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最終章:そして別れの春が来る
『卒業までの五ヶ月間』
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こうして、私と阿久津斗哉君は恋人同士になった。
私に恋人ができるだなんて、そんなの最大のフィクションだ――。
そう考えて日々無味乾燥に過ごしていた私にとって、これは本物の大事件だった。
『きっと悪い事が起きる。天変地異の前触れだ!』そんなことを言ったら、恭子はお腹を抱えて笑ってた。大袈裟だって笑ってた。
それからの毎日は、ウキウキとして心が弾んで、自然と口元が綻んで、毎朝学校に行くのが楽しみでしょうがなくなって……そんな感じだと想像していた。でも、思っていたより心は弾まなかったし、それほど甘くもならなかった。
なんでかな? と首を傾げて、ああそっか、と気が付いた。斗哉君の存在が、自分のなかでどれほど大きくなっていたのか。深層心理にまで、強く影響していたのかを、認識できていなかっただけなんだと。私の心はずっと前から弾んでいたし、ずっと前から甘くなっていた。単純に、それだけのことだった。
『ご馳走さま』と言って恭子が脇を小突いてくる。『えへへ』
鏡の前に座って身だしなみをチェックしているときも、『幸の薄そうな顔だな』と思うことはなくなった。それどころか、最近は意図的に笑ってみたりもしている。本当に、嬉しいこととか楽しいことがあったとき、引きつった笑みになったら恥ずかしいから。その日のための、予行練習みたいなもんだ。
髪の色は、黒いままにしている。コンタクトを止めてずっと眼鏡を掛けているし、化粧は今もしているとはいえ、最小限に留めている。『前の私と、どっちが良い?』と斗哉君に訊ねたら、『髪、黒いほうが好き』と言ってくれたから。こんな質問をしている時点で、心はとっくに弾んでいたのかもしれない。
文化祭の約二週間後、斗哉君と一緒に再びラブホテルの廃屋に向かう。おうし座南流星群を二人で見上げるためだ。
電車でやって来た彼を駅まで迎えに行って、そこから二人で歩いて向かう。この間と同じ天井が崩れた部屋に忍び込むと、あの日と同じように薄汚れたベッドの上に並んで腰を下ろした。悪いことしているみたいだね、なんて、顔を見合わせて笑う。
崩れた四角い天井と、そこから覗いた夜空を見上げ、二人で思わず息を呑んだ。文化祭の日の夜とは比べ物にならないほど、無数の星が瞬いていた。視界の全てを大小様々な星々が埋め付くすなか、そのうちの幾つかが尾を引き始める。紺碧の空を光の筋が裂いていく様子はまるで夢のなかの光景みたいで。文字通り、星が降る夜だった。
首が痛くなるくらいに空を見上げ、二人同時に溜め息を漏らした。
願い事をしよう、と彼が言う。こんなに多くの星が流れたら、私の願いごとも全部叶うかな? と私は応える。
『ああ、叶うさ。叶わなかった願い事は、星の代わりに俺が叶える』
ありがとう、と言い掛けて、頼りっぱなしはよくないな、と考え途中でやめた。
二人で瞼を閉じてみる。
私の世界はずっと『無』だった。
音が無かった。
光が無かった。
希望が無かった。
そのまま、無で良いと思っていた。
大切な人なんて要らなかった。一人でいいと思っていた。ずっと恋愛ができなかったとしても、まあ、別にいいかなってそう思っていた。
それは、全部間違いだった。
全ては私の思い違いだった。
私は、笑えないんだと思っていた。
私は、泣けないんだと思っていた。
私に、恋をする資格なんてないんだと思っていた。
それすらも、全部間違いだった。
私は、欲を覚えてしまった。
家族の幸せが欲しい。
平穏な日々が欲しい。
大切な人に、気持ちを伝える手段が欲しい。
私はあなたが欲しい。あなたの全部が私は欲しいの。
そっと瞼を開けてみる。
「とーや……」
ん、何? という感じで覗き込んできた彼の襟ぐりを掴んで引き寄せると、二人の顔が近づき見詰め合う格好になった。
ごく自然に、どちらからともなく私たちは唇を重ねた。
『悪いコトの続きをしようか』と私がイタズラっぽく誘うと、『うん、しよう』と彼が応える。
彼の指先が肌に触れてくるたび、ぴくんと身体が震えた。そして、恋人ができたらしてみたいあんなことやそんなことの幾つかを実践してみた。それはきっと、もっと大人のカップルからしてみると他愛もないじゃれ合いのようなもので、それでも、私にとっては大事件だった。
瞬く間に数ヶ月が過ぎ去り冬休みに入る。冬休み中は、スマホでメッセージのやり取りをする機会が増えた。先にメッセージを送ってくるのは、基本的に斗哉君のほう。その文面は酷く短くて、用件だけを伝えてくる淡泊なもので。私は笑いながら、平坦なそれに脚色を加えて懇切丁寧な返信を心がけた。
そしていわゆる、クリスマスデートというものを行った。
そもそも、デートなんて初めての私。たぶん、終始緊張した面持ちだった。駅前のカフェに入って向かい合わせで席を取ると、二人でブレンドコーヒーをサンドイッチを注文した。お代わりを含めて二杯のコーヒーだけで、たっぷり二時間近く粘った。
『そんなに砂糖入れたら、体に悪いよ?』
『え、そう?』
角砂糖を二つ摘んでカップに入れる斗哉君を見ながら、私は眉根を寄せて、それからふふ、と笑った。数ヶ月交際して分かったことだが、彼は見た目と相反して凄く子供っぽい。
甘い物が好き。辛い物は苦手。基本的に嘘がつけない。見た目によらず、というと怒られそうだけど真面目。わりと嫉妬深い。でも……凄く優しい。それから、時々甘えてくる。
カフェを出たあとで立ち寄った雑貨店で、二人で買い物をした。折角だから、お揃いの物を何か買おう、そんな彼の提案によって選んだのは、ハート形の飾りが付いたペアネックレス。真ん中から割れたハートを二つ合わせると、一個のハート形になるもの。
二千円プラス消費税、くらいの安物のネックレス。それでも凄く嬉しかった。
店を出てから直ぐ、『着けて』とおねだりをしてみる。彼は、『自分で着けられるだろ』と不平を述べながらも、ネックレスを持って両手を広げた。彼の両手がゆっくりと首の後ろに回る。自然と二人の顔が近くなって、斗哉君の吐く息が耳元に掛かった。くすぐったくて、全身がぞくぞくと震えて、思わず彼の背中に手を這わせた。
こうして考えてみると、私も大概に甘えていたような気もしてくるな。
楽しいデートの時間も終わりを告げる。
二人で駅前のクリスマスツリーを見上げていると、不意に斗哉君が告げてくる。
『目を閉じて。それから、手を出してみて』
何? と思いながらも瞼を閉じて応じると、彼は私の手を取って指に何かを差し込んだ。驚いて目を開けると、右手に嵌っていたのは青い宝石の付いたリング。
『明日誕生日でしょ? だからプレゼント』
『え? 私、誕生日なんて教えてない……』と言いかけてから、文化祭の夜にしたジャンケンのやり取りを思い出した。『あ……、覚えていてくれたんだ』
『当たり前だろ。あまり高いのは買えないから安物だけどね。誕生石のターコイズ。もう一個の誕生石であるブルージルコンと悩んだけれど、ターコイズの石言葉は【成功】だから』
涙が伝い始めた私の目元を、彼が優しく拭ってくれる。
『悠里はきっと大丈夫。これからも、大丈夫。……ずっと愛してる』
シャンパンゴールドの輝きが瞬くクリスマスツリーの丁度真下で、私たちの影はいつまでも一つになっていた。
楽しかった冬休みは三年間で一番短く感じられて、あっという間に三学期が始まる。進学とか、就職とか、現実的な話題が多くなっていくなか、三年生の教室が居並ぶ棟も、次第にピリピリとした緊張感に包まれてくる。私たちも、会えない時間が増えてくる。
だが、それもやむを得ないこと。就職組は、既に内定が決まった人も多い。私も、つい先日就職先が決まった。文化祭の日から、たびたび連絡を取り合うようになったパパの紹介で、パン屋の面接を受けることになったのだ。そこの店長さんから「障害が有っても大丈夫」、という有り難い申し出を頂き、お世話になることにしたのだ。
けれど、大学受験を控えている斗哉君は、私にかまけている暇などない。
時々、図書館で受験勉強に励む彼の傍らで一緒に勉強してみたり、読書に耽ったりなどして時間を費やしたりもした。でも、最近はそれも止めた。私が側にいたところで手伝ってあげられることはなにもないし、彼の集中力を削ぐ結果になったら本末転倒だ。
寂しいとは正直思う。でも、やっぱりしょうがない。
センター試験利用入試で、早々に合格を決めていた恭子と一緒に過ごす放課後が、ここ最近の日課となっていた。
暦が一月から二月に移る。宇都宮でも、何度か降雪が観測された。ここ近年、北関東でもよく雪が振るようになったな、と私は思う。見上げた鈍色の空から舞ってくる白い結晶が、指先に触れて儚く消えた。
訃報がもたらされたのは、特に強く雪が降った二月十四日のこと。
昨年の九月。東関東吹奏楽コンクールを観に行ったときに出会った女生徒──立花玲が、膵臓がんによりこの世を去ったのだ。
彼女の葬儀は、亡くなった日から数えて三日後となる十七日に行われた。朝から冷たい雨が降り続いている日で、卒業を間近にして他界した彼女の無念を、空が代弁しているかのようだ。
葬儀には、多くの同級生が参列した。立花玲と懇意な関係にあったという恭子や律、福浦君はもちろんのこと、斗哉君と広瀬君も。いや、彼らばかりではない。おそらくは三年生の大半が参列していただろうし、それは私とて例外ではなかった。
祭壇の前で遺族に頭を下げ焼香を済ませると、立花玲の遺影と向き合った。
遺影の中の彼女は、昨年見たときと同じように、薄い笑みを浮かべていた。未だ降り止まない雨とは対照的に、陽だまりみたいな暖かい笑顔だった。
もちろん、悲しいとも、切ないとも感じた。
でも、彼女は悔いを残していない。人生を謳歌してきっと全てをやり遂げた。
遺影の中の立花さんを見つめていると、不思議とそんな気持ちが湧いてきて、だから涙は出なかった。
私と同じ気持ちだったのだろうか。恭子も、私と同様、泣いていなかった。
葬儀が終わったあと、恭子の後ろ姿を見つけて肩を叩いた。
『立花さんの病気のこと、知ってたの?』とそう訊ねた。
うん、と彼女は頷いた。『ここまで悪化しているとは、正直思っていなかったけど』
『そうなんだ』
淡泊だけど、それしか返す言葉がなかった。立花さんにとって恭子は恋敵なのだから、自分の弱み、というか病気の話は伝えにくかったのだろうか?
でも、直ぐに違うな、と思い直した。恋敵だからじゃなくて、親友だからこそなんだ。
私は思い出していた。文化会館で出会ったあと、もう一度だけ、立花玲と会話をした日があったのを。
それは昨年の十一月。斗哉君と一緒に図書館に居残って、自習をしていたときの話。教科書を机の上に広げたままぼうっとしていると、机の上に影が落ちた。顔を上げると、立っていたのは立花さんだ。彼女は九月に会ったときと同じように薄い笑みを湛え、『少しお話しても良いかしら?』と手話で訊いてきた。
特に用事のなかった私は、『はい、もちろん』と応じる。斗哉君にちょっとゴメンね、と断ってから、少し離れた場所にある机に二人で移動した。
『図書館に居るなんて、珍しいですね』
私から、話を切り出した。
『あら、そうだったかしら? ここのところ、時々図書館で時間を潰しているわよ』
『自習、とかですか?』
『いえいえ、私は今更必死こいて勉強するほど、できの良い生徒でもないから。単純に、友人の恋路を邪魔しないため、この場所にこもっているだけ』
そういえば、以前もそんなことを言ってたな、と私は思う。つまり彼女は今でも、自分の恋心に蓋をしているということだ。
『もしかして、なんですけど。立花さんの好きな人の名前って――』
言いかけたところで、彼女の手が私の手話を妨害した。驚く私を尻目に、彼女は口元に指をそっと当てる。まるで、それはナイショだよ、とでも言うみたいに。それからニヤリと笑んだ。
『ごめんね。答え合わせはまた今度。でもその代わりに、私の秘密を教えてあげる。聞きたい?』
『ええ。そんなにもったいぶられては、気になってしまいます』
『わかったわ』と彼女は言った。『私ね、実は重い病気に侵されていて、余命が残り三ヶ月ほどしかないの。生きられたとしても、いいとこ来年の二月初旬までかした? 私が侵されている病の名は膵臓がん。聞いたことくらいはあるでしょ?』
これには流石に血の気が引いた。きっと顔面蒼白だ。『それは、本当なんですか?』
私の顔色の変化を見て取ると、彼女は、少々弱った顔をした。
『そんなに驚かないで。私はもう、自分の人生を受け入れているから。この秘密はね、幸せそうな顔をしている人にしか教えていないの。だって、私の存在が、伝えた人の重荷になっては困るから。塞ぎこんだり、思い悩んでいる人になんて告げられないわ』
『つまり、私は幸せそうな顔をしている……という意味ですか?』
『だって、今、幸せでしょう?』と彼女が訊いてくる。私がはい、と頷くと、満足したように続きを話し始める。『九月に見たときの桐原さん。凄く思いつめた顔をしていたんですもの。あれじゃとても、とても、私の秘密なんて打ち明けられないわ』
冗談めかした感じ言い、立花さんが歯を見せて笑う。それは、彼女にしては珍しい、油断しきった表情だった。
『そうだ。桐原さん、私と友だちになってくれるかしら?』
『……私なんかで、宜しければ』
『敬語やめてよ』と彼女が口元を覆って笑う。『これで私の友だち、全部で四人になったわ。高校に入ってから新記録。あ、でも、四って縁起悪いかしら……』
なにやら真剣な顔で、立花さんが考え込んだ。
『でも、自分を入れれば五になるわね。つまりGOだ。これで縁起良くなった。じゃあ、これからヨロシクね、桐原さん』
『はい、こちらこそ』
こうして、私たちは握手を交わした。この先何が起ころうとも、変わることのない友情を誓い合いながら。
彼女の心の扉は、このときも全開だった。本当に、裏表のない人なんだな、と私は思った。
思考が現実に戻ってくると、突然恭子が抱きついてきた。その細い両腕には思いの外力がこもっていて、驚いて顔色を窺うと彼女は泣いていた。『どうしたの?』と恭子の背中を擦りながら、そうか、と私は思う。
嗚咽を漏らしながら、震える指先で恭子が手話を刻んだ。
『あたし、取り返しの付かないことをしてしまった』
二月十四日。いわゆるバレンタインデーの日に恭子は福浦君に告白をして、そして振られたのだという。二月十四日は、立花さんの命日だ。悪いタイミングになったのを、ずっと悔いているのだと。
恭子が振られた本当の理由は私にもわからない。恭子が危惧している通り、立花さんの命日と重なってしまったのが、福浦君に拒絶された要因なのかもしれない。とはいえ、恭子の側に何か非があるわけじゃない。立花さんの病状がここまで悪化していることを、恭子はいっさい知らずにいたのだから。
ただ、泣きじゃくっている彼女の背を擦り、抱きしめてあげることしか私にはできなかった。
今だからこそわかる。立花さんが好きだった人は、福浦君なんだと。親友である恭子と同じ人を好きになってしまったから、自分の気持ちも、病状が悪化していることも、うまく恭子に伝えられなかったのだろうなと。
同じ人を好きになる、か。確かに、私と似た境遇かもな。でも……
私には斗哉君が手を差し伸べてくれた。でも、立花さんは孤独を抱えたまま死んでいった。彼女は悔い残していない、と思ったけれど、それは、もしかしたら間違いかも。
葬儀場を出て、傘を差して空を見上げた。ぱらぱらと、耳元で傘を打つ水の音。未だ降り止まない雨のなか、私は立花さんに別れを告げる。目を閉じて、胸に手を当て静かに誓う。
彼女たちの分まで、幸せにならなければいけないと。
彼女が生きたいと願ったぶんだけ、前を向き、私は歩いて行かなくちゃならないんだと。
卒業式までの日々は、光陰矢の如し、という言葉を体現したみたいに、足早に駆け抜けていった。斗哉君の大学進学が無事決まり、そこからの二週間は、毎日が充実して光り輝いていた。それこそ、人生で最良の期間でしたと声高らかに宣言できるくらいに。
下校時は、これまでの鬱憤を晴らすかのように、二人だけの逢瀬を楽しんだ。彼の右腕に腕を絡めて、ぎゅっと身体を寄せてみる。薄い布地越しに互いの体温が伝わっきて、全身の血流が顔に集まる。
顔を向けると、互いの視線が絡み合った。
赤面している顔を隠すように背けつつも、にへら、と私の口元が綻ぶ。すると、斗哉君の唇が重なってくる。もう、人目を気にすることもなかった。
けれど、この幸せな日々も決して長くは続かないことを、お互いが理解していた。
だって、私たちは高校三年生。
別れの日は、誰にでも平等に訪れる。
それは、私たち二人にとっても、例外ではないのだから。まだ雪がちらつく日もあるし、まだまだマフラーも手放せなかった。それでも冬の終わりを感じさせる程度には、晴れ間の見える日が増えていく。
卒業式前日の朝。私たちは今日も腕を組んで学校を目指す。校舎まで続いている坂道の両脇に並んだ桜の木が、ピンク色の蕾を幾つか付けていた。
ふと、私は思う。
この長い坂道は、未来へと続く道のようだと。二人はもう直ぐ、別々の道を歩んでいくのだと。もう、この場所と時間に、戻ることはできないんだと。
何年経っても忘れない。私にとって、この校舎で過ごした三年間は、特別な思い出なのだから。彼の腕を、いつも以上に強い力で抱き寄せる。
そんな、幸せの絶頂のなかで私たちは、
──卒業の日を、迎える。
私に恋人ができるだなんて、そんなの最大のフィクションだ――。
そう考えて日々無味乾燥に過ごしていた私にとって、これは本物の大事件だった。
『きっと悪い事が起きる。天変地異の前触れだ!』そんなことを言ったら、恭子はお腹を抱えて笑ってた。大袈裟だって笑ってた。
それからの毎日は、ウキウキとして心が弾んで、自然と口元が綻んで、毎朝学校に行くのが楽しみでしょうがなくなって……そんな感じだと想像していた。でも、思っていたより心は弾まなかったし、それほど甘くもならなかった。
なんでかな? と首を傾げて、ああそっか、と気が付いた。斗哉君の存在が、自分のなかでどれほど大きくなっていたのか。深層心理にまで、強く影響していたのかを、認識できていなかっただけなんだと。私の心はずっと前から弾んでいたし、ずっと前から甘くなっていた。単純に、それだけのことだった。
『ご馳走さま』と言って恭子が脇を小突いてくる。『えへへ』
鏡の前に座って身だしなみをチェックしているときも、『幸の薄そうな顔だな』と思うことはなくなった。それどころか、最近は意図的に笑ってみたりもしている。本当に、嬉しいこととか楽しいことがあったとき、引きつった笑みになったら恥ずかしいから。その日のための、予行練習みたいなもんだ。
髪の色は、黒いままにしている。コンタクトを止めてずっと眼鏡を掛けているし、化粧は今もしているとはいえ、最小限に留めている。『前の私と、どっちが良い?』と斗哉君に訊ねたら、『髪、黒いほうが好き』と言ってくれたから。こんな質問をしている時点で、心はとっくに弾んでいたのかもしれない。
文化祭の約二週間後、斗哉君と一緒に再びラブホテルの廃屋に向かう。おうし座南流星群を二人で見上げるためだ。
電車でやって来た彼を駅まで迎えに行って、そこから二人で歩いて向かう。この間と同じ天井が崩れた部屋に忍び込むと、あの日と同じように薄汚れたベッドの上に並んで腰を下ろした。悪いことしているみたいだね、なんて、顔を見合わせて笑う。
崩れた四角い天井と、そこから覗いた夜空を見上げ、二人で思わず息を呑んだ。文化祭の日の夜とは比べ物にならないほど、無数の星が瞬いていた。視界の全てを大小様々な星々が埋め付くすなか、そのうちの幾つかが尾を引き始める。紺碧の空を光の筋が裂いていく様子はまるで夢のなかの光景みたいで。文字通り、星が降る夜だった。
首が痛くなるくらいに空を見上げ、二人同時に溜め息を漏らした。
願い事をしよう、と彼が言う。こんなに多くの星が流れたら、私の願いごとも全部叶うかな? と私は応える。
『ああ、叶うさ。叶わなかった願い事は、星の代わりに俺が叶える』
ありがとう、と言い掛けて、頼りっぱなしはよくないな、と考え途中でやめた。
二人で瞼を閉じてみる。
私の世界はずっと『無』だった。
音が無かった。
光が無かった。
希望が無かった。
そのまま、無で良いと思っていた。
大切な人なんて要らなかった。一人でいいと思っていた。ずっと恋愛ができなかったとしても、まあ、別にいいかなってそう思っていた。
それは、全部間違いだった。
全ては私の思い違いだった。
私は、笑えないんだと思っていた。
私は、泣けないんだと思っていた。
私に、恋をする資格なんてないんだと思っていた。
それすらも、全部間違いだった。
私は、欲を覚えてしまった。
家族の幸せが欲しい。
平穏な日々が欲しい。
大切な人に、気持ちを伝える手段が欲しい。
私はあなたが欲しい。あなたの全部が私は欲しいの。
そっと瞼を開けてみる。
「とーや……」
ん、何? という感じで覗き込んできた彼の襟ぐりを掴んで引き寄せると、二人の顔が近づき見詰め合う格好になった。
ごく自然に、どちらからともなく私たちは唇を重ねた。
『悪いコトの続きをしようか』と私がイタズラっぽく誘うと、『うん、しよう』と彼が応える。
彼の指先が肌に触れてくるたび、ぴくんと身体が震えた。そして、恋人ができたらしてみたいあんなことやそんなことの幾つかを実践してみた。それはきっと、もっと大人のカップルからしてみると他愛もないじゃれ合いのようなもので、それでも、私にとっては大事件だった。
瞬く間に数ヶ月が過ぎ去り冬休みに入る。冬休み中は、スマホでメッセージのやり取りをする機会が増えた。先にメッセージを送ってくるのは、基本的に斗哉君のほう。その文面は酷く短くて、用件だけを伝えてくる淡泊なもので。私は笑いながら、平坦なそれに脚色を加えて懇切丁寧な返信を心がけた。
そしていわゆる、クリスマスデートというものを行った。
そもそも、デートなんて初めての私。たぶん、終始緊張した面持ちだった。駅前のカフェに入って向かい合わせで席を取ると、二人でブレンドコーヒーをサンドイッチを注文した。お代わりを含めて二杯のコーヒーだけで、たっぷり二時間近く粘った。
『そんなに砂糖入れたら、体に悪いよ?』
『え、そう?』
角砂糖を二つ摘んでカップに入れる斗哉君を見ながら、私は眉根を寄せて、それからふふ、と笑った。数ヶ月交際して分かったことだが、彼は見た目と相反して凄く子供っぽい。
甘い物が好き。辛い物は苦手。基本的に嘘がつけない。見た目によらず、というと怒られそうだけど真面目。わりと嫉妬深い。でも……凄く優しい。それから、時々甘えてくる。
カフェを出たあとで立ち寄った雑貨店で、二人で買い物をした。折角だから、お揃いの物を何か買おう、そんな彼の提案によって選んだのは、ハート形の飾りが付いたペアネックレス。真ん中から割れたハートを二つ合わせると、一個のハート形になるもの。
二千円プラス消費税、くらいの安物のネックレス。それでも凄く嬉しかった。
店を出てから直ぐ、『着けて』とおねだりをしてみる。彼は、『自分で着けられるだろ』と不平を述べながらも、ネックレスを持って両手を広げた。彼の両手がゆっくりと首の後ろに回る。自然と二人の顔が近くなって、斗哉君の吐く息が耳元に掛かった。くすぐったくて、全身がぞくぞくと震えて、思わず彼の背中に手を這わせた。
こうして考えてみると、私も大概に甘えていたような気もしてくるな。
楽しいデートの時間も終わりを告げる。
二人で駅前のクリスマスツリーを見上げていると、不意に斗哉君が告げてくる。
『目を閉じて。それから、手を出してみて』
何? と思いながらも瞼を閉じて応じると、彼は私の手を取って指に何かを差し込んだ。驚いて目を開けると、右手に嵌っていたのは青い宝石の付いたリング。
『明日誕生日でしょ? だからプレゼント』
『え? 私、誕生日なんて教えてない……』と言いかけてから、文化祭の夜にしたジャンケンのやり取りを思い出した。『あ……、覚えていてくれたんだ』
『当たり前だろ。あまり高いのは買えないから安物だけどね。誕生石のターコイズ。もう一個の誕生石であるブルージルコンと悩んだけれど、ターコイズの石言葉は【成功】だから』
涙が伝い始めた私の目元を、彼が優しく拭ってくれる。
『悠里はきっと大丈夫。これからも、大丈夫。……ずっと愛してる』
シャンパンゴールドの輝きが瞬くクリスマスツリーの丁度真下で、私たちの影はいつまでも一つになっていた。
楽しかった冬休みは三年間で一番短く感じられて、あっという間に三学期が始まる。進学とか、就職とか、現実的な話題が多くなっていくなか、三年生の教室が居並ぶ棟も、次第にピリピリとした緊張感に包まれてくる。私たちも、会えない時間が増えてくる。
だが、それもやむを得ないこと。就職組は、既に内定が決まった人も多い。私も、つい先日就職先が決まった。文化祭の日から、たびたび連絡を取り合うようになったパパの紹介で、パン屋の面接を受けることになったのだ。そこの店長さんから「障害が有っても大丈夫」、という有り難い申し出を頂き、お世話になることにしたのだ。
けれど、大学受験を控えている斗哉君は、私にかまけている暇などない。
時々、図書館で受験勉強に励む彼の傍らで一緒に勉強してみたり、読書に耽ったりなどして時間を費やしたりもした。でも、最近はそれも止めた。私が側にいたところで手伝ってあげられることはなにもないし、彼の集中力を削ぐ結果になったら本末転倒だ。
寂しいとは正直思う。でも、やっぱりしょうがない。
センター試験利用入試で、早々に合格を決めていた恭子と一緒に過ごす放課後が、ここ最近の日課となっていた。
暦が一月から二月に移る。宇都宮でも、何度か降雪が観測された。ここ近年、北関東でもよく雪が振るようになったな、と私は思う。見上げた鈍色の空から舞ってくる白い結晶が、指先に触れて儚く消えた。
訃報がもたらされたのは、特に強く雪が降った二月十四日のこと。
昨年の九月。東関東吹奏楽コンクールを観に行ったときに出会った女生徒──立花玲が、膵臓がんによりこの世を去ったのだ。
彼女の葬儀は、亡くなった日から数えて三日後となる十七日に行われた。朝から冷たい雨が降り続いている日で、卒業を間近にして他界した彼女の無念を、空が代弁しているかのようだ。
葬儀には、多くの同級生が参列した。立花玲と懇意な関係にあったという恭子や律、福浦君はもちろんのこと、斗哉君と広瀬君も。いや、彼らばかりではない。おそらくは三年生の大半が参列していただろうし、それは私とて例外ではなかった。
祭壇の前で遺族に頭を下げ焼香を済ませると、立花玲の遺影と向き合った。
遺影の中の彼女は、昨年見たときと同じように、薄い笑みを浮かべていた。未だ降り止まない雨とは対照的に、陽だまりみたいな暖かい笑顔だった。
もちろん、悲しいとも、切ないとも感じた。
でも、彼女は悔いを残していない。人生を謳歌してきっと全てをやり遂げた。
遺影の中の立花さんを見つめていると、不思議とそんな気持ちが湧いてきて、だから涙は出なかった。
私と同じ気持ちだったのだろうか。恭子も、私と同様、泣いていなかった。
葬儀が終わったあと、恭子の後ろ姿を見つけて肩を叩いた。
『立花さんの病気のこと、知ってたの?』とそう訊ねた。
うん、と彼女は頷いた。『ここまで悪化しているとは、正直思っていなかったけど』
『そうなんだ』
淡泊だけど、それしか返す言葉がなかった。立花さんにとって恭子は恋敵なのだから、自分の弱み、というか病気の話は伝えにくかったのだろうか?
でも、直ぐに違うな、と思い直した。恋敵だからじゃなくて、親友だからこそなんだ。
私は思い出していた。文化会館で出会ったあと、もう一度だけ、立花玲と会話をした日があったのを。
それは昨年の十一月。斗哉君と一緒に図書館に居残って、自習をしていたときの話。教科書を机の上に広げたままぼうっとしていると、机の上に影が落ちた。顔を上げると、立っていたのは立花さんだ。彼女は九月に会ったときと同じように薄い笑みを湛え、『少しお話しても良いかしら?』と手話で訊いてきた。
特に用事のなかった私は、『はい、もちろん』と応じる。斗哉君にちょっとゴメンね、と断ってから、少し離れた場所にある机に二人で移動した。
『図書館に居るなんて、珍しいですね』
私から、話を切り出した。
『あら、そうだったかしら? ここのところ、時々図書館で時間を潰しているわよ』
『自習、とかですか?』
『いえいえ、私は今更必死こいて勉強するほど、できの良い生徒でもないから。単純に、友人の恋路を邪魔しないため、この場所にこもっているだけ』
そういえば、以前もそんなことを言ってたな、と私は思う。つまり彼女は今でも、自分の恋心に蓋をしているということだ。
『もしかして、なんですけど。立花さんの好きな人の名前って――』
言いかけたところで、彼女の手が私の手話を妨害した。驚く私を尻目に、彼女は口元に指をそっと当てる。まるで、それはナイショだよ、とでも言うみたいに。それからニヤリと笑んだ。
『ごめんね。答え合わせはまた今度。でもその代わりに、私の秘密を教えてあげる。聞きたい?』
『ええ。そんなにもったいぶられては、気になってしまいます』
『わかったわ』と彼女は言った。『私ね、実は重い病気に侵されていて、余命が残り三ヶ月ほどしかないの。生きられたとしても、いいとこ来年の二月初旬までかした? 私が侵されている病の名は膵臓がん。聞いたことくらいはあるでしょ?』
これには流石に血の気が引いた。きっと顔面蒼白だ。『それは、本当なんですか?』
私の顔色の変化を見て取ると、彼女は、少々弱った顔をした。
『そんなに驚かないで。私はもう、自分の人生を受け入れているから。この秘密はね、幸せそうな顔をしている人にしか教えていないの。だって、私の存在が、伝えた人の重荷になっては困るから。塞ぎこんだり、思い悩んでいる人になんて告げられないわ』
『つまり、私は幸せそうな顔をしている……という意味ですか?』
『だって、今、幸せでしょう?』と彼女が訊いてくる。私がはい、と頷くと、満足したように続きを話し始める。『九月に見たときの桐原さん。凄く思いつめた顔をしていたんですもの。あれじゃとても、とても、私の秘密なんて打ち明けられないわ』
冗談めかした感じ言い、立花さんが歯を見せて笑う。それは、彼女にしては珍しい、油断しきった表情だった。
『そうだ。桐原さん、私と友だちになってくれるかしら?』
『……私なんかで、宜しければ』
『敬語やめてよ』と彼女が口元を覆って笑う。『これで私の友だち、全部で四人になったわ。高校に入ってから新記録。あ、でも、四って縁起悪いかしら……』
なにやら真剣な顔で、立花さんが考え込んだ。
『でも、自分を入れれば五になるわね。つまりGOだ。これで縁起良くなった。じゃあ、これからヨロシクね、桐原さん』
『はい、こちらこそ』
こうして、私たちは握手を交わした。この先何が起ころうとも、変わることのない友情を誓い合いながら。
彼女の心の扉は、このときも全開だった。本当に、裏表のない人なんだな、と私は思った。
思考が現実に戻ってくると、突然恭子が抱きついてきた。その細い両腕には思いの外力がこもっていて、驚いて顔色を窺うと彼女は泣いていた。『どうしたの?』と恭子の背中を擦りながら、そうか、と私は思う。
嗚咽を漏らしながら、震える指先で恭子が手話を刻んだ。
『あたし、取り返しの付かないことをしてしまった』
二月十四日。いわゆるバレンタインデーの日に恭子は福浦君に告白をして、そして振られたのだという。二月十四日は、立花さんの命日だ。悪いタイミングになったのを、ずっと悔いているのだと。
恭子が振られた本当の理由は私にもわからない。恭子が危惧している通り、立花さんの命日と重なってしまったのが、福浦君に拒絶された要因なのかもしれない。とはいえ、恭子の側に何か非があるわけじゃない。立花さんの病状がここまで悪化していることを、恭子はいっさい知らずにいたのだから。
ただ、泣きじゃくっている彼女の背を擦り、抱きしめてあげることしか私にはできなかった。
今だからこそわかる。立花さんが好きだった人は、福浦君なんだと。親友である恭子と同じ人を好きになってしまったから、自分の気持ちも、病状が悪化していることも、うまく恭子に伝えられなかったのだろうなと。
同じ人を好きになる、か。確かに、私と似た境遇かもな。でも……
私には斗哉君が手を差し伸べてくれた。でも、立花さんは孤独を抱えたまま死んでいった。彼女は悔い残していない、と思ったけれど、それは、もしかしたら間違いかも。
葬儀場を出て、傘を差して空を見上げた。ぱらぱらと、耳元で傘を打つ水の音。未だ降り止まない雨のなか、私は立花さんに別れを告げる。目を閉じて、胸に手を当て静かに誓う。
彼女たちの分まで、幸せにならなければいけないと。
彼女が生きたいと願ったぶんだけ、前を向き、私は歩いて行かなくちゃならないんだと。
卒業式までの日々は、光陰矢の如し、という言葉を体現したみたいに、足早に駆け抜けていった。斗哉君の大学進学が無事決まり、そこからの二週間は、毎日が充実して光り輝いていた。それこそ、人生で最良の期間でしたと声高らかに宣言できるくらいに。
下校時は、これまでの鬱憤を晴らすかのように、二人だけの逢瀬を楽しんだ。彼の右腕に腕を絡めて、ぎゅっと身体を寄せてみる。薄い布地越しに互いの体温が伝わっきて、全身の血流が顔に集まる。
顔を向けると、互いの視線が絡み合った。
赤面している顔を隠すように背けつつも、にへら、と私の口元が綻ぶ。すると、斗哉君の唇が重なってくる。もう、人目を気にすることもなかった。
けれど、この幸せな日々も決して長くは続かないことを、お互いが理解していた。
だって、私たちは高校三年生。
別れの日は、誰にでも平等に訪れる。
それは、私たち二人にとっても、例外ではないのだから。まだ雪がちらつく日もあるし、まだまだマフラーも手放せなかった。それでも冬の終わりを感じさせる程度には、晴れ間の見える日が増えていく。
卒業式前日の朝。私たちは今日も腕を組んで学校を目指す。校舎まで続いている坂道の両脇に並んだ桜の木が、ピンク色の蕾を幾つか付けていた。
ふと、私は思う。
この長い坂道は、未来へと続く道のようだと。二人はもう直ぐ、別々の道を歩んでいくのだと。もう、この場所と時間に、戻ることはできないんだと。
何年経っても忘れない。私にとって、この校舎で過ごした三年間は、特別な思い出なのだから。彼の腕を、いつも以上に強い力で抱き寄せる。
そんな、幸せの絶頂のなかで私たちは、
──卒業の日を、迎える。
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