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第一章:幼馴染たち
『広瀬慎吾②』
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桐原悠里。文芸部に所属している女の子。これまで一緒のクラスになったことはなく、それなりに有名人だったが僕との接点は希薄だ。クラスは違うし友達でもない。もちろん、まったく会話をしたこともない。
それ以前に、桐原悠里とまともに会話を成立させる人間の方が、むしろ異端だとすらいえるだろう。
何故ならば、彼女は重度の聴覚障害者。当然ながら、音は殆ど聞こえない。そして聴覚障害者の例に漏れず、発声するのもほぼ不可能。
障害に詳しくない人は、耳が聞こえなくても声を出すのは問題ないだろう? なんて、軽く考えるのかもしれない。だが、話はそんなに単純明快ではない。
耳が聞こえないということは、当然、自分の声も聞こえない。なので、唇や舌をどのように動かせば正しく発音できるのかを認識できない。
脳の発音のシーケンスを司る部分は幼少期までに訓練しないと再プログラムは難しくなり、舌の筋肉自体も固まってしまうのだという。この時期に健聴者は耳で聞いた音を真似することで発音シーケンスを覚えるが、聴覚障害者にはそれができない。
つまり、重度の聴覚障害者である桐原悠里は発声ができない。必然的に彼女とコミュニケーションを図る方法は、身振り手振りによる漠然とした意思疎通。あるいは、筆談か手話に頼ることとなる。
全校生徒を見渡してみても、『手話を使える』なんて殊勝な人間は、まずいないだろう。少なくとも、僕はお目にかかった記憶がない。教師の中にはごく一部いるようだったが、それだって非常に稀有な存在。ゆえに、彼女の友人が極めて少なくなるのは必然だった。中学時代から懇意にしている上田律と楠恭子の二人以外に、友人と呼べる存在ははたしているのか? やはり僕は聞いたことがない。ついでにいうと、律と恭子の二人にしても、手話をマスターしているわけではないんだ。
そんな事情を鑑みて、多くの人間が桐原悠里を可哀そうだとおそらく思うだろう。実際に僕も、そう感じている。だから授業中も、なるべく黒板を見やすいように。また、教壇の声を拾えるようにと、席は一番前にされているらしいし、代わりにノートを取ってサポートする献身なクラスメイトだって中にはいるだろう。
けど、それが限界。
桐原さんって可哀そうだよね。大変だよね。何かできることが有ったら、遠慮なく言ってね。こんな感じに偽善者ぶった台詞を表では並べつつも、本心では皆敬遠している。腹の底ではメンドクサイ奴って思っているし、できることなら関わり合いになりたくない、とすら思っているだろう。
彼女に本気で手を差し伸べる覚悟なんて誰にもないし、むしろ関わってくるなよ、というのが本音。人間なんて、所詮そんなもんだ。
それは僕も同様だった。だからこそ今、とても面倒な状況に遭遇したと心の中で溜め息を漏らし、不平の言葉を並べたて、どうやってこの状況を穏便に切り抜けようかと考えを巡らせているわけなのだが。まあ……完全に無視を決め込むのも良心が咎めるので、軽く会釈をして脇を抜けるつもりだった。
なんで僕の顔をまっすぐ見つめてくるんだよ、と背中に嫌な汗をかきながら。
目は合わせない。
会釈をしながら通り抜ける。
これでお終い、じゃあ、また明日。別に話すつもりもないけれど。
そう、それで全部終わりのはずだった。
ところが彼女。あろう事か僕の右手をがしっと掴んだ。彼女は僕より頭一個分ほど背が低いので、斜め下に引っ張られる格好になってしまい、反動で後ろに仰け反ってしまう。
「ちょっと、桐原さんなんなの!?」
思わず悪態をついて彼女の顔を見た──というか見てしまったというべきか。今までマジマジと顔を覗き込んだこともなかったが、間近で見るとその異様さにいよいよ驚かされる。
一体全体何を考えているのか知る由もないが、この桐原という少女は、頭髪を染めた上に濃い化粧を施している校則ギリギリ、いや、完全にアウトな派手な外見をしているのだ。
光の当たり方次第で銀色にすら見えるアッシュグレイの頭髪。ファンデーションは厚くて元々の肌の色が分からないほどだし、アイシャドウ? とやらもばっちり塗られている。とにかく奇抜そのものだ。
背は低いながら目鼻立ちだって整っているし、正直言って美人寄りだと思う。それだけに、本当に勿体無いと感じる。
普通の髪色に戻せばモテそうなのに、と思ってから自嘲した。障害を持っている時点で難しいんじゃないのかと。どちらにしても、僕には及びも付かない世界の話。あまり深く踏み入らない方が良いに決まってる。
「って言うかさあ。いつまで手、握ってるの?」
発言してから気がついた。「そうか。聞こえないんだっけ……」
手、離してくれないかな? という意思をこめて右手を指差してみると、彼女は耳まで真っ赤になりながらようやく解放してくれた。
じゃあ、と軽く手を振り立ち去ろうとしたところで、再び右手を引かれてもう一度仰け反った。
「もう、なんなの! いい加減にして!」
叫んだあとでもう一度気がつく。あ~……メンドクサイな。懲りずに右手を指差そうとしたそのとき、彼女はポケットから小さめのノートとボールペンを取り出すと、ページを開いてサラサラと文字を書きいれる。
『ごめんなさい』
そうか、筆談ね。いや謝るよりも、先ずは事情を説明して欲しいな。苦笑混じりに彼女の提案に応じた。
『それはいいよ。どうして手を握ったの?』
桐原さんは目を見開いた後で視線を中空に泳がし、恥ずかしそうに手元を隠しながら次の文字を書き入れた。……というか、当然ながら会話の進行が遅いなあ!
『一緒に帰りませんか?』
はあ? と思った。
『なんで?』
『暗い夜道が怖いんです』
本気で言ってるの? と思った。いや、思ってないで書いて伝えればいいんだよな、と考えてから得心した。もしかしたら、音が聞こえない状態で歩く夜道って、物凄く怖いんじゃないかって。
『耳が聞こえないから、暗い場所が怖いの?』
『はい』
桐原さんはニコっと笑って頷くと、次第に首を斜めに傾げ、暫く考え込んだ後にこう書き添えた。
『ママの仕事が忙しくなって、迎えに来られなくなった』
ああ、そっかなるほどね。つまり昨日までは母親が送迎してくれてたんだけど、仕事の関係で来れなくなったわけだ。でもそれだったら、同じ文芸部に所属している同級生……ええと、下平早百合だっけ? 彼女にでも頼めばいいのに。
『下平に頼めば?』
『彼女、電車の時間が早いから、先に帰った』
そうか。アイツ三つ先の駅だったか。
何気に八方塞がりな状況なんだな。つまり一緒に帰ってくれる相手さえいれば、それが誰かは問わないわけか……。そもそも桐原さんって、律と恭子以外に友達いないのかなやっぱり? 伝え聞いた話では、一番仲が良いのは恭子らしいけど。
でも恭子の奴、今日はとっくに帰ったしな。しょうがない、僕が一肌脱ごうか。
『わかった、じゃあ、一緒に帰ろうか』
すると彼女、ぎこちなく口角を上げて、『ありがとう』と告げてくる。
聞こえなくても別に良いか、と思いながら「どういたしまして」と声に出して、同時に筆談した。
『家の場所わかんないから、教えてね』……と。
桐原さんは嬉しそうに顔を綻ばせて頷くと、少し先行気味に歩き始める。僕はやれやれと呟きつつも、彼女の華奢な背中を追いかけた。
* * *
暗い夜道を並んで歩いていく。
当たり前の話ではあるが、二人の間に会話はなかった。
──言葉、通じないしな。
季節は既に十月、朝晩の冷え込みが日々増している今日この頃。時折吹く肌寒さを感じさせる夜風が、剥き出しになっている顔や両の手のひらを凍えさせた。
すっかり日が落ち薄暗くなった街並みは、見ているだけでも心細さを加速させる。大きい通りを歩いているうちは街灯も多いのでそんなに意識しなかったが、小さな路地に入り込むとより一層辺りは暗くなり、気温まで数度下がったように感じられる。
人通りがまったくなく、常夜灯の光だけが所々を照らしている寂しい小路。耳が不自由な桐原さんが一人で歩くのは、さぞかし心細いことだろう。
やがて、小さな児童公園のある場所を通りかかる。
万が一……の話ではあるが、乱暴を目的とした粗野な男が背後から接近でもしてきたら、おそらく彼女は察知できないだろう。
想像してみた。
彼女の背後から近づいて口を塞ぎ、細い両腕を拘束して脇にある公園の中に引きずり込む自分の姿を。彼女のたよりなさげな両肩を見つめながら、それが易々と達成できそうなことに思い至り、僕は身を震わせた。
そのとき桐原さんが突然立ち止まる。首に巻いていたマフラーを外すと、顔を伏せたまま僕に差し出してきた。どうやら、これ使ってもいいよ、と言いたいらしい。
「でも――」と呟いてから、ああ、聞こえないんだと気付いた直後、彼女は手袋で覆われた両手をヒラヒラさせて見せる。
なるほど。私は手袋があるから、まだ平気だよ、と言いたいんだろう。案外と優しいんだな、この娘。僕は『ありがとう』とジェスチャーを送ってからマフラーを受け取った。
首に巻いてみると、彼女の温もりがほんのり残されているようで、思いの外暖かい。ちょっとだけ甘い香りもするようで、僕の胸が少しだけ弾んだ。
桐原さんは口元を微かに綻ばせると、再び背を向けて歩き始める。
彼女の小さな背中を見つめながら、僕は思った。
昨日までのイメージを率直に言うと、この桐原悠里という少女が苦手だった。聴覚障害を持っているという先入観から接しにくいと感じていたし、頭髪は派手な色に染められていて不良みたいだし、化粧はやたらと濃くてビッチみたいな印象だしで、卒業するまで関わり合いになることもないんだろうな……とそう思っていた。
でも……こうして触れ合ってみると、見た目と相反して性格はむしろ素直だし、はっきり言って顔も結構可愛い。これで聴覚障害さえなかったら。もし普通の女の子だったとしたら、男にもちゃんとモテて、何一つ不自由のない生活が送れるのになって。
そう、思った。
「こんな可愛い女の子に、神様って残酷だよな……」
どうせ聞こえないだろうと考え、こんな迂闊な台詞を吐いた。今日の僕はどうかしていると、内心で自嘲しながら。
やがて二十分ほど歩き続けると、彼女の自宅前まで辿り着く。それは築二十年から三十年くらいのオンボロ借家って感じの一軒家。玄関前の柵には錆が所々浮いているし、壁だって薄汚れている。
少し気になったのは、家の中が真っ暗だったこと。両親は二人とも帰りが遅い人なのだろうか?
ありがとうとジェスチャーしながらマフラーを返却すると、桐原さんはぺこりと頭を下げる。サヨウナラと言いたげに手を振りながら、家の中に入って行った。僕は彼女の姿が完全に見えなくなるまで見送ったのち、家の前を後にする。
悴んだ手に息を吐きかけながら考える。ここから駅までは逆方向になるんだよな……と。面倒だな、と思わず悪態が口をついてでるが、存外に、悪い気分でもなかった。
どこか満ち足りた気分で見上げた夜空には、真っ白な満月が浮かび、無数の星が瞬いていた。
それ以前に、桐原悠里とまともに会話を成立させる人間の方が、むしろ異端だとすらいえるだろう。
何故ならば、彼女は重度の聴覚障害者。当然ながら、音は殆ど聞こえない。そして聴覚障害者の例に漏れず、発声するのもほぼ不可能。
障害に詳しくない人は、耳が聞こえなくても声を出すのは問題ないだろう? なんて、軽く考えるのかもしれない。だが、話はそんなに単純明快ではない。
耳が聞こえないということは、当然、自分の声も聞こえない。なので、唇や舌をどのように動かせば正しく発音できるのかを認識できない。
脳の発音のシーケンスを司る部分は幼少期までに訓練しないと再プログラムは難しくなり、舌の筋肉自体も固まってしまうのだという。この時期に健聴者は耳で聞いた音を真似することで発音シーケンスを覚えるが、聴覚障害者にはそれができない。
つまり、重度の聴覚障害者である桐原悠里は発声ができない。必然的に彼女とコミュニケーションを図る方法は、身振り手振りによる漠然とした意思疎通。あるいは、筆談か手話に頼ることとなる。
全校生徒を見渡してみても、『手話を使える』なんて殊勝な人間は、まずいないだろう。少なくとも、僕はお目にかかった記憶がない。教師の中にはごく一部いるようだったが、それだって非常に稀有な存在。ゆえに、彼女の友人が極めて少なくなるのは必然だった。中学時代から懇意にしている上田律と楠恭子の二人以外に、友人と呼べる存在ははたしているのか? やはり僕は聞いたことがない。ついでにいうと、律と恭子の二人にしても、手話をマスターしているわけではないんだ。
そんな事情を鑑みて、多くの人間が桐原悠里を可哀そうだとおそらく思うだろう。実際に僕も、そう感じている。だから授業中も、なるべく黒板を見やすいように。また、教壇の声を拾えるようにと、席は一番前にされているらしいし、代わりにノートを取ってサポートする献身なクラスメイトだって中にはいるだろう。
けど、それが限界。
桐原さんって可哀そうだよね。大変だよね。何かできることが有ったら、遠慮なく言ってね。こんな感じに偽善者ぶった台詞を表では並べつつも、本心では皆敬遠している。腹の底ではメンドクサイ奴って思っているし、できることなら関わり合いになりたくない、とすら思っているだろう。
彼女に本気で手を差し伸べる覚悟なんて誰にもないし、むしろ関わってくるなよ、というのが本音。人間なんて、所詮そんなもんだ。
それは僕も同様だった。だからこそ今、とても面倒な状況に遭遇したと心の中で溜め息を漏らし、不平の言葉を並べたて、どうやってこの状況を穏便に切り抜けようかと考えを巡らせているわけなのだが。まあ……完全に無視を決め込むのも良心が咎めるので、軽く会釈をして脇を抜けるつもりだった。
なんで僕の顔をまっすぐ見つめてくるんだよ、と背中に嫌な汗をかきながら。
目は合わせない。
会釈をしながら通り抜ける。
これでお終い、じゃあ、また明日。別に話すつもりもないけれど。
そう、それで全部終わりのはずだった。
ところが彼女。あろう事か僕の右手をがしっと掴んだ。彼女は僕より頭一個分ほど背が低いので、斜め下に引っ張られる格好になってしまい、反動で後ろに仰け反ってしまう。
「ちょっと、桐原さんなんなの!?」
思わず悪態をついて彼女の顔を見た──というか見てしまったというべきか。今までマジマジと顔を覗き込んだこともなかったが、間近で見るとその異様さにいよいよ驚かされる。
一体全体何を考えているのか知る由もないが、この桐原という少女は、頭髪を染めた上に濃い化粧を施している校則ギリギリ、いや、完全にアウトな派手な外見をしているのだ。
光の当たり方次第で銀色にすら見えるアッシュグレイの頭髪。ファンデーションは厚くて元々の肌の色が分からないほどだし、アイシャドウ? とやらもばっちり塗られている。とにかく奇抜そのものだ。
背は低いながら目鼻立ちだって整っているし、正直言って美人寄りだと思う。それだけに、本当に勿体無いと感じる。
普通の髪色に戻せばモテそうなのに、と思ってから自嘲した。障害を持っている時点で難しいんじゃないのかと。どちらにしても、僕には及びも付かない世界の話。あまり深く踏み入らない方が良いに決まってる。
「って言うかさあ。いつまで手、握ってるの?」
発言してから気がついた。「そうか。聞こえないんだっけ……」
手、離してくれないかな? という意思をこめて右手を指差してみると、彼女は耳まで真っ赤になりながらようやく解放してくれた。
じゃあ、と軽く手を振り立ち去ろうとしたところで、再び右手を引かれてもう一度仰け反った。
「もう、なんなの! いい加減にして!」
叫んだあとでもう一度気がつく。あ~……メンドクサイな。懲りずに右手を指差そうとしたそのとき、彼女はポケットから小さめのノートとボールペンを取り出すと、ページを開いてサラサラと文字を書きいれる。
『ごめんなさい』
そうか、筆談ね。いや謝るよりも、先ずは事情を説明して欲しいな。苦笑混じりに彼女の提案に応じた。
『それはいいよ。どうして手を握ったの?』
桐原さんは目を見開いた後で視線を中空に泳がし、恥ずかしそうに手元を隠しながら次の文字を書き入れた。……というか、当然ながら会話の進行が遅いなあ!
『一緒に帰りませんか?』
はあ? と思った。
『なんで?』
『暗い夜道が怖いんです』
本気で言ってるの? と思った。いや、思ってないで書いて伝えればいいんだよな、と考えてから得心した。もしかしたら、音が聞こえない状態で歩く夜道って、物凄く怖いんじゃないかって。
『耳が聞こえないから、暗い場所が怖いの?』
『はい』
桐原さんはニコっと笑って頷くと、次第に首を斜めに傾げ、暫く考え込んだ後にこう書き添えた。
『ママの仕事が忙しくなって、迎えに来られなくなった』
ああ、そっかなるほどね。つまり昨日までは母親が送迎してくれてたんだけど、仕事の関係で来れなくなったわけだ。でもそれだったら、同じ文芸部に所属している同級生……ええと、下平早百合だっけ? 彼女にでも頼めばいいのに。
『下平に頼めば?』
『彼女、電車の時間が早いから、先に帰った』
そうか。アイツ三つ先の駅だったか。
何気に八方塞がりな状況なんだな。つまり一緒に帰ってくれる相手さえいれば、それが誰かは問わないわけか……。そもそも桐原さんって、律と恭子以外に友達いないのかなやっぱり? 伝え聞いた話では、一番仲が良いのは恭子らしいけど。
でも恭子の奴、今日はとっくに帰ったしな。しょうがない、僕が一肌脱ごうか。
『わかった、じゃあ、一緒に帰ろうか』
すると彼女、ぎこちなく口角を上げて、『ありがとう』と告げてくる。
聞こえなくても別に良いか、と思いながら「どういたしまして」と声に出して、同時に筆談した。
『家の場所わかんないから、教えてね』……と。
桐原さんは嬉しそうに顔を綻ばせて頷くと、少し先行気味に歩き始める。僕はやれやれと呟きつつも、彼女の華奢な背中を追いかけた。
* * *
暗い夜道を並んで歩いていく。
当たり前の話ではあるが、二人の間に会話はなかった。
──言葉、通じないしな。
季節は既に十月、朝晩の冷え込みが日々増している今日この頃。時折吹く肌寒さを感じさせる夜風が、剥き出しになっている顔や両の手のひらを凍えさせた。
すっかり日が落ち薄暗くなった街並みは、見ているだけでも心細さを加速させる。大きい通りを歩いているうちは街灯も多いのでそんなに意識しなかったが、小さな路地に入り込むとより一層辺りは暗くなり、気温まで数度下がったように感じられる。
人通りがまったくなく、常夜灯の光だけが所々を照らしている寂しい小路。耳が不自由な桐原さんが一人で歩くのは、さぞかし心細いことだろう。
やがて、小さな児童公園のある場所を通りかかる。
万が一……の話ではあるが、乱暴を目的とした粗野な男が背後から接近でもしてきたら、おそらく彼女は察知できないだろう。
想像してみた。
彼女の背後から近づいて口を塞ぎ、細い両腕を拘束して脇にある公園の中に引きずり込む自分の姿を。彼女のたよりなさげな両肩を見つめながら、それが易々と達成できそうなことに思い至り、僕は身を震わせた。
そのとき桐原さんが突然立ち止まる。首に巻いていたマフラーを外すと、顔を伏せたまま僕に差し出してきた。どうやら、これ使ってもいいよ、と言いたいらしい。
「でも――」と呟いてから、ああ、聞こえないんだと気付いた直後、彼女は手袋で覆われた両手をヒラヒラさせて見せる。
なるほど。私は手袋があるから、まだ平気だよ、と言いたいんだろう。案外と優しいんだな、この娘。僕は『ありがとう』とジェスチャーを送ってからマフラーを受け取った。
首に巻いてみると、彼女の温もりがほんのり残されているようで、思いの外暖かい。ちょっとだけ甘い香りもするようで、僕の胸が少しだけ弾んだ。
桐原さんは口元を微かに綻ばせると、再び背を向けて歩き始める。
彼女の小さな背中を見つめながら、僕は思った。
昨日までのイメージを率直に言うと、この桐原悠里という少女が苦手だった。聴覚障害を持っているという先入観から接しにくいと感じていたし、頭髪は派手な色に染められていて不良みたいだし、化粧はやたらと濃くてビッチみたいな印象だしで、卒業するまで関わり合いになることもないんだろうな……とそう思っていた。
でも……こうして触れ合ってみると、見た目と相反して性格はむしろ素直だし、はっきり言って顔も結構可愛い。これで聴覚障害さえなかったら。もし普通の女の子だったとしたら、男にもちゃんとモテて、何一つ不自由のない生活が送れるのになって。
そう、思った。
「こんな可愛い女の子に、神様って残酷だよな……」
どうせ聞こえないだろうと考え、こんな迂闊な台詞を吐いた。今日の僕はどうかしていると、内心で自嘲しながら。
やがて二十分ほど歩き続けると、彼女の自宅前まで辿り着く。それは築二十年から三十年くらいのオンボロ借家って感じの一軒家。玄関前の柵には錆が所々浮いているし、壁だって薄汚れている。
少し気になったのは、家の中が真っ暗だったこと。両親は二人とも帰りが遅い人なのだろうか?
ありがとうとジェスチャーしながらマフラーを返却すると、桐原さんはぺこりと頭を下げる。サヨウナラと言いたげに手を振りながら、家の中に入って行った。僕は彼女の姿が完全に見えなくなるまで見送ったのち、家の前を後にする。
悴んだ手に息を吐きかけながら考える。ここから駅までは逆方向になるんだよな……と。面倒だな、と思わず悪態が口をついてでるが、存外に、悪い気分でもなかった。
どこか満ち足りた気分で見上げた夜空には、真っ白な満月が浮かび、無数の星が瞬いていた。
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