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第一章:出会いの日、8月1日

ホテルの一室

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 暗闇が支配しているホテルの一室。ベッドの上にいるのは、生まれたままの姿で抱き合う男女。
 窓一つ無い部屋に存在している明かりは、キャビネットの上に置かれた電気スタンドが投げかける橙色の光のみ。二人の影は境界が曖昧なシルエットとなって、部屋の壁に投影されていた。
 か細くも艶やかな呻き声が、静寂を乱す。二人分の体重を支えるベッドのスプリングが規則正しくきしむ音を奏で、二人は共にとろけるようなリズムに身を任せていた。
 穏やかな快楽の時間は、「……もう」という女性の一言で終わりを迎えた。 
 一つ息を吐き、女性は長い髪をかきあげる。ヘッドボードの端から煙草の箱をたぐり寄せると、一本抜き出して火を点ける。肺の中一杯に煙を溜め込み、続け様に紫煙を吐いた。
 白いもやが闇の中に溶け込んでいくのを見ながら、毛布に潜り込んでいる隣の男性に問い掛けた。

「それで? 明日は何時なんじに出発する予定なの?」

 彼は上半身だけを起こし、痩身をヘッドボードにもたれさせる。彼女の肩に手を回してこう答えた。

「明日の朝七時だ。新幹線の時間が早いから、もう少ししたらホテルを出よう」

 肩に回された手を煩わしそうに見下ろしながら、彼女は物憂げに「そう」とだけ呟いた。口をすぼめて煙をふうと吐き、その後も彼と目を合わせようとしない。
 セックスが淡白だったと責められているんだろうか、そんな不安が彼の心をよぎる。気を取り直すように、「家までは送るよ」と提案してみた。

「当たり前でしょ、そんなの」と言いながら、彼女は再び煙草を咥える。「それとも、『寂しいの、行かないで』とでも、引き留めて欲しい?」
「いや……生憎、そんな風には思わないかな」
「でしょうね」と彼女は事も無げに嘆息した。「まあ……あまり、根を詰めて考えすぎないことね」

 無表情で紫煙を吐き出す彼女の横顔を見ながら、彼――逢坂部賢梧おおさかべけんごは、自分たちに相応しい最後だと思った。

 彼女は逢坂部の二つ年下で、友人の紹介で交際を始めた女性だ。飛び切りの美人では決してないものの、背が高く切れ長の瞳と厚めの唇は、年齢以上に大人びて見える。料理もとても上手く、細やかな気配りの出来る家庭的な女性だった。
 交際をスタートさせてから、もう二年にもなる。話が合わない訳でもなかったし、一緒に居て煩わしく感じるような事もなかった。むしろ、妙な気遣いの要らないサバサバした性格だったため、非常に付き合い易い相手だったとすら言える。
 しかし、彼女に対して愛情を持っていたのかと問われるならば、実に微妙だ。
 土曜日の夜は、時々どちらかの部屋に泊まった。お互いの部屋には二本の歯ブラシが置かれ、彼女の部屋には彼の下着や着替えが何組か置かれ、彼の部屋には彼女が買い置きしたファッション雑誌が山となっていた。
 休日も毎週のようにデートを繰り返し、お互いの身体を何度も重ねた。だがそれでも、寄り添うように過ごして数年経った今ですらも、彼女にトキめくような感情を覚えたことはない。無論結婚について、真剣に考えたことなどなかった。
 だがそれは、相手にしてみても同じだったのだろう。彼女が休日以外に連絡を寄こすことは稀だったし、将来、ましてや結婚について、話題に出してくる事は決してなかった。
 お互いが、お互いの、足りない部分を必要と感じた時だけ埋めあう関係──とでも言えば聞こえは良いのだろうが、セックスフレンドだと指摘されても否定は出来ない。
 一応恋人は居ますので、という大義名分をお互いが必要としていたのか。それとも、儀礼的な付き合いの中にも秘めた感情が存在していたのか? それは現在でも良くわからない。
 だから逢坂部が仕事を辞め、「一ヶ月の日程で田舎を旅行したいんだ」と言い出したこのタイミングは、二人の曖昧な関係に終止符を打つのに丁度良い機会だった。──それだけの事、なのだろう。

 会計を済ませてホテルを出ると、彼が所有している年収相応の中古車に乗り、さいたま市の中心部にある彼女の自宅マンションの前に車を停める。窓の外に視線を向けたまま、彼女が言った。

「もし、『まだ別れたくない』と言ったら、どうする?」
「また、戻るとき連絡するよ──とでも言えば良いのだろうけど、生憎、どうとも思わないかな。だって、君がそんなことを言い出すとは、到底思えないから」

 すると彼女は口元をキュっと結んで、複雑な感情を笑みの中に混ぜた。

「なるほど、賢梧らしい返答だわ。最後まで私に感心を示してくれないのは、ちょっとだけ悔しいけれど。だって……昨日私が髪を切ったことにすら、気付いてないんだもの。それじゃあ──」

 少し淋しそうな声音に聞こえたのは、彼の胸中を支配する感傷のせいだろうか。助手席から降りたあと彼女は、最後にひとつだけ言葉を残した。

「まあ、心配しなくても、そんな未練がましいことは言わないわ。さようなら、二年間ありがとう。それなりに楽しかったわ」

 バタンと安っぽい音を立てて、助手席の扉が閉じた。とたん、車内を静寂が包みこむ。

「それなりに……か」

 気まずさを紛らわす目的でカーラジオの電源を入れると、そこから流れ出したニュースの内容に彼は眉をひそめた。
 伝えられていたのは、今年の一月に発生したバス事故。
 音声は、幸いにも軽傷で済んだ乗客のインタビュー。事故以降に取り組まれるようになったバス運行会社各社の安全対策の有り方について報じ続ける。
 当時の出来事を思い出させる報道に、事故現場の映像が彼の脳裏にも蘇る。
 県道から滑落して横転したバスの姿。
 ひしゃげた車体と血痕が付着した車内の映像。泣き叫ぶ人の声に満ちた事故直後の車内は、阿鼻叫喚という名が相応しい状況だったのだという。
 事故の原因は、運転手による操作ミスであると伝えられていた。
 だがその裏では、バス運行会社の無謀な運行計画、ずさんな管理体制等々も露呈しており、責任の是非を問う声もあがっていた。
 死亡者は若い男女を中心に八人にものぼったこと。会社側が当初、一切の責任を認めようとしなかったことも影響し、今日までワイドショーを賑わせる結果となっている。

『ところでキャスターの山本さんは、事故当時の逢坂部被告の精神状態について、どう分析されていますか?』

 ラジオの報道から自分の名前が出てきた事に、逢坂部は苦い笑みを零した。反射的にラジオのチャンネルを変えると、陽気な音楽を流した。
「せっかく、忘れ始めた頃合いだったのにな」
 全国放送の番組が嘘を報じるわけもない。バス事故を起こした運転手というのが、他ならぬ彼の事だった。
 事故の日を境に、彼の人生は文字通り一変してしまう。彼の名前は被告として繰り返し報道され、瞬く間に有名人となってしまったのだから。半年以上経過した今となってなお、胸に強い痛みをともなう辛い記憶だった。
 報道されている内容は、概ね、真実だった。
 バス会社の運行計画がずさんだった事も。
 死傷者の数が過去最大級の、悲惨な事故だった事も。
 その責任を問われる形で、彼が会社を辞めざるを得なくなった事も。
 被害者遺族への挨拶周りも、春先に済ませた。ひと悶着あったものの、慰謝料もバス運営会社から無事支払われた。

「……これ以上、何をしたら良いというんだ?」

 不満気に逢坂部は呟いた。だが、彼の意見も至極真っ当だ。個人の責任能力で出来る事は、既に終えているとも言えた。
 逢坂部はひとつ溜め息を落とすと、辛い記憶を心の引き出しに仕舞い込んだ。
 ──忘れよう。その為に旅行に出るのだから。
 決して消すことの出来ない罪だが、何時までも過去のニュースに心乱されている場合でもない。実際に明日は、早起きが必要なのだ。
 荷物はもう纏めてはいるものの、寝坊なんてしたら洒落にもならない。
 通り雨でもあったのだろう。僅かに濡れた路面に淡い光を投げかける常夜灯の灯を見上げながら、逢坂部はそう思った。
 静かに車を発進させると、暗い夜道の中、自宅アパートを目指して走り続けた。
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