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第三章:新説、ロミオとジュリエット

『合宿』

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 お盆まで残すところ数日となったある日。夏休み真っただ中であるにもかかわらず、僕、広瀬慎吾は、制服を着て学校に来ていた。
 登校日、というわけではない。委員長である二階堂から、文化祭で行う演劇『ロミオとジュリエット』の舞台稽古を泊りがけで行おうぜ、という提案が持ち上がっていたためだ。いわゆる、合宿という奴だ。夏休み中とか止めようぜ、という不満の声も当然上がったのだが、全体の進捗状況をみると反対意見が黙殺されたのもやむなしか。

 順序だてて説明しよう。

 文化祭に向けての準備と段取りは概ね順調。劇中で使う音楽の選定は終わり、後はどのシーンでどの音楽を流すのか、最終調整をしている段階。基本的にバレエ用の組曲『Romeo and Juliet 』の中から選び、一部、自分なりの選曲を加えてある。
 仮面舞踏会の最中、果樹園に忍び込んだロミオが偶然にもジュリエットのいるバルコニーの下に辿り着き、「ああ、ロミオ。なぜあなたはロミオなの」とジュリエットが呟く有名すぎる一幕。
 これを、クライマックスのシーンだと勘違いをしている人も多そうだが、実は冒頭のワンシーンにすぎないというのは、僕が最近になって知った雑学の一つ。
 衣装に関しては既に完璧。
 見るからに痛みの酷い衣装が何着かあったため、手芸部の女子が手直しを施したが、概ねそのまま使えた。ジュリエット用のドレスを桐原さんが試着した際には、クラス中のみんなが息を呑んだ。彼女のアッシュグレイの頭髪は、正にジュリエット役として適任だ。
 本当に、ただ素直な感想として「綺麗だ」と褒めてみたら、彼女は必要以上に照れていたが。
 さて、ここまでは問題ないのだが、唯一にして最大の問題点。
 それはやはり、肝心の演技にあった。いまだ活動が続いている部活。例えば――バレー部、吹奏楽部、文芸部等々──の活動の合間を縫って行う放課後の練習だけでは、圧倒的に時間が足りない。遅れを挽回するために、夏休み中に合宿をしなくてはならない、という結論に至ったわけだ。

 集合時間は正午過ぎ。午後から西日が強くなってくる夕方まで、ぶっ続けで舞台稽古を行った。全体で通しの練習をした回数は数えるほどしかないので、やはり集まって正解だったんだろうと僕も思う。
 修道僧ロレンス役の太田。ロザライン役の果恋らは出番もそこまで多くないし特に問題はない。やっぱり台詞覚えが一番遅れているのは僕だろうか。改めて、頭が痛くなってしまう。
 それから、ジュリエット役である桐原さんの台詞を代弁する方法。当初こちらは、彼女の真横で黒子役の女子が発声する予定だったが、マイクを使ってステージ外から台詞を読み上げることにしようと変更された。
 こちらの方が、代弁役の負担が軽くなるうえ声もしっかり通るしと、一石二鳥だった為だ。そしてこの任には、阿久津斗哉が立候補した。

「ジュリエットの心の声が男なんてやべーだろ」

 なんて誰かが懸念をのべていたが、実際にやってみるとこれはこれで意外性があって悪くない。むしろ、面白いんじゃないか、と満場一致で決定した。
 また、気掛かりだったジュリエットが全聾であることを踏まえたシナリオの改編部分。これについては、『服毒自殺をした』と勘違いをして、ジュリエットがロミオの後を追ってしまうというラストシーン限定で、桐原さんが肉声で演技を行うことに決まる。悲しみにくれたジュリエットの元に不可解な奇跡が起こり、一時的に声が出せるようになる、という設定だ。
 桐原さんいわく、文芸部の下平早百合の発言からヒントを得て、彼女自身が決めたものらしい。

「私はきっとあなたのそばにいるの。ずっと、ずっとあなたのそばにいるの。お休み、お休みなさいロミオ」 

 もっとも、桐原さんの台詞はこの一文だけ。
 それでも――聴覚障害を持つ彼女にとっては高難度。相楽優花里と果恋の二人が付きっ切りで発声指導を行っていた。発声練習の間隙を縫って、相楽さんが卑猥な言葉を教え込もうとするのには、思わず呆れてしまったが。

「私の初めて、もらって?」
「わあしのはひめて?」
「――やめなさい!」

 一悶着ありながらも練習は滞りなく終了して、空が茜色から紺色に支配され始めた頃、クラスのみんなで協力し合い夕食の準備に入った。
 否、一部をのぞいて。

「俺、疲れたし。あとは料理が得意な女子に任せる」

 どの辺りが疲れたのかよくわからない太田が、ふんぞり返って調理自習室の椅子に座る。

「サイテー、何か手伝えよ」

 太田を鋭く睨んで口を尖らせた果恋の苦情をすり抜けるようにして、僕も廊下に出た。口にこそ出さずにおいたが、考えていることは太田と似たようなもんだった。

「作るのはどうせカレーライスなんだし、何人かできる女子がいれば、失敗することもないでしょ」

 本当に皮肉な話ではあるが、こんな時こそ気配りのできる男子とそうじゃない男どもの差は明白に出る。桐原さんの隣でジャガイモの皮を剥いている斗哉と、今日やたらと果恋に気遣ってる二階堂が前者。取り敢えず咎められるまで動こうとしない太田や僕が後者だな。なんてことを、まるで他人事のように思う。
 とはいえ、サボっているところを見つかったら厄介だ。調理実習室の前からこっそり離れると、渡り廊下まで進み、ベンチが置いてある場所までやって来た。
 ベンチに腰かけなんとなく見上げた空には、夏の大三角や天の川がくっきりと見えていた。

「こんな所にいたんだ。もう直ぐカレーできるから、そろそろ戻って来なよ」

 何分の間、そうしていたのだろうか。
 耳に馴染んだ声がしたな、と感じて顔を向けると、呆れたような表情を浮かべた美也が立っていた。制服の上からエプロンをつけ、腰に手を当てている。
 ところが彼女、戻って来い、という台詞とは裏腹に、僕の隣に足を投げ出すようにして座った。

「呼びに来たんじゃないのかよ?」
「もちろんそうだけど。でも、作り過ぎたって果恋がボヤいてたくらいだから、多少遅れて行っても無くならないよ」
「そっか」

 カレーの分量決めたの相楽さんだっけ。果恋に窘められている姿が脳裏に浮かんでくると、思わず噴き出しそうになる。

「演劇、上手くいきそうだね」
「たぶんな。誰よりも台詞の覚えが悪くて足を引っ張っていた僕が言うんだから、間違いない」

 あははっと美也が腹を抱えるようにして笑う。幼い頃となんら変わらない、屈託のない笑顔で。
 見惚れていると目が合って、慌てて僕は視線を空に逃がした。

「だよね。それに、桐原さんの演技凄いじゃん。なんか役になり切ってるって感じがする」
「わかる。時々自分に感情ぶつけられているみたいでドキっとするわ」

 たかが演劇で。しかも口パクで。あそこまで思い詰めた表情ができるものなんだろうか。桐原さんが向けてくる真剣な眼差しは、僕の曖昧な恋心を責め立ててくるようで、時々居心地が悪くなる。
 あれじゃ……見つめられた男子はみんな勘違いして惚れちゃうよ。
 その時突然、僕の頭に手が乗った。驚いて横を見ると、美也が僕と自分の身長を比べるようにして手のひらを水平に動かしていた。

「なにやってんの、お前」

 ところが彼女、僕の質問を無視してこう言った。

「慎吾。背、縮んだんじゃない?」
「そんなわけあるか。百七十一センチだ」まあ、伸びてもいないけど。「むしろ美也が伸びたんだろ? 今いくつ?」
「百七十三センチ」
「ホントに伸びてた……。マジかよ完全に追い抜かれてるじゃん」
「えへへゴメンね。未だ成長期なのかも、なんてね」

 でもさ……と美也は、投げ出していた両足を丁寧に揃える。両肘を膝の上につき顎を載せた。

「身長だけはどんどん伸びているんだけど、心は相変わらず子供のままなんだ、私」
「それはわかる。美也って身体に似合わず臆病だし、物怖じだってするよな。昔からずっとそうだ」
「フォローしてくれないんですかー?」

 ぱっと顔を上げ、不満そうに美也が唇を尖らせる。構うことなく僕は続けた。

「結局さ。美也の内面は、幼い頃からそんなに変わってないんだよってことが言いたかった。……むしろ、変わってしまったのは僕の方」
「慎吾って、何か変わった?」
「そりゃあもう。天地がひっくり返るくらい」
「大袈裟」
「なんて言うんだろう。勝手に負けたつもりになっていた。野球で斗哉に勝てなくなって、スポーツで美也に勝てなくなって、一人だけ置いてきぼりくらったような気持ちになっていた。だから一人で塞ぎ込んで、美也に対しても壁を作っていた」

 何がそんなに可笑しいのだろう。突然美也が大声で笑いだした。辛い胸の内を包み隠さず吐露したっていうのに、本当に失礼な奴だ。

「あははっ、マジでウケる」
「どの辺りが笑えるんだよ? 一応、真面目な話をしたつもりなんだけど」
「そうだね、真面目な話だと思うよ。あははっ――」
「本当に失礼だ」

 流石に拗ねてみせると、彼女はゴメンネと頭を下げてから、ゆっくりと笑みを引き取った。

「だってさあ。考えていることが、私と同じなんだもん」
「僕と同じ?」
「そうだよ」と彼女の微笑みが、寂しそうな色を放つ。「私もね、慎吾と同じだったんだよ。身長が伸びて、バレー部で活躍するようになって、前に進めば進むほど、慎吾の気持ちが離れていくみたいに感じてた」

 すっと空を見上げる。

「私は、心が子供のままで成長していないから、勝手に壁を作って心を閉ざしてたの。無力な自分に失望して、それから彼女に嫉妬した」

 心臓が、ドキリと大げさな音を立て跳ねる。

「嫉妬って、誰に……?」

 鈍感、と吐き捨てた後、美也は言った。「桐原悠里さん」
 桐原さん? それってつまり……。
 その時不意に、プールサイドで相楽さんに言われた台詞を思い出した。もしかして彼女は、美也の事情を知っていてあんなことを……?
 驚いて顔を向けると、彼女もこちらを真っ直ぐ見ていた。意図せず視線が交錯して、心臓がもう一度飛び跳ねる。

「ようやく、目、合わせてくれたね」
「別に初めてじゃないじゃん」
「厳密にはね。でも慎吾って、私と話すとき、いつも目を逸らしてる」
「それは――」

 お前のこと、好きだからじゃん。告白の台詞は、胸の内で空回り。

「ま、私も目、逸らしてたけどね」

 重い呟きがひとつ落ちた。呟き同様、落としていた視線を無理やり上げて、美也は次の言葉を導き出した。

「中学に入った頃からどんどん身体が大きく成長して、それと時期を同じくして、斗哉も、慎吾も構ってくれなくなった。だからさ。私が大きくなったから、女の子として魅力がなくなったから、異性としては見られなくなったんだろうなって、勝手に解釈して諦めてた」

 なるほど――確かに、僕と同じようなことを考えていたのかもな。
 僕の背中を毎日追いかけていたはずのちっちゃな女の子は、気が付けば立派な女性に成長してて。立場が逆転して、彼女の大きくなった背中を僕が追いかけるようになっていて、そんな自分の姿に勝手に傷ついて。

「だから嫉妬したの。桐原さんは、私に無い物を全部持ってる女の子だったから。背が低くて、女らしくて、可愛くて、化粧が似合ってて――何よりも、いつでも隣に慎吾がいてくれて、その気持ちを独り占めにしていたから」
「美也……」
「嫌いだった! 桐原さんのこと。それから――弱い自分のことも」怒ったような口調だった。「でも気付いた。それは間違いだって。全部自分の思い違いだって。勝手に嫉妬して、勝手に怒って、一人で壁を作って。そりゃあ、お互いに壁作ってたら、通う心も通わなくなるよね」

 瞳を潤ませて美也が笑う。
 それはとても、悲しい笑みだと感じた。
 でも実際に、そうなんだろうと思う。
 僕も斗哉も、そして美也も、体だけは立派に大人になって。
 けれども、心はずっと子供のままで――
 互いが互いに、意地張り合って。

「だからさ、慎吾にヤキモチを焼いて欲しくて、手塚君と付き合ってみたりして、ああ、やっぱりそうじゃないって気がついて」
「そっか。勇気を出してくれてありがとう。僕さ、相楽さんにも言われたんだよ。『しっかりとした気持ちを持たないと、彼女を傷つける』って。その通りだよな。うん」

 美也の言葉を、こちらから遮った。
 流石にここまで言われたら、美也の気持ちも、彼女が次に何を言おうとしているのかもわかる。ここから先は、きっと男である自分から伝えないといけない台詞。
 脳裏に一瞬だけ、桐原さんの姿が浮かぶ。
 ああ、勘違いしていた。相楽さんは、『彼女たち』を傷つけるって言ったんだ。
 選べるのは、『恋人』か『友人』か。
 究極の二択という奴なのか。 君なら、どっちを選ぶ?
 僕はやっぱり――。一つ、息を吸いこんだ。

「美也――」
「うん?」

 ごめん、桐原さん。

「色々あったけどさ、やっぱり僕は美也のことが好きだ。僕と――付き合ってくれますか?」

 美也の顔がみるみるうちに、真っ赤に染まる。落ち着きなく瞬きを繰り返す双眸から、堰を切ったように涙が溢れた。

「ずるいよ。折角頑張ってさ、告白は私からしなくちゃダメだって思ってたのに、勝手に言葉遮って、台詞取っちゃってさ。ずるいよ。それから――うん。宜しく……お願いします」

 星空のように、キラキラした輝きを放つ彼女の瞳が、しっかりと僕を捉える。頬に手のひらを添えると、亜麻色の瞳が静かに閉じられた。
 二人の顔がゆっくりと近づく。そして──僕達は、初めてのキスを交わした。

「ファーストキス、手塚君にあげちゃった。ごめんね」と美也が傷ついたような声音で言った。
「そんなもん、どうでもいいや」と僕は笑った。
「それはそれで、傷つく」と彼女は少し拗ねた。

 もう一度目が合うと、今度は、彼女の方からキスを返してきた。
 ずっと前から好きだった。僕は何度も、愛の言葉を囁いた。そのとき丁度遠くの方から、僕たちを探すクラスメイトたちの声が響いてきた。

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