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エピローグ:最高の思いでを──
【十年後、季節は夏】
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僕が高校二年生の年の冬。バドミントン部の冬季練習で訪れた市内の体育館の壁に、一枚のポスターが貼り出されていた。
それは、全国高等学校選抜バドミントン大会の開催を告知するポスターだった。大会日時や会場が印刷された紙の中央には、ラケットを大きく振りかぶって跳躍する男子生徒の姿が描かれていた。
青系統の色のみを用いて人物を表現しており、背景も一切描かれていない。その為初見の感想としては、淡い──というか、見る人によっては物足りない、という印象すら抱きそうな水彩画。
青の他に使われている色が、瞳やラケット等極一部に用いられている白や黒といったモノトーン色である事もそんな印象に拍車をかける。
だが──違う。そう判断をくだすのは些か早計。驚きで、僕の目がポスターの中心に釘付けになる。
この絵の凄いところは、第一に、恐ろしいまでに整った構図。
様々なぼかしの技術を水彩画全域に使った表現方法に至ってはもはや圧巻。単色で柔らかな色使いをしつつも、なおしっかりとした陰影を描きだしている。
敢えて色数を抑え、全体の雰囲気を淡く儚く演出することにより、絵の向こう側に存在している情景を、見る者に想像させようとしているのかもしれない。
むしろ、こんな考察をさせられている時点で、作者の術中に嵌っているとすらいえる。絵に詳しくない僕でもわかった。これを描いた人物は、只者ではない。
「なんだ、コレ」
衝撃が強すぎて、意識の外から声が漏れた。
また、同時に感じた二つの違和感。
モデルになっている人物が着ているユニフォームのデザインと、水彩画の画風。その両方に、もの凄く心当たりがあった。
慌ててポスターの下端部を確認すると、福岡にある公立高校の名称と一緒に、馴染みのある女子生徒の名前が作者名として添えられていた。
――水瀬茉莉。
それは、あまりにも不意打ちのサプライズ。
いつの間に──こんな。
僕の視界が、強く滲んだ。
◇◇◇
そして、今日もまた日は沈む。
一日の役割を終えた太陽が、山間に沈もうとしていた。
昼と夜の色が混じり合う空の向こう、そのまた先の空の下、君は何を思っているのだろう。
君は今、笑っているのだろうか。
君も今、僕の事を思い、空を見上げているのだろうか。
黄昏の色が濃くなり始めた空に、一番星が瞬く。それは、二人で見上げたあの日の星よりも、力強く輝いているように見えた。
どこかひとつになりきれない家族の姿。
どんなに月日が経とうとも、決して癒されることのない母さんの心の傷。
本当の家族であると同時に男である僕が、母さんを守っていかなくちゃいけないんだと、どこか気負って生きてきたようにも思う。
そんな中、出会ったのが君だった。
ファイアーストームの傍らで交わした二度目のキス。あの瞬間僕は、自分が生きてきたことの意味がわかった気がした。君と全てを分かち合えたように感じ、触れあった唇から君の温もりがじんわりと染み渡ってくると、氷のような冷たさを持って胸中を支配していた不安や焦燥が、緩やかに溶けだしていくのを感じた。負の感情全てが消えさった後に残されていたのは、彼女の存在と、柔らかな唇の感触だけ。それはあまりにも濃厚で、純粋な喜びに満ち溢れた特別なキスだったのだ。後にも先にもない、鮮烈な印象を残したたった一つの輝き。
次の日から僕は一人で気負うことを止め、次第に僕たち家族も、本当の意味でひとつになり始めたように思う。今となっては、僕と父さんとの会話に余所余所しい風が吹くこともない。
この出会いを奇跡と呼ばずして、いったい何を奇跡と呼ぶのだろう?
いつか僕と君も、血縁と向き合わなくてはならない日がくるのかもしれない。
でも、そんな日はきっとやって来ない。
いや、やって来ることがないよう、僕が阻止する。
何故ならば、たったいま僕は捨て去ったのだから。
真実を知る、という選択肢を。
この世の中は、僕たちが思うより様々な不条理で満ちている。知らなくて良い真実だって、知らない方が幸せでいられることだってたくさんあるはずなんだ。
だから僕は、真実に蓋をする。
それでもやがて、僕たちの関係に誰かが気づき、咎め、世界中の人々が敵にまわる日がもし来るとしたら、その時は僕が法を打ち破る剣となる。
君のことは、必ず僕が護る。
笑顔を取り戻した君のことを必ず護る。
今は寂しいだろうけれど、辛いだろうけれど、僕だって本当は辛いけれど、あともう少しだけ待っていてください。高校を卒業したら必ず迎えにいきます。僕の、愛しい──恋人。
◇◇◇
それから時は流れ、十年──。
季節は──夏。八月の後半。
世俗的な明かりの存在しないその空間では、瞬く星座の光も、月の姿も、いつもよりハッキリと見えていた。
上天には雲ひとつない星空が広がり、一望できる丘の上には、紫色の花が無数に咲き乱れている。
月と星々が仄かな明かりを投げ掛ける若草色の絨毯の上を、瞳を輝かせながら幼い娘が走り抜けていく。
清涼感溢れる水色のワンピースから覗いて見えるのはほっそりとした手足。年齢は、今年でようやく五歳。全体的に華奢な造りの体は、完全に母親譲りだ。肩口まで伸ばされた癖毛の髪が、風に煽られふわりと揺れた。
娘は走ったことでずり落ちた麦わら帽子を被り直すと、足を止め、少し遅れて着いて来た僕に声をかける。
「むらさきいろの花と、白い花と青い花? きれーい」
「気に入ったかい? 朱莉」
「うん!」
花を付けている植物の樹高は、三十センチから五十センチほどだろうか。朱莉は花の傍らにしゃがみ込むと、枝一杯につけた紫紺の花びらにそっと手を伸ばす。
「ああ、素手で触っちゃダメだよ。見た目は綺麗に見えるけれど、花全体にどくがあるからね」
「え~……こわーい」
少々きつく言い過ぎただろうか。朱莉は怯えたようにぱっと手を引っ込めた。
「ママと一緒」
「それって、どういう意味よ」
流石にそれは聞き捨てならない、とばかりに、僕の隣に進み出た妻が苦笑いで応える。
「ねえ、ママ。この花の名前、なんていうの?」
「これはね、夜になると強い芳香を放つ種類の花で、匂蕃茉莉という名前なのよ。──ああ、ごめんなさい。朱莉にはちょっと難しい話だったわね」
「んー……なんとなく、わかる。そっか。ママと似てる名前なんだね。やっぱり、どくがある」
「うん、そうねえ。じゃなくて、だからどういう意味よ」
白磁のごとく色白な肌をした母娘の姿を、仄かな月明かりがより一層白く幻想的に照らしだした。
遺伝による病の発症を密かに僕は心配していたが、幸いにも今のところ、娘に相貌失認の症状はでていない。だが、この先もし発症するようなことがあったとしても、僕たちなら乗り越えていけると思う。長年病と付き合い続けたエキスパートが、ここに二人も揃っているのだから。
「あ、ほたる」と朱莉が驚いたように言う。
「あら、本当ね」と妻が娘の声に柔らかな笑みを浮かべる。
儚げに明滅を繰り返す二つの光源が、匂蕃茉莉の花の上を、まるで寄り添うように飛んでいた。
「こんな場所で、珍しいな」ここから近い場所に、水源なんてあったかな、と僕は思う。「ねえ」
「ん、なあに?」
妻がこちらに顔を向けたその時、強い夜の風が吹いた。
丘の上を抜けていく一陣の風が、涼しさと一緒に夏のオワリを運んでくる。ジャスミンとよく似た芳香が花からわき立ち、懐かしさをはらんで鼻腔をくすぐる。
『──夏の終わり 月が見えるあの夜の丘で、君と二人将来の夢を語り合ったね 十年後の夏も またこの場所で会おうと交わした二人だけの約束……』
その時不意に、後夜祭の最後に聴いた徹の歌声が脳内でリフレインした。あの当時と変わらぬ懐かしい響きで。
徹は東京にある体育大学を卒業後、本人の夢が叶い体育教師になっていた。元々子供好きで面倒見の良い彼のこと。人伝に聞こえてくる評判も概ね上々だ。今後、さらに良い教師になっていくことだろう、と僕は思う。
稔は、父親が部長職をしている工場で忙しく勤務する傍ら、絵画教室の講師をしている。今も北海道在住のため連絡を取り合うのはもっぱらSNSだが、たびたび、生徒と撮影した仲良さげなツーショット写真をアップしているところを見るに、まあ、元気でやっているんだろう。
生徒は大半が中高生らしいので、流石にそこに手を出せなんて言える訳もないが、さっさと所帯を持てばいいのに、と常日頃よけいなことを思っている。
一方で、既に人妻となったのは木下朱里。彼女は主婦として忙しない日々を送りながら、今も変わることなく漫画を描き続けている。つい先日の話だ。たゆまぬ努力の甲斐あって、とある雑誌社の新人賞で佳作を受賞した。
所詮佳作なんて言うなかれ、最終選考に残るだけでも大変なんだぞ、というのは彼女の弁。ようやく朱里も羽ばたき始めたんだな、と自分の事のように嬉しくなったのを覚えている。
僕たち全員が再び顔を揃える夢は、いまもまだ叶っていない。それでも──と、隣で佇む妻に目を向ける。それに気付いた妻が、僕の方を見て微笑み返す。
あの日、君と僕が思い描いていた将来は、きっとこんな感じの他愛もない日常で。けれど、立ちはだかる壁が、困難が大きかったぶんだけ、そこには大きな希望がこめられていたんだ。
生きていくということは、時として強い痛みをともなうものだ。そのことを僕たちは、身をもって体感した。
それでも明るい未来を信じて頑張っていれば、こうして報われる日がやってくる。
今日、聞いた花の名前が。無数の花が咲き乱れる夜の丘の光景が。十年後も色褪せぬ最高の思い出となって、娘の脳裏に焼き付けばいいな、と僕は密かに願う。
十年後の夏もまた、みんなでこの場所に来られると信じて。
月は、またとない満月だった。
郷愁とよく似た念とともに思い出される、あの日と同じ、まんまるな──月。
「茉莉。愛してる」
最高の──思い出を。
その花は、夜にこそ咲き、強く香る。 ~END~
それは、全国高等学校選抜バドミントン大会の開催を告知するポスターだった。大会日時や会場が印刷された紙の中央には、ラケットを大きく振りかぶって跳躍する男子生徒の姿が描かれていた。
青系統の色のみを用いて人物を表現しており、背景も一切描かれていない。その為初見の感想としては、淡い──というか、見る人によっては物足りない、という印象すら抱きそうな水彩画。
青の他に使われている色が、瞳やラケット等極一部に用いられている白や黒といったモノトーン色である事もそんな印象に拍車をかける。
だが──違う。そう判断をくだすのは些か早計。驚きで、僕の目がポスターの中心に釘付けになる。
この絵の凄いところは、第一に、恐ろしいまでに整った構図。
様々なぼかしの技術を水彩画全域に使った表現方法に至ってはもはや圧巻。単色で柔らかな色使いをしつつも、なおしっかりとした陰影を描きだしている。
敢えて色数を抑え、全体の雰囲気を淡く儚く演出することにより、絵の向こう側に存在している情景を、見る者に想像させようとしているのかもしれない。
むしろ、こんな考察をさせられている時点で、作者の術中に嵌っているとすらいえる。絵に詳しくない僕でもわかった。これを描いた人物は、只者ではない。
「なんだ、コレ」
衝撃が強すぎて、意識の外から声が漏れた。
また、同時に感じた二つの違和感。
モデルになっている人物が着ているユニフォームのデザインと、水彩画の画風。その両方に、もの凄く心当たりがあった。
慌ててポスターの下端部を確認すると、福岡にある公立高校の名称と一緒に、馴染みのある女子生徒の名前が作者名として添えられていた。
――水瀬茉莉。
それは、あまりにも不意打ちのサプライズ。
いつの間に──こんな。
僕の視界が、強く滲んだ。
◇◇◇
そして、今日もまた日は沈む。
一日の役割を終えた太陽が、山間に沈もうとしていた。
昼と夜の色が混じり合う空の向こう、そのまた先の空の下、君は何を思っているのだろう。
君は今、笑っているのだろうか。
君も今、僕の事を思い、空を見上げているのだろうか。
黄昏の色が濃くなり始めた空に、一番星が瞬く。それは、二人で見上げたあの日の星よりも、力強く輝いているように見えた。
どこかひとつになりきれない家族の姿。
どんなに月日が経とうとも、決して癒されることのない母さんの心の傷。
本当の家族であると同時に男である僕が、母さんを守っていかなくちゃいけないんだと、どこか気負って生きてきたようにも思う。
そんな中、出会ったのが君だった。
ファイアーストームの傍らで交わした二度目のキス。あの瞬間僕は、自分が生きてきたことの意味がわかった気がした。君と全てを分かち合えたように感じ、触れあった唇から君の温もりがじんわりと染み渡ってくると、氷のような冷たさを持って胸中を支配していた不安や焦燥が、緩やかに溶けだしていくのを感じた。負の感情全てが消えさった後に残されていたのは、彼女の存在と、柔らかな唇の感触だけ。それはあまりにも濃厚で、純粋な喜びに満ち溢れた特別なキスだったのだ。後にも先にもない、鮮烈な印象を残したたった一つの輝き。
次の日から僕は一人で気負うことを止め、次第に僕たち家族も、本当の意味でひとつになり始めたように思う。今となっては、僕と父さんとの会話に余所余所しい風が吹くこともない。
この出会いを奇跡と呼ばずして、いったい何を奇跡と呼ぶのだろう?
いつか僕と君も、血縁と向き合わなくてはならない日がくるのかもしれない。
でも、そんな日はきっとやって来ない。
いや、やって来ることがないよう、僕が阻止する。
何故ならば、たったいま僕は捨て去ったのだから。
真実を知る、という選択肢を。
この世の中は、僕たちが思うより様々な不条理で満ちている。知らなくて良い真実だって、知らない方が幸せでいられることだってたくさんあるはずなんだ。
だから僕は、真実に蓋をする。
それでもやがて、僕たちの関係に誰かが気づき、咎め、世界中の人々が敵にまわる日がもし来るとしたら、その時は僕が法を打ち破る剣となる。
君のことは、必ず僕が護る。
笑顔を取り戻した君のことを必ず護る。
今は寂しいだろうけれど、辛いだろうけれど、僕だって本当は辛いけれど、あともう少しだけ待っていてください。高校を卒業したら必ず迎えにいきます。僕の、愛しい──恋人。
◇◇◇
それから時は流れ、十年──。
季節は──夏。八月の後半。
世俗的な明かりの存在しないその空間では、瞬く星座の光も、月の姿も、いつもよりハッキリと見えていた。
上天には雲ひとつない星空が広がり、一望できる丘の上には、紫色の花が無数に咲き乱れている。
月と星々が仄かな明かりを投げ掛ける若草色の絨毯の上を、瞳を輝かせながら幼い娘が走り抜けていく。
清涼感溢れる水色のワンピースから覗いて見えるのはほっそりとした手足。年齢は、今年でようやく五歳。全体的に華奢な造りの体は、完全に母親譲りだ。肩口まで伸ばされた癖毛の髪が、風に煽られふわりと揺れた。
娘は走ったことでずり落ちた麦わら帽子を被り直すと、足を止め、少し遅れて着いて来た僕に声をかける。
「むらさきいろの花と、白い花と青い花? きれーい」
「気に入ったかい? 朱莉」
「うん!」
花を付けている植物の樹高は、三十センチから五十センチほどだろうか。朱莉は花の傍らにしゃがみ込むと、枝一杯につけた紫紺の花びらにそっと手を伸ばす。
「ああ、素手で触っちゃダメだよ。見た目は綺麗に見えるけれど、花全体にどくがあるからね」
「え~……こわーい」
少々きつく言い過ぎただろうか。朱莉は怯えたようにぱっと手を引っ込めた。
「ママと一緒」
「それって、どういう意味よ」
流石にそれは聞き捨てならない、とばかりに、僕の隣に進み出た妻が苦笑いで応える。
「ねえ、ママ。この花の名前、なんていうの?」
「これはね、夜になると強い芳香を放つ種類の花で、匂蕃茉莉という名前なのよ。──ああ、ごめんなさい。朱莉にはちょっと難しい話だったわね」
「んー……なんとなく、わかる。そっか。ママと似てる名前なんだね。やっぱり、どくがある」
「うん、そうねえ。じゃなくて、だからどういう意味よ」
白磁のごとく色白な肌をした母娘の姿を、仄かな月明かりがより一層白く幻想的に照らしだした。
遺伝による病の発症を密かに僕は心配していたが、幸いにも今のところ、娘に相貌失認の症状はでていない。だが、この先もし発症するようなことがあったとしても、僕たちなら乗り越えていけると思う。長年病と付き合い続けたエキスパートが、ここに二人も揃っているのだから。
「あ、ほたる」と朱莉が驚いたように言う。
「あら、本当ね」と妻が娘の声に柔らかな笑みを浮かべる。
儚げに明滅を繰り返す二つの光源が、匂蕃茉莉の花の上を、まるで寄り添うように飛んでいた。
「こんな場所で、珍しいな」ここから近い場所に、水源なんてあったかな、と僕は思う。「ねえ」
「ん、なあに?」
妻がこちらに顔を向けたその時、強い夜の風が吹いた。
丘の上を抜けていく一陣の風が、涼しさと一緒に夏のオワリを運んでくる。ジャスミンとよく似た芳香が花からわき立ち、懐かしさをはらんで鼻腔をくすぐる。
『──夏の終わり 月が見えるあの夜の丘で、君と二人将来の夢を語り合ったね 十年後の夏も またこの場所で会おうと交わした二人だけの約束……』
その時不意に、後夜祭の最後に聴いた徹の歌声が脳内でリフレインした。あの当時と変わらぬ懐かしい響きで。
徹は東京にある体育大学を卒業後、本人の夢が叶い体育教師になっていた。元々子供好きで面倒見の良い彼のこと。人伝に聞こえてくる評判も概ね上々だ。今後、さらに良い教師になっていくことだろう、と僕は思う。
稔は、父親が部長職をしている工場で忙しく勤務する傍ら、絵画教室の講師をしている。今も北海道在住のため連絡を取り合うのはもっぱらSNSだが、たびたび、生徒と撮影した仲良さげなツーショット写真をアップしているところを見るに、まあ、元気でやっているんだろう。
生徒は大半が中高生らしいので、流石にそこに手を出せなんて言える訳もないが、さっさと所帯を持てばいいのに、と常日頃よけいなことを思っている。
一方で、既に人妻となったのは木下朱里。彼女は主婦として忙しない日々を送りながら、今も変わることなく漫画を描き続けている。つい先日の話だ。たゆまぬ努力の甲斐あって、とある雑誌社の新人賞で佳作を受賞した。
所詮佳作なんて言うなかれ、最終選考に残るだけでも大変なんだぞ、というのは彼女の弁。ようやく朱里も羽ばたき始めたんだな、と自分の事のように嬉しくなったのを覚えている。
僕たち全員が再び顔を揃える夢は、いまもまだ叶っていない。それでも──と、隣で佇む妻に目を向ける。それに気付いた妻が、僕の方を見て微笑み返す。
あの日、君と僕が思い描いていた将来は、きっとこんな感じの他愛もない日常で。けれど、立ちはだかる壁が、困難が大きかったぶんだけ、そこには大きな希望がこめられていたんだ。
生きていくということは、時として強い痛みをともなうものだ。そのことを僕たちは、身をもって体感した。
それでも明るい未来を信じて頑張っていれば、こうして報われる日がやってくる。
今日、聞いた花の名前が。無数の花が咲き乱れる夜の丘の光景が。十年後も色褪せぬ最高の思い出となって、娘の脳裏に焼き付けばいいな、と僕は密かに願う。
十年後の夏もまた、みんなでこの場所に来られると信じて。
月は、またとない満月だった。
郷愁とよく似た念とともに思い出される、あの日と同じ、まんまるな──月。
「茉莉。愛してる」
最高の──思い出を。
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