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第五章:僕の秘策

【たまには二人で】

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 冷静になって考えてみると、僕たちは、とんでもない事をしたもんだ。
 まいった、まいった。通学路を歩きながら見上げた空は、雲ひとつない快晴だ。ここ最近、まったく雨が降っていない。頬を撫でていく風も生ぬるく、不快感を冗長させるばかり。

「暑い」

 月曜の早朝からこれでは、実に堪らん。
 手のひらでパタパタと顔を扇いで大きな欠伸あくびをした。昨日の夜、悶々とした気持ちを抱えたまま布団にくるまった僕は、夜半過ぎになってもまったく寝付けていなかった。
 いや、悶々としていたのは何も昨日だけの話じゃない。
『お兄ちゃん、ぐあいでも悪いの?』と五歳の佐奈に気をつかわせるくらいには、放心状態だったらしい。
 放心状態だった理由なんて明々白々めいめいはくはく
 先週、水瀬と交わした初めてのキスの余韻が、頭からずっと離れなかった。何事も手に付かず、夜寝付いたと思っても眠りは浅く、目が覚めるたびに時計を見ると、二時だったり、三時半だったりしていた。

 あれはいったい、どういう。

 鮮明に甦ってくるのは、抱き合いキスを交わした夜の丘の光景。
 水瀬の方からしかけられたのは、一歩進んだ大人のキスで。もちろんそういった経験などない僕は、持っている知識をフル動員してぎこちなく要求に応じた。いや、応じられたのかすら、定かじゃないが。

 あれはほんとに、どういう。

 どうしてこんなことを。なんて訊けるはずもなく、顔を真っ赤にして『ごめんね』と俯いた彼女を解放して、いや、大丈夫、と見当違いな答えを返した。
『帰ろうか』
 という僕の言葉に、うん、と頷いた水瀬が、どんな顔をしていたのかは知らない。彼女の顔を直視できるほど、僕の平常心が戻っていなかったためだ。
 そのあと、二人の間にまったく会話は生まれず、気まずさを誤魔化すように、軽く指を絡めて散策路を下りた。
『足元、暗いしね』
 なんて、弁解がましい台詞を吐き出しながら。

 アスファルトをじりじりと焼き焦がす日光は、朝から嫌味な程に苛烈だ。唇にはいまだ彼女の温もりが残っているようで、意識するたび体温までがあがっていくようだ。このままでは、ぶっ倒れてしまうんじゃなかろうか。
 やがて海沿いの通学路に出ると、潮の香りが鼻腔をついた。海特有の、湿り気をおびた風に乗って流れてくるのは、馴染みあるシャンプーの香り。

「おはよう翔君。いい朝だね!」

 これは、と思う間もなく、背後から肩を叩かれる。振り返るとそこには水瀬が立っていた。
 ブラウスの胸元を軽く整え、プリーツスカートの裾をはためかせて、彼女は僕の隣に進み出る。
 今日はまた、やけにテンション高めだな。

「おはよう水瀬」

 返答をした直後、微細な違和感に気が付いた。水瀬の奴、僕を下の名前で呼んだよな!?
 いま、なんて呼んだの? と問いかける勇気もでない僕を横目に、「ん?」と水瀬が小首をかしげた。
 ああもう。可愛いかよ。

「なんだか今日は、機嫌が良さそうだね」
「ん~……。そういう訳でもないけど、翔君の背中が見えたらなんか嬉しくなっちゃって」
「それって、どういう」

 再び名前で呼ばれたことで、益々困惑が深くなる。

「休日を挟んで、五日振りの学校だからね……。一人だと心細かった。どんな顔をして教室に入ったらいいのか、全然わかんなくて」

 だから僕を見つけて安堵した、と。ああ、そうかそういうことね。残念だな、という本音を隠して愛想笑いを浮かべた。ようは、一緒に教室に入ってくれる相手がいれば、それが誰かは問わないわけだ。
 深読みしていた僕よ、サヨウナラ。

「ま、いつも通りでいいんじゃないかな?」
「そう、なのかな」
「そうだよ。木下はもちろんだけど、徹も稔も、みんな水瀬が来るのをずっと待ってる」

 気持ちを落ち着かせるように、水瀬は薄い胸に手を添え息を整える。

「あたし、誰からも必要とされたことが無いから、よくわかんないんだ」

 それは、とても悲しい響きのする台詞だった。まるで、水瀬が抱え続けてきた闇の深さを象徴しているかのよう。
 だがそれは、彼女の思い違いでしかない。身近なところでも、木下が水瀬のことを必要としていることがその証左。木下だけじゃない、他ならぬ、僕だって。

「じゃあ、今日から僕が、水瀬の事を必要とする。これから先もずっと」

 勢いで言ってすぐに気がついた。これではまるで、愛の告白みたいだ、と。まずい。これはまずい。唐突な気恥ずかしさに襲われ隣の顔色を窺うが、水瀬は何も言わない。もしかすると、聞こえてなかったのかもしれない。いっそ、聞こえてなければいいと思う。
 しかしそんな妄想も、直後に僕の指先を水瀬が握ったことで否定される。感触の柔らかさに驚き背筋が伸びた。

 ──よろしくお願いします。

 そんな囁きが、控えめに僕の鼓膜をノックした。空耳だろうか、と聞き逃してしまうほどの小さな声。
 お願いしますって、どういう意味? 傍らにいさせてくださいって事? それは詰まる所、あたしと恋人になってくださいという意味? いや、でもそれはダメなんだ。 
 堂々巡りの思考は、取り敢えずの着地点すらみつけられない。
 結局そのまま彼女のするに任せ、お互い無言のまま歩き続けた。
 やがて鉄製の柵で周囲を囲われた、白い校舎の姿が視界に入る。そんな柵の切れ目、校門の前まで辿り着くと、反対側からやって来た木下と鉢合わせになる。
「おはよう、朱里」と水瀬が手を振って挨拶を送り、「おはよう、茉莉」と木下が応えた。
 僕も挨拶を送らなくちゃ、と木下と目を合わせた瞬間、いっぺんに体の熱が引いた。

「お・は・よ・う」

 怒気をはらんだ声音。久々に僕を射抜いた鋭い眼差し。
 すっかり萎縮した僕は、繋いでいた手を慌てて解く。「えっ」と水瀬が不満そうな声を上げたが、今はそれどころじゃない。命にかかわる問題なんだ。

「お、おはよう木下」

 しどろもどろに答えると、笑顔の仮面で自分を護ることに決めた。週末を経て縮んだと思えた木下との距離だが、まだまだ課題は多そうだ。
 木下と三人並び、歩き始める。それにしても、と隣の顔を盗み見た。
 水瀬の言動に、確実に変化が起こり始めている。

 放課後をむかえる。
 再び五人に戻ったクラスアート実行委員が、美術室に顔を揃えていた。
 稔の指示が激しく飛ぶ中、僕たちは急ピッチで最後の追い込みにはいっていった。
 流石にこの段階ともなると、僕も休んでいる暇はない。筆を手に取り、細かい部分の色塗りに駆り出される。

「お前、ふざけんなよ。水彩画だったら修正が効かなくなるところだったぞ」

 と、才能の無さを散々稔に突かれながらも。
 だから、僕には無理だと言っただろう?
 悪態を溜め息に乗せ、修正作業に入った稔の背中に舌を出した。
 そんな僕らの様子を見て、水瀬が声を出して笑った。
 そう、声を出して。
 最早疑う余地もない。やはり確実に水瀬は変わり始めている。そして彼女の変化は、周りにも良い影響を与え始めていた。並んで筆を握る稔と水瀬が、時折会話をするのがその証明。

 木曜日。クラスアートの完成も、いよいよ間近となっていた。
 キャンバスの上部に広がる藍色の空に、稔が瞬く星々を描き加えていく。更にその上から、水瀬が薄く雲の色を載せていく。絵の具を意図的に多めに盛ると、指で円を描くようにぼかしをいれていく。
 構図を引きで見たとき右下部分を彩る匂蕃茉莉の花は、この作品におけるメインテーマだ。水瀬が細い筆を手に持ち、慎重に葉や茎の輪郭と陰影を描き出していく。時々ペインティングナイフに持ち替えると、絵の具を削って更に細かい線を表現していく。
 最終段階に突入すると、ほぼ、稔と水瀬に任せざるを得なくなっていた。他の三人は、二人に指示された時だけ作業に加わり、簡単な修正作業だけを手がけていく。

 そして、学校祭前日となる金曜日の夕方。遂に──僕たちのクラスアートは完成した。
 稔と水瀬が引きの構図で最終確認を終えたのち、キャンバスに保護用のシートを被せると、疲労を滲ませた顔で全員が床の上にへたり込んだ。

「終わったなあ……」
「翔は、殆ど何もしてね~じゃん」
「バカヤロー、俺は水瀬を連れ戻しただろうが、むしろ殊勲賞モノだ。そもそも徹、お前何度か早めに作業抜けたじゃん。お前にだけは言われたくない」
「いやいや! 俺には俺なりの用事があったんだよ!」
「低レベルな争いはやめろ。お前らなんざ、五十歩百歩だ」

 僕と徹の罵りあいに、稔が突っ込みを入れてくる。
 だが、と稔は続けて言った。

「本当の殊勲賞は、水瀬、お前だ」

 予想だにしていない台詞だったのだろう。あたし? と水瀬が自分を指差し、間の抜けた声を上げる。さも、当たり前だ、と言わんばかりに頷いて、稔が右手を差し出した。
 水瀬は照れくさそうに頬の辺りを指で擦ったのち、握手の要求に笑顔で応じた。

「あの稔が、水瀬に対して握手を求める日がやって来るなんてなあ……」僕の呟きに、木下が同意を示した。「ほんとにね」

 やり遂げたという達成感が漲る一方で、そこはかとなく寂しい空気も漂う。もう、みんなで集まることもないんだな、という、宴が終わった後のような感覚。
 本当の祭りはここからじゃないか、と徹が明るい声で言うと、それもそうだな、とみんなで顔を見合わせ笑った。

 下校を促す放送が流れてくると、僕たちは解散して帰途につく。
「じゃあ、また明日」と最初に木下が退室し、「俺たちも帰ろうか」と呟いた徹の首根っこを掴んで稔が言う。

「悪いな徹。これから本屋まで行くんだが、お前も付き合え」
「なんでだよ? 稔一人で行けばいいじゃん? 俺は水瀬と一緒に帰りたい……」
「つべこべ言わずに、いいからこい」

 なんで、どうして、と騒ぎながら出て行った二人を見送ったのち、勇気をだして水瀬に提案してみる。

「たまには二人で帰ろうか?」

 彼女は瞳をちょっと細め、はにかみながら頷いた。
 だが、たまには、どころの話じゃなかった。僕と水瀬が一緒に下校するのは、驚いたことにこれが初めてのことだった。
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