見上げた空は、今日もアオハルなり

木立 花音

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最終章:そして別れの春が来る

『想いを言葉に乗せて』

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 連休明けの月曜日。休日を含めれば実に一週間振りに、桐原悠里が学校に姿を現した。三年B組の前で立ち竦んだ桐原の背中を、上田律が「どーん」と押した。声までセットで。見守っていた俺と恭子が苦笑いをし、「うー」と不満をあらわにし律を睨んだ桐原を、教室の面々が出迎える。
 窓から外を眺めていたわりに、桐原が登校してきた事実を見逃していたであろう優花里がびくっと肩を震わせ。笑みを浮かべかけた湛えた慎吾の表情が、困惑の色に染まった。「桐原!」と泣きそうな顔で駆け寄ってきた美也の足も、すぐ止まってしまう。
 一様に、微妙なリアクションを見せるクラスメイトの面々。まあ、正直無理もない、と席に着きながら俺、阿久津斗哉も思う。
 何故ならば、アッシュグレイだった彼女の髪は黒く戻され、長かった髪はサッパリしたセミロングに変わり、化粧っけも殆どなくなりついでに黒縁の眼鏡をかけていたのだから。
 だから美也が、「桐原さんだよね?」と間抜けな質問を送ったのも、きっとご愛敬だ。
 そのとき、俺の隣に座っていた太田の喉がごくりと鳴った。なんだよそのリアクション。コイツ、今絶対に桐原のこと可愛いと思っただろう? いや、実際に多くの人間が、そう感じたのかもしれない。その証拠に、窓際に佇んだまま髪の毛を弄んでいる優花里の顔が、どこか悔しそうに見えるのもきっと気のせいなんかじゃない。
 直後、太田の奴が動いた。
 机からノートとシャープペンシルを取り出したコイツは、筆談で「今日宜しければ、一緒にラーメンでも食べにいきませんか?」と中途半端な敬語でデートの誘いを持ちかける。「おい、お前フザけんな。抜け駆けなんてさせないぞ」と俺が会話に割り込む羽目に陥ったのは、言うまでもない。
 困りますと言わんばかりに、手のひらを前に掲げてたじろぐ桐原。おい貴様と押し退け合う俺と太田を見ながら慎吾がくすりと笑い、二階堂は満足気に頷き、果恋は桐原とハイタッチを交わし、いつのまにか側にやってきた優花里が、桐原のわき腹を無言で小突いた。

 この瞬間。俺たち三年B組は、再び一つになった。

 翌日、九月二十三日秋分の日。いよいよ文化祭の当日がやってくる。
 この日もそうだが、文化祭の翌日から、毎日桐原の心配事を取り除くことに専念した。桐原にとって目下最大の心配事。それは言うまでもなく、母親の交際相手の存在だ。朝は比較的家が近い恭子と律に自宅まで迎えに行って貰い、帰りは俺が責任を持って彼女を送り届けた。
 その甲斐あってか、彼女の身が危険に晒されるような出来事は、二度と起こらなかった。
 三年生が引退を迎え、文芸部の引継ぎ仕事で桐原が居残る日は、部室に俺もお邪魔させてもらった。桐原がタイピングを続ける音に耳を傾けながら、これまで接点のなかった早百合とも、多少の会話を交わした。それとなく話題を振ると、案外とよく喋った。なる程、と俺は思う。早百合が男にモテるのも納得だ。

 さて、一旦文化祭の日に話を戻そう。
 桐原が合流しての全体練習は、前日に一時間ほどしかできなかった。とはいえ、桐原の演技は元々非の打ち所がないレベルで完成されていたし、概ね問題はないだろう、というのが全員の一致した見解だった。
 本番前の舞台袖、桐原の顔には緊張の色が色濃く滲んでいた。演劇部より調達してきた真っ赤なドレスに身を包み、裏方の女子から本格的なメイクアップを施されている桐原の様子を盗み見ながら、俺はボソっと呟いた。

「昨日から薄くした化粧を、わざわざ再び濃く塗りなおすとか、なかなかにギャグだな」
「まったくだ。それに、桐原さんが自分で化粧した方が、上手く仕上がるんじゃないの?」

 ロミオ役の慎吾が貴族の格好でやって来て同意すると、優花里の突っ込みが後ろから飛んできた。

「そこ、無駄話をしている暇があるんでしたら、台詞の復習でもしていなさいな」
「緊張してるだろ?」と俺は主役のロミオに訊ねた。
「まあ、それなりに」とロミオはのんびり答えた。
「開幕したら、もっと緊張することになんぞ」
「何それ? 意味わかんねえよ。いや、確かにそうかもしんないけど」

 俺と桐原が、どんな悪巧みを企てているか知らない慎吾は、軽口を叩いてみせた。
 アーメン。俺は神に、もとい、彼に祈りを捧げた。
 二階堂が、舞台袖のカーテンの隙間から観客席を見渡して、青褪めた顔をしていた。「すげー人の数なんだけど」
「お前裏方なのに、どうして緊張するんだよ」と突っ込みながら、彼に倣って顔を覗かせる。会場に目を配り、桐原の親父さんがいるのを確認した。

 父親とは午前中の早い段階で接触を図り、二~三お願いと報告をしておいた。
 第一に、桐原が数度に渡り、暴行をされていたこと。その内容には性暴行も含まれており、相手が母親の交際相手であること。
 第二に、その事実を未だ母親に相談できていない可能性があること。だから可能であれば、父親であるあなたからもフォローないしはアプローチをして欲しいこと。
 彼は俺の言葉に驚いて、それから直ぐに神妙な面持ちに変わると、「わかった。任せてくれ」と首肯した。
 ──大丈夫。
 自分にそう言い聞かせ、舞台袖に引っ込んだ。
 やがて舞台の幕が開く。演劇、『ロミオとジュリエット』の開演だ。主役の慎吾と桐原がステージの中央で立ち回る様子を、台本を抱えた俺と、音響担当の美也と二階堂が、緊張した面持ちで舞台袖から見守った。
 劇自体はオーソドックスなシナリオで構成されており、淡々と物語が進行していくはずだったが、所々で笑いが巻き起こった。
 原因は、主に俺の台詞。
 ドレス姿の桐原が台詞を紡ぐように口パクを行い、それに合わせて優花里が台詞の書かれたボードを、要所で掲げる。そしてジュリエットの台詞は、俺がマイクを通して演技する。いたってマジメに。女性らしい声音で。

「ああ~ロミオ。なぜ、あなたはロミオなの?」

 自分なりに目指したイメージは、清楚で可憐なお嬢様。

「あんた、フザけてんの!」

 それなのに、俺の隣にいる美也が、辛抱たまらんと言わんばかりにしきりに脇腹を小突いてくる。後ろで見守っている二階堂は、露骨に渋い顔になっているし、果恋に至っては舞台袖に引き揚げてくるたび「なかなか良いじゃん、悪くないよ」と爆笑していた。
 ……オカシイ。実に理不尽だ。俺はいたって真面目に演技しているつもりなのだが、それがかえって笑いのツボに嵌っているらしい。

 劇も終盤に差し掛かり、いよいよ、後はロミオとジュリエットが死ぬだけとなった。
 先ず、ジュリエット役である桐原が「仮死の薬」を飲んで、ステージの中央で死んだように眠り続ける。それを発見したロミオ役の慎吾が、ジュリエットが死んだと勘違いをして自害。眼が覚めたジュリエットがその異変に気がつき、ナイフで後追い自殺をする。
 そんな流れだ。誰もが知っている、有名かつ一般的なラストシーン。
 ところがそこで、ジュリエットに異変が起きる。待てど暮らせど、桐原は仮死の薬を飲まなかった。それどころか薬を一旦ステージ上の床に置くと、真剣な表情でロミオ役の慎吾を見つめた。
 桐原はゆったりとした所作で両手を掲げ、手話を使って語り出す。

『私の本当の気持ち、これからあなたに伝えます』

 俺は――桐原の手話を、マイクの音声を利用して同時通訳する。俺と彼女の行動と発言には、微塵の迷いもなかった。何故ならば、これは全て、歩道橋の上で打ち合わせをしたシナリオ通りの展開だからだ。
「ちょっと、何やってんの!」と潜めた声で美也が問い質してくるが、「黙って聞いてやってくれ、桐原の気持ち」と俺は彼女を制した。

『これから私、あなたのことを困らせる』と再び桐原が宣言する。

 突然中断された演劇。
 紡がれる無関係な台詞。
 次第に、会場内もざわつき始める。
 突如としてアドリブを始めた桐原に慎吾も驚いていたが、やがて真剣な表情に変わると、彼女の手話ことばに耳を傾けた。

「うん、桐原さんの本当の気持ち、聞かせて」

 慎吾は手話を交えつつ、ホールの観客にも聞こえるようにと声を張った。
 一人同時通訳とか、なかなか良い機転だ。

『本当は、言わないつもりだった。ずっと胸の内に秘めておくつもりだった、私の気持ち。だって、私は言葉を話せないし、耳が聞こえないし、化粧をしないと外にも出られない。何よりも、私は心が醜いから』
「そんなこと、ない」
『あるよ……私が喋らないことを、みんなが笑ってた』
「そんなこと――ない」

 桐原は一つ息を呑んだ。水を打ったように静まり返ったホールに、彼女の息遣いの音がやたらと鮮明に響き渡る。静寂が辺りを支配して、深い水の底にでもいるような心地だ。
 やがて、桐原はゆっくりと自分の想いを紡いでいった。

『私の世界には音がないから。
 私には声がないから。
 だから、誰も――私を必要としていない。
 私には、気持ちを伝える手段がないから。
 私には、気持ちを受け取る耳がないから。
 だから私は――恋なんてできない。

 そう思っていた。でも、違っていた。
 それを教えてくれたのが――あなた。

 私が一緒に帰ろう、と言ったとき笑ってくれたから。
 私が気持ちを伝えられなくて困っていたら、手話を覚えてくれたから。
 だから、ちょっとずつ私の毎日は明るくなった。
 私が髪型を変えたとき、ちゃんと気付いて褒めてくれたから。
 私が障害を持っていることも、個性だと言って受け止めてくれたから。
 だから私の中は、もう、あなたで一杯なの。

 それなのに、私の心のなかは、もうずっと前から醜い嫉妬で溢れている。だから、今この段階に至っても、まだ心が怯えている。本当の気持ちを伝えるのが怖いの』

 慎吾が一歩、桐原の側に寄った。瞳は真っすぐに、彼女の姿を捉え続けている。

「僕は、桐原さんと親しくなれて、本当に良かったと思っている。でも、僕は気の利かない男だから、何度も辛い思いをさせたり、苦しい思いをさせたりしてしまったんだろう。それでも、聞かせてくれるかな? 桐原さんの本当の気持ち、聞かせて?」
『私の、本当の気持ち………』

 ところが、ここから彼女の言葉が続かなくなった。顔を伏せ、苦しそうに胸元に手を添えたまま身じろぎ一つしなくなる。
 ホール全体が再び静まり返った。
 二人の様子を、俺が、美也が、観客席にいる全ての人が、固唾を呑んで見守っているなか、桐原のどこか苦しそうな息遣いの音だけが、ホールの中に木魂していく。
 永劫に続くかと思われた静寂を破ったのは、観客席から聞こえてきた一人の女生徒の叫び。

「悠里! しっかり! 勇気出して!」

 声の主を確認すると、桐原と同じように胸に手を当てて起立している楠恭子がいた。

「しっかりしろ! 桐原!」
「顔あげて! ガンバレ悠里!」

 恭子の声に呼応するように、晃と律が、口々にエールを送る。彼女を励ます言葉の渦は、段々と周りにも広まっていった。手塚が、早百合が、宮城春香が、佐藤ひなのが、他クラスの面々にも、下級生にも、分け隔てなく伝播していく。「桐原ガンバレ!」「もうちょっとだ!」「勇気出せ!」様々な声が、津波のように観客席から押し寄せる。 

「殻に閉じこもっていないで、ちゃんと言葉で言いなさい!」

 そのなかに混じって、一際響く大人の女性の叫び声が聞こえた。声の主は初めて見る顔だったが、隣に桐原の親父さんが座っていたので、彼女の母親なんだろうと得心した。
 なあ、桐原。
 お前の耳には、みんなの声が聞こえていないだろうが、ちゃんと見えているだろ? お前の言葉、ちゃんとみんなに届いている。お前が紡ぎ出した心の叫びが、これ程までにみんなの心を打ち、そして、動かしているんだよ。話せなくてもさ、ちゃんと言葉で伝えられるんだよ。だから大丈夫だ胸を張れ。お前の気持ち、言葉にして伝えろ!
 隣で美也が両手を組んで、「桐原、頑張れ」と呟くのが聞こえた。いや、お前は応援しちゃダメなんじゃね? とか思ってる最中、ようやく桐原の顔が上がる。手話を刻むため両手が上がると、潮が引くようにホールのなかも静まり返った。俺も慌ててマイクを握る。

『じゃあ、今から困らせるから』

 ところが、彼女の手話はこの一言で終わりを告げる。
 役目を終えた両腕が、ゆっくりと下ろされた。
 これは、俺と桐原との間で決めていた”サイン”。
 彼女が手話を止め、自分の『肉声』で気持ちを伝えるという意思表示。だから俺も、自分の仕事は終えたとばかりに、マイクから手を離した。
 慎吾は真っすぐ彼女の瞳を見据えると、こくんと頷いた。
 桐原が、すうっと大きく息を吸い込んだ。自分の気持ちを、言葉に乗せるための予備動作。
 桐原の口が、開く。

「わたし、ひろせくんのこと、すき。だいすきなの」

 多くの人が、初めて耳にするであろう桐原の肉声。
 それはやはり、とてもたどたどしく紡がれた言葉で。ようやく聞き分けられるような発声だったが、彼女の声は凛然と響き、そして澄み渡り、ホールの奥まで浸透していった。

「うん」慎吾が目元を軽く拭い頷いた。「ありがとう、言葉でちゃんと伝えてくれて。桐原さんの気持ち、凄く嬉しいよ。でも、」

 ここで一度、言葉を切った。この微妙な間合いこそが、きっと慎吾なりの優しさ。

「――やっぱり、ゴメン。僕は、他に好きな人がいるんだ」

 次の瞬間、桐原の双眸から堰を切ったように涙が溢れだした。悲しみに歪んだその表情は、けれど、直ぐに柔らかい笑みと差し替えられる。

『うん、知ってたよ。……美也ちゃんのこと、幸せにしてあげてね』

 直後桐原はうずくまると、仮死の薬を迷いなく飲み干してそのままくず折れる。ここから先は、ごく平凡なロミオとジュリエットの展開に戻る。悲観したロミオがナイフで自害して、目覚めたジュリエットが後を追ってフィナーレを迎える。
 主役の慎吾と桐原を先頭に、果恋、優花里、太田らのキャスト陣が、拍手を浴びながらステージ中央に並んで立った。
 赤く腫れぼったくなった瞼を擦りながら、観客席を見据えている桐原の顔を見て俺は思う。
 よく頑張ったな。辛い思いをさせてすまなかったな。けど、学校で殆ど話す相手も友達もいなかったお前が、いつも孤立しがちだったお前が、こうして今、みんなの注目と割れんばかりの拍手を浴びている。
 どうだ。ステージの上から見下ろす景色は? 存外に、悪くないもんだろう?
 な、俺の言った通りだっただろう?

 お前は――決して、独りぼっちなんかじゃない。

 ただし、音響担当の約一名は、最近どうにも涙もろいのか途中から全く使い物にならず、俺の仕事が最後だけ若干増えたのは、悪い報告。
 クライマックスを文字通り滅茶苦茶にした公開告白――公開失恋の流れにクラスメイトから総スカンでも喰らうかと覚悟を決めていたのだが、案外不満を言う奴はいなかった。
 むしろ、桐原に関しては一躍ヒーロー……いや、女子なんだからヒロインか? とにかく、拍手喝采で迎えられた。
 ただ一人、微妙な顔にならざるを得ない慎吾を除いて。
 思えば、お前にも、桐原と同様ちょいとばかり損な役回りをさせてしまったな、と申し訳なく思うのであった。

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