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第三章:新説、ロミオとジュリエット
『彼女の涙』
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姿見の前に立って浴衣に袖を通していく。藍色の生地に、黒色でよくわからない幾何学模様が織り込まれたデザインの浴衣。
浴衣の衿の端を持ち、両手をひろげ、背中の縫い目が真ん中にくるようにあわせる。浴衣の背中の中心がずれないように気をつけて、まず右手で持った上前を左脇にいれる。左手で持った浴衣の上前を、前に持っていき重ねて、腰紐で押さえて完成っと。
「ま、こんなもんでしょ」と俺が呟いた直後に、「電車の時間大丈夫なの斗哉!」という母親の声が、別室から響いてきた。
「わーかってるよ。今行くって」
時計を確認してみると、十七時三十分だった。花火の打ち上げが始まるのは、十九時三十分。まだ二時間もあるし何の問題もないだろう。
井草の香りが立ち込める和室を出ると、一度自室に戻って荷物の入った鞄と財布を握り、「行ってきます」と家の中に挨拶を送って、玄関口を飛び出した。
俺、阿久津斗哉は、宇都宮市で行われる花火大会に向かっているところだ。本当は、普段着で行こうと考えていた。それなのに何かとお節介焼きな家の母親は、『こんなときに浴衣着んかったら勿体ないやろ』と半ば強制的に、親父のお古だとかいう浴衣を押し付けられたのだ。
「別に女と行くわけでもねーのによ……」
呪いの言葉が口から漏れ出る。
まったくその通りだ。今日一緒に回るのは、同じ野球部に所属している男子三人。なんとも冴えない話だがこれが現実。いつもと代わり映えのしない面子。
本音を言えば、もちろん美也を誘って行きたかった。けど彼女は今日、バレーボールのインターハイの試合があって東京に遠征している。当初は俺も、学校で募集していた応援団に志願して、東京に出向くつもりだった。だがその考えも、のちにあらためた。
その理由は――慎吾の奴も、美也の応援で東京に向かうことになっていたからだ。
俺と慎吾の関係は、屋内プールで一緒に遊んだこと、文化祭の実行委員で一緒になったことを経て、現在ではほぼ改善されている。顔を合わせるだけで気まずくなる、なんて心配もなくなった。
それでも、慎吾と一緒に行こう、という気持ちにはどうしてもなれなかった。
いくら鈍感な俺であっても、慎吾が美也に対して好意を持っているのはとうの昔に気付いているし、それはきっと向こうも同じこと。俺の気持ちは筒抜けだろう。
だが慎吾は、美也とぎくしゃくしていた関係を修復した後も、桐原とは懇意な間柄であり続けている。それが、どうしても納得できなかった。確かに、慎吾と桐原はデートを繰り返してるわけでもないし、キスをしたという噂も聞こえてこない。だから二人の間を繋いでいるものは単なる友情、その関係性はただの友だち、なのかもしれない。
そう──何の問題もない。それなのに苛々している自分が物凄く器の小さい男に思えてきて、益々苛々する。
そんな感じの悪循環に、陥っていた。
もちろん慎吾は桐原に対しても本気で、ただ単に、俺と違って要領よく複数の女と付き合えるだけなのかもしれないが。どちらにしろ、あまり長い時間慎吾と二人きりになると、今抱えてる不満や疑問を強い言葉にしてぶつけてしまいそうな自分がいて、だからこそ、行く気にはなれなかった。
「全然、わけわかんねえ……」再び呪詛の言葉が漏れる。
慎吾の本心も、苛々している自分のことも、さっぱり意味がわからなかった。
鬱々とした感情にとらわれながら歩き続けること十数分。待ち合わせをした駅前のコンコースに到着すると、一緒に行く約束をした面々が、既に顔を揃えていた。
「二階堂。太田。待ったか? ってあれ……晃は?」
一人足りないことに気付いて質問を投げると、小奇麗な普段着で立っていた二階堂と太田が二人で顔を見合わせる。直後二階堂が、意味ありげに小指を立てて見せた。
「福浦の奴は、女と約束を取り交わしているらしい」と苦い顔で吐き捨てると、太田も彼の発言に同意を示した。「とんだ裏切り者だ」
「マジかよ?」ちょっと想定外。相手はいったい誰なんだ。
あの立花とかいう黒髪美人か、それとも楠恭子か、はたまた下平早百合なのか。
だが、そんなことはどうでも良い、と思い直す。晃の本命がわかったところで、俺の現状がしょうもない事実は何も変わらないのだから。
切符を買って電車に乗ると、四駅先の宇都宮駅まで向かう。花火大会の当日だけあって、電車の中はだいぶ混みあっているし、浴衣姿の乗客も散見された。
「あれ、A組の下平じゃんよ?」
スポーツ刈りでがっしりした体格の太田が、電車の連結部付近に固まっている女子数名のうちの一人を指差した。
真っ赤な浴衣を着た下平早百合は、一緒に花火大会に向かうであろう友人二人と電車に揺られていた。
そっか――下平はやっぱり晃の本命からは外れてるんだ、とどうでもいいことに納得しながらも、「ああ、そうだな」と頷いた。
「なんだよ、そのリアクション……」
太田はどことなく不満そうだ。
「でもさ、下平って、結構可愛くね?」
「ああ、可愛いかもな」
「興味ないのか」
「ああ、ないな」
「やっぱ、浴衣着ると印象変わるよな! 俺も浴衣の似合う彼女が欲しいわ~」と、二階堂が話に参加してくると、気のない返事を繰り返す俺を置き去りにして、二人でしばらく盛り上がっていた。
その後も、熱を帯びたように女の話を続ける二階堂と太田の会話に適当に相槌を挟みつつ、電車を降りる。駅前からバスに乗り換えて揺られること約十分。花火の会場となっている鬼怒川の河川敷まで辿り着いた。
「スゲー人出だな」
ひしめき合って人が蠢きまわる河川敷を、堤防の上から見下ろして二階堂が呟く。足元すらよく見えない状況のなか、無数の人たちが互いの肩を寄せ合うようにして歩いていた。
「帰りたくなってきたわ」と人混みにうんざりしながら心の声が漏れると、「ここまできて、それは有り得ないだろ」と太田に突っ込まれた。
奇声をあげ、テンション高く人の波を掻き分けつつ進んでいく二階堂と太田。二人の背中を追いかけながら、河川敷の両脇に立ち並んでいる夜店に視線を巡らした。
夜店に並んでる人の長蛇の列。
憂鬱だ。
ほどなくして晃の姿を発見した二人が、彼を口々に冷やかし始める。
「彼女いるならちゃんと紹介しろよ白状だな~」と二階堂が突っ込むと、「そんなんじゃね~から。ただの友達だって、友達!」と晃が弁解する。少し離れたところで見守りながら、不満そうな顔の楠恭子。
相変わらず晃は朴念仁だなと嘆息しながらも、恭子の脇に寄って囁いた。
「お前も大変だな」
「うん、大変なんだよ」と恭子は、特に否定もせず言って除けた。
俺は彼らの様子をぼんやりと眺め、ああ、晃の本命って楠恭子なんだと得心した。ちらっと彼女の浴衣姿を盗み見る。花柄模様の藍色の浴衣。後ろ髪をアップにして留め、唇もいつもより赤い。
へえ、結構可愛いじゃん。ちゃんと見てやれよな晃。などと思いつつ、俺は俺で、無意識のうちに一人の女生徒の姿を捜し求めていることに気がつき愕然となる。
どうなってんだよ俺。いよいよわけがわからない。
もちろん彼女と約束なんて交わしていないし、花火を見に来ると人伝に聞いた記憶もない。それでも、きっと彼女はこの会場にいる。なぜだかそんな確信があった。
屋台を巡り歩き、焼きとうもろこしと、フランクフルトと、お好み焼きを買った。その代金を三人で適当に割り缶し、垂れたケチャップが浴衣を汚すのも厭わずにむさぼり食った。そのうちに花火が上がる、ドーンという大きな音と、続いてパラパラというあられが散るような音が響いた。
「始まったみたいだな、よく見えるように、河川敷の堤防の上にでも行こうぜ」
二階堂はそう提案すると、人混みの中を縫うように突き進んで行く。逸れないよう、俺と太田も後を追う。
丁度そのときのこと。視界の片隅に、俺は彼女の姿を捉えた。柔らかい笑みを浮かべ、友人と肩を並べて花火を見上げる整った横顔。彼女のイメージとよく合う、青色の花柄模様が刺繍された白い浴衣。
幻想的な雰囲気をまとったその浴衣姿に、視線を奪われた俺の足が完全に止まる。
「なあ、太田。俺、ちょっと用事を思い出した。こっから単独行動すっから、二階堂にも伝えておいてくれ」
口早にそう告げると、太田の返答も受け取らぬまま俺は駆け出した。見失わないよう、人混みのなか、彼女──桐原悠里の姿だけを見つめて。
走りながら考えていた。家を出るとき、なぜ荷物の中にノートとペンを忍ばせようと思ったのか、その理由が今わかったと。俺と同じ境遇に置かれ傷心を抱えた桐原が、花火の会場にきっと足を運ぶとそう感じたからなんだ。
息せき切って二人の側まで駆け寄ると、桐原の傍らで向日葵みたいな笑みを浮かべる友人の方に声を掛けた。
「律!」
「お? 斗哉じゃん、やっほ~。寂しくお一人様ですかい?」
上田律が俺に気が付き手を振った。普段はポニーテールにしている長い髪を後頭部で一つに纏め、学校で見せる大雑把な性格からは想像もできない大人びたイメージの黒いワンピース姿だ。その隣で控えめに笑んだ桐原は、殆ど銀色にしか見えないアッシュグレイの頭髪をサイドポニーに結わえている。
「スゲーな律。なんか女の子みたい……」
「いや! 私ちゃんと女だから! 初めて女子のカテゴリーに足を踏み入れたみたいな表現しないで!」
それから彼女は、ああ、と何かを察したような顔をした。「斗哉は美也狙いだっけ? じゃあ、今日は一人なのもしょうがないね」
「まあ……ね」
もっとも今日がインターハイの日程と重なっていなくても、誘えたかどうかは微妙なところなんだけど。
「ところで、バレーの結果、どうなったか訊いた?」
「負けたって。セットカウント一対二。相手強いトコだからね。まあ、しょうがないよ。美也はチームの三分の一の得点を一人で稼ぐ奮闘を見せたようだけど、力及ばずってやつだ」
「そっか……残念だな。ところでさ、律」
「ん?」
「こっからが、本題なんだけど」
「え、何?」と言いながら律が視線を泳がせる。
瞳を眇め、ほんのりと頬を紅潮させて俯く。もじもじと、しおらしい態度を見せ落ち着かなくなる。
何それごめん。言いにくくなるリアクション止めて。
「ちょっと桐原のこと借りてもいいか?」
「え」と律が驚いたように目を見開いた。表情がとたんに強張った。
「え?」ともう一度繰り返して、うなじを指でかいた。「直接、悠里に言えばいいのに……なんて、そもそも聞こえるわけがないか」と一人納得したように頷いた。
しょうがないねえと苦笑いしながら、律が桐原の肩をぽんと叩く。
それまで蚊帳の外にいた桐原が、くいっと顎を上げた。
律が手話で何かを伝える。
桐原の顔が、みるみるうちに真っ赤に染まる。
物憂げだった瞳が驚きの色に染まり、俺の姿を捉える。目を大きく見開いて、驚きの表情を浮かべる。
口がぱくぱくと夜店の金魚のように動いている。いや、そんなに緊張しないで。見ているこっちまで居た堪れなくなるから。というか律、お前なんて伝えたの?
「一瞬でもトキめいちゃった、私の純情を返してよね」
そう言いながら律は、桐原の背中を押してこっちに送り出した。さっきより距離が縮まって、なんだか俺まで緊張してしまう。
二人の視線が正面からかちあって。えへへ、と愛想笑いをしながらなんとなく逸らして。
緊張を隠すように、視線を逸らしたまま桐原の手をそっと握った。繋いだ手のひらから、彼女がびくっと身を震わせたのが伝わってくる。
手、柔らかいな。
「んじゃ、桐原のことは預かるんで、すまんな律」彼女に言葉を残して歩き出す。「お~……」と手を振った律の表情がどこか寂しげだったのは、きっと気のせいなんかじゃない。
桐原の手を引いて、俯いたまま歩く俺。ギャルっぽいその容姿からは想像もつかぬ程、無言でただただ手を引かれ歩く桐原。絶え間なく上がる花火に何度も照らされ、そして暗くなり。緊張した顔が夜空に浮かび上がったり消えたり。
傍から見るとそれは、恐ろしくシュールな光景なんじゃなかろうか?
取り敢えず夜店でたこ焼きを買った俺たちは、人混みを避けるようにして再び歩き、河川敷の端、堤防の真下付近の草地に腰を落ち着けた。
浴衣の裾が汚れないよう気遣いながら膝を抱えた桐原に、「食うか?」とたこ焼きを差し出してみる。
ぱっと笑顔の花が咲く。桐原は、首をこくこくと縦に揺らして受け取った。
早速つまようじで刺して口にほおばり、直ぐに口元を歪めた。たぶん、まだ熱かったんだろう。
ははは、と笑うと桐原がほんの僅か頬を膨らませる。そっか、表情の変化である程度わかるんだ。
そんなことを思いながら鞄からノートとペンを取り出して、そして即座に気がついた。筆談しようにも、暗くて見えないってことに。花火が上がった瞬間だけ手元が明るくなるのだが、その時間はあまりに短く、筆談を交わすには少々心もとない。
ちょっと考えればわかりそうなものなのに、と迂闊だった自分を呪う。なんだよ、折角連れ出したのに会話できねーじゃん。
すると、困惑している俺の様子を見て察したのだろう。桐原が控えめに肩を叩いてきた。何事かと顔を向けると、彼女はスマホを取り出してニッコリと笑って見せた。
「そっか。Lineで会話しようってことか」
口の動きでわかるんだろうか? 桐原はこくんと頷いた。
お前って頭いいな、と感心しつつアカウントを交換する。とはいったものの、何の話をするんだろうな俺たちは。完全にノープランだった。話題、なんかないか。
『さっきは突然ゴメン、驚いた?』
『うん、驚いた』
『学校ではクラスも一緒だし文化祭の実行委員も一緒だけど、俺たちで会話した事殆どないじゃん? だからさ、桐原のこと聞きたかった。色々と』
『うん』
それっきり、沈黙が落ちる。花火の音だけが虚しく響く。どうしよう……。そうだ、学校の話でもするか。
え~と……『桐原ってさ、国語、何点だった?』
え? と言わんばかりに桐原の表情が固まった。
『あ、ごめん。期末考査の話』
つかさ。色々聞きたいんだ、なんて仰々しく告げた後で、こんな話題しか振れないのか。自分でも貧困な語彙力に嫌気がさしてくる。だが返ってきた答えは、実に意外なもんだった。
『八十点』
へえ、はちじゅう。え、八十点?
『マジで? 俺、五十八点なんだけど』
『え、やばいよそれ?』
いや、ヤバくはないでしょ。平均よりちょっと悪い程度でしょ。
『数学は? ちなみに俺、五十一点』
『八十八点』
噴き出しそうになった。じゃなくて噴き出した。嘘でしょ!?
『歴史は?』
『九十一点』
『はあ? 俺、これが一番良くて七十五点なんだけど』
そのまま勢いで、全教科の得点を訊きだしてみた。案の定、全教科負けてた。人伝に、桐原は頭が良いって聞いたことはあったが、聴覚障害のある女の子なんだしと、心のどこかで甘く見ていた。この事実は、俺にとってあまりにも衝撃的だった。
『桐原って、めっちゃ頭良かったんだな……』
『そんなこと、ないよ』
いや、あるよ。それから、彼女のことを色々と訊いた。母親と二人暮らしであること。父親とは、数年会っていないこと。好きな動物は猫。好きな色は白。家でも小説を書いていること。日々、日記をつけていること。そして好きな男の名前――
は、流石に訊けなかった。
本当は俺、そのことが一番訊きたかったんじゃないかって、自分でも思ってた。でもなんとなく答えを聞くのが怖かった。
彼女の口から、『広瀬慎吾』の名前が出てくるのが怖かった。
慎吾が今日、美也を応援する為東京に出向いていることを。アイツが本当は、美也のことを好きなんだという事実を。彼女に伝える勇気がなかった。真実を隠したまま、『頑張れよ桐原』なんて励ましの言葉を掛けたり、気休めの嘘を伝える覚悟がなかった。
ただ純粋に、誰かと会話をするのが楽しい――そんな感じに表情を柔らかくして、熱を帯びたようにメッセージを打つ桐原の顔がなんだか眩しくて、彼女の顔が失恋の辛さとか悲しみで歪むところを、見たくなかったんだ。
だから桐原が、次第に友人の話を始めた頃合に、俺は会話を打ち切った。
『そろそろ帰ろうか。桐原の家って宇都宮でしょ? 近くまでは送るよ』
彼女は驚いたように顔を上げて、一拍遅れていつの間にか花火がフィナーレをむかえていることに気がついて、『うん』と頷いた。
ひゅるるる……という甲高い音が響き夜空に光の筋が描かれると、桐原の横顔が淡いオレンジ色に染まる。
瞬きにも満たない静寂の後、続いて聞こえたどーん、という大きな音とともに彼女の顔が明るく照らし出された。その瞬間垣間見えた表情は、俺の脳裏に鮮烈に焼きつき、束の間言葉を忘れる。
桐原悠里は――泣いていた。
間を置かずに次々と花火が上がる。グランドフィナーレをむかえた花火に、周囲から一際大きな歓声が上がった。彼女の涙を覆い隠してくれるものはもう何もない。桐原は慌てたように目元を拭うと、ぎこちなく笑みを湛えてみせた。
だけど、その涙は恐らく慎吾のことを思って流した涙なんだと気がつくと、俺は掛ける言葉を失ってしまう。
ただ無心で――それこそ反射的に、桐原の頭を抱き寄せた。取り繕うように浮かべた笑顔が剥がれ落ちてしまう瞬間を、見届ける覚悟が俺にはなかったんだ。
嫌われるだろうか。
ふと、そんな心配事が脳裏を過る。だが桐原は嫌がる素振りも見せず俺の胸に顔を埋めると、先程よりも強く泣いた。普段、言葉を発することのない彼女が、俺の浴衣を強く握り締め、嗚咽を上げて泣いていた。
花火も終わり次第に帰路に着く人の姿も増えるなか、俺たちは暫くの間、並んで座っていた。
吹き付ける夜風が次第に肌寒さを感じさせる。だが彼女の頬が触れている左胸だけは、じんわりとした熱と潤いを湛えていた。
浴衣の衿の端を持ち、両手をひろげ、背中の縫い目が真ん中にくるようにあわせる。浴衣の背中の中心がずれないように気をつけて、まず右手で持った上前を左脇にいれる。左手で持った浴衣の上前を、前に持っていき重ねて、腰紐で押さえて完成っと。
「ま、こんなもんでしょ」と俺が呟いた直後に、「電車の時間大丈夫なの斗哉!」という母親の声が、別室から響いてきた。
「わーかってるよ。今行くって」
時計を確認してみると、十七時三十分だった。花火の打ち上げが始まるのは、十九時三十分。まだ二時間もあるし何の問題もないだろう。
井草の香りが立ち込める和室を出ると、一度自室に戻って荷物の入った鞄と財布を握り、「行ってきます」と家の中に挨拶を送って、玄関口を飛び出した。
俺、阿久津斗哉は、宇都宮市で行われる花火大会に向かっているところだ。本当は、普段着で行こうと考えていた。それなのに何かとお節介焼きな家の母親は、『こんなときに浴衣着んかったら勿体ないやろ』と半ば強制的に、親父のお古だとかいう浴衣を押し付けられたのだ。
「別に女と行くわけでもねーのによ……」
呪いの言葉が口から漏れ出る。
まったくその通りだ。今日一緒に回るのは、同じ野球部に所属している男子三人。なんとも冴えない話だがこれが現実。いつもと代わり映えのしない面子。
本音を言えば、もちろん美也を誘って行きたかった。けど彼女は今日、バレーボールのインターハイの試合があって東京に遠征している。当初は俺も、学校で募集していた応援団に志願して、東京に出向くつもりだった。だがその考えも、のちにあらためた。
その理由は――慎吾の奴も、美也の応援で東京に向かうことになっていたからだ。
俺と慎吾の関係は、屋内プールで一緒に遊んだこと、文化祭の実行委員で一緒になったことを経て、現在ではほぼ改善されている。顔を合わせるだけで気まずくなる、なんて心配もなくなった。
それでも、慎吾と一緒に行こう、という気持ちにはどうしてもなれなかった。
いくら鈍感な俺であっても、慎吾が美也に対して好意を持っているのはとうの昔に気付いているし、それはきっと向こうも同じこと。俺の気持ちは筒抜けだろう。
だが慎吾は、美也とぎくしゃくしていた関係を修復した後も、桐原とは懇意な間柄であり続けている。それが、どうしても納得できなかった。確かに、慎吾と桐原はデートを繰り返してるわけでもないし、キスをしたという噂も聞こえてこない。だから二人の間を繋いでいるものは単なる友情、その関係性はただの友だち、なのかもしれない。
そう──何の問題もない。それなのに苛々している自分が物凄く器の小さい男に思えてきて、益々苛々する。
そんな感じの悪循環に、陥っていた。
もちろん慎吾は桐原に対しても本気で、ただ単に、俺と違って要領よく複数の女と付き合えるだけなのかもしれないが。どちらにしろ、あまり長い時間慎吾と二人きりになると、今抱えてる不満や疑問を強い言葉にしてぶつけてしまいそうな自分がいて、だからこそ、行く気にはなれなかった。
「全然、わけわかんねえ……」再び呪詛の言葉が漏れる。
慎吾の本心も、苛々している自分のことも、さっぱり意味がわからなかった。
鬱々とした感情にとらわれながら歩き続けること十数分。待ち合わせをした駅前のコンコースに到着すると、一緒に行く約束をした面々が、既に顔を揃えていた。
「二階堂。太田。待ったか? ってあれ……晃は?」
一人足りないことに気付いて質問を投げると、小奇麗な普段着で立っていた二階堂と太田が二人で顔を見合わせる。直後二階堂が、意味ありげに小指を立てて見せた。
「福浦の奴は、女と約束を取り交わしているらしい」と苦い顔で吐き捨てると、太田も彼の発言に同意を示した。「とんだ裏切り者だ」
「マジかよ?」ちょっと想定外。相手はいったい誰なんだ。
あの立花とかいう黒髪美人か、それとも楠恭子か、はたまた下平早百合なのか。
だが、そんなことはどうでも良い、と思い直す。晃の本命がわかったところで、俺の現状がしょうもない事実は何も変わらないのだから。
切符を買って電車に乗ると、四駅先の宇都宮駅まで向かう。花火大会の当日だけあって、電車の中はだいぶ混みあっているし、浴衣姿の乗客も散見された。
「あれ、A組の下平じゃんよ?」
スポーツ刈りでがっしりした体格の太田が、電車の連結部付近に固まっている女子数名のうちの一人を指差した。
真っ赤な浴衣を着た下平早百合は、一緒に花火大会に向かうであろう友人二人と電車に揺られていた。
そっか――下平はやっぱり晃の本命からは外れてるんだ、とどうでもいいことに納得しながらも、「ああ、そうだな」と頷いた。
「なんだよ、そのリアクション……」
太田はどことなく不満そうだ。
「でもさ、下平って、結構可愛くね?」
「ああ、可愛いかもな」
「興味ないのか」
「ああ、ないな」
「やっぱ、浴衣着ると印象変わるよな! 俺も浴衣の似合う彼女が欲しいわ~」と、二階堂が話に参加してくると、気のない返事を繰り返す俺を置き去りにして、二人でしばらく盛り上がっていた。
その後も、熱を帯びたように女の話を続ける二階堂と太田の会話に適当に相槌を挟みつつ、電車を降りる。駅前からバスに乗り換えて揺られること約十分。花火の会場となっている鬼怒川の河川敷まで辿り着いた。
「スゲー人出だな」
ひしめき合って人が蠢きまわる河川敷を、堤防の上から見下ろして二階堂が呟く。足元すらよく見えない状況のなか、無数の人たちが互いの肩を寄せ合うようにして歩いていた。
「帰りたくなってきたわ」と人混みにうんざりしながら心の声が漏れると、「ここまできて、それは有り得ないだろ」と太田に突っ込まれた。
奇声をあげ、テンション高く人の波を掻き分けつつ進んでいく二階堂と太田。二人の背中を追いかけながら、河川敷の両脇に立ち並んでいる夜店に視線を巡らした。
夜店に並んでる人の長蛇の列。
憂鬱だ。
ほどなくして晃の姿を発見した二人が、彼を口々に冷やかし始める。
「彼女いるならちゃんと紹介しろよ白状だな~」と二階堂が突っ込むと、「そんなんじゃね~から。ただの友達だって、友達!」と晃が弁解する。少し離れたところで見守りながら、不満そうな顔の楠恭子。
相変わらず晃は朴念仁だなと嘆息しながらも、恭子の脇に寄って囁いた。
「お前も大変だな」
「うん、大変なんだよ」と恭子は、特に否定もせず言って除けた。
俺は彼らの様子をぼんやりと眺め、ああ、晃の本命って楠恭子なんだと得心した。ちらっと彼女の浴衣姿を盗み見る。花柄模様の藍色の浴衣。後ろ髪をアップにして留め、唇もいつもより赤い。
へえ、結構可愛いじゃん。ちゃんと見てやれよな晃。などと思いつつ、俺は俺で、無意識のうちに一人の女生徒の姿を捜し求めていることに気がつき愕然となる。
どうなってんだよ俺。いよいよわけがわからない。
もちろん彼女と約束なんて交わしていないし、花火を見に来ると人伝に聞いた記憶もない。それでも、きっと彼女はこの会場にいる。なぜだかそんな確信があった。
屋台を巡り歩き、焼きとうもろこしと、フランクフルトと、お好み焼きを買った。その代金を三人で適当に割り缶し、垂れたケチャップが浴衣を汚すのも厭わずにむさぼり食った。そのうちに花火が上がる、ドーンという大きな音と、続いてパラパラというあられが散るような音が響いた。
「始まったみたいだな、よく見えるように、河川敷の堤防の上にでも行こうぜ」
二階堂はそう提案すると、人混みの中を縫うように突き進んで行く。逸れないよう、俺と太田も後を追う。
丁度そのときのこと。視界の片隅に、俺は彼女の姿を捉えた。柔らかい笑みを浮かべ、友人と肩を並べて花火を見上げる整った横顔。彼女のイメージとよく合う、青色の花柄模様が刺繍された白い浴衣。
幻想的な雰囲気をまとったその浴衣姿に、視線を奪われた俺の足が完全に止まる。
「なあ、太田。俺、ちょっと用事を思い出した。こっから単独行動すっから、二階堂にも伝えておいてくれ」
口早にそう告げると、太田の返答も受け取らぬまま俺は駆け出した。見失わないよう、人混みのなか、彼女──桐原悠里の姿だけを見つめて。
走りながら考えていた。家を出るとき、なぜ荷物の中にノートとペンを忍ばせようと思ったのか、その理由が今わかったと。俺と同じ境遇に置かれ傷心を抱えた桐原が、花火の会場にきっと足を運ぶとそう感じたからなんだ。
息せき切って二人の側まで駆け寄ると、桐原の傍らで向日葵みたいな笑みを浮かべる友人の方に声を掛けた。
「律!」
「お? 斗哉じゃん、やっほ~。寂しくお一人様ですかい?」
上田律が俺に気が付き手を振った。普段はポニーテールにしている長い髪を後頭部で一つに纏め、学校で見せる大雑把な性格からは想像もできない大人びたイメージの黒いワンピース姿だ。その隣で控えめに笑んだ桐原は、殆ど銀色にしか見えないアッシュグレイの頭髪をサイドポニーに結わえている。
「スゲーな律。なんか女の子みたい……」
「いや! 私ちゃんと女だから! 初めて女子のカテゴリーに足を踏み入れたみたいな表現しないで!」
それから彼女は、ああ、と何かを察したような顔をした。「斗哉は美也狙いだっけ? じゃあ、今日は一人なのもしょうがないね」
「まあ……ね」
もっとも今日がインターハイの日程と重なっていなくても、誘えたかどうかは微妙なところなんだけど。
「ところで、バレーの結果、どうなったか訊いた?」
「負けたって。セットカウント一対二。相手強いトコだからね。まあ、しょうがないよ。美也はチームの三分の一の得点を一人で稼ぐ奮闘を見せたようだけど、力及ばずってやつだ」
「そっか……残念だな。ところでさ、律」
「ん?」
「こっからが、本題なんだけど」
「え、何?」と言いながら律が視線を泳がせる。
瞳を眇め、ほんのりと頬を紅潮させて俯く。もじもじと、しおらしい態度を見せ落ち着かなくなる。
何それごめん。言いにくくなるリアクション止めて。
「ちょっと桐原のこと借りてもいいか?」
「え」と律が驚いたように目を見開いた。表情がとたんに強張った。
「え?」ともう一度繰り返して、うなじを指でかいた。「直接、悠里に言えばいいのに……なんて、そもそも聞こえるわけがないか」と一人納得したように頷いた。
しょうがないねえと苦笑いしながら、律が桐原の肩をぽんと叩く。
それまで蚊帳の外にいた桐原が、くいっと顎を上げた。
律が手話で何かを伝える。
桐原の顔が、みるみるうちに真っ赤に染まる。
物憂げだった瞳が驚きの色に染まり、俺の姿を捉える。目を大きく見開いて、驚きの表情を浮かべる。
口がぱくぱくと夜店の金魚のように動いている。いや、そんなに緊張しないで。見ているこっちまで居た堪れなくなるから。というか律、お前なんて伝えたの?
「一瞬でもトキめいちゃった、私の純情を返してよね」
そう言いながら律は、桐原の背中を押してこっちに送り出した。さっきより距離が縮まって、なんだか俺まで緊張してしまう。
二人の視線が正面からかちあって。えへへ、と愛想笑いをしながらなんとなく逸らして。
緊張を隠すように、視線を逸らしたまま桐原の手をそっと握った。繋いだ手のひらから、彼女がびくっと身を震わせたのが伝わってくる。
手、柔らかいな。
「んじゃ、桐原のことは預かるんで、すまんな律」彼女に言葉を残して歩き出す。「お~……」と手を振った律の表情がどこか寂しげだったのは、きっと気のせいなんかじゃない。
桐原の手を引いて、俯いたまま歩く俺。ギャルっぽいその容姿からは想像もつかぬ程、無言でただただ手を引かれ歩く桐原。絶え間なく上がる花火に何度も照らされ、そして暗くなり。緊張した顔が夜空に浮かび上がったり消えたり。
傍から見るとそれは、恐ろしくシュールな光景なんじゃなかろうか?
取り敢えず夜店でたこ焼きを買った俺たちは、人混みを避けるようにして再び歩き、河川敷の端、堤防の真下付近の草地に腰を落ち着けた。
浴衣の裾が汚れないよう気遣いながら膝を抱えた桐原に、「食うか?」とたこ焼きを差し出してみる。
ぱっと笑顔の花が咲く。桐原は、首をこくこくと縦に揺らして受け取った。
早速つまようじで刺して口にほおばり、直ぐに口元を歪めた。たぶん、まだ熱かったんだろう。
ははは、と笑うと桐原がほんの僅か頬を膨らませる。そっか、表情の変化である程度わかるんだ。
そんなことを思いながら鞄からノートとペンを取り出して、そして即座に気がついた。筆談しようにも、暗くて見えないってことに。花火が上がった瞬間だけ手元が明るくなるのだが、その時間はあまりに短く、筆談を交わすには少々心もとない。
ちょっと考えればわかりそうなものなのに、と迂闊だった自分を呪う。なんだよ、折角連れ出したのに会話できねーじゃん。
すると、困惑している俺の様子を見て察したのだろう。桐原が控えめに肩を叩いてきた。何事かと顔を向けると、彼女はスマホを取り出してニッコリと笑って見せた。
「そっか。Lineで会話しようってことか」
口の動きでわかるんだろうか? 桐原はこくんと頷いた。
お前って頭いいな、と感心しつつアカウントを交換する。とはいったものの、何の話をするんだろうな俺たちは。完全にノープランだった。話題、なんかないか。
『さっきは突然ゴメン、驚いた?』
『うん、驚いた』
『学校ではクラスも一緒だし文化祭の実行委員も一緒だけど、俺たちで会話した事殆どないじゃん? だからさ、桐原のこと聞きたかった。色々と』
『うん』
それっきり、沈黙が落ちる。花火の音だけが虚しく響く。どうしよう……。そうだ、学校の話でもするか。
え~と……『桐原ってさ、国語、何点だった?』
え? と言わんばかりに桐原の表情が固まった。
『あ、ごめん。期末考査の話』
つかさ。色々聞きたいんだ、なんて仰々しく告げた後で、こんな話題しか振れないのか。自分でも貧困な語彙力に嫌気がさしてくる。だが返ってきた答えは、実に意外なもんだった。
『八十点』
へえ、はちじゅう。え、八十点?
『マジで? 俺、五十八点なんだけど』
『え、やばいよそれ?』
いや、ヤバくはないでしょ。平均よりちょっと悪い程度でしょ。
『数学は? ちなみに俺、五十一点』
『八十八点』
噴き出しそうになった。じゃなくて噴き出した。嘘でしょ!?
『歴史は?』
『九十一点』
『はあ? 俺、これが一番良くて七十五点なんだけど』
そのまま勢いで、全教科の得点を訊きだしてみた。案の定、全教科負けてた。人伝に、桐原は頭が良いって聞いたことはあったが、聴覚障害のある女の子なんだしと、心のどこかで甘く見ていた。この事実は、俺にとってあまりにも衝撃的だった。
『桐原って、めっちゃ頭良かったんだな……』
『そんなこと、ないよ』
いや、あるよ。それから、彼女のことを色々と訊いた。母親と二人暮らしであること。父親とは、数年会っていないこと。好きな動物は猫。好きな色は白。家でも小説を書いていること。日々、日記をつけていること。そして好きな男の名前――
は、流石に訊けなかった。
本当は俺、そのことが一番訊きたかったんじゃないかって、自分でも思ってた。でもなんとなく答えを聞くのが怖かった。
彼女の口から、『広瀬慎吾』の名前が出てくるのが怖かった。
慎吾が今日、美也を応援する為東京に出向いていることを。アイツが本当は、美也のことを好きなんだという事実を。彼女に伝える勇気がなかった。真実を隠したまま、『頑張れよ桐原』なんて励ましの言葉を掛けたり、気休めの嘘を伝える覚悟がなかった。
ただ純粋に、誰かと会話をするのが楽しい――そんな感じに表情を柔らかくして、熱を帯びたようにメッセージを打つ桐原の顔がなんだか眩しくて、彼女の顔が失恋の辛さとか悲しみで歪むところを、見たくなかったんだ。
だから桐原が、次第に友人の話を始めた頃合に、俺は会話を打ち切った。
『そろそろ帰ろうか。桐原の家って宇都宮でしょ? 近くまでは送るよ』
彼女は驚いたように顔を上げて、一拍遅れていつの間にか花火がフィナーレをむかえていることに気がついて、『うん』と頷いた。
ひゅるるる……という甲高い音が響き夜空に光の筋が描かれると、桐原の横顔が淡いオレンジ色に染まる。
瞬きにも満たない静寂の後、続いて聞こえたどーん、という大きな音とともに彼女の顔が明るく照らし出された。その瞬間垣間見えた表情は、俺の脳裏に鮮烈に焼きつき、束の間言葉を忘れる。
桐原悠里は――泣いていた。
間を置かずに次々と花火が上がる。グランドフィナーレをむかえた花火に、周囲から一際大きな歓声が上がった。彼女の涙を覆い隠してくれるものはもう何もない。桐原は慌てたように目元を拭うと、ぎこちなく笑みを湛えてみせた。
だけど、その涙は恐らく慎吾のことを思って流した涙なんだと気がつくと、俺は掛ける言葉を失ってしまう。
ただ無心で――それこそ反射的に、桐原の頭を抱き寄せた。取り繕うように浮かべた笑顔が剥がれ落ちてしまう瞬間を、見届ける覚悟が俺にはなかったんだ。
嫌われるだろうか。
ふと、そんな心配事が脳裏を過る。だが桐原は嫌がる素振りも見せず俺の胸に顔を埋めると、先程よりも強く泣いた。普段、言葉を発することのない彼女が、俺の浴衣を強く握り締め、嗚咽を上げて泣いていた。
花火も終わり次第に帰路に着く人の姿も増えるなか、俺たちは暫くの間、並んで座っていた。
吹き付ける夜風が次第に肌寒さを感じさせる。だが彼女の頬が触れている左胸だけは、じんわりとした熱と潤いを湛えていた。
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