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【初めて胸が痛んだ、あの日の記憶】
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トリエストと呼ばれる島がある。
錬金術と呼ばれる簡易的な機械文明と、誰しも体内に持っているといわれる力――『魔力』――を活性化して使役される『魔法』によって栄えている島だ。
かつて長きに渡って戦乱の時代が続いていたこの島も、複数の王国によって分割統治されるようになってから一時の平穏を取り戻していた。しかし、平和な時代が訪れたことに一息ついたタイミングで、新たな戦乱の嵐が吹いた。
戦乱を起こした元凶は、島の西南部を支配していたディルガライスと言う名の帝国。
前皇帝亡きあと、歳若い王子が皇帝として即位するや否や、トリエスト統一を掲げて侵攻を開始したのである。若き皇帝に率いられた軍隊は破竹の勢いで勝ち進み、瞬く間に西方にある都市国家群までを併合してしまう。
争いも、飢餓もなく平和に暮らしていた人々は、突如始まった若き皇帝の侵略行動に恐怖し、忌まわしい戦乱の時代の幕開けを予感しなければならなかった。
だが、帝国の快進撃も長くは続かなかった。島の西端を支配しているエストリア王国の激しい抵抗に遭い、いったん軍を引くことになる。かくして両国のにらみ合いが続くなか、島は再び平穏の時を迎えようとしていた。
それでも、一度高まった戦争への気運はいまだ熱を引くことはなく、相応に治安が悪化していく中で、それまで曖昧な存在でしかなかった傭兵や冒険者の価値観が、大幅に見直される結果を生んだのである。
思えば、『ヒートストローク』の名声が一度に高まった要因に、不安定な世相による追い風があったことは否定できない。構成メンバーの全員が女性、という事情も、人目を惹く結果になったのだろう。
でも──「私には関係ないこと」
カノンはひとつ、呟きを漏らした。
本が数冊入っているだけの書棚と飾り気のない机。
痛みの目立つ古びた箪笥に、シンプルなデザインのベッド。
殺風景で薄暗いこの六畳間が、カノンの自室だった。
東側にある窓の前に立ちカーテンを開けてみたが、隣にある二階建て家屋の影となって日光は殆ど差し込んでこない。
鏡台の前に腰掛け、光を鈍くしか反射しない、くすんだ鏡に映った自分の姿をじっと見つめる。
いつにも増して表情が死んでいるな、とカノンは思う。
鏡台の引き出しから口紅を取り出すと、唇の輪郭をなぞるように薄く塗ってみた。それは、彼女がただ一つ持っている化粧品だ。
他人の目を人一倍気にするくせに、服装や身だしなみに気を遣うことも、お金をかけることもなかった。
カノンの家は貧しかったから。そしてなにより、自分の容姿や性格に失望していたからだ。
息を吐き、立ち上がる。
箪笥の引き出しを開けて外出用の服を探すが、ほころびの目立つ服しかない。止む無く最近知り合いから貰った、黒いワンピースを取り出して袖を通した。
黒。なんだか少し陰気な色だな、とカノンは思う。でもある意味、自分にお似合いかも。
玄関口で黒いシューズを履いて家を出る。街まで食材の買い出しに行くのだ。
「行ってきます」と一応家の中に声を届けたが、これといって返事は無かった。
親友であるコノハと最初に出会ったのは、カノンがまだ六歳だったころ。場所は、読み書きを習う学習塾だった。
「わたしと友だちになろう」
そう言って、小さな手を差し出してきたコノハを初めて見た時の衝撃を、今でもカノンは忘れられない。
情熱的な炎を連想させる、真紅の長い髪。
陶器のごとく白い肌に、透き通ったエメラルドグリーンの瞳。
お人形さんみたいだな、と最初に思った。母親譲りの艶のある黒髪がそれまで彼女の自慢だったが、コノハの人目を惹く容姿は、自分とは異質の存在感を放っていた。
すっかり意気投合した二人。お互いの自宅は決して近い距離ではなかったものの、塾の無い日も一緒に過ごすことが多くなっていった。
コノハの祖父が、この街で著名な錬金術師であると同時に、発明家でもあると知ったのは、数ヶ月してからのこと。
彼の発明品を並べている工房にお邪魔すると、祖父は、ひとつひとつ手に取りながら、丁寧に使い方を説明してくれた。
美しい容姿を持ち。性格は明るく。優しい祖父も居る友人のことをカノンは羨ましいと思ったし、彼女の友人でいられることを、どこか誇らしく感じた。
家が貧しくて性格も大人しかったカノンにとって、コノハは全てが正反対の存在だった。
港街ブレスト。その東の外れに、カノンの家はあった。
ブレストはエストリア王国第二の都市であり、商業都市として栄える経済の中心地だ。近隣の国家から様々な貿易品が陸揚げされ、街の周辺に古代遺跡が多く存在することから、冒険者の街としても知られている。冒険者通りと呼ばれるメインストリートで買い物をすれば、冒険に必要な装備品が一式揃う、とまで言われていた。
カノンは自宅を出た後、西の方角を目指して歩いた。このまま中央広場にいったん抜けたあと、街の中心を走る冒険者通りに出て買い物をするつもりだった。
西日が次第に強くなる中、オレンジ色に染められた石畳の上に、自分の影法師が長く伸びた。楽しそうにはしゃぎまわる子供達の声。夕飯に備えて買い物をする主婦たちのひそひそ話。
様々な喧騒で満たされるなか、石畳を叩いている自分の靴音が、やたらと耳障りに感じられた。
そうだ、とカノンは思う。あの日も確か、こんな感じの綺麗な夕焼け空だった。
沈みかけの夕陽に目を向けて、数年前の記憶を想起していった。
◇
――カノンは十歳になっていた。
晴天の空の下、街外れにある丘の上にカノンは居た。
傍らで親友の少女が固唾を飲んで見守るなか、魔法使いの杖を片手に集中力を高めていく。
「生命の源たる大地の神よ……我の呼びかけに応え、力を与えたまえ……」
詠唱の旋律が軽やかに響くと、カノンの呼びかけに応じて足元の地面が僅かに隆起した。頭くらいの大きさの石が、十センチほどズリっと音を立て動いた。
それを見たカノンの顔が、真夏に咲いた花のように綻んだ。
「コノハ見た? ちょっとだけだけど……確かに今動いたよね?」
「うん! 動いた! 動いた! ついにカノンも、魔法が使えるようになったんだねえ!」
いいな~いいな~と快活な声をあげ、親友の少女がくるくると円を描くようにしてカノンの周囲を回る。地面に残された石が動いた痕跡を、しげしげと観察している。
「私にも、出来るかな……?」親友の少女――コノハは不意に足を止めると、首を傾げて呟いた。
「そんな簡単に動かせないよ。私だって、石をこうして動かせるようになるまで、凄く時間がかかったし努力したんだからね!」
カノンは、自身の小さな胸を張る。
研鑽を重ねてきたことは事実だ。半年前から、魔法使いを育成する学校――魔法学院に通い始めていたカノンは、基礎知識の習熟が誰よりも早いと先生にも驚かれていた。一方で、実技では他の生徒より成長が遅いことも自覚していた。それだけに、人一倍努力をしてきたのだ。
そんな、カノンの思いを知ってか知らずか、コノハは自分の杖を取り出すと、カノンの真似事を始めた。
「生命の源たる大地の神よ……我の呼びかけに応え、力を与えたまえ……」
トーンの高い詠唱が、夏空に弾ける。
初級コースをようやく脱して、コノハが魔法使いの杖を与えられたのはつい先日のこと。
「せんな簡単にできるようにはならないよ」と余裕綽々カノンがほくそ笑んだそのとき、石はさっきよりも明らかに大きく動いた。
「わっ……出来た! 私にも出来たよ! きっと、カノンがやってるのを見て真似したからなんだね!」
かろうじて「そうだね」と称賛の言葉を送るも、カノンの胸中で複雑な感情がわだかまる。
――コノハはいつもそう。私と同じことを始めて、私の真似事をして、それなのに、いつの間にか私を追い越してしまう。
最初に出来るようになるのは私。でも……最終的に上手くなっているのは、いつも彼女。
この当時のカノンの夢は、魔法使いになることであると同時に、ゆくゆくは立派な冒険者になることだった。
家計が苦しいなか、無理を言って授業料の高い魔法学院に通わせてもらった。
しかし彼女の夢は、この日を境に口に出されることは少なくなった。
これは、親友に対して、初めて胸の焼けるような感覚を覚えた日の記憶。
◇
不意に、胸の辺りを強い痛みが襲った。
呼吸が浅くなる。心臓が、自分の意思を超えて暴れ出す。
膝をつきたくなる衝動を必死にこらえ、左手に嵌めている指輪を慈しむように撫でた。数週間前に、街角で貰ったこの指輪に触れていると、不思議と心が安らいでくる。
大丈夫。私は出来る。間違ってなんかない……!
揺らぎそうになっていた体に、力が漲ってくるのがわかった。
過去の呪縛を振り払うように頭を左右に振ると、カノンは再び歩き始めた。
錬金術と呼ばれる簡易的な機械文明と、誰しも体内に持っているといわれる力――『魔力』――を活性化して使役される『魔法』によって栄えている島だ。
かつて長きに渡って戦乱の時代が続いていたこの島も、複数の王国によって分割統治されるようになってから一時の平穏を取り戻していた。しかし、平和な時代が訪れたことに一息ついたタイミングで、新たな戦乱の嵐が吹いた。
戦乱を起こした元凶は、島の西南部を支配していたディルガライスと言う名の帝国。
前皇帝亡きあと、歳若い王子が皇帝として即位するや否や、トリエスト統一を掲げて侵攻を開始したのである。若き皇帝に率いられた軍隊は破竹の勢いで勝ち進み、瞬く間に西方にある都市国家群までを併合してしまう。
争いも、飢餓もなく平和に暮らしていた人々は、突如始まった若き皇帝の侵略行動に恐怖し、忌まわしい戦乱の時代の幕開けを予感しなければならなかった。
だが、帝国の快進撃も長くは続かなかった。島の西端を支配しているエストリア王国の激しい抵抗に遭い、いったん軍を引くことになる。かくして両国のにらみ合いが続くなか、島は再び平穏の時を迎えようとしていた。
それでも、一度高まった戦争への気運はいまだ熱を引くことはなく、相応に治安が悪化していく中で、それまで曖昧な存在でしかなかった傭兵や冒険者の価値観が、大幅に見直される結果を生んだのである。
思えば、『ヒートストローク』の名声が一度に高まった要因に、不安定な世相による追い風があったことは否定できない。構成メンバーの全員が女性、という事情も、人目を惹く結果になったのだろう。
でも──「私には関係ないこと」
カノンはひとつ、呟きを漏らした。
本が数冊入っているだけの書棚と飾り気のない机。
痛みの目立つ古びた箪笥に、シンプルなデザインのベッド。
殺風景で薄暗いこの六畳間が、カノンの自室だった。
東側にある窓の前に立ちカーテンを開けてみたが、隣にある二階建て家屋の影となって日光は殆ど差し込んでこない。
鏡台の前に腰掛け、光を鈍くしか反射しない、くすんだ鏡に映った自分の姿をじっと見つめる。
いつにも増して表情が死んでいるな、とカノンは思う。
鏡台の引き出しから口紅を取り出すと、唇の輪郭をなぞるように薄く塗ってみた。それは、彼女がただ一つ持っている化粧品だ。
他人の目を人一倍気にするくせに、服装や身だしなみに気を遣うことも、お金をかけることもなかった。
カノンの家は貧しかったから。そしてなにより、自分の容姿や性格に失望していたからだ。
息を吐き、立ち上がる。
箪笥の引き出しを開けて外出用の服を探すが、ほころびの目立つ服しかない。止む無く最近知り合いから貰った、黒いワンピースを取り出して袖を通した。
黒。なんだか少し陰気な色だな、とカノンは思う。でもある意味、自分にお似合いかも。
玄関口で黒いシューズを履いて家を出る。街まで食材の買い出しに行くのだ。
「行ってきます」と一応家の中に声を届けたが、これといって返事は無かった。
親友であるコノハと最初に出会ったのは、カノンがまだ六歳だったころ。場所は、読み書きを習う学習塾だった。
「わたしと友だちになろう」
そう言って、小さな手を差し出してきたコノハを初めて見た時の衝撃を、今でもカノンは忘れられない。
情熱的な炎を連想させる、真紅の長い髪。
陶器のごとく白い肌に、透き通ったエメラルドグリーンの瞳。
お人形さんみたいだな、と最初に思った。母親譲りの艶のある黒髪がそれまで彼女の自慢だったが、コノハの人目を惹く容姿は、自分とは異質の存在感を放っていた。
すっかり意気投合した二人。お互いの自宅は決して近い距離ではなかったものの、塾の無い日も一緒に過ごすことが多くなっていった。
コノハの祖父が、この街で著名な錬金術師であると同時に、発明家でもあると知ったのは、数ヶ月してからのこと。
彼の発明品を並べている工房にお邪魔すると、祖父は、ひとつひとつ手に取りながら、丁寧に使い方を説明してくれた。
美しい容姿を持ち。性格は明るく。優しい祖父も居る友人のことをカノンは羨ましいと思ったし、彼女の友人でいられることを、どこか誇らしく感じた。
家が貧しくて性格も大人しかったカノンにとって、コノハは全てが正反対の存在だった。
港街ブレスト。その東の外れに、カノンの家はあった。
ブレストはエストリア王国第二の都市であり、商業都市として栄える経済の中心地だ。近隣の国家から様々な貿易品が陸揚げされ、街の周辺に古代遺跡が多く存在することから、冒険者の街としても知られている。冒険者通りと呼ばれるメインストリートで買い物をすれば、冒険に必要な装備品が一式揃う、とまで言われていた。
カノンは自宅を出た後、西の方角を目指して歩いた。このまま中央広場にいったん抜けたあと、街の中心を走る冒険者通りに出て買い物をするつもりだった。
西日が次第に強くなる中、オレンジ色に染められた石畳の上に、自分の影法師が長く伸びた。楽しそうにはしゃぎまわる子供達の声。夕飯に備えて買い物をする主婦たちのひそひそ話。
様々な喧騒で満たされるなか、石畳を叩いている自分の靴音が、やたらと耳障りに感じられた。
そうだ、とカノンは思う。あの日も確か、こんな感じの綺麗な夕焼け空だった。
沈みかけの夕陽に目を向けて、数年前の記憶を想起していった。
◇
――カノンは十歳になっていた。
晴天の空の下、街外れにある丘の上にカノンは居た。
傍らで親友の少女が固唾を飲んで見守るなか、魔法使いの杖を片手に集中力を高めていく。
「生命の源たる大地の神よ……我の呼びかけに応え、力を与えたまえ……」
詠唱の旋律が軽やかに響くと、カノンの呼びかけに応じて足元の地面が僅かに隆起した。頭くらいの大きさの石が、十センチほどズリっと音を立て動いた。
それを見たカノンの顔が、真夏に咲いた花のように綻んだ。
「コノハ見た? ちょっとだけだけど……確かに今動いたよね?」
「うん! 動いた! 動いた! ついにカノンも、魔法が使えるようになったんだねえ!」
いいな~いいな~と快活な声をあげ、親友の少女がくるくると円を描くようにしてカノンの周囲を回る。地面に残された石が動いた痕跡を、しげしげと観察している。
「私にも、出来るかな……?」親友の少女――コノハは不意に足を止めると、首を傾げて呟いた。
「そんな簡単に動かせないよ。私だって、石をこうして動かせるようになるまで、凄く時間がかかったし努力したんだからね!」
カノンは、自身の小さな胸を張る。
研鑽を重ねてきたことは事実だ。半年前から、魔法使いを育成する学校――魔法学院に通い始めていたカノンは、基礎知識の習熟が誰よりも早いと先生にも驚かれていた。一方で、実技では他の生徒より成長が遅いことも自覚していた。それだけに、人一倍努力をしてきたのだ。
そんな、カノンの思いを知ってか知らずか、コノハは自分の杖を取り出すと、カノンの真似事を始めた。
「生命の源たる大地の神よ……我の呼びかけに応え、力を与えたまえ……」
トーンの高い詠唱が、夏空に弾ける。
初級コースをようやく脱して、コノハが魔法使いの杖を与えられたのはつい先日のこと。
「せんな簡単にできるようにはならないよ」と余裕綽々カノンがほくそ笑んだそのとき、石はさっきよりも明らかに大きく動いた。
「わっ……出来た! 私にも出来たよ! きっと、カノンがやってるのを見て真似したからなんだね!」
かろうじて「そうだね」と称賛の言葉を送るも、カノンの胸中で複雑な感情がわだかまる。
――コノハはいつもそう。私と同じことを始めて、私の真似事をして、それなのに、いつの間にか私を追い越してしまう。
最初に出来るようになるのは私。でも……最終的に上手くなっているのは、いつも彼女。
この当時のカノンの夢は、魔法使いになることであると同時に、ゆくゆくは立派な冒険者になることだった。
家計が苦しいなか、無理を言って授業料の高い魔法学院に通わせてもらった。
しかし彼女の夢は、この日を境に口に出されることは少なくなった。
これは、親友に対して、初めて胸の焼けるような感覚を覚えた日の記憶。
◇
不意に、胸の辺りを強い痛みが襲った。
呼吸が浅くなる。心臓が、自分の意思を超えて暴れ出す。
膝をつきたくなる衝動を必死にこらえ、左手に嵌めている指輪を慈しむように撫でた。数週間前に、街角で貰ったこの指輪に触れていると、不思議と心が安らいでくる。
大丈夫。私は出来る。間違ってなんかない……!
揺らぎそうになっていた体に、力が漲ってくるのがわかった。
過去の呪縛を振り払うように頭を左右に振ると、カノンは再び歩き始めた。
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