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第一章:幼馴染たち
『阿久津斗哉②』
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「ナイセン、ナイセン!」
六月二十二日。甲子園大会の栃木県予選会が始まっていた。
この回先頭の四番の仁科は、今日唯一ヒットを打っているため流石に警戒されたのか、ほぼ敬遠気味の四球。五番の太田が打席に向かい、俺、阿久津斗哉もヘルメットを被ってネクストバッターズサークルに向かった。
青い空に立ち昇る入道雲。まだ初夏だというのに目が眩んでしまうほど強い日射しに眉を顰め、スコアボードに視線を移す。現在、七回の表。スコアは〇対三。案の定、我が校が劣勢。
まあそれもそのはずで、相手は甲子園出場経験を持つ、第五シードの強豪宇都宮第一高校。視線を巡らしていくと、対戦相手の応援団が居座る三塁側スタンドは超満員。内野席から外野席にかけても、そこそこ一般客で埋まっている。
その一方、一塁側スタンドは閑散としている。照葉学園の応援団と吹奏楽部以外は人影もまばら。毎年、一~二回戦敗退の弱小校なのだからやむを得ないところか。
そのとき、太陽光が反射してトランペットがきらりと光る。慎吾の奴か、と一瞥した後でベンチのサインを確認した。五番の太田に出された指示は送りバント。点差が大きいとはいえまだ七回。一点ずつ確実に返していこうという手堅い作戦だ。体格に似合わず器用な太田は相手投手の速い直球に的を絞れず苦しむものの、なんとかバットに当て、勢いを殺したボールが一塁側ライン上を転々とする。その間に仁科は悠々セカンドを陥れた。
よし……
美也、どこかで俺のこと見てるのか? そんなことを考えながら打席に向かう。俺にだされたサインはヒッティング。どんどん振っていいぞとのオマケ付き。
望むところだやってやるぜ。バッティンググローブの感触を確かめながら、左打席に入る。
初球。ど真ん中高めのストレートを見送って、判定はボール。正確に言えば見送ったのではない、手が出なかった。やっぱり速いな……相手エースの坂本君は、たぶん百四十キロ近く出ているんだろう、こちらの軟投派エース二階堂とは比較にならない。
二球目。さっきのストレートに手が出なかったのがバレてるだろうし、絶対に真っすぐがくる! そう確信して強振するも、高めのストレートにバットが空を切ってワンストライク。
やべーなこりゃ。全然打てる気がしない。愕然となって顔を俯かせたとき、不意に響いたトランペットの大きな音が鼓膜を叩いた。
これは……そうか慎吾の音──っていうか、うちの吹奏楽部ってこんなに金管楽器のレベル高かったっけ? ユーフォニアムもサクソフォンも、やたらと強く、ハッキリとそれぞれの音が聞き取れる。
きっと、アイツが部長になってからすげー練習を重ねたんだろうなみんな。へこんでる場合じゃねぇや。勇気貰った、ありがとな慎吾。
一つ息を吐いてから、バットの先端を外野に向ける。ぜってーランナー返すぜ、というアピール。
三球目の変化球は見送ってボール。四球目の真っすぐはバットに当たるものの、振り遅れて三塁線へのファール。いいぞ、なんとか当たってきた。
もう狙い球は完全にストレート一本に絞ってた。五球目の内角高めの真っすぐを強振すると、バットにずしりと重い感触が伝わってくる。球威スゲーなと悪態をつきながらも振り抜いた打球はピッチャーの脇を鋭く抜けてセンター前へ。
打球が速すぎて長打にこそならなかったものの、その間に仁科は三塁に到達。俺はファーストベース上でガッツポーズを決めた。
「っしゃあ!」
振り仰ぐと、一塁側スタンドにいた慎吾と目が合う。互いに親指を立ててアイコンタクトを交わした。どうだ見たか! と久々に俺の鼻が高くなった。
後は頼んだぜ晃。
今日、打順が一つ上がって七番を打つ福浦晃が、右バッターボックスに入る。
素早くベンチに目配せしてサインを確認すると、彼にもヒッティングのサインが出ていた。打球次第では一気に三塁を陥れようと、慎重にリードを広げる。
二球ボール球を見送った後に放たれた打球は、一塁側スタンドからの声援をバックに青空へと高く舞い上がる。少し高く上がり過ぎたか? 背走しながらセンターが落下点に入ったのを確認してから、タッチアップに備えて帰塁する。
ボールは外野手のグラブに収まるものの、犠牲フライとしての飛距離は十分。その間にタッチアップした仁科が本塁へと滑り込む。これで一点返して一対三。
「よしっ」晃に釣られてガッツポーズが飛び出した。
だが、俺たちの反撃もここまでだった。次の八番打者が三振に倒れてチャンスを潰すと、その後は四球のランナーを八回に出したのを最後に、目立った得点機を作れないまま回は進行していく。
最終回。ツーアウトから俺に打順が回ると、ベンチから代打が告げられた。
悔しいけれどもしょうがない。ネクストバッターズサークルから引き揚げながら、「後は任せた。宜しく頼むぞ」と、二年生の代打の切り札、吉田の肩を叩いて送り出す。
まだ負けたと決まったわけでもないのに、後輩にバトンを渡したように思え、感傷的になっている自分が情けない。
吉田は初球のストレートを見送った後に二球目を空振り。ベンチから必死に送る声援も虚しく、三球目の変化球にバットは空を切り三振。
この瞬間、俺の三年間……いや、おそらくは野球人生そのものが終わった。
試合終了を告げるサイレンが物悲しく鳴り響く。超満員の三塁側スタンドに一礼する頃には、いつの間にか暗褐色に変化していた空が泣き出した。同じように泣き崩れたチームメイトの涙を洗い流すかのように。
一方で俺は、一塁側スタンドに頭を下げている最中にも、ああ、全部終わったな、とか、次の試合、この雨でやれるかな? とか、やたらと俯瞰的に物事を見据えていた。泣き続けている二階堂や太田を横目に見ながら、涙の一つも流せない自分のことが恨めしくもあった。
雨の中、大慌てで片付けを始めた吹奏楽部の様子をぼんやり眺めているそのとき、ずっとグラウンドを見下ろしている二人の女生徒に気が付いた。
一人はA組の楠恭子。うん、お前のサクソフォン、スゲー上手かったよ。もう一人は制服は間違いなくうちのだけれど、知らない顔だった。
艶のある長い黒髪が、雨に濡れ重たそうに垂れている。遠目ではあるけれど、ああ、凄い美人だなってわかる整った顔立ち。そのまま二人の視線が向いている先を目で追うと、どちらも晃に行き着いた。
マジかよ。コイツ……モテるんだな。
お前を好いてくれる女の子。目がくりっとして可愛い下平早百合の他にも、ぼんやりしてるけど可愛らしい楠恭子。ついでに名前は知らないけど黒髪の美人。
三人もいるのかよ。
なんなんだよ、ふざけんなって思った。
神様アンタ不公平すぎるだろって思った。
気に入らないのは慎吾の奴だって同じだ。アイツだって本当は美也のことが好きだったはずなのに、俺の知らないところで桐原悠里と仲良くなりやがって。
なんでお前は、そう簡単に気持ちを切り替えられるんだよ? 野球からも逃げて、美也からも逃げて、なんなんだよ俺の気も知らないで……
苛々がおさまらない俺は、止せばいいのに美也の姿をスタンドの中に探してしまい、更に傷つくことになる。
応援席の端の方で傘を差していた彼女と一瞬目が合う。手を振ってきたので振り返そうとして俺の思考が凍り付いた。
彼女の隣に座っていたのは、サッカー部所属のイケメン手塚。偶然? たまたま居合わせただけ? 女癖の悪い手塚に限って、そんなことはないだろう。
なんだよ……それ……
度重なるショックで視野がすっかり狭くなった俺の記憶は、この辺りから断片的になってしまう。
その後は最後のミーティングを行って、解散した後に、晃に「お前のこと見ていた女子がいたぞ」と言うと、「ああ、気付いてたよ」と何の気もなしに告げられて、もう一人の髪の長い女はC組の立花玲という、しばらく病気で休んでいた奴だとわかって、その後にやって来た美也が、「残念だったね」と気後れするように声を掛けてきて、彼女の隣にいるのはやっぱりイケメン手塚の奴で、軽い雰囲気で「よう」とか言ってきやがって、苛々が限界を超え反射的に走り出した俺は、途中で慎吾と桐原が一緒に歩いてるのを目撃して、なんなんだよってまた毒づいて……
気が付いたら、球場の脇にある自動販売機横のベンチに腰かけたまま、雨に打たれていた訳で。
……ホント、何やってんだよ俺。
分かってる、誰も悪くないんだってこと。美也に告白できなかったのは俺が弱いだけの話だし、慎吾が誰と付き合おうが、晃が誰のことを選択しようが、手塚が美也に接近しようが、なんの問題もないってことも。全ては自分に対する怒りと醜い嫉妬なんだってことも。
「阿久津先輩」
その時、澄んだ声音が頭上から降ってきて顔を上げると、マネージャーである二年生の宮城春香が、傘を差して佇んでいた。走ってきたのだろうか。スカートの裾が少しだけ雨で濡れている。
「こんなところで何やってんですか。風邪、引いちゃいますよ」
目尻をさげ、心配そうな顔で一歩こちらに寄ると、宮城はすっと俺の上に傘を掲げた。
この段階になって初めて、頭からずぶ濡れになっている自分に気がついた。
宮城は、去年の春から野球部のマネージャーになってくれた女の子。部員のためのお茶だしに、練習中もランニングタイムの計測、グラウンド整備の手伝い、試合の時にはスコアの記録に声出しと、何度彼女に励まされてきたかわからない。
「急にいなくなるから、捜しましたよ」
「……すまん、ちょっと黄昏れてた」
「惜しかったですね。なんて言っても慰めにならないと思いますけど、取り敢えずは、お疲れ様でした」
「ああ、サンキュ。宮城もずっと頑張ってくれてありがとな。とは言っても、宮城にはまだまだ頑張って貰わないといけないけどな。吉田とか二年生のことも、宜しく頼むわ」
はい、それはもちろんです。と彼女は、はにかんだように笑うと、沈黙と共に少しだけ顎を引いた。
「こんな時に言うの、空気読めない奴だなって自分でもわかってます」
「え?」
「ひとつだけ、質問いいですか?」
「別に、いいけど」
傘を持つ、宮城の華奢な右手が震えている。風邪などひかなければいいが、と濡れている自分を棚にあげて思う。
「先輩は――」と宮城は、囁くような声で言った。「好きな人とかいるんですか?」
雨音に掻き消されそうなか細い声音は、それでも俺の鼓膜を静かに叩いた。
「オレ……?」
一瞬頭の中に美也の顔が浮かんで、でも、このタイミングでそれを言うのはあまりにもカッコ悪いことだと感じてしまって、結局はこう誤魔化すに留める。
「別にいねえけど」
その時、宮城がごくりと喉を鳴らす音が聞こえた。
瞬間的に、文脈の流れから嫌な空気みたいなものを感じて俺は言った。「待てよ……」と。でも、彼女は待たなかった。
「私、阿久津先輩のことが好きです。あの…………私と、付き合ってくれませんか?」
驚いて顔を上げると、おさげの髪を落ち着きなく触っている宮城と目が合った。彼女の瞳は澄んでいて凄く綺麗だ。だからこそ、すっかり塞ぎ込んでいる自分にはとても直視できない程に眩しく、逃げるように顔を背けた。
『勿体ないから、とか、なんとなく、で付き合うのってさ、それこそ勿体ないだろ。ちゃんと好きな相手を決めてさ、その子のことだけ考えないと』という晃の台詞が、不意に脳裏に浮かんでくる。
そうだ、俺はわかっていた。同情心なんて義侠な心で、宮城と交際するべきではない。俺に……そんな資格なんてない。
「宮城……」と呟いたまま、言葉が続かないカッコ悪い俺。
俺が直ぐに返答をしないことで、続いた沈黙が異常に長い時間に感じられて。次第に居た堪れなくなったんだろう、宮城の顔色も段々と曇ってくる。ああ、泣かせてしまうとわかっているのに、相変わらず俺の口から気の利いた言葉はなにひとつ導き出されなくて……
やがて宮城は、「ごめんなさい、忘れてください……」と嗚咽混じりの声だけを残すと、目元を拭いながら走り去って行った。
淋しげな宮城の背中を無感情に見送りながら、俺はもう一度うなだれた。
史上最高にカッコ悪いぜ俺。宮城だってあんなに勇気を出して告白してくれたのに、返事もせずに振って、おまけに泣かせて。一方で俺は、告白する勇気もないのに勝手に傷ついた気持ちになって、一人ぼっちで塞ぎこんで。
「ホント、何やってんだよオレ……」
冷たい雨が変わらず降り続く中、俺はたった一人で首を垂れていた。
六月二十二日。甲子園大会の栃木県予選会が始まっていた。
この回先頭の四番の仁科は、今日唯一ヒットを打っているため流石に警戒されたのか、ほぼ敬遠気味の四球。五番の太田が打席に向かい、俺、阿久津斗哉もヘルメットを被ってネクストバッターズサークルに向かった。
青い空に立ち昇る入道雲。まだ初夏だというのに目が眩んでしまうほど強い日射しに眉を顰め、スコアボードに視線を移す。現在、七回の表。スコアは〇対三。案の定、我が校が劣勢。
まあそれもそのはずで、相手は甲子園出場経験を持つ、第五シードの強豪宇都宮第一高校。視線を巡らしていくと、対戦相手の応援団が居座る三塁側スタンドは超満員。内野席から外野席にかけても、そこそこ一般客で埋まっている。
その一方、一塁側スタンドは閑散としている。照葉学園の応援団と吹奏楽部以外は人影もまばら。毎年、一~二回戦敗退の弱小校なのだからやむを得ないところか。
そのとき、太陽光が反射してトランペットがきらりと光る。慎吾の奴か、と一瞥した後でベンチのサインを確認した。五番の太田に出された指示は送りバント。点差が大きいとはいえまだ七回。一点ずつ確実に返していこうという手堅い作戦だ。体格に似合わず器用な太田は相手投手の速い直球に的を絞れず苦しむものの、なんとかバットに当て、勢いを殺したボールが一塁側ライン上を転々とする。その間に仁科は悠々セカンドを陥れた。
よし……
美也、どこかで俺のこと見てるのか? そんなことを考えながら打席に向かう。俺にだされたサインはヒッティング。どんどん振っていいぞとのオマケ付き。
望むところだやってやるぜ。バッティンググローブの感触を確かめながら、左打席に入る。
初球。ど真ん中高めのストレートを見送って、判定はボール。正確に言えば見送ったのではない、手が出なかった。やっぱり速いな……相手エースの坂本君は、たぶん百四十キロ近く出ているんだろう、こちらの軟投派エース二階堂とは比較にならない。
二球目。さっきのストレートに手が出なかったのがバレてるだろうし、絶対に真っすぐがくる! そう確信して強振するも、高めのストレートにバットが空を切ってワンストライク。
やべーなこりゃ。全然打てる気がしない。愕然となって顔を俯かせたとき、不意に響いたトランペットの大きな音が鼓膜を叩いた。
これは……そうか慎吾の音──っていうか、うちの吹奏楽部ってこんなに金管楽器のレベル高かったっけ? ユーフォニアムもサクソフォンも、やたらと強く、ハッキリとそれぞれの音が聞き取れる。
きっと、アイツが部長になってからすげー練習を重ねたんだろうなみんな。へこんでる場合じゃねぇや。勇気貰った、ありがとな慎吾。
一つ息を吐いてから、バットの先端を外野に向ける。ぜってーランナー返すぜ、というアピール。
三球目の変化球は見送ってボール。四球目の真っすぐはバットに当たるものの、振り遅れて三塁線へのファール。いいぞ、なんとか当たってきた。
もう狙い球は完全にストレート一本に絞ってた。五球目の内角高めの真っすぐを強振すると、バットにずしりと重い感触が伝わってくる。球威スゲーなと悪態をつきながらも振り抜いた打球はピッチャーの脇を鋭く抜けてセンター前へ。
打球が速すぎて長打にこそならなかったものの、その間に仁科は三塁に到達。俺はファーストベース上でガッツポーズを決めた。
「っしゃあ!」
振り仰ぐと、一塁側スタンドにいた慎吾と目が合う。互いに親指を立ててアイコンタクトを交わした。どうだ見たか! と久々に俺の鼻が高くなった。
後は頼んだぜ晃。
今日、打順が一つ上がって七番を打つ福浦晃が、右バッターボックスに入る。
素早くベンチに目配せしてサインを確認すると、彼にもヒッティングのサインが出ていた。打球次第では一気に三塁を陥れようと、慎重にリードを広げる。
二球ボール球を見送った後に放たれた打球は、一塁側スタンドからの声援をバックに青空へと高く舞い上がる。少し高く上がり過ぎたか? 背走しながらセンターが落下点に入ったのを確認してから、タッチアップに備えて帰塁する。
ボールは外野手のグラブに収まるものの、犠牲フライとしての飛距離は十分。その間にタッチアップした仁科が本塁へと滑り込む。これで一点返して一対三。
「よしっ」晃に釣られてガッツポーズが飛び出した。
だが、俺たちの反撃もここまでだった。次の八番打者が三振に倒れてチャンスを潰すと、その後は四球のランナーを八回に出したのを最後に、目立った得点機を作れないまま回は進行していく。
最終回。ツーアウトから俺に打順が回ると、ベンチから代打が告げられた。
悔しいけれどもしょうがない。ネクストバッターズサークルから引き揚げながら、「後は任せた。宜しく頼むぞ」と、二年生の代打の切り札、吉田の肩を叩いて送り出す。
まだ負けたと決まったわけでもないのに、後輩にバトンを渡したように思え、感傷的になっている自分が情けない。
吉田は初球のストレートを見送った後に二球目を空振り。ベンチから必死に送る声援も虚しく、三球目の変化球にバットは空を切り三振。
この瞬間、俺の三年間……いや、おそらくは野球人生そのものが終わった。
試合終了を告げるサイレンが物悲しく鳴り響く。超満員の三塁側スタンドに一礼する頃には、いつの間にか暗褐色に変化していた空が泣き出した。同じように泣き崩れたチームメイトの涙を洗い流すかのように。
一方で俺は、一塁側スタンドに頭を下げている最中にも、ああ、全部終わったな、とか、次の試合、この雨でやれるかな? とか、やたらと俯瞰的に物事を見据えていた。泣き続けている二階堂や太田を横目に見ながら、涙の一つも流せない自分のことが恨めしくもあった。
雨の中、大慌てで片付けを始めた吹奏楽部の様子をぼんやり眺めているそのとき、ずっとグラウンドを見下ろしている二人の女生徒に気が付いた。
一人はA組の楠恭子。うん、お前のサクソフォン、スゲー上手かったよ。もう一人は制服は間違いなくうちのだけれど、知らない顔だった。
艶のある長い黒髪が、雨に濡れ重たそうに垂れている。遠目ではあるけれど、ああ、凄い美人だなってわかる整った顔立ち。そのまま二人の視線が向いている先を目で追うと、どちらも晃に行き着いた。
マジかよ。コイツ……モテるんだな。
お前を好いてくれる女の子。目がくりっとして可愛い下平早百合の他にも、ぼんやりしてるけど可愛らしい楠恭子。ついでに名前は知らないけど黒髪の美人。
三人もいるのかよ。
なんなんだよ、ふざけんなって思った。
神様アンタ不公平すぎるだろって思った。
気に入らないのは慎吾の奴だって同じだ。アイツだって本当は美也のことが好きだったはずなのに、俺の知らないところで桐原悠里と仲良くなりやがって。
なんでお前は、そう簡単に気持ちを切り替えられるんだよ? 野球からも逃げて、美也からも逃げて、なんなんだよ俺の気も知らないで……
苛々がおさまらない俺は、止せばいいのに美也の姿をスタンドの中に探してしまい、更に傷つくことになる。
応援席の端の方で傘を差していた彼女と一瞬目が合う。手を振ってきたので振り返そうとして俺の思考が凍り付いた。
彼女の隣に座っていたのは、サッカー部所属のイケメン手塚。偶然? たまたま居合わせただけ? 女癖の悪い手塚に限って、そんなことはないだろう。
なんだよ……それ……
度重なるショックで視野がすっかり狭くなった俺の記憶は、この辺りから断片的になってしまう。
その後は最後のミーティングを行って、解散した後に、晃に「お前のこと見ていた女子がいたぞ」と言うと、「ああ、気付いてたよ」と何の気もなしに告げられて、もう一人の髪の長い女はC組の立花玲という、しばらく病気で休んでいた奴だとわかって、その後にやって来た美也が、「残念だったね」と気後れするように声を掛けてきて、彼女の隣にいるのはやっぱりイケメン手塚の奴で、軽い雰囲気で「よう」とか言ってきやがって、苛々が限界を超え反射的に走り出した俺は、途中で慎吾と桐原が一緒に歩いてるのを目撃して、なんなんだよってまた毒づいて……
気が付いたら、球場の脇にある自動販売機横のベンチに腰かけたまま、雨に打たれていた訳で。
……ホント、何やってんだよ俺。
分かってる、誰も悪くないんだってこと。美也に告白できなかったのは俺が弱いだけの話だし、慎吾が誰と付き合おうが、晃が誰のことを選択しようが、手塚が美也に接近しようが、なんの問題もないってことも。全ては自分に対する怒りと醜い嫉妬なんだってことも。
「阿久津先輩」
その時、澄んだ声音が頭上から降ってきて顔を上げると、マネージャーである二年生の宮城春香が、傘を差して佇んでいた。走ってきたのだろうか。スカートの裾が少しだけ雨で濡れている。
「こんなところで何やってんですか。風邪、引いちゃいますよ」
目尻をさげ、心配そうな顔で一歩こちらに寄ると、宮城はすっと俺の上に傘を掲げた。
この段階になって初めて、頭からずぶ濡れになっている自分に気がついた。
宮城は、去年の春から野球部のマネージャーになってくれた女の子。部員のためのお茶だしに、練習中もランニングタイムの計測、グラウンド整備の手伝い、試合の時にはスコアの記録に声出しと、何度彼女に励まされてきたかわからない。
「急にいなくなるから、捜しましたよ」
「……すまん、ちょっと黄昏れてた」
「惜しかったですね。なんて言っても慰めにならないと思いますけど、取り敢えずは、お疲れ様でした」
「ああ、サンキュ。宮城もずっと頑張ってくれてありがとな。とは言っても、宮城にはまだまだ頑張って貰わないといけないけどな。吉田とか二年生のことも、宜しく頼むわ」
はい、それはもちろんです。と彼女は、はにかんだように笑うと、沈黙と共に少しだけ顎を引いた。
「こんな時に言うの、空気読めない奴だなって自分でもわかってます」
「え?」
「ひとつだけ、質問いいですか?」
「別に、いいけど」
傘を持つ、宮城の華奢な右手が震えている。風邪などひかなければいいが、と濡れている自分を棚にあげて思う。
「先輩は――」と宮城は、囁くような声で言った。「好きな人とかいるんですか?」
雨音に掻き消されそうなか細い声音は、それでも俺の鼓膜を静かに叩いた。
「オレ……?」
一瞬頭の中に美也の顔が浮かんで、でも、このタイミングでそれを言うのはあまりにもカッコ悪いことだと感じてしまって、結局はこう誤魔化すに留める。
「別にいねえけど」
その時、宮城がごくりと喉を鳴らす音が聞こえた。
瞬間的に、文脈の流れから嫌な空気みたいなものを感じて俺は言った。「待てよ……」と。でも、彼女は待たなかった。
「私、阿久津先輩のことが好きです。あの…………私と、付き合ってくれませんか?」
驚いて顔を上げると、おさげの髪を落ち着きなく触っている宮城と目が合った。彼女の瞳は澄んでいて凄く綺麗だ。だからこそ、すっかり塞ぎ込んでいる自分にはとても直視できない程に眩しく、逃げるように顔を背けた。
『勿体ないから、とか、なんとなく、で付き合うのってさ、それこそ勿体ないだろ。ちゃんと好きな相手を決めてさ、その子のことだけ考えないと』という晃の台詞が、不意に脳裏に浮かんでくる。
そうだ、俺はわかっていた。同情心なんて義侠な心で、宮城と交際するべきではない。俺に……そんな資格なんてない。
「宮城……」と呟いたまま、言葉が続かないカッコ悪い俺。
俺が直ぐに返答をしないことで、続いた沈黙が異常に長い時間に感じられて。次第に居た堪れなくなったんだろう、宮城の顔色も段々と曇ってくる。ああ、泣かせてしまうとわかっているのに、相変わらず俺の口から気の利いた言葉はなにひとつ導き出されなくて……
やがて宮城は、「ごめんなさい、忘れてください……」と嗚咽混じりの声だけを残すと、目元を拭いながら走り去って行った。
淋しげな宮城の背中を無感情に見送りながら、俺はもう一度うなだれた。
史上最高にカッコ悪いぜ俺。宮城だってあんなに勇気を出して告白してくれたのに、返事もせずに振って、おまけに泣かせて。一方で俺は、告白する勇気もないのに勝手に傷ついた気持ちになって、一人ぼっちで塞ぎこんで。
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