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終章:あの日見た空の色も青かった

あの日見た空の色も青かった

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 青い空。僅かにたなびく白い雲。雲に負けない程に白い流紋岩で構成される海岸線。細波さざなみの音と視界一杯に広がる白い砂浜。そしてエメラルドグリーンに輝く水面。
 数年ぶりに訪れた岩手県宮古市にある景勝地――浄土ヶ浜の景観は、当時と変わらぬ美しさと感動を、逢坂部の心に送り届けていた。
 季節は夏。あれから五度目となる夏だ。この眩い太陽が輝く季節を迎えると、否が応でも思い出す記憶がある。代わり映えの無い毎日が無味乾燥に過ぎ去っていこうとも、思い出す価値の無い日々が膨大な過去となって積み重なっていこうとも、あの十三日間の記憶を、今でも色褪せることなく鮮明に思い出す。
 毎年八月を迎えると――今でも。

「素晴らしい天気だ」
「そうね。何時来ても綺麗――」

 砂浜に佇み、感嘆の声を漏らした彼に、傍らに寄り添う妻が同意した。


 帆夏と運命的な出会いを果たしたあの夏から瞬く間に月日は流れ、気がつけば、五年もの歳月が過ぎ去っていた。
 五年前に就職を決めた工場には、今も変わらず勤務を続けている。昨年の春頃から、長が付く仕事も任されるようになっていた。
 俺は新しい恋なんて出来ない、そんな風に考えていた日もあった。けれども、彼女の死後まもなく出来た恋人とは、一年ほどの交際を経て四年前に結婚した。入籍後直ぐに、第一子となる長女を授かる。
 仕事が安定するに連れて収入も増え、小さな一軒家ではあるが、マイホームを持つ夢も叶った。

 再就職を決めた年の秋口から、バス事故で犠牲になった人の遺族に対して、二度目となる挨拶まわりを行った。
 反応はそれこそ様々だった。門前払いをされることも多々あったし、露骨に苦い顔をする人も多かった。反面、よく来てくれましたと、半ば歓迎されることもあった。
 逢坂部賢梧という名前を一躍有名にした忌々しいバス事故の記憶も、次第に人々の記憶の中から風化していった。執行猶予期間を無事に終えた現在となっては、この名前を聞いて眉を潜められる事も、最早殆どない。
 僅かずつではあるが、帆夏と過ごした日々を思い出して、感傷に浸ることも少なくなった。もちろん、彼女の事を忘れたことは一度たりともない。忘れるはずがない。――それでも、彼女との思い出を辛い記憶として想起することは、確実に減っていた。
 それはひとえに、逢坂部が辛くなった時や塞ぎこんだ時。常に傍らで寄り添い支え続けてくれた妻のお陰だと彼は思う。彼女にはどんなに感謝をしても、し足りないほどだ。

 浄土ヶ浜のレストハウスで遅めの昼食を済ませ、砂浜を飽きるほど散策した後、南側にある展望台に向かう。
 展望台へと至る坂道を登っていく途中、意図的にコースを逸れた彼は、下草を掻き分けるようにして立ち木の中に踏み入って行く。生えている草はそれなりの背丈があって歩きにくい。

「ぱぱ――」

 不安そうな声を上げた幼い娘を、彼は優しく抱き上げる。

秋音あかね、この先は歩きにくいから、パパが抱っこしてやるからな」

 彼は娘に語りかける。彼女が話してくれた言葉を、そっと思い出しながら。

「展望台からでも十分に綺麗に見えるけど、もっと、とっておきの場所があるんだぞ」

 足場の良くない土や草地の上を歩き続けること数分。辿り着いた場所の景観に、娘が感嘆の声を漏らした。

「きれーい」
「秋音。この場所から見える空と海は、昔パパとお前のおばさんが、一緒に見た景色なんだ。どうだ凄く綺麗だろう?」

 浄土ヶ浜の景観を高い視点から見下ろした。
 林の中にぽっかりと開けた場所から見渡す景色は、当時と変わることなく格別だった。
 真っ白な砂浜には、今日も多くの観光客の姿が見える。海の色は、翡翠のようなエメラルドグリーン。対照的に遠洋の方は、深いマリンブルーに染まっていた。
 こんな高い場所までも、潮騒の音と、砂浜に居る観光客たちの幸せな笑い声が聞こえてくるようだった。

 今日の青の洞窟は、何色に染まっているのだろう。青だろうか、それとも緑だろうか? そう、あの時の色は――ふと、そんなことを思う。

 足場が良いのを確認した後に、抱いていた娘を地面に下ろした。
 娘も、もう間もなく三歳の誕生日を迎える。足場が悪くなければ、自分の足で歩きたい年頃だ。彼女の面影が重なる、内巻きの癖がある頭髪を、優しく撫でた。
 その時のこと。彼と娘から大分遅れていた妻が、ようやく追いついて来た。

「ほら、もうちょっとけっぱれ。足腰が弱いんじゃないのか?」

 逢坂部は振り返ると、息も絶え絶えの妻の様子に、笑って声を掛けた。すると彼女――逢坂部真冬おおさかべまふゆは、頬を膨らましながら答えた。ちょっと拗ねたような口調で。

「しょうがないでしょ……私は体力には……自信が無いんだから。どんどん置いてかないでよね」
「まま、おそいよっ」

 遅れて到着した母親に駆け寄った娘、逢坂部秋音を、真冬は両手で抱きしめた。「ゴメンね、遅くなって」

「うるはしの、海のビロード昆布らは、寂光のはまに、敷かれひかりぬ」

 脈絡なく逢坂部が詠んだ唄に、真冬が怪訝そうな顔をした。

「何それ?」
「1917年にこの地を訪れた宮沢賢治が、昆布の干場として使われた礫浜の風景を詠んだと言われる唄だよ。帆夏が教えてくれたんだ」
「ふ~ん……なんだか姉さんとの思い出ばっかり残ってるみたいで、ちょっとだけ、妬けちゃうな」
「真冬でも嫉妬なんてするんだ?」

 そりゃあ、します。と言った真冬の頭を抱き寄せながら、耳元で彼は囁いた。「愛してる」と。
 一度離れると、二人の目が合った。帆夏と真冬の顔が、不意にダブって見える。こうして度々帆夏の面影を重ねてしまうことに、後ろめたくも感じてはしまうのだけれども。

「キスしたいって思ったでしょ?」
 相変わらず真冬は鋭かった。こんな所まで姉とよく似ている。
「思った」
「しよっか?」
「うん、しよう」

 逢坂部は彼女を抱き寄せると、そっと唇を重ねた。
 なんだかとても懐かしい味がした。懐かしい匂いがした。瞼を閉じると今でもそこに、帆夏が居るような錯覚を時々感じていた。
 堪らずそっと目を開けてみたのだが、真冬はなかなか彼を解放してくれないようだった。笑いながら、妻の髪を優しく撫でる。そして彼は密かに思う。長い季節も時間も乗り越えて、二人の姉妹が俺の事を支え、助けてくれているのかもしれないな――と。

「私ね」と真冬が言った。「目を閉じていると、今でも姉さんが生きているような気がしてくるの」
「奇遇だな、俺もだ」

 そうして二人で瞼を閉じてみると、幻想の中の彼女が囁いた。


 たくさん、苦労をしましたね――
 ああ、たくさん苦労した。無事に再就職は出来たが、そこまでの道のりは平坦ではなかったよ。
 でも、大丈夫だったでしょう? 逢坂部さんなら大丈夫って、私は思ってましたよ。
 ああ、予想していたよりも、大丈夫だった。
 私と初めてキスをした日のこと、覚えてますか?
 もちろんだとも。初めてのキスじゃないのに、酷く緊張していたんだ。たぶん、あんなにも純粋に喜びと切なさに満ちたキスは初めてだった。
 そんなに言われちゃうと、ちょっと照れますね。私も凄く緊張してました。
 今更こんなことを訊くのも野暮かもしれないが、初めてのキスが俺なんかで良かったのか?
 当たり前じゃないですか――。それどころか、もう一度エッチしたかったなあ、なんて思ってますよ。
 ああ、したかったな。まるで初めての夜みたいに、手足が震えて興奮していたんだ。気付いてたか?
 いいえ。私も自分の事で精一杯だったので……。そうそう、真冬とは相性いいですか?
 ああ、大丈夫だよ。何せ、ちょっとした性格の違い以外は、君と瓜二つだしな。
 良かった。でも、なんだか嫉妬しちゃいますね。
 うん、ごめんな。
 私と約束したこと、覚えてますか?
 ああ、覚えてる。
 私をお嫁さんにして欲しいって約束、それから、二年待ったら、迎えに来てくれるって約束。
 結局、どちらも守れなかったな。すまん……。
 いいんですよ。私も、二年間生きるって約束したのに、無理だったんだから。代わりに真冬のこと、宜しくお願いしますね。
 ああ、真冬のことなら任せておけ。
 彼女、ちょっとワガママだけど、性格は悪くないから。
 ああ、知ってる。君と同じで本当は優しいことも、可愛いことも知ってる。
 そうですか。良かったです。

 なあ、帆夏。
 ハイ?
 お前、幸せだったか?
 ……もちろんです。楽しい事がたくさん有りましたし、同じくらい辛い事も一杯有りましたけど、逢坂部さんが私の事を好きだと言ってくれたんだから、そりゃあ、幸せでしたよ。……ああ、そうだ。
 ……どうした?
 約束、一個だけ忘れてました。

『……私の名前、忘れないでね』

 目を開けると、眩い太陽の光が、瞼の裏に一瞬焼きついた。
 次の瞬間、当時の思い出が蘇ってくる。彼女と出逢った奥浄土ヶ浜のバス停。スクーターバイクに跨り、二人で駆けずり回った日々。海辺で抱き合い、何度も抱擁を交わしたこと。二人で泣きながら超えた最後の夜。同時に、帆夏のことを愛しいと想う気持ちも、逢いたいと願う気持ちも、それが五年前、ましてや、夢か幻のような記憶だったとは信じられないほど、ハッキリと思い出すことができた。それはまるで、昨日の出来事のように強く鮮明で、あまりの残照の眩しさに戸惑いを覚えた。

「忘れるわけがないじゃないか」
「ん、なに?」
「いや、なんでもない」

 本当に俺は最低な男だ、と真冬の頭を撫でながら彼は思う。それでも今日だけは、感傷にひたることを許してくれるだろうか?
 そう、二度と忘れない。君の名前も、君と過ごした十三日間の記憶も、もう絶対に忘れることはないだろう。あの日々の前と後ろでは、俺が生きる意味そのものが、まるで変わってしまったのだから。彼女との思い出は、既に俺自身を構成する、大切な一部なのだ。
 五年前の俺は絶望していた。
 先の見えない毎日に、ただただ、塞ぎこんでいた。
 だが其処に、一条の光が射しこんだ。秋音が。真冬が。そして何よりも、帆夏──君が俺のことを愛してくれたからだ。

 空を見上げる。
 人は皆、ちょっとずつ傷ついてる。
 誰にでも平等に、時には残酷に、悲しみも切なさも降りかかる。
 それでも生きてさえいれば、必ず嬉しいこともある。
 人は皆、楽しいことも、幸せな出来事も、辛いことも寂しいことも、全てを受け止め記憶の中に刻みつつも、前だけを向いて生きていく。
 俺も時々は君が残してくれた手紙を読んで、そして君と過ごした日々を思い出して泣いてしまうだろうけれど、それでも俺は、大丈夫だから。決して振り返ることなく、前だけを向いて進んでいく。瞼を閉じれば、何時でも其処に君がいるから。
 何時でも君が、俺の背中を押してくれるから。
 だからどうか、と彼は思う。

「俺のことも忘れないで」――と。

 ありがとう、帆夏。君のことを、君と過ごした日々を忘れない。
 世界で一番、愛してる。
 ずっと――ずっと、愛してる。

 絵の具を塗り広げたように鮮やかな空の色は、あの日と同じように青く澄んでいた。


 あの日見た空の色も青かった。~END~

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