まんなくなって、きっと酷い顔になっていたに違いない。やっぱり私の嗚咽、聞こえないな、と思いながら、夢中で彼の身体を抱きしめた。そのまましばらく泣き続けた。
その後、駅の構内にあるカフェで、一時間ほどコーヒーを飲んで語り合った。やっぱり斗哉君は砂糖入れ過ぎだよって笑いあった。
でも、何を話したのかは殆ど覚えていない。この楽しい時間も、直ぐに終わりが来るって分かっていたから。愛しいと思う気持ちと、切ないと思う気持ち。相反する二つの感情が込み上げてきて、あんまり良い笑顔、作れてなかったと思う。
楽しい時間は瞬く間に過ぎ去り、いよいよ別れの時を向かえる。
じゃあね、と伝え合って最後に交わしたキスは、しょっぱい涙の味がした。
ホームに二人佇んで、繋いでいた指先を解すと、彼が新幹線に乗る。
『また、連絡するから』
『それじゃ、元気でね。さようなら』
いったんそこで言葉を切ると、二人一緒に手話を刻んだ。
『ずっと、愛してる』
手短にメッセージを交わし合う。次の瞬間閉じた新幹線の扉が、私たちを引き裂いた。終わった、という認識と共に、熱い気持ちがこみ上げる。走って追いかける暇もなく、プラットフォームを離れていった新幹線の姿は、あっという間に見えなくなった。
こうして結局、私たちは恋人としての関係を解消する。
寂しいけれど。切ないけれど。お互いが前を向いて生きていくために決めた結末。
それでも、私に後悔はない。最後に、彼の気持ちを確かめることが出来たから。
男女間の友情なんてフィクションだと思っていたけど、なんだかちょっと違ったみたい。二人は友達。ずっと友達。また会える日まで、絶対に忘れない。そう、誓い合ったから。
ありがとう、斗哉君。
滲んだ視界の中、私は空を見上げる。
良い三年間でしたと、空を見上げる。
私は涙を拭うと、前を向いて歩き始めた。
同時に、三月は別れの季節でもある。卒業、転勤、転職、引越し。様々な事情により、折角仲良くなった友人に、サヨナラを告げなくてはならぬ人も多いことだろう。三月は離婚の多い月であり、同時に、恋が終わることも多い月なのだという。
それは、三月から姓の変わった私、菊地悠里にとっても例外ではなかった。
カーテンに遮られ薄闇が漂う自室。窓から入り込んでくる朝日の眩しさに目を眇め、私はゆっくりと目覚めた。
ベッドの上に身体を横たえたまま、いまだ重い瞼を擦り視線を巡らしていく。ヘッドボードの脇に置かれている目覚まし時計を見やると、既に八時を回っていた。
寝過ごしてしまったな、と私は、夢現の中考える。ふう、とひとつ大きく息を吐き、布団を捲って這い出していった。
カーテンを開き窓の外に目を移すと、眼下では今日も道路工事が行われていた。遠く見える桜の木は淡い桃色の蕾を膨らませ、花を咲かせる為の準備をしている。往来を行き交う人々は分厚いコートを脱いでジャケット一枚になり、久しぶりの解放感に浸っていた。
移り変わっていく季節と共に、街全体も、あたかも生まれ変わろうとしているようだ。
それなのに、私は――
目を閉じると、瞼の裏に彼の姿を思い浮かべてみる。いつに間にか、彼の笑顔だけ上手くイメージ出来なくなってることに気が付き、苛々した。そして苛々している自分に、また苛々する。悪循環が止まらない。
そんな自分に、また辟易する。最近はずっとこうだ。同じ事の繰り返し。
高校三年生の春休み。この期間は短いようで案外と長い。ただ単に、私が自堕落な生活を繰り返しているから、そう感じるだけなのかもしれないが。
最近はもう、ただ生きているだけに等しい。午前中一杯かけて布団から這い出し、腹を満たすためだけの食事を摂り、日が暮れるまでぼんやりとカレンダーを眺める。夜半になっても上手く睡魔は訪れず、布団の中で寝苦しい夜を過ごす。
死んでいるのと同じだな。非生産的な人生だな。
そんなことばかり考えながら、幾つもの夜を越えていた。
カーテンを閉じると、もう一度ベッドの上に寝転んだ。
ここは、宇都宮市から南に三十キロメートル程離れた、小山市にある新築マンションの六階。そこにある、私の自室。
文化祭以降、度々家を訪れるようになったパパとママの関係は急速に修復され、そして深まっていき、三月の頭に入籍。築ウン十年のオンボロ借家を離れて、この場所に引っ越しをしたのだ。
いわゆる元サヤ。
前述の通り離婚の多い三月に、自分の両親が再婚をしたという事実は、結構どころか大分意外だった。しかも今年の年末頃には、私に弟か妹ができるらしい。
『十八歳になってから、兄弟が出来るなんて想定外』とママに言ったら、苦笑いしてた。仲が良いのは結構だけど、こんなに器用な事ができる両親だとは、思ってもみなかった。
それに引き換え、私ときたら――
結局思考が堂々巡りになって、また苛々する。
壁に貼ってあるカレンダーに視線を移してみる。
三月二十三日に○印がされ、その上から×印がされてあるカレンダー。今日が三月二十二日なので、明日、”大好きだった”阿久津斗哉君は、四月から通う大学のある、大阪に向けて出発する。
みんな新しい生活に胸を膨らませて、忙しくしているのだろうか?
警察官になった上田律は、一足先に宇都宮市を離れ、全寮制の警察学校に入る為の準備を始めたと聞いている。福浦晃君は、宇都宮市に拠点を置く、商社への内定が決まったらしい。
楠恭子はつくば大学に通うため、もう間もなく茨城県のつくば市に引っ越しをする。彼女の見送りには是非行かなくちゃな、と私は思う。
広瀬慎吾君は埼玉の四年制大学へ、渡辺美也ちゃんは、スポーツ推薦で東京にある体育大学への進学が決まった。二人は遠距離恋愛になってしまうけれど、関係を解消せずに頑張るらしい。
もう一組のカップル、二階堂君と佐薙果恋ちゃん――もっとも、二人が交際している事実に、私は暫く気が付いていなかった――は、二人とも地元栃木の大学なので、多分、問題なく交際が続くと思う。
ばらばらになってしまう私たち。それでも皆しっかり自分の夢を抱いて、それぞれ前を向いて生きている。それなのに、私ときたら……
そう、あの日私たちは……
それは、卒業式が終わった後の教室での出来事だった。
三年間終わったなあ、という安堵の溜め息が、ああ、俺ら、もう二度と会えなくなるのかな、という悲しみの色に染まり、「また連絡するね」「じゃあ、みんな元気でね」という別れの言葉と再会の約束が交わされる中、斗哉君は私に別れを切り出した。
シンプルに一言。『もう、会うの止めよう』
最初は冗談だと思っていた。だから私は笑っていた。
でも、彼の顔は全然笑っていなかった。
『なんで? まだ大阪に出発するまで日数ある――』
『辛いんだよ、悠里の事を見ていると』
『何それ……全然意味わかんないよ』
『もう、放っておいてくれよ。これ以上、顔も見たくないんだよ』
『……嫌われようとして言ってるの?』
『そうだよ。オレ、気付いたんだ。お前のこと、元々そんなに好きじゃなかったって』
ちょっと待ってよ、と立ち上がった斗哉君の手を掴んでゾッとした。まるで氷みたいに酷く冷たかった。手のひらも、指先も、そして彼の心も。
驚いた直後、酷く乱暴に振り払われた。はっきりとした拒絶の意思に私の心が萎縮する中、「じゃあ」とそれだけを告げると、目を合わせることなく教室を出て行った。
完全に足が竦んでしまい、彼の背中を追いかける事は、出来そうになかった。
だって、彼の心の扉、完全に”閉ざされていた”から。
斗哉君の姿が見えなくなっても、私はしばらく椅子に座ったままぼおっとしてた。どうしたら良いのか全然わかんなくて、体の奥底から心臓の音が重低音で響いて、手足は鉛みたいに重いし、唇はやけにかさかさしていて、涙が自然と頬を伝い落ちた。
卒業式のことを思い出すと、また視界が滲む。
あれから斗哉君とは、一度も連絡を取り合ってない。
もちろん何度もメッセージを送ろうとして、書いては消してを繰り返していた。なんの事はない。私は恐れていた。もう一度拒絶される事を。立ち直れなくなるほどの傷を心に負う事を、恐れていた。
けど最近私は、それで良いとすら思っている。男女間の友情なんて、所詮フィクションだと思うから。恋人になれないなら、もう、連絡する意味なんてないもん。
ベッドの上で仰向けになり窓の外へ視線を移すと、青空を横切っている飛行機雲が見えた。どんなに離れていても、空は繋がっているのに。もし空を飛ぶことが出来たなら、何時でもあなたの所に飛んで行けるのに。
一度視界が滲んだら、嗚咽が止まらなくなってしまった。
会いたいよ――
蓋をして押さえ込んでいた気持ちが、決壊したように溢れ出してくると、もう、とめることは出来なくなった。
俯せになり枕に顔を埋めると、日が暮れるまで泣き続けた。
翌日も私は、物憂げに過ごしていた。
キッチンのテーブルの上にはマグカップが二つ並んで、ゆらゆらと湯気をたてているのが見える。キッチンの奥からは良く焼けたトーストとこんがりと炙られたベーコンの香ばしい匂いが漂っていた。
そんな朝だった。
私は読みさしの小説から栞を抜くと、キッチンに立つパパの背中を見つめていた。いつの間に彼は、こんなに料理が上手くなったんだろう?
自立するって、凄い労力なんだろうな、と感心しつつ、未だに何一つ自立できていない自分の事が情けなくて、思わず失笑した。
その時だ。手元に置いてあったスマホが振動した。タップして画面に視線を落とすと、広瀬君からメッセージが入っていた。
『今日、斗哉が出発すんのって、何処の駅から何時?』
リビングダイニングの壁に掛かった時計を見やり、時刻を確認する。六時五十分だった。
『確か、宇都宮駅から八時に出る新幹線だよ』とメッセージを返した。
『なんでそんな不確かなの? ああ、でも八時か。僕は引越しの手続きが残ってるから行けそうにないな。宜しく伝えておいてよ』
私は思わず眉根を寄せた。そうか、広瀬君は私たちの事情を知らないのか。
『私も行かないよ』
『は? なんで?』
『私たち、卒業式が終わった後で別れた。斗哉君は私のこと、そんなに好きじゃなくなったって』
直ぐに既読は付いたものの、暫くメッセージの返信が無かった。用件は済んだかな、と判断した私は、再び小説の世界に意識を投じる。
けれど、再び振動したスマホが、私を現実世界に呼び戻す。
『お前、マジでそう思ってんの?』
なんだか、不機嫌そうなメッセージ。
『大マジだよ。私は斗哉君のこと今でも好きだけど、彼は違うって言うんだからしょうがないじゃん』
『だからか』
会話を繋ぐように、短いメッセージが紡がれる。
『アイツ最近すげー元気ないんだよ。何を言っても上の空だし、どんなメッセージ送っても、ああ、とか、うん、とか短文でしか返ってこない。幼馴染だからさ、分かるんだよアイツがどういう奴か。……なあ、喧嘩したわけじゃないんだろ?』
『別にしてないよ……でも、嫌われてるんだから、しょうがないじゃん』
自分でも卑屈だな、とは正直思う。けれど、拒絶されてるんだからしょうがない。
会話。今度こそ終わりかな? とスマホを置きかけた私の手を、再び広瀬君が繋ぎとめる。『斗哉はさ』
『何時もそうやって自分を偽るんだよ。思えば昔からそうだった。中学の時、お互いに美也を好きだった頃もそうだ。なるべく自分の意思を殺して、チャンスをことごとく僕に譲って。だから今、アイツが何を考えてるかまでは分かんないけれど、これだけは言っておく。アイツ今でも、きっと桐原さんの事好きだから。関係を解消するために、嘘ついてるだけだと思うから』
それじゃ。僕はもう出かけるけど、絶対に後悔だけはするなよ? このメッセージを最後に、通信は途絶えた。
『でも──私は言わない。気持ちを伝えてはいけない。私はあと半年もすれば、この街から存在が無くなってしまう人間。この切ない感情は、墓場の中まで持っていかなければならない物だから』
不意に、立花玲に伝えられた言葉を思い出した。
頭の中で警鐘が鳴り響く。
別れを告げたあの日。斗哉君は何故私の目を見なかったの?
どうしてあんなにも、乱暴に、手を払い除けたの?
もし広瀬君の言う通り、彼が自分の気持ちに嘘をつき、切ない感情を押し殺しているとしたら? もし、”意図的に心の扉を閉ざしていた”としたら? 私は他人の心の開き具合ばかり気にして、勝手に諦めてた。自分の気持ちを見失ってた。相変わらずだ。他人に流されるばかりで、なんにも成長していない。
立花さんのぶんまで頑張ると誓ったはずなのに……何をやってるんだ私は!?
途端に鼓動が走り出した。聞こえないはずの心音がハッキリと聞こえてくるようで、そんなの勘違いだって分かっているけれど、自分が酷く動揺しているのが勘違いじゃない、ってことも同時にわかった。
ガタンと音が立つほどに椅子を引いて立ち上がる。
『パパ。ごめん、車借りても良いかな?』
彼は驚いた表情を浮かべ暫し固まった後、こう手話で返してきた。『大切な人の元へ、行かなくちゃならないんだね?』
『うん』私は強く肯いた。
パパから車のキーを受け取ると、財布と二月に取得したばかりの運転免許証を持って玄関口を飛び出した。
エレベーターで一階まで下り、駐車場でパパの愛車であるフォルクスワーゲンに乗ると、特定後写鏡と聴覚障碍者標識を取り付けた。これが無いと、聴覚障害を持つ人間は自動車の運転が出来ないからだ。
運転をするのは今日が初めてではないのだが、緊張からハンドルを握る手が震える。高揚感と急いた気持ちがない交ぜになる中、宇都宮駅を目指して慎重に車を発進させた。
自宅から駅までの距離は約三十五キロ。時間は……あと、五十分だ。間に合うだろうか? 冷たい汗が、背中を伝い落ちた。
それにしても……パパは随分すんなりと車を貸してくれたな、とも思う。恐らくはここ数週間、私がずっと塞ぎこんでいる様子を見て、胸の内に秘めていた感情を、察してくれていたのかもしれない。
(有難う、パパ)
私は車を走らせながら、両親の馴れ初めの話を思い出していた。
同い年である両親は、元々高校の同級生だったらしい。高二の秋頃にママの方から気持ちを伝えて、交際がスタートする。けれど卒業を迎え、地元に残るママと四年制大学に進学するため東京に出るパパは、互いの進路の違いから一度交際を解消。
それでも、数年後に同期会の席で再会して意気投合。やがて結婚に至る。私達とよく似た馴れ初めから、何度も出会いと別れを繰り返してきた人生――という事になる。
だからこそ、なのだろう。パパの口癖は、これだった。『人生で一番しちゃいけないことは、後悔することだ』
知っていたはずなのに……どうして。血が滲むほどに、唇を噛み締めた。
しかしここから、私の不幸は加速する。小山駅を過ぎてから間もなくの国道で酷い渋滞に巻き込まれると、赤信号を二回ずつ待たないと越えられない状況が続いた。
どうしてこんな時に……
やがて前方に、赤色灯を点けたパトカーの姿が見えてくる。どうやら、事故渋滞のようだ。
この瞬間、痛感した。
私たち二人の前には未だ巨大すぎる壁が。茫漠とした時間が。埋めようの無い距離が横たわっているんだ。私がどんなに彼の傍らに居たいと願っても、これから先一緒に過ごすことは出来ないんだと、はっきりわかった。
間に合わないと判断した私は、まったく動かなくなった車の中で、斗哉君にメッセージを打ち始める。
時々信号に目を向けながら、たどたどしくメッセージを紡ぎ、途切れ途切れに送信した。
『今、そっちに向かっています。
けれども、酷い渋滞に巻き込まれていて、とても間に合いそうにありません。
だから、私の本当の気持ちを、斗哉君に伝えておきます。
私は今でも、斗哉君のことが好きです。
とても、忘れることは出来そうにありません。
私は何時も逃げてばかりでした。私は世界で一番不幸で、一番惨めで、どうしようもない人生。そう思ってました。
広瀬君に失恋をして。乱暴されそうになって。人生から逃げる癖のついていた私は、自殺をしようと考えます。
自殺という考えられうる最大の痛みを伴う自傷行為によって、相応のリターンがあるという考えにとり憑かれてしまってた。死ぬことによって、自分が抱えている諸々の問題から解放されて、私の存在が悲劇のヒロインとして昇華する。そして、誰も傷つく人は居ない。
そんな甘えた考えに、とり憑かれてしまっていたの。
自分が犠牲になること。それが何事にも代えがたい正解なのだと、そう信じて生きてきました。
実に馬鹿げた考え。
全部間違いだった。残される人の事を、私は何も考えてなかった。
私に間違いだと気付かせてくれたのが、あなた。
斗哉君がずっと私の心の扉をノックし続けてくれたから、私の心が開いた。間違いに気付けた。
だから今度は、私があなたの心の扉、ノックする。
私は斗哉君のこと、愛してる。
あなたは、どうなの?
私のこと、嫌いになったの?
ちゃんと聞かせて、あなたの気持ち。もう一度聞かせて、本当の気持ち。
逃げるな、阿久津斗哉!』
一方、彼からの返信は短く『ゴメン』そして『待ってる』これだけだった。
それじゃ気持ち伝わんないよ、と思ってから、元々彼は、こんなメッセージしか送ってこなかったなと少し笑った。
結局。宇都宮駅に着いたのは、八時を二十分も過ぎてからとなった。一応入場券を買って改札口の中まで行ってはみたものの、それが無駄な努力だと次第に気が付くと、人波を避けるようにして壁際に寄った。
背中を壁にもたれさせて座り込むと、膝の間に顔を埋めて目を閉じる。瞼の奥が、じんわりとした熱と潤いを湛えていた。
こんなに多くの人が歩いているのに、誰の足音も聞こえない。
こんなに涙を流しているのに、自分の嗚咽すら聞こえない。
頭の中に響くのは、後悔を繰り返す心の声と雑念だけ。
たぶん周りの人達が、私のことを指差して笑っている。彼らの嘲笑が聞こえてこないのだけは、有難いのかな。
最後に、一目だけでも良いから会いたかった。
はあ……、なんなんだろ、私。
結局最後もこんな感じに、中途半端で終わっちゃうんだ。
その時、誰かが私の肩を叩く。
驚きの中に僅かな期待をこめて顔を上げると、駅員さんが心配そうな顔で覗き込んでいた。たぶん体調不調をうったえて、蹲ってると勘違いされたんだろう。
だから私は、手話で『大丈夫です』と答えた。たとえ意味が伝わらなかったとしても、大抵の人はこれで、私が障害者だと理解してくれるから。
平気です、の意味をこめて、薄く笑みを湛えてみせる。
すると駅員さんは、相変わらず困ったような顔をしながらも、二言、三言気遣う言葉を落として立ち去って行った。
まあ確かに、いつまでもこうしている場合じゃない。理解は出来ているのに上がらない頭を、再び膝の間に埋めた。
その時また、私の肩が叩かれる。
もう、何なんですか、と顔を上げて、私は驚いた。目をまん丸くして驚いた。
心配そうな顔で私の顔色を窺っていたのは、ずっと逢いたいと願い続けた、彼だったから。
『えっ……斗哉君、どうして居るの……?』
彼は引いていたキャリーバッグを傍らに置くと、私の隣に膝を抱えて座った。
『ギリギリのタイミングで連絡寄越すなよな。新幹線のチケット払い戻しすんの間に合わなくなる所だったぞ。まあ、なんとかセーフだったけど』
『あれ……大阪は?』
『もちろん、ちゃんと行くよ。但し、二時間後の新幹線でね。チケット、もう一度取り直した』
『何で、そんな事したのよ』
『何で?』と彼は目を見開いた。『俺さ、待ってるって連絡したでしょ? それに……あんだけの気持ちぶつけられて、悠里の事、このまま置いていける訳ないじゃん……』
「とーやぁ……」
これだけ、私の肉声。何度か呼んでるうちに覚えた、数少ない発声できる単語。
『もしかして……結構、泣いた?』
『毎日、泣いたよう……』
『そっか……。オレのせいだな。ゴメン』
『気持ち、聞かせてよ。斗哉の気持ち、聞いてない』
『うん』と彼は頷いた。『オレ、栃木に居なくなる人間だしさ、これ以上悠里のこと束縛しちゃダメだと思ったんだ。互いに忘れないと、ダメだと思ったんだ』その後彼は、すうっと一度息を吸った。『でも……無理だった』
次の瞬間、彼は私の顎を少し上げさせると、素早く唇を重ねた。
『悠里、好きだ。ずっと愛してる』
瞼の奥がめっちゃ熱くなって、鼻水が止まんなくなって、きっと酷い顔になっていたに違いない。やっぱり私の嗚咽、聞こえないな、と思いながら、夢中で彼の身体を抱きしめた。そのまましばらく泣き続けた。
その後、駅の構内にあるカフェで、一時間ほどコーヒーを飲んで語り合った。やっぱり斗哉君は砂糖入れ過ぎだよって笑いあった。
でも、何を話したのかは殆ど覚えていない。この楽しい時間も、直ぐに終わりが来るって分かっていたから。愛しいと思う気持ちと、切ないと思う気持ち。相反する二つの感情が込み上げてきて、あんまり良い笑顔、作れてなかったと思う。
楽しい時間は瞬く間に過ぎ去り、いよいよ別れの時を向かえる。
じゃあね、と伝え合って最後に交わしたキスは、しょっぱい涙の味がした。
ホームに二人佇んで、繋いでいた指先を解すと、彼が新幹線に乗る。
『また、連絡するから』
『それじゃ、元気でね。さようなら』
いったんそこで言葉を切ると、二人一緒に手話を刻んだ。
『ずっと、愛してる』
手短にメッセージを交わし合う。次の瞬間閉じた新幹線の扉が、私たちを引き裂いた。終わった、という認識と共に、熱い気持ちがこみ上げる。走って追いかける暇もなく、プラットフォームを離れていった新幹線の姿は、あっという間に見えなくなった。
こうして結局、私たちは恋人としての関係を解消する。
寂しいけれど。切ないけれど。お互いが前を向いて生きていくために決めた結末。
それでも、私に後悔はない。最後に、彼の気持ちを確かめることが出来たから。
男女間の友情なんてフィクションだと思っていたけど、なんだかちょっと違ったみたい。二人は友達。ずっと友達。また会える日まで、絶対に忘れない。そう、誓い合ったから。
ありがとう、斗哉君。
滲んだ視界の中、私は空を見上げる。
良い三年間でしたと、空を見上げる。
私は涙を拭うと、前を向いて歩き始めた。
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