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第三章:彼女の真実に触れる十数日間

あ・い・し・て・る

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 白木沢帆夏が目を開いて最初に感じたのは、自身を取り巻く景色に見覚えがある、ということだった。

 幼少期から高校を卒業するまでの間に何度か訪れた、浄土ヶ浜の海。母親の実家がある岩手県宮古市にある、全国的に有名な景勝地だ。
 季節は夏。眩しい太陽に目を背けつつ自らの姿を見下ろしてみると、普段と特に変わらない自分がいる。友人と比較して少し豊満な胸。中学生時代のセーラー服でも高校の制服でもなく、短大生になってから購入した麻素材でできた白いワンピースを着ていた。
 不思議なこともあるもので、間違いなく十九歳になった現在の自分。
 高校三年の夏を最後に、浄土ヶ浜なんて行ったことが無いのにおかしいな? と帆夏は思う。けど、そこまでを認識したところで、彼女はこれが夢だと気が付いた。
 夢の中で、「ああ、これは夢なんだ」と認識している自分が居る夢。なんだか凄くややこしいけれど、そんな不思議な夢だった。

 夢だからやっぱり、自分に都合の良い展開ばかりおとずれる。
 熱い日射しを避けるように潜り込んだバス停の待合室の屋根の下には、彼が座ったまま居眠りしてた。私の片想いの人、逢坂部賢梧さん。ヤバい、なにこれどうなってんの!? と帆夏は慌てふためく。でもどうせ夢だから、このくらい幸せでも良いのかな?
 加速していく鼓動を必死になだめ、隣に座ってみた。
 心臓の音、聞こえちゃったらどうしよう。そんな不安を隠しながら、そっと顔を覗きこんでみたけれど、彼の寝顔、全然穏やかじゃなかった。だって逢坂部さん、眠ったまま泣いていたから。……ああ、辛いことを思い出しちゃったんだろうな……。帆夏はハンカチを取り出すと、彼の目元を優しく拭った。

 夢だから、場面は不意に切り替わる。
 場所は宮古市の郊外にある川原。子供のように、花火をしながらはしゃぎまわる二人。
 線香花火が輝きを放つのを見つめていると、彼は今度も辛そうな顔をした。私が隣に居る時に、そんな悲しい顔されるのなんかヤダな……。帆夏の心の奥底に、ちりっとした痛みが走る。
 彼は、初恋の人から送られた手紙なんだと茶封筒を取り出した。そんな手紙、見たくないのに本当は……。帆夏の胸中に醜い嫉妬が満ち満ちて、まるで今にも張り裂けそう。
 しゃがみ込んだ姿勢で、手紙の封を切っていく彼。逢坂部の背後から近づくと、彼の背中から両腕を回して抱きついてみる。だって──と彼女は思う。私の泣いている顔、見られたくないもん。
 でも――私より先に彼が泣いちゃった。
 なんか逢坂部さん、涙もろいな、と彼女は思う。平静を装っていても、バス事故のショックをやっぱり強く引き摺っているんだ。ぐっと切ない想いがこみ上げてくると、背中から回した両腕に力がこもる。帆夏は彼の首筋に軽く唇を触れると、極限まで潜めた声で囁いてみる。聞こえないように、そっとね。

「私が居るよ」それから――「大好きです」

 大胆にも、ラブホテルで一夜を過ごす二人。
 けれども別に、何もなかった。帆夏は逢坂部が”変な気”を起こしてきても、受け入れる覚悟を決めていた。でも、私達は恋人同士ではないのだから、と彼の胸に顔を埋めて思う。
 夜になって眠りにつくと、夜半過ぎから雨が降り出した。
 憔悴していた二人の心を慈しむような、静かに振り続ける雨だった。
 屋根をぱたぱたと打つ雨音で目を覚ました帆夏は、隣で眠っている逢坂部を起こさぬよう気遣いながら、上半身だけを起こしてみる。彼の寝顔は、とても穏やかに見えた。たぶん、宮古に来てから初めて見せる、幸せそうな表情だったかもしれない。
 ──だって逢坂部さん、ずっと生きづらそうな顔してたっけもん。
 途端に押し寄せてくる切ない感情が、帆夏の心をひりひりと焼き焦がす。瞼の奥が、熱と潤いを湛える。
 ダメ。昂ぶる気持ちを必死に宥めるけれど、湧き出る想いを止められない。帆夏はそっと彼の頬に顔を寄せていくと、軽く唇を触れた。
 ──大好きです。
 溢れる想いが、言霊となって彼女の口から紡がれる。瞬間零れ落ちた滴を指先で拭うと、再び布団の中に潜り込んだ。
 しとしとと降り続く雨が屋根を叩く音だけが響く中、帆夏は泣きながら眠りについた。

 今度は海に居る夢だ。
 浄土ヶ浜の海に彼と二人きりで海水浴なんて、幾ら妄想の中とは言え、欲張りすぎだと思うんだ、と帆夏は思う。
 今伝えなかったらいつ言うの?
 ありったけの勇気と共に、彼女は思いの丈を言葉に乗せる。「ずっと前から好きでした」これも都合の良い妄想でしょうか? 彼も自分のことを好きだと言ってくれた。
 私の恋愛、報われたのかな? と帆夏の心が喜びで満たされる。現実と夢の狭間を漂うような意識の中、二人は初めてのキスを交わした。檸檬とか苺とかそんなんじゃなくて、ちょっと甘くて切なくて、少しだけ塩辛い潮の味。
 湧き上がる好きが止まらない。何度も何度も唇を重ね、何度も何度も舌を絡めた。一度離れると、透明な糸が引いていた。
 なんか凄くエッチだな。
 ……身体の中芯が熱くなって疼いてる。

 スクーターバイクに跨って、背中から抱きついてる時間が凄く好き。彼の事まるごと全部が、自分のものになった気がするの。
 洋服をお互いにプレゼントしあって。二人並んで映画を見たり。ラーメン店を二人で梯子する。そんな幸せな夢は、どこまでも続いていく。
 バイクの二人乗りで、彼の背中の匂いを嗅いでいる彼女。
 ちょっとだけ混じり合う汗の匂いも全部好き。
 その時、林の中に一人佇む、不思議な女性と目が合った。何故だろう? ふと、帆夏は思った。彼女が見ているもの、そして抱えてる未練は、きっと私と同じもの。
 それはまるで予感、もしくは既視感のように、何となく理解出来た。彼女は事故で命を落とし、そして、想い人と会えなくなったことを未練として抱えてる。
 彼は言った。「あの女性は、幽霊なんだ」と。
 そっか、私もやっぱり幽霊なのかな? そんなことを、ふと思う。

 妄想はどんどん加速する。仕舞いには、民宿の布団の中で抱き合っちゃう私たち。彼が耳元で愛してると囁いてくれる。うん、私も愛してる。彼は二年経ったら迎えに来てくれるって約束してくれたから。
 私もちゃんと頑張るからね。……辛いけど、頑張って待ってるからね。そう、何度でも帆夏は心中で誓う。
 帆夏は彼に奉仕する。
 もちろんした事なんて無いから、やり方も、どうするのが正解なのかもわかんない。でも、彼の表情の変化とか、身体の反応を注意深く観察していれば、どうされると嬉しいのか、心地良いのか、漫然とだけど分かるよ。
 だから色々考えて、悩みながら触れてみるの。
 上目遣いで彼の顔色を窺っていると、時々眉間に皺が寄る。ああ、今の感じで間違ってないのかな、と気がついた彼女は、同じ動きを反芻してみる。反応の深さを目で確かめながら、思いつくこと全部やってみる。でも時々、焦らすように動きを止めてみたりもする。
 ……帆夏ちゃん? とでも言いたげな表情で、見下ろしてくる彼。ちょっとだけ切ない眼差し。
 自分が求められているのかな。そんな気がして嬉しくなって、目尻を下げて彼の唇をこちらから奪った。流石にちょっと意地悪かしら、と帆夏は思う。「……しょうがないですね」なんて囁きながら、彼の体をぎゅっと抱きしめる。

 なんだか二人で、愛の駆け引きをしているみたい。凄く心地よくて、身体の中心が段々と熱くなってくるようで、この時間が永遠に続けば良いな、と帆夏は心中で願う。暖かいこの場所に浸ってしまう。
 彼を安らかな気持ちにさせてあげたい。頭の中が真っ白になっちゃうくらいに、もっと私で一杯にしたいの、と強く願う。

 ……でも、楽しい夢も、そろそろ終わりだよって心の声が告げてくる。

 わかってるよ、五月蝿いな。
 明日になれば、私は元の世界に帰らないといけない。
 そこに行ったら、もう、彼とは会えなくなる。その場所には、私以外の誰も居ないから。でも約束したから、私頑張って二年間生きるからね。
 約束、守ってね。
 ……私の名前、忘れないでね、とそう思う。

 ◇◇◇

 白いカーテンの隙間から射し込む、暖かい日射しで帆夏は眼が覚めた。
 馬鹿みたいに瞼が重たく感じる。それすらもしんどいけど、無理やりにこじ開けてみた。
 ……あれ、私生きてるのかな? ここは何処だろう? 全然、知らない場所だ、と彼女は思う。
 白い壁と、白い天井が見える。聞こえてくるのは、ピー……、ピー……と規則的に鼓膜を叩く電子音。いまだ朦朧とした意識の中で、ああ、ここは病院なんだと認識が思考に追いつく。
 私の最後の記憶ってどれだっけ? スキー場に向かう途中でバス事故に遭ったあれかな? それとも浄土ヶ浜の民宿に居た夜の記憶かな? ああ、こっちはさっきまで見てた夢だったか。

「帆夏……?」

 不意に、彼女を呼ぶ声が聞こえた。顔を動かそうと思ったけれどダメで、強引に視線と意識だけをそっちに持っていこうとする。
 やがて、こちらを見ていた人物と視線が静かに交錯する。
 そこにいたのは帆夏が何時も名前を呼んで欲しいと願っていた、愛しい人の姿だった。あれ、何で? と帆夏は盛大にうろたえた。恥ずかしくて顔を背けようと思ったけれど、もどかしくなるほど体には力が入らなくて。結局は、そのまま見つめてみる。
 逢坂部は慌てた素振りでベッドの傍らまでやって来ると、そんな行動とは対照的に、腫れ物にでも触れるみたいに彼女の指先をそっと握った。触れてる箇所は僅かだけれど、彼の体温がちゃんと感じられる。そんな当たり前のことがなんだか凄く嬉しくて。でも……。そのとき、幾つかの疑問が帆夏の頭の中に浮かんだ。

 ねえ、今って何月?
 ねえ、今日って何日?
 事故の日から、何日経ってるの?
 それから、どうしてここに居るの?
 そうだ、と帆夏は思い出す。二年待ってたら迎えに来てくれるって、逢坂部さん言ってくれたもんね。ちゃんと約束覚えててくれたんだ。……嬉しいな。
 あれ――? でもあれは、夢の中の記憶かな? 本当に二年も経ってるのかな? ねえ……
 伝えたい言葉は幾つも、幾つも帆夏の頭の中を駆け巡るのに、そのどれもがもどかしく思えるほど言葉にならない。
 でもね、と彼女は思う。一個だけわかった事があるよ。
 私の手紙、ちゃんと読んでくれたんだね。
 嬉しいな。喜びの感情が、全身に染み渡っていくみたい。次第に瞼の奥が熱を帯び始めると、彼女の頬を自然と涙が伝い落ちた。

「帆夏、眼が覚めたのか? 大丈夫なのか!?」

 帆夏が感じた不安を払拭するかのように、逢坂部は先程よりもハッキリと名前を呼んだ。
 うん、大丈夫だよ、と返事をしたいのに、喉元で絡むばかりの言葉はやっぱり出てこない。
 ならばせめて、と彼女は思う。彼の手を握り返したい。

 でも……指先をちょっと曲げるのが精一杯かな。何故だろう、全然体に力が入らないんだ。ゴメンね。だからこれで、我慢してね。
 ねえ。
 でも、どうして泣いてるの?
 笑って欲しいな。
 笑ってくれないと、こっちまで悲しくなっちゃうよ。
 しょうがないですね。じゃあ、私から笑おうかって思うんだけど、まったく笑えてる感覚がなくて。
 そうだ、忘れてた。
 私の気持ちを、言葉にして伝えなくちゃ。意識がハッキリしているうちに。
 相変わらず声は出ないけど、口だけを必死に動かした。

「あ・い・し・て・る」――と。

 良かった、ちゃんと言えたかな。
 その時、誰かが病室に駆け込んで来る足音が響き聞こえた。
 途端に全身を、痺れるような倦怠感が包み込んで、また瞼が重くなってきて……身体が凄く重いし、頭の中も真っ白だ。なんだかまた、眠くなってきちゃったな。
 そんな、夢現ゆめうつつな意識の中で、帆夏は思う。
 こうして手を握ることも出来たし、たとえ夢だったとしても、彼との思い出を独り占め出来たんだから、なんだか凄く幸せだな――と。

 ありがとう、逢坂部さん。迎えに来てくれて。
 愛してる。
 ずっと、いつまでも、愛してる。
 これで安心して、もう一度眠れる。

 そして帆夏は、重くなった瞼を閉じた。

「あいしてる」

 それは――白木沢帆夏が残した最後の言葉となった。その後再び彼女が意識を失うと、二度と瞼が開くことは無かった。
 それでも。帆夏は次の日から一週間生き、そのまま、文字通り眠るように息を引き取った。
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