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第五章:僕の秘策

【僕の秘策】

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 橙色から群青色ぐんじょういろへ。まるで、美術館に展示されている絵画の如くグラデーションを描き始めた空のもと、僕たちは肩を並べて歩いていた。
 一番星が、はるか彼方の空にポツンと浮かんでいる。
 それは、僕と水瀬を繋ぐ細い糸、もしくは、希望の光のように思えた。
 僕と彼女がたどる未来が、交わる日なんて来るのだろうか。不安を煽るようにおぼろげに輝くその星が、数度瞬きをみせた。

 学校をでてから二人の間に会話は殆どなく、ただただ気まずい沈黙が流れていた。聞こえてくるのは、微かに響く夏虫の声とひぐらしの鳴き声。あとは、僕らの足音だけだ。
 いつもは暗くなってから一人で歩く道だから、まるで違う道を歩いているような不思議な気持ちになる。隣にいる、大好きな女の子。沈黙を上手く隠してくれない、夕陽が照らす住宅街。何か話さなくちゃと思うたびに、強くなる戸惑いが心の底でびくんと震える。だが実のところ、水瀬とこの道を帰ること自体は初めてではない。もっとも前回は、物陰に身をひそめて様子をうかがっているだけだったのだが。自らのストーカー行為を思い出すと、自嘲の笑みが零れた。思えばここまで、随分と遠回りになってしまったもんだ。

「こうやって一緒に帰るの、久しぶりだね」
「そうだね」

 水瀬の声に何の気なしに頷いてから、違和感が総出で僕を襲う。

「今なんて?」
「だから、二人で帰るの、小学生の時以来だねって」
「……」

 どういう意味だろう、と暫し黙考する。

「ああ、そっか。車に轢かれた猫を、二人で埋めた時があったもんね。ごめん、辛いことを思い出させちゃうね」
「ううん。昔の話だし、もう平気だよ。あたしだっていい加減子供じゃない。でも、あの時は驚いたなあ……」
「驚いた?」
「うん。ずっと遠巻きにうかがっているだけだった翔君が、突然話しかけてきたんだもん」
「今、なんて?」
「だって、ずっと、あたしのこと見てたでしょ?」

 なんだって?

「もしかして、最初から僕の尾行に気が付いていたの?」
「最初からかどうかは、わかんないけど。一週間くらいの間、尾行されてることには気付いてたよ」
 
 いたずらっ子のような笑みを浮かべて、水瀬が僕の顔を見上げる。
 すいません、それ、最初から気づかれてます。

「マジか。恥ずかしすぎる」

 隣の顔が見られない。僕の顔、耳まで真っ赤なんじゃなかろうか。

「あたしだって、そこまで鈍感じゃありません。それに、物音には結構敏感な方だったから」

 花のように笑った水瀬を見ながら、なるほどね、と思う。ある意味それは、腑に落ちる話だった。
 常日頃、周囲の視線や人影に怯え、警戒を張り巡らしていたであろう彼女のこと。素人丸出しである僕の尾行が、感づかれていたとしてもなんら不思議ではない。

「気付いていたなら、言ってくれれば良かったのに」
「まあ、最初はちょっと気持ち悪いかなって思ったのも事実」
「マジかよ」

 なあ、小学生の頃の僕。完全に公開処刑されてるぞ。

「でもね」と水瀬が補足した。「本音をいうと、早坂君が自分に興味を持ってくれてるのかなって思うと、嬉しかったの。だから気付いてたけど、知らないふりをしておいた」

 その声に驚嘆して顔を向けると、こちらを見ていた水瀬と目が合う。彼女は丸くした瞳を細めたのち、恥ずかしそうに顔を背けてしまう。
 やっぱり、彼女は変わったと思う。ほんのり上気した頬。心なしか忙しい瞬き。こんなにも堂々と、自分の胸のうちを晒してくる。一方で僕は、先週からつまらないことばかり考えている。いや、決してつまらないことではないのだが。二人の間に立ちはだかるのは、絶対の法の壁。

「なあ……水瀬」
「ん、なに?」
「明日の学校祭、なんだけどさ。もし、その、良かったらなんだけど、時間があったら、なんだけどさ、僕と一緒に回らないか?」

 文節ってなんだっけ、と自分でも呆れるほど言葉は途切れ途切れになってしまう。誤魔化すように、痒くもない後頭部をかきむしった。
 驚いた顔で、彼女が僕の方を見る。
 黒い瞳のその奥で、映った僕の像がゆらゆらと揺れる。
 小さく喉を鳴らした音が、ヒグラシのカナカナに混じって聞こえた。

「それって、デートのお誘いなの?」

 思いがけず直球の質問が返ってくると、対応しきれなくなった僕の脳が一時的にショートする。
 こんな時、どう答えるのが正解なんだろう。
 そんな訳ないじゃん考え過ぎだよ、とスマートに受け流すのができる男のリアクションなのか。それとも、男らしく『そうだよ』と真向から受け止めるべきなのか。

「うん……いや、その、そうじゃないんだけど、うん」

 肯定して、否定して。今は否定しちゃダメだろうと自分に突っ込みそうになった時、水瀬が口元を覆った。

「どっちなの?」

 からかうような声だった。でも、彼女の顔に一切の邪気は浮かんでいない。むしろ、どことなく落胆しているようですらある。これは僕の脳が見せる、都合の良い錯覚なのだろうか。
 デートみたいなもんだよ、という台詞が口をついてでそうになり、けれど、今はまだ早いと僕の理性が歯止めをかける。

「いや、デートとか、そんなんじゃないよ。一緒に回る相手も特にいないしさ、だから、なんとなく」

 我ながらそれは酷いだろうと今度こそ呆れた。ここまで期待を持たせておいてはぐらかすなんて、男として最低の行為。
 いかにも女の子の扱いに慣れていない僕らしい、と後悔の念がふつふつと湧き上がる。
 隣の水瀬は、何も答えない。
 重苦しい沈黙が暫く続き、ただ歩いているだけなのに呼吸困難寸前だ。流石に嫌われてしまったか、と落胆を始めた最中だったから、彼女の返答が直ぐには頭に入ってこなかった。

「いいよ」

 それは、息が抜けただけのような酷い擦れ声。草むらから湧き上がる虫の声にかき消されてしまいそうな小さな音を、それでも僕の耳が拾い上げた。
 彼女は俯いたまま、こちらを見ていない。幻聴だろうか、と不安になって呟いた「え?」という僕の疑問に、水瀬がもう一度反応した。

「だから、いいよ」
「え、いいの?」
「うん、いいよ。楽しみにしてるね」

 水瀬は快諾すると、一度顔を上げて、また直ぐ俯いてしまう。
 勢いで誘ったものの、いったい水瀬はどんな風に受け止めたのだろうか。遠まわしな告白、だなんて受け取ったのだろうか。それとも、友達だから、という軽い気持ちで承諾したんだろうか。
 手を握り合う。
 キスも交わした。
 でも、僕は彼女に一度たりとも好きだと伝えてはおらず、それは彼女も同様だった。縮んだように思える僕たちの距離感は、相も変わらず曖昧なまま。

 僕が最後の一歩を踏み出せずにいる理由を、水瀬は知らない。

 僕と水瀬かのじょが、兄妹きょうだいである事を。

 無論、今はまだ憶測の域をでていない。この、にわかには信じ難い仮説を証明する為には、DNA鑑定が必要不可欠だろう。だが真実を知ってしまえば、僕たちの関係はいよいよ進展不可能になってしまう。
 だから僕は恐れる。全てを知ることも。真実を知らぬまま、水瀬と懇意な関係を築くことも。
 どうしたら、いいんだろうか。
 水瀬はなにも知らないのだから、決断をしなければならないのは僕の方、なのに。
 そっと、隣にいる彼女の顔色を窺う。
 辺りは夕闇に支配されているうえに、彼女は下を向いて歩いているのだから、どんな表情をしているのかよく見えなかった。
 結局、それ以上会話が弾むこともなく、水瀬の家に着いてしまう。

「じゃあ、また明日」

 公営住宅の前。水瀬の家の前で手を振り合って別れる。動揺が、顔にでていないだろうか。

「またね」

 上げていた手を下ろして、水瀬が踵を返すと、小さな背中に黄昏時の朱色が差し込んだ。
 一度だけこっちを向いて、ふっと相好を崩すと、彼女は家の中に入って行った。
 扉一枚を隔てて、母親の迎える声が聞こえてくる。あれから、あの男が家に来ることはなくなったのだという。どんな事情が背景にあるのかまでは、僕には知りえない。
 とにもかくにも、水瀬が笑っていてくれるなら、今はそれでいい。

 さて、と僕は、水瀬の家に背を向けた。こうしてはいられない。気合を入れ直さないと。ここからが、僕のターンだ。
 元来た道を引き返し、道中にある、今どき希少な公衆電話に立ち寄った。
 徹と。
 稔と。
 木下朱里。
 彼らの自宅に順番に電話を掛けていくと、用件だけを手短に伝えた。
 一様に返ってきたリアクションは、「お前ふざけんな」だった。悪いな、気持ちは痛いほどに分かる。

 それから約三〇分後。
 一度解散し帰路についたはずのクラスアート実行委員は、再び美術室へと集結していた。
 ただ一人、水瀬茉莉だけを除いて。
 掛けてあった保護シートが外され、あらわとなったクラスアートを前に、稔が苦々しく吐き捨てる。

「正気なのか? お前」
「もちろん」
 意図的に、しっかりとした口調で答えた。僕の決心が確かである事を示すために。
「私、シャワーを浴びたばかりで、髪を乾かしてる暇もなかったんだけど……」

 不満気に呟いた朱里の服装は、質素なデザインの長袖シャツにハーフパンツという如何にもラフなものだった。急いで家を飛び出してきたであろうことは明白。彼女の不満通り、髪の毛も僅かに湿ったままだ。

「ま。俺は、暇だったけどね」

 一方で半袖シャツにジーンズの徹は、あからさまに不満気な二人に気遣ったのか、やや控えめに告げた。

「もしかして──これからやろうとしている事が、翔の秘策の正体なの?」

 木下の質問に肯くと、頭の中で思い描いていたプランを順序立てて説明していった。
 無言で耳を傾けていた三人の顔色も、次第に曇り始める。場は一触即発ムード。想定していた事とはいえ、ちょっと怖い。

「手を加える、という話だけで充分に驚いていた。だが、そこまでとは。もう一度訊く。本気なのか?」
 稔が再び確認を求めてくる。
「もちろん」
「僕が思うに、このクラスアートは現在最高のかたちで完成している」
「だろうな」
「そんな事をしたら、完成度を落とすだけだと思わないか?」
「そうだな」
「それを踏まえたうえで、言ってるんだな」
「そうだね」
「頭、おかしい」

 後頭部を掻きむしりつつテーブルの傍らまで移動した稔は、やや乱暴に椅子をひいて腰を下ろした。テーブルの上に頬杖をついて中空を見つめる。

「もちろん、手を加えることのリスクも面倒さも心得ているさ。でも、これは必要な作業なんだ」
「だけど、今から作業をしたところで間に合うの~? 生憎俺は、今回の戦いにはついていけそうにない」
 冗談めかした声で、徹が口を挟んでくる。
「そこを間に合わせるんだ。そのために、みんなの力が必要になるんだ。これは、水瀬に内緒でやり遂げなくてはならないこと。力を貸してくれ! 頼む!」
「頭、おかしい」

 もう一度呟いた稔の脇をすり抜け、木下が筆や絵の具の準備を始める。
 腕まくりをしながらこっちに顔を向けた。

「なるほどね……、結構面白い案じゃない? 私は乗ったよ。ねえ、やろうよみんな! で、早坂。私は、何をすれば良い?」 

 乗り気になった木下に目を向け、盛大な溜め息を稔が漏らした。やがて観念したように立ち上がると、木下の準備を手伝い始めた。

「……やれやれ。本当におおバカヤロウだよお前らは。その代わりと言っちゃなんだが、何時まで掛かるか分からんぞ? 覚悟はしておけ?」
「すまない……恩に着る。じゃあ早速なんだけど木下。僕なりのイメージを伝えるから、下絵を描いてくれないか」

「わかった」と木下が了承する。
 僕の指示に耳を傾け、うん、うんと相槌を打ちながら、キャンバスの中央付近に鉛筆で輪郭線を描き始める。

「稔。着色は基本的にお前に任せるわ。木下の下絵が完成したら、作業に入ってくれ」
「当然だな、任せろ」

 絵の具の固さを調整しながら稔が言う。

「それから、徹」
「お……おう、俺は何をすればいい?」
「これまでと同じように雑用全般を頼むわ……と言いたいところだが、取り敢えずコンビニまで走ってみんなの弁当を買って来てくれ、さすがに腹が減った。ちなみに僕はかつ丼な」
「俺だけパシりじゃねーか!」

 徹の叫びにみんなが声をだして笑った。
 笑いながらキャンバスに向き合うみんなの顔は、これから何時間掛かるか分からない作業にも関わらず、晴々としていた。
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