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第三章:彼女の真実に触れる十数日間

610号室①

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 病院へと至る道の両脇には、桜の木が植えられていた。
 今年の春、白木沢帆夏の病室を訪れた時は桜の花が満開だったのだが、今は季節も八月。降り注ぐのは桜の花びらではなく、強い陽射しと蝉時雨せみしぐれ
 やがて真新しい病院の姿が見えてくる。比較的こ綺麗な印象を与える白い建物は、あまり生活感を感じさせなかった。通常の生活から切り離された人達で溢れている空間なのだから、それはむしろ、自然な感性なのだろうが。

 本来であれば、受付に行って面会の意思を伝えるべき所だろうが、それが無駄な行為であると真冬から聞かされていた逢坂部は、病院の自動ドアを潜ると真っ直ぐにエレベーターの方に向かった。
 エレベーターが一階まで降りてくるのを待っている間も、彼は少し落ち着きがなかった。

 最初に首をもたげてくるのは、帆夏に会わせて貰えるだろうか? という不安。『あんた、親に恨まれてるから』彼女の双子の妹、白木沢真冬の言葉が脳内で再生される。
 次に、果たして俺に、彼女と会う資格などあるんだろうか? という疑問。
 面会させて貰えるかどうか以前に、招かれざる客であるという事実が重く肩にのし掛かる。帆夏に重症を負わせ、植物状態に陥らせた張本人。それこそが、俺なのだから。
 最後の不安は、彼女に面会出来たとして、自分に何が出来るのか、という事。
 いやむしろ、何か出来ると考える事自体が傲慢なのだろうか? 俺は医者でもなければ、彼女に経済的支援が出来るほどの金持ちでもない。どれだけ思い悩んだ所で、できることなど何もないんだ。
 それでも俺は……行かなければならない。
 彼は考えを纏めると、エレベーターに乗り六階のボタンを押した。
 六階に到達し、扉が開くと同時に足が竦んだ。行くしかないんだ、と彼は、震え始めた両足を叱咤した。見舞いの花を握りしめ、リノリウムの床を踏みしめる。

 610号室の前に立ち、入口に『白木沢帆夏』のプレートがあるのを確認してから控えめに扉をノックする。応対する声が無く、どうしようかと彼が悩み始めた頃合いに、病室の扉がゆっくりと開いた。
 顔を覗かせたのは四十代前半くらいの女性。肩口まで伸ばされた髪にはやや内巻きの癖がある。瞳は一重で鼻も低いが、あっさりめの整った顔立ち。
 よく似ている上に、初見ではないので直ぐに分かった。白木沢帆夏の母親だ。彼女は逢坂部の姿を認めると、露骨に表情を曇らせた。『少しだけ、待って貰えますか?』と一言告げて、一度病室の中に引っ込んだ。

 そのままの状態で、数分待たされる。
 再び病室の扉が開くと、母親は逢坂部を部屋に招き入れることなく、自分が廊下の方に進み出て来た。この時点で、感じていた不安がより一層強くなる。
 母親は後ろ手に扉を閉めると逢坂部の顔を見上げ、何処か剣呑な眼差しを向けた。

「面会は、受け付けていないはずなのですが……それ以前に、もう来ないで下さいと春にも言いましたよね? どうして来たんですか?」それが母親の第一声。
「病室の場所を真冬さんに訊いて直接来ました。非礼に当たることをまずはお詫びします。それから事故の件につきましても、改めて謝罪します。本当に申し訳ありませんでした。何度頭を下げたところで、意味がない事も分かっています。……ですがせめて、顔を見るだけでも良いんです。帆夏さんに会わせて頂けないでしょうか?」こちらは彼の第一声。

 初っ端から噛み合わない二人の会話。視線が交錯したまま、継げない二の句。人の姿なく静寂に包まれた廊下に、息苦しいまでの緊張感が張り詰める。
 母親は困ったように眉をひそめ、視線を左右に彷徨わせた。やがて逢坂部の目を冷ややかに見据え、溜め息混じりに話し始めた。

「帆夏は事故の日から一度も目が覚めません。大脳の機能は失われていますが、それでも脳幹だけは生きていると言われてます。だから自発的に呼吸も出来ますし、排泄もあります。でも……それだけです。娘の目はもう開きません。もう、泣きません。勿論、話す事も起き上がる事も、出来ません。あなたが頭を下げれば、何か状況は変わりますか? あなたが面会をすれば、娘の目は覚めるんですか? あなたは帆夏に会ったとして、何かできることがあると思うんですか? 答えて下さい……」

 淡々と吐き出すように告げた後、母親は両手で顔を覆うようにして泣き崩れた。
 瞼の奥が熱を帯びる。全く持ってその通りだ。自身が感じていた後ろめたさを全面的に指摘され、逢坂部の思考は完全に停止してしまう。俺は……この家族のためにいったい何ができる?

「……俺が彼女に会ったとしても、なにも状況が変わらないのは分かっています。ですが、せめて一度だけいい。彼女の手を握りたい。直接顔を合わせて、申し訳なかったと伝えたいんです」

 安っぽい台詞だと自分でも思った。気休めにもなりはしない。もう少し気の利いたことが言えないのか? 出来る事は無いのか? と話している途中から嫌気が差していた。

「帰ってください」
「え?」

 あまりにもハッキリとした拒絶の言葉に、逢坂部は一瞬息が詰まる。意識の外側から、間の抜けた言の葉が落ちた。

「聞こえませんでしたか? 帰って下さいと言ったんです。もう顔を見せないで下さい」母親はそのまま病室の扉を開けると、一度だけ振り返って言葉を残した。
「ここ数日、帆夏がほんの僅か、笑顔を見せる時があるんです。口元が綻んだように見える時があるんです。……もしかしたら、私の目にだけ見える錯覚や妄想の類なのかもしれませんけどね。一応、伝えておきます。もし……、状況が好転するような変化が訪れれば、その時はこちらから連絡を入れますので。申し訳ないのですが其れまでは、病室に来ないで下さい。……それでは」
「待って下さい――」

 からからに渇いてしまった喉から搾り出された逢坂部の声は、バタンという扉が閉まる無慈悲な響きによって遮られた。
 ……口元が綻ぶ? 笑顔を見せる?
 母親から告げられた台詞が、ぐるぐると彼の脳裏を駆け巡る。植物状態の患者でも、何らかの反応を示す事例は聞いたことがある。だが、自発的に感情を示すことなどあり得るのだろうか……?
 この瞬間、彼の頭の中に、一つの仮説が浮かびあがる。
 もしかすると帆夏は、夢を見ているんじゃないのか? 二人で過ごした浄土ヶ浜の日々の記憶は、俺と彼女の意識の中で共有されてるんじゃないのか?

 逢坂部は帆夏と過ごした十三日間。いや、もっと以前の記憶まで遡り、もう一度頭の中で再生していく。何か見過ごしていることがあるんじゃないのか? 唐突な予感に襲われていた。
 民宿で過ごした最後の夜。映画館で見た映画。洋品店を巡ったこと。ラーメン屋。青の洞窟。海で交わした初めてのキス。ラブホテルで過ごした一夜。河原での花火。景勝地を二人で巡ったこと。二人の出逢いのバス停……そして、バス事故の日。さらに前後の記憶まで。落下していくバスの中、彼女に手を伸ばす俺……。
 あっ……。
 この段階に至ってようやく逢坂部は気が付いた。未だ、全ての記憶を取り戻してはいなかった事に。

『私の時みたいに、行動しないで後悔しちゃダメだよ』

 その時、不意に思い出される美奈子の言葉。
 ああ、確かに君の言う通りだな、と逢坂部は思う。俺にはまだ、やり残している事があるようだ。ポケットの中にスクーターバイクのカギが入っているのを確認すると、渡せなかった花を握りしめ彼は病院を後にする。
 そして、盛岡駅を目指してバイクを走らせた。
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